日本ではここ数日物凄く暑い日が続いているかと思いますが、上海も似た感じです。ただ上海では昨夜から雲が出始め、空気が変わり、案の定今日の昼間に雨が降ってからは気温が一気に低下して、湿度こそあるもののまた過ごしやすくなっています。
もっとも急激な気温の上下に気象病とでも言うのか激しい頭痛起こして、右半身に若干のしびれめいたものすら感じました。これは何も今回に限らず、季節の変わり目に毎回起こしており、なんか以前よりも症状が激しくなっているような気すらします。もっとも対処法もある程度確立しており、迷わず頭痛薬を飲んで対処し、再びゲームへと戻りました。ゲームのし過ぎで頭痛を起こしたわけじゃないですからね。
話を戻すと、あまり認知されているように思わないのですが、ちょうどGWに重なるくらいの日程で、4月末から5月初旬にかけての約1週間、真夏に近い熱波がやってきて気温が30度超にまで上昇するのは毎年のことです。中学生くらいの頃に気が付いてからかれこれ20年くらい観察し続け、また東京と比較的気候の近い上海においても同様の傾向がみられることから、毎年地球規模でほぼ必ず起きる気候現象ではないかと私は見ています。
ただネットなどで調べる限り、このGWにおける気温上昇こと熱波について触れることはなく、毎年、「今年のGW中には急激な気温上昇が~」という風に報じられているだけです。前述の通り、東京でも上海でも同じような現象が起きているのだから、そろそろ「GWヒート」とか「メイウェザー」などと名前を付けて定着させてもいいのではないかと思うのですが、現象自体が認識されていないようでは望むべくもないでしょう。
こうしたGW前後における気温上昇について私が観察した限りだと、期間は約1週間で、日差しに関しては真夏並みのレベルとなって正午ごろなどは外で活動するのは危険なレベルにまで到達します。しかし1週間程度経過すると雨などを契機に平均気温が低下するようになり、それ以降5月中の最高気温は30度を下回るようになります。
問題なのは暑くなる期間が1週間と認知されていない点で、一時的に気温が急上昇するものだからあわてて夏服へと切り替えたものの、その後また気温が低下するので、慌てた分だけ整理して損する人が出てきます。
その上で景気に悪いことを言うと、GW中は上記の通り体が慣れていないのに毎年急激に気温が上昇することが多いことから、内心ではあまり外出するべきではない時期だと考えています。実際に紫外線量もこの時期は半端ないと聞きますし(女性陣から)、その後また急激にクールダウンもするため、体への負担を考えると外出は控えめにするくらいがいいと思います。
何気にこの時期は連休とあって登山に出る人も多いですが、GW中の登山で激しい熱中症を起こして遭難するというケースもよく聞きます。暦的には5月ですが、この時期は誇張ではなく真夏並みの気温へ一気に突入するだけに、それなりの対策が必要となるでしょう。
そうした考えと、4月までの勤務の忙しさもあってこの五連休中に私はずっと家からあまり出ませんでした。おかげで体力が戻ったというか視界の焦点も合うようになり、ゲームに集中することが出来ました。真面目に疲れがひどいと焦点が合わなくなりますが、最近両手足の小指の健を伸ばすとやたら焦点が合う、というより視力が良くなることに気が付いて、前より幾分目が良く見えるようになってます。
ちなみに今回GW中はセールもあって漫画やゲームを大量に買ってますが、飛行機好きならと知人に勧められた「ファントム無頼」が使っているECで取り扱ってなかったので、代わりに同じ作者の「エリア88」を今日購入しました。素直に面白いけど、今は当時と違って戦闘機の種類少ないから同じような漫画は厳しいなとかそんな目で見てました。
ゲームだと「ゼノブレイド2」をようやくクリアしたこともあってなんか長いゲームは少し懲りて、彩京の往年シューティングこと「ストライカーズ1945」とか「戦国ブレード」とかを購入してました。「ストライカーズ1945」は1と2を一緒に買ったけど、1の方が面白く、「戦国ブレード」も「戦国エース」と一緒に買いましたけど「~ブレード」の方は難し過ぎる気がします。そりゃこんな難しすぎるアーケードシューティングは廃れるよと、改めて感じました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2020年5月5日火曜日
2020年5月4日月曜日
スカイレイのプラモ
・F4D (航空機)(Wikipedia)
通っているプラモ屋で、なんか「シェフの気まぐれサラダ」的に突如としてタミヤの「F4Dスカイレイ」のキットが店頭に並んだので、物珍しさとすぐに組める容易さから購入して組み立てました。何故か先に購入していた、R32よりも早く手を付けたあたり、やはり自分はプラモだと戦闘機の方が好きなのかもしれません。
比較的デカールが揃っているのでそれらしく見えるけど、実は細かいところでデカールの貼りつけミスとか、パーツ組立時のミスがあったりします。そうしたミスをそれらしく見せないようにする技術は大分磨けている気がします。
ちなみに台座はPC用デスクです。いつもタヌキとフィットのプラモ置いて作業しています。
今回、このキットを見かけるまでスカイレイについて存在すら知りませんでしたが、キットの写真を見て「逆に新しい」という印象を覚えました。この戦闘機は見ての通りクローズデルタ翼こと、主翼が大きく尾翼のない機体です。エンジンは単発(1機)で現役機で言えばサーブ・グリペンや中国の殲10(J-10)に近いですが、それらと違って前尾翼(カナード)がなく、全体として異常なまでにシンプルな形状をしています。
この機体を最初見た時、「古そうな機体だが逆に最新鋭のF-35に近いような」という風にも感じました。F-35は主翼がもっと小さく尾翼もありますが、ステルス性を高める目的からエアインテーク(吸入口)の位置はこのスカイレイ同様に胴体脇にあり、またエンジンも単発機です。スカイレイ自体は1950年代の設計でステルス性などは全く考慮されていないはずですが、逆にそのシンプルな形状は現代の対ステルス設計に通ずるものがあり、地味に先進的であったような気すらします。
実際の航空史においてもスカイレイは得意な形状と呼ばれることが多く、斬新な設計だったが斬新過ぎて設計思想を引き継ぐ後継が出なかったと言われています。まぁさすがに、主翼の縁が丸い機体はそんじょそこらじゃ出てこない気がする。
通っているプラモ屋で、なんか「シェフの気まぐれサラダ」的に突如としてタミヤの「F4Dスカイレイ」のキットが店頭に並んだので、物珍しさとすぐに組める容易さから購入して組み立てました。何故か先に購入していた、R32よりも早く手を付けたあたり、やはり自分はプラモだと戦闘機の方が好きなのかもしれません。
比較的デカールが揃っているのでそれらしく見えるけど、実は細かいところでデカールの貼りつけミスとか、パーツ組立時のミスがあったりします。そうしたミスをそれらしく見せないようにする技術は大分磨けている気がします。
ちなみに台座はPC用デスクです。いつもタヌキとフィットのプラモ置いて作業しています。
今回、このキットを見かけるまでスカイレイについて存在すら知りませんでしたが、キットの写真を見て「逆に新しい」という印象を覚えました。この戦闘機は見ての通りクローズデルタ翼こと、主翼が大きく尾翼のない機体です。エンジンは単発(1機)で現役機で言えばサーブ・グリペンや中国の殲10(J-10)に近いですが、それらと違って前尾翼(カナード)がなく、全体として異常なまでにシンプルな形状をしています。
この機体を最初見た時、「古そうな機体だが逆に最新鋭のF-35に近いような」という風にも感じました。F-35は主翼がもっと小さく尾翼もありますが、ステルス性を高める目的からエアインテーク(吸入口)の位置はこのスカイレイ同様に胴体脇にあり、またエンジンも単発機です。スカイレイ自体は1950年代の設計でステルス性などは全く考慮されていないはずですが、逆にそのシンプルな形状は現代の対ステルス設計に通ずるものがあり、地味に先進的であったような気すらします。
実際の航空史においてもスカイレイは得意な形状と呼ばれることが多く、斬新な設計だったが斬新過ぎて設計思想を引き継ぐ後継が出なかったと言われています。まぁさすがに、主翼の縁が丸い機体はそんじょそこらじゃ出てこない気がする。
2020年5月3日日曜日
コロナ後に元に戻れるかに対する不安
昨夜岐阜県内で千葉県のナンバーで車を走らせるとハブられるのではないかと無駄な心配しているうちの親父と電話で話しましたが、その際に仮にコロナが終息しても、また以前みたいな日常が戻ってくるのかなどとやたら不安がっていました。これは何もうちの親父に限らず、日本国内にいる日本人と連絡すると、「もうあの頃には帰れない」といったような内容の嘆きが毎回聞かれます。
この点について中国在住の身から言わせてもらうと、「意外と戻ってくるもの」だとお答えします。
恐らく日本にいる方の立場に立つと、緊急事態宣言を受けて自粛が広がり、街中がゴーストタウンみたく人が出歩かなくなったという光景を目の前にして、上記のような感傷を持ったのではないかと思います。私自身も上海で2月、というより実質的には3月くらいにそうした光景を目にした時、果たしてここからどれくらいリカバリー効くのだろうかと不安に感じました。
しかし3月の後半に入ったころになると、この記事にも書いているように地下鉄なども乗客が増え、飲食店らも再開し、また各店舗の入口前で行われたいた検温もやらなくなるに至って、今現在の上海は完全にビフォアーコロナともいうべき状態を完全に取り戻しています。
無論、目に見えないだけで各店舗や企業の負担は重いでしょうし、再開にこぎつけず撤退した事業者なども数多くいるでしょう。ただ今現在の日本人はテレビの中の中国の世界だった自粛風景が目の前に広がって、少なからずパニックに似た心境にあるのではないかと思います。それでもコロナが一定度終息しさえすれば、現在の上海の様に意外と街中は見た目だけなら以前の空気を取り戻すだろうと私は思います。
ただ、これはコロナ流行が今年限りという想定です。仮に次の冬にもまた流行した場合、コロナ関連倒産は今年の比ではなくなるでしょうし、それこそ「もうあの頃には戻れない」という世界が本気で来るかもしれません。それは中国でも同様ですが、流行対策に関しては現在中国の方が上なだけに、日本よりはマシになるとは思います。
改めて言うと、今現在の日本人はコロナ疲れともいうべきパニック状態な心理にあるように感じます。2月ごろに言っていた「正しく恐れよ」という言葉は、今でこそ言うべきではないかと思います。まぁそれ以前に、もっとスマホを活用して防疫対策を日本はやるべきだとは思いますが。
この点について中国在住の身から言わせてもらうと、「意外と戻ってくるもの」だとお答えします。
恐らく日本にいる方の立場に立つと、緊急事態宣言を受けて自粛が広がり、街中がゴーストタウンみたく人が出歩かなくなったという光景を目の前にして、上記のような感傷を持ったのではないかと思います。私自身も上海で2月、というより実質的には3月くらいにそうした光景を目にした時、果たしてここからどれくらいリカバリー効くのだろうかと不安に感じました。
しかし3月の後半に入ったころになると、この記事にも書いているように地下鉄なども乗客が増え、飲食店らも再開し、また各店舗の入口前で行われたいた検温もやらなくなるに至って、今現在の上海は完全にビフォアーコロナともいうべき状態を完全に取り戻しています。
無論、目に見えないだけで各店舗や企業の負担は重いでしょうし、再開にこぎつけず撤退した事業者なども数多くいるでしょう。ただ今現在の日本人はテレビの中の中国の世界だった自粛風景が目の前に広がって、少なからずパニックに似た心境にあるのではないかと思います。それでもコロナが一定度終息しさえすれば、現在の上海の様に意外と街中は見た目だけなら以前の空気を取り戻すだろうと私は思います。
ただ、これはコロナ流行が今年限りという想定です。仮に次の冬にもまた流行した場合、コロナ関連倒産は今年の比ではなくなるでしょうし、それこそ「もうあの頃には戻れない」という世界が本気で来るかもしれません。それは中国でも同様ですが、流行対策に関しては現在中国の方が上なだけに、日本よりはマシになるとは思います。
改めて言うと、今現在の日本人はコロナ疲れともいうべきパニック状態な心理にあるように感じます。2月ごろに言っていた「正しく恐れよ」という言葉は、今でこそ言うべきではないかと思います。まぁそれ以前に、もっとスマホを活用して防疫対策を日本はやるべきだとは思いますが。
2020年5月2日土曜日
不穏な写真
先日、上海のしまむらを眺めている最中、上記のフード付きスウェットを見つけ、写真に収めた次第です。周りの友人にこの写真を転送したところ、「君のような勇者こそ身に着けるに相応しい」的な返事ばかりもらいましたが、さすがに無駄に煽るようなことは良くないと思って、買いませんでした。
ただ中国において攻めたデザインであることは確かで、しまむらは自分の知らない間に飛躍的にセンスを高めているのかもしれません。部屋着として使う分にはいいの揃ってる気がするんだけどね。
2020年5月1日金曜日
優れていると感じる自伝漫画
また更新がしばらく空きましたが、全部仕事のせいです。キーボードの叩き過ぎなのか一昨日は仕事中、右肩が上がらなくなり、眩暈や動悸をリアルにしながら作業を続けていました。まだやっている仕事が楽しいのが救い。
単純に忙しいためというより、今年2月ごろから延々と忙しい状態が続いていて、会社から要求されているイーラーニングをやる暇もないほど隙間なく働いています。3月中はまだ体力が持っていたけど、4月に入って以降は蓄積もあってか頭も体もまともに動かなくなっていきました。その成果先週末に至っては、革ベルトを付けたままズボンを洗濯機に放り込んでおり、心なしかベルトがきれいになったものの短くなって帰ってきた気がします。
話は本題ですが、先日「『ど根性ガエルの娘』を少し読んで」という記事の中でこの漫画のことをかなり激しく批判しました。理由としてはお金を支払う漫画作品としてはあまりに質が悪いためで、その原因は編集方面の混乱もあるとはいえ、作者自身が心の整理がきちんとついていないのか、どうしても主観性が色濃く反映されているように見えると推測しました。
「バクマン」以降、漫画政策の裏側を見せる内容が受けると見たのか、こういった漫画家の自伝漫画というのが増えた気がします。そうした漫画家の自伝漫画を今まで読んだ中でよくできていると感じたのは、巨匠こと永井豪氏の「激マン!」です。
知ってる人には早いですがこの漫画はデビルマンやマジンガーZなど、永井氏の代表作の執筆当時を振り返った自伝漫画です。一部フィクションを交えて主人公も「ながい激」などとしていますが、故石川賢や未だ現役衰えない辻真先氏などは実名でそのまま出ており、当時のライブ感が作中で強く反映されています。
なお辻氏についてはウィキペディアの記事にも書かれていますが、「デビルマンの脚本の打ち合わせをしながら別の作品の脚本原稿を書き続け、書き上げていた」というエピソードが「激マン!」の中に書かれています。これを初め読んだ時、「昭和の作家というのはこんなとんでもない化物ばかりだったのか……」と激しくショックを覚え、とても自分はこういう人たちとは肩を並べられないだろうという思いを感じました。令和においてもこの人は現役ですが。
話は戻りますがこの「激マン!」が特に優れていると感じたのは、前述の通り作品ごとにテーマを絞っていることです。私が読んだのはデビルマン編だけですが、同時連載中だったマジンガーZについてはそれほど触れられず、デビルマンがどのようにして制作され、作者が当時どんな心境だったのかが良く描かれています。特に飛鳥了というキャラクターが独り歩きし始めたことや、あの伝説的な結末に至った背景について細かに書いてあり、非常に納得感のある内容でした。
そうした裏話的な要素とともに、先にも書いた通り客観性が非常に保たれているという印象を受けました。本人は照れ隠しのために主人公は自分ではなく架空の人物としていますが、それがかえって主観性を薄めることに効果を発揮したのかもしれません。
それ以上に、これも先に書いているように当時周囲にいた人物を非常に多く登場させ、彼らの特徴などを細々と描いています。ダイナミックプロのメンバーだけでなく出版社やアニメ会社の人物などをよく覚えているなと思うくらい登場させ、彼らとの会話や関わり、作品の展開などがしっかり描かれてあって、非常に読みごたえがありました。
こうした点を踏まえて、やはり自伝漫画、それ以前に自伝というのはやはり主観性が強いとだめで、周囲の人物を含めて自分をどこまで客観的に描けるかが、読み手にとって面白さにつながるのではないかと思います。そしてそうした客観性が保たれていると感じるもう一つの自伝漫画としては、まぁわかるかもしれませんが「水木しげる伝」です。
作者の水木しげる自体が下手な漫画のキャラクターより漫画っぽい人物という、極端に強いキャラクター性の持主ではありますが、この「水木しげる伝」の中では本当に一人の漫画のキャラクターの様に自分のことを客観的に描いています。また「激マン!」同様、有名なのんのん婆をはじめ周囲にいた人物を隔てなく描いており、またその見方も意外と客観性に富んでいるというか、漫画を見た後で実際にその人物を追って調べてみると、驚くほど特徴が共通していることが多かったです。
一例を挙げると、白土三平氏がいます。初登場のシーンで、「ホームレスかと思った」と描いてあります。しかもその後で漫画家同士で飲食店に入った後、当時他の漫画家みんな食うや食わずやだったから、当時稼いでいた白土氏におごってもらう雰囲気をみんなで作っていたということも描いています。
万事がこんな感じで、あくまで水木しげる本人が中心として描かれているものの、各時代における身の回りの人物や出来事を中心に、客観性とユーモアに富んだ視点で描かれてあって水木しげるの自伝というよりも、昭和の時代背景を読む作品としての価値の方が高いかもしれません。
ただ敢えて一点、作者本人の主観が強く打ち出されて描かれた場面が一つあると私は考えています。それは従軍中、戦場で部隊が全滅する中で一人生き残りジャングルを逃げ回っていたところ、まるでぬり壁を目の前にしたかのように深夜に突然、どうやってもそこから前へ一歩も進めなくなったということを回想しているシーンです。翌朝になってみてその先は崖であったということがわかるのですが、このシーンに限っては非常に珍しく1ページ丸ごとの大きなコマで描かれており、作者にとって忘れ得ぬほどの強い体験だったのではないかと密かに見ています。
私は自伝漫画に主観は不要とさっきから書いていますが、こうした一部のワンシーンで主観を大きく前に出すことは否定しておらず、むしろ作品にいい刺激すら与えると考えています。生憎ながら「ど根性ガエルの娘」では、そうではなくほぼ全面主観に満ちていましたが。
話を戻すと逆に「水木しげる伝」で非常に恐ろしい点は、作者が左腕を失ったシーンです。爆弾が落下して吹き飛ばされ、軍医に施術されるという流れが非常に淡々と描かれており、その後の人生でも左腕のないハンデについてまったく気にしてないのかと思うくらい触れられません。恐らくほかの人間だったらこの場面だけで数十ページを使うのではと思うような場面ですが、どうしてこうも客観的に書けるのかと思うくらい淡泊で、この点一つとっても作者がとんでもない人だと偲ばれます。
それだけに、先ほどのぬりかべのシーンの感情の入れ具合との差が際立っているとも思えるのですが。
なお少し補足をすると、何かのインタビューで左腕喪失について悔しさみたいなものはないかと尋ねられた際、「全くない。生きて帰れただけでも幸運だ。あの時代、生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいた」と回答したと聞きます。こうした点を考えると、やはり激烈な体験こそが物事を客観的に捉える視点を養うのかもしれません。
単純に忙しいためというより、今年2月ごろから延々と忙しい状態が続いていて、会社から要求されているイーラーニングをやる暇もないほど隙間なく働いています。3月中はまだ体力が持っていたけど、4月に入って以降は蓄積もあってか頭も体もまともに動かなくなっていきました。その成果先週末に至っては、革ベルトを付けたままズボンを洗濯機に放り込んでおり、心なしかベルトがきれいになったものの短くなって帰ってきた気がします。
話は本題ですが、先日「『ど根性ガエルの娘』を少し読んで」という記事の中でこの漫画のことをかなり激しく批判しました。理由としてはお金を支払う漫画作品としてはあまりに質が悪いためで、その原因は編集方面の混乱もあるとはいえ、作者自身が心の整理がきちんとついていないのか、どうしても主観性が色濃く反映されているように見えると推測しました。
「バクマン」以降、漫画政策の裏側を見せる内容が受けると見たのか、こういった漫画家の自伝漫画というのが増えた気がします。そうした漫画家の自伝漫画を今まで読んだ中でよくできていると感じたのは、巨匠こと永井豪氏の「激マン!」です。
知ってる人には早いですがこの漫画はデビルマンやマジンガーZなど、永井氏の代表作の執筆当時を振り返った自伝漫画です。一部フィクションを交えて主人公も「ながい激」などとしていますが、故石川賢や未だ現役衰えない辻真先氏などは実名でそのまま出ており、当時のライブ感が作中で強く反映されています。
なお辻氏についてはウィキペディアの記事にも書かれていますが、「デビルマンの脚本の打ち合わせをしながら別の作品の脚本原稿を書き続け、書き上げていた」というエピソードが「激マン!」の中に書かれています。これを初め読んだ時、「昭和の作家というのはこんなとんでもない化物ばかりだったのか……」と激しくショックを覚え、とても自分はこういう人たちとは肩を並べられないだろうという思いを感じました。令和においてもこの人は現役ですが。
話は戻りますがこの「激マン!」が特に優れていると感じたのは、前述の通り作品ごとにテーマを絞っていることです。私が読んだのはデビルマン編だけですが、同時連載中だったマジンガーZについてはそれほど触れられず、デビルマンがどのようにして制作され、作者が当時どんな心境だったのかが良く描かれています。特に飛鳥了というキャラクターが独り歩きし始めたことや、あの伝説的な結末に至った背景について細かに書いてあり、非常に納得感のある内容でした。
そうした裏話的な要素とともに、先にも書いた通り客観性が非常に保たれているという印象を受けました。本人は照れ隠しのために主人公は自分ではなく架空の人物としていますが、それがかえって主観性を薄めることに効果を発揮したのかもしれません。
それ以上に、これも先に書いているように当時周囲にいた人物を非常に多く登場させ、彼らの特徴などを細々と描いています。ダイナミックプロのメンバーだけでなく出版社やアニメ会社の人物などをよく覚えているなと思うくらい登場させ、彼らとの会話や関わり、作品の展開などがしっかり描かれてあって、非常に読みごたえがありました。
こうした点を踏まえて、やはり自伝漫画、それ以前に自伝というのはやはり主観性が強いとだめで、周囲の人物を含めて自分をどこまで客観的に描けるかが、読み手にとって面白さにつながるのではないかと思います。そしてそうした客観性が保たれていると感じるもう一つの自伝漫画としては、まぁわかるかもしれませんが「水木しげる伝」です。
作者の水木しげる自体が下手な漫画のキャラクターより漫画っぽい人物という、極端に強いキャラクター性の持主ではありますが、この「水木しげる伝」の中では本当に一人の漫画のキャラクターの様に自分のことを客観的に描いています。また「激マン!」同様、有名なのんのん婆をはじめ周囲にいた人物を隔てなく描いており、またその見方も意外と客観性に富んでいるというか、漫画を見た後で実際にその人物を追って調べてみると、驚くほど特徴が共通していることが多かったです。
一例を挙げると、白土三平氏がいます。初登場のシーンで、「ホームレスかと思った」と描いてあります。しかもその後で漫画家同士で飲食店に入った後、当時他の漫画家みんな食うや食わずやだったから、当時稼いでいた白土氏におごってもらう雰囲気をみんなで作っていたということも描いています。
万事がこんな感じで、あくまで水木しげる本人が中心として描かれているものの、各時代における身の回りの人物や出来事を中心に、客観性とユーモアに富んだ視点で描かれてあって水木しげるの自伝というよりも、昭和の時代背景を読む作品としての価値の方が高いかもしれません。
ただ敢えて一点、作者本人の主観が強く打ち出されて描かれた場面が一つあると私は考えています。それは従軍中、戦場で部隊が全滅する中で一人生き残りジャングルを逃げ回っていたところ、まるでぬり壁を目の前にしたかのように深夜に突然、どうやってもそこから前へ一歩も進めなくなったということを回想しているシーンです。翌朝になってみてその先は崖であったということがわかるのですが、このシーンに限っては非常に珍しく1ページ丸ごとの大きなコマで描かれており、作者にとって忘れ得ぬほどの強い体験だったのではないかと密かに見ています。
私は自伝漫画に主観は不要とさっきから書いていますが、こうした一部のワンシーンで主観を大きく前に出すことは否定しておらず、むしろ作品にいい刺激すら与えると考えています。生憎ながら「ど根性ガエルの娘」では、そうではなくほぼ全面主観に満ちていましたが。
話を戻すと逆に「水木しげる伝」で非常に恐ろしい点は、作者が左腕を失ったシーンです。爆弾が落下して吹き飛ばされ、軍医に施術されるという流れが非常に淡々と描かれており、その後の人生でも左腕のないハンデについてまったく気にしてないのかと思うくらい触れられません。恐らくほかの人間だったらこの場面だけで数十ページを使うのではと思うような場面ですが、どうしてこうも客観的に書けるのかと思うくらい淡泊で、この点一つとっても作者がとんでもない人だと偲ばれます。
それだけに、先ほどのぬりかべのシーンの感情の入れ具合との差が際立っているとも思えるのですが。
なお少し補足をすると、何かのインタビューで左腕喪失について悔しさみたいなものはないかと尋ねられた際、「全くない。生きて帰れただけでも幸運だ。あの時代、生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいた」と回答したと聞きます。こうした点を考えると、やはり激烈な体験こそが物事を客観的に捉える視点を養うのかもしれません。
2020年4月27日月曜日
深夜のコンビニ勤務の恐怖
・厳冬の中国自動車市場でテスラが一躍絶好調の理由(JBpress)
というわけで今日出た自分の記事ですが、案の定コロナにやられてほとんど読まれていません。個人的にはこのコロナ禍の中でテスラが月間1万台を達成したのはそれなりに衝撃で報道価値もある内容だと思うのですが、如何せん時期が悪いのであきらめてます。
・The Convenience Store | 夜勤事件(Steam)
そんな私の記事は置いといて本題に移りますが、上記はSteamで販売されているゲームのページですが、なかなか面白そうなホラーゲームで購入を現在検討しています。このゲームについて友人に紹介ブログとともに伝えたのですが、紹介したブログの説明が非常に悪く、「雰囲気はわかるのだけれど説明がひどすぎて面白そうには見えない」と言われました。実際、私もリンクを送った後で説明文がひどい時が付いたのですが後の祭りでした。
なので替わりに別の紹介を送ろうかと思って、目を付けたのが下記のコメントでした。
********************
アナタはこのワンオペ夜勤を乗り越えられるか
コンビニ夜勤のエキスパートである筆者が、この作品の恐怖ポイントをいくつかご紹介したいと思う。
まずゲーム冒頭、制服に着替えてから家を出るという主人公の暴挙に度肝を抜かれることだろう。制服を纏うとは、店の責任をもその身に纏うということ。これから出勤と言えど、勤務時間外での着用は許されるものではない。というかコンビニ制服着て通勤してる奴なんて見たことねーよ。田舎では普通なのだろうか……
店に到着後は、店長が一人レジに佇んでいる姿が視界に入る。夕勤バイトの子は居ないのだろうか? ひょっとして朝から24時までのスーパーロング・シフトで、マネージャーやオーナーからこき使われていたりするのだろうか? コンビニの人材不足はどこも変わらないようだ。その過重労働ぶりには頭が下がる。下がるが……ちょっと店長? 船橋さん? 売変(廃棄)残ってるんですけどー? この時間の売変下げるの、アナタの仕事ですよね?
というわけで今日出た自分の記事ですが、案の定コロナにやられてほとんど読まれていません。個人的にはこのコロナ禍の中でテスラが月間1万台を達成したのはそれなりに衝撃で報道価値もある内容だと思うのですが、如何せん時期が悪いのであきらめてます。
・The Convenience Store | 夜勤事件(Steam)
そんな私の記事は置いといて本題に移りますが、上記はSteamで販売されているゲームのページですが、なかなか面白そうなホラーゲームで購入を現在検討しています。このゲームについて友人に紹介ブログとともに伝えたのですが、紹介したブログの説明が非常に悪く、「雰囲気はわかるのだけれど説明がひどすぎて面白そうには見えない」と言われました。実際、私もリンクを送った後で説明文がひどい時が付いたのですが後の祭りでした。
なので替わりに別の紹介を送ろうかと思って、目を付けたのが下記のコメントでした。
********************
アナタはこのワンオペ夜勤を乗り越えられるか
コンビニ夜勤のエキスパートである筆者が、この作品の恐怖ポイントをいくつかご紹介したいと思う。
まずゲーム冒頭、制服に着替えてから家を出るという主人公の暴挙に度肝を抜かれることだろう。制服を纏うとは、店の責任をもその身に纏うということ。これから出勤と言えど、勤務時間外での着用は許されるものではない。というかコンビニ制服着て通勤してる奴なんて見たことねーよ。田舎では普通なのだろうか……
店に到着後は、店長が一人レジに佇んでいる姿が視界に入る。夕勤バイトの子は居ないのだろうか? ひょっとして朝から24時までのスーパーロング・シフトで、マネージャーやオーナーからこき使われていたりするのだろうか? コンビニの人材不足はどこも変わらないようだ。その過重労働ぶりには頭が下がる。下がるが……ちょっと店長? 船橋さん? 売変(廃棄)残ってるんですけどー? この時間の売変下げるの、アナタの仕事ですよね?
しかもコイツ、主人公がタイムカードを押したら挨拶もせずにさっさと帰ってしまう。疲れているのはお察しするが、中間管理職のコミュニケーション能力がこれでは従業員間のトラブルも絶えなそうだ。
そしておでん売り場にはイートインが併設されている。併設されているというか、ちょっとした飲み屋だこれ……
そしておでん売り場にはイートインが併設されている。併設されているというか、ちょっとした飲み屋だこれ……
このタイプのイートインは寡聞にして知らないのだが、これもまた田舎では普通なのだろうか……こんなのあったら面倒な酔っ払いにタムロされて仕方ないと思うが……とりあえず一品じゃない、サッと食ってサッと帰ってくれ。あと普通の具材と串モノを一緒くたに入れんのはやめろ店長。肉の油が浮いてきちゃうだろーが! これ洗うの夜勤の仕事なんだぞ船橋テメー! 隣にある中華まん什器もパンパンに仕込みやがって、深夜に売れるわけねーだろ船橋このヤロー! 販売許容時間考えろ!
……なんということだ。まだ出勤すらしていないというのに、ふと店内を見回しただけで、もうこれだけの恐怖ポイントを見つけてしまった。船橋のヤローはどれだけ夜勤の仕事を増やせば気が済むのか。
これ以降も、売る気があるとは思えないメチャクチャな商品の陳列、倉庫に異常なまでに積まれたマスクと消毒液(コロナ対策だろうか?)、その反面で全く確保されていないソフトドリンクの在庫(夏場なのに)、常温で保管されている冷凍食品、深夜に店内をウロチョロするクソガキ、そいつを注意しようともしないクソ親と、コンビニ夜勤の経験がある者ならば恐怖するしかないポイントが無数に存在する。夜勤事件とは、全くよく言ったものだ。
ホラーゲームとしての醍醐味を損なってしまうので、その他の恐怖ポイントの詳細は割愛することとする。
だがあえて一つだけ最も恐ろしい点を挙げるならば、なによりの恐怖は「呪いのビデオテープを媒介に呪いが撒き散らされてゆく」という本作の設定に対して、客がみんなスマホ決済で会計をしている点だと思う。時代背景が分からなすぎて怖い。
********************
……なんということだ。まだ出勤すらしていないというのに、ふと店内を見回しただけで、もうこれだけの恐怖ポイントを見つけてしまった。船橋のヤローはどれだけ夜勤の仕事を増やせば気が済むのか。
これ以降も、売る気があるとは思えないメチャクチャな商品の陳列、倉庫に異常なまでに積まれたマスクと消毒液(コロナ対策だろうか?)、その反面で全く確保されていないソフトドリンクの在庫(夏場なのに)、常温で保管されている冷凍食品、深夜に店内をウロチョロするクソガキ、そいつを注意しようともしないクソ親と、コンビニ夜勤の経験がある者ならば恐怖するしかないポイントが無数に存在する。夜勤事件とは、全くよく言ったものだ。
ホラーゲームとしての醍醐味を損なってしまうので、その他の恐怖ポイントの詳細は割愛することとする。
だがあえて一つだけ最も恐ろしい点を挙げるならば、なによりの恐怖は「呪いのビデオテープを媒介に呪いが撒き散らされてゆく」という本作の設定に対して、客がみんなスマホ決済で会計をしている点だと思う。時代背景が分からなすぎて怖い。
********************
このコメントはSteam内のページにつけられたコメントなのですが、見事にゲーム内容については一切触れていません。しかし先ほど連絡を取った友人にこれを送り付けたところ、「文章が非常に上手い」、「書き手だけでこうも変わるのか」などとやたら絶賛されました。実際、私もうまい文章だと感じます。
それにしても、夜勤経験者が見るとこういうところに恐怖を感じるのかと、見る者によってその恐怖は変わるというクトゥルフっぽい現実が確かに存在するようです。
2020年4月26日日曜日
「ど根性ガエルの娘」を少し読んで
・ど根性ガエルの娘(Wikipedia)
昨日の今日でなんですが、昨日の記事で批判しようとしたのがこの作品です。昨日書いたように3巻辺り、というか15話から本番だというので3巻まで買って読みましたが、まぁ無理して買う必要もなかったかなという風に考えています。
この作品を知ったのはふとしたきっかけからで、ネット上で一時話題になった問題作ということから今回の電子書籍セールに合わせて購入してみました。内容は上記のウィキペディアの記事に詳しいですが、漫画の「ど根性ガエル」の作者である吉沢やすみ氏の娘である大月悠祐子氏が、最初のヒット作以降は全く作品が当たらず家庭崩壊していた状況を書いたという漫画です。
興味を持ったのは私の年代なら誰もが知るであろう「ど根性ガエル」の作者がそのような状況になっていたということもありますが、実はそれ以上に昔「ギャラクシーエンジェルズ」読んでたってのが大きいです。ついでに言うと「アクエリアンエイジ」でもかなんが描いたキャラのカードをよく使ってましたが、このネタが分かる人はかなり限られる気がします。
話は戻りますがこの作品はいろいろ曰く付きというか事情があり、元々は週刊アスキーで連載されていたものの打ち切られ、その後白泉社のWebサイトで連載が再開というか仕切りなおされています。
曰く付きなのはその移籍の背景で、アスキーでの連載は吉沢やすみ氏がギャンブル依存症となってDVもあったし過程も崩壊したけど、それでも漫画を愛する心があったからこそ私(=作者)も漫画家になった……的な味付けで話が進むのですが、なんと作者自身が途中でこの方針を拒否するようになったそうです。その理由というのも、家庭崩壊は未だに続いていると考えていたからです。
その辺の下りは非常によく赤裸々に書かれており、連載企画で親娘対談をやったところちょっとした発言で父親が激怒し、途中で退席してしまっていたのですが、当初の漫画ではそんなことなぞなかったように和やかな会談シーンが描かれました。その後、「あれは実は嘘だった」的に、当時の実際を描いたのが話題となった15話でした。ついでにその回では連載中に吉沢やすみ氏が脳卒中で倒れて一時半身不随になったことも描いています。
そのほか家庭崩壊に関しては、中学生時代からギャンブルの金欲しさに父親から小遣いを盗まれて、でもって非難したら追っかけられ、母親に伝えたら「お前が悪い」と言われて土下座させられたり、わざと腐った食べ物を食べるよう強制されたりといったエピソードが描かれています。また作者自身の拒食、過食症で引きこもった時期も描くなど、そうしたありのままに当時の事情を描いている点は素直に評価できます。
ただ、それでも私はこの漫画を評価することはできず、はっきり言えば読む価値もほとんどないとすら考えています。理由は大きく分けて二つあり、一つは単純に漫画作品として質が異常に低いためです。
実際に読んでもらえばわかりやすいですが、この漫画はどのページもコマがやたら大きく、なのにセリフは少なくて1ページ当たりの質が極度に低い印象があります。書き込みが多ければいいってものではないですが、深刻な家庭事情の話なのに変にキャラクターもデフォルメ化してそれらしい効果もつけられてて、読んでてずっと「なんでこうなの?」という違和感を感じてなりません。
実際にというか、今朝に2巻と3巻を端末にダウンロードしたのですが、通勤途中の地下鉄に乗っている約20分間で2冊ともほぼ読み終えてしまいました。それくらいコマが大きいためコマ数と情報量が少なく、漫画というより絵本に近い内容です。にもかかわらずやたらと見開きのページが多く、その見開きの絵の内容もびっくりするくらいスカスカで、ページ数を水増しするためやってるのかとすら内心感じます。
もしかしたら編集などからの指示なのかもしれませんが、もし作者が意図してこれをやってるのなら、単純に漫画家としての技量が不足しているとしか言いようがありません。それだけ1ページにおける薄さがこの漫画は際立っています。
次に問題だと感じたのは、時系列がてんでバラバラで、読んでて非常に読みづらいという点です。現代の場面が描かれたかと思ったら突然「ド根性ガエル」の連載時代になったり、また現代に戻ったかと思うと今度は急に作者の子供時代→高校時代→中学時代みたいな感じで、時系列が脈絡なく飛び続けます。おまけにそこで描かれるキャラクターも毎回作者や吉沢やすみ氏というわけじゃなく作者の母親や弟で彼らの心情が書かれたりして、でもってまた急に現代になって「当時どうだったの?」的なインタビューがガンガン差し込まれます。はっきり言って読みづらい上に感情移入も全くできませんでした。
あくまで個人的な憶測で述べると、作者自身が心の整理がついてないからこうなっているのではないかという気がします。家族との関係や過去の体験について向き合ってはいるものの、整理というものは全くついておらず、だから一つの話の流れにまとめることができずエピソードごとに単体としてでしか書けなかったのではと読んでて思いました。そしてそれがゆえに、どうしてもというか各話はどれも主観が強くにじみ出ていて、
弟:数少ない味方、理解者としてカッコよく描かれる
母:女手で育ててくれたことに対する感謝や尊敬を抱くとともに、家族の犠牲にされたという憎悪から二面性が強く描かれる
父:諸悪の根源だがどうやっても抵抗することができない存在のため統一した人格で描かれない
みたいな感じに描かれているように私には見えました。その上で、こうした実録系のドキュメント、自伝漫画では、主観が入れば入るほど作品としては価値を落とし、やはり客観性が強く求められるものだと私は考えています。主観を全く入れてはならないわけではないものの、作者の主観というのは読者からしたら他人の視点でしかなく、見ていても共感することは基本難しいです。
こういった自伝系での主観は自分自身を美化する傾向が強いものの、この漫画に関して作者はまだ自分のことを美化することは少なく、むしろ厳しい時期をよく赤裸々に描いているとは思います。しかし周囲に対する表現は主観が非常に強く、またそれがゆえに先ほど指摘した時系列がバラバラで全くまとまりがない事態を招いている節があり、客観的に描き切れていない、即ち過去の事実について整理し切れていないという風に私は受け取りました。
そのため、作者の家庭崩壊がどれだけ深刻だったのかというエピソード自体は確かに興味深いものの、内容のスカスカぶりに加え主観が入り混じった読みづらさもあり、漫画作品としてみるなら正直あまり評価できるものではなく、はっきりつまらないと感じました。むしろ漫画で読むより、文字情報にまとめた解説文の方が読んでて楽しめる気がします。ぶっちゃけ、漫画よりもウィキペディア記事の方が面白かったです。
これが私的な作品だったらまだしも、曲がりなりにもこうして有料で出版されている作品としてみるならば、私はこの作品を評価することはできませんし、人にもお勧めできません。何度も書いている通り話のネタ自体はインパクト抜群なだけに、どうしてもっと上手に料理できなかったのかという点で惜しいと感じるところは多いのですが。
なお同じように客観性がなくなり主観が入り過ぎて失敗した自伝漫画だと、平松伸二氏の「そしてボクは外道マンになる」があります。これなんか最初の方は1970年代のジャンプ編集部と当時の連載作家たちの姿をオーバーな表現で描きつつ、新人漫画家として苦しむ自分の姿が非常に良く描かれていて面白かったのですが、作品が評価され始めた2巻辺りから作者が自分自身を段々美化して描くようになり、また先ほど評価した他の作家陣などの周囲の情景も描かなくなるようになって人気が急落し、単行本4巻で敢え無く打ち切りとなっています。
自分は全部読みましたが、実際3巻以降はやばいくらい面白くなかったです。非常に皮肉なことですが2巻の後半に出てくるドクターマシリトが現代の作者に向かってこの漫画について、
「平松さんがもっと外道にならなきゃ、この漫画は売れないただのゴミで終わる」
と批評するシーンがあるのですが、本当にその通りの結末を辿っています。ウィキペディアの記事にすら、「この発言がのちに現実となってしまう」と書き込まれていますが、実際やばいくらいぴったりそのまま現実になってるからこれは仕方ない。
自伝漫画はやはりというか自分を美化せず、むしろ汚れ役として描き、尚且つ客観性が強く求められるというのが私の持論です。ではどんな自伝漫画そのような作品なのかは、また今度書きます。
余談
「ど根性ガエルの娘」の中で作者が父親に少年ジャンプのパーティに連れてってもらえるシーンがあるのですが、そこで作者は当時「キャプテン翼」を連載中(今もとは言わない)の高橋陽一氏を見つけてサインをねだったところ、快くサインしてくれた(岬くん付きで)エピソードが紹介されています。
一方、「そしてボクは外道マンになる」では平松氏のアシスタントとしてやってきた高橋氏の印象が描かれているのですが、その印象というのも「大人しくて礼儀正しく素直そうな若者」と書かれています。この高橋氏に関しては、どの紹介見ても大体こんな感じで物やさしげで大人しく柔和な人と紹介されており、これほど各自の印象が一致する人もいないなと思うとともに、「実際こんな感じの人なんだろうな」とよく思ってみてます。
余談2
同じく「そしてボクは外道マンになる」では連載前のキャプテン翼のネームを見た平松氏が、「ボールは友達」というセリフに衝撃を受けたシーンが描かれています。この時の心境について平松氏は、「俺たちスポ根世代にとっては、ボールなんてのは(試合中に相手を殺すための)殺人の道具でしかなかった」と語って、スポーツを楽しむという高橋氏の描き方に対する驚きを口にしていて、なんかいろいろ笑えました。
本当にこの作品は作者自身よりも、その周りというか風景を描いてくれているだけでよかったし、その方がずっと面白かったのに(ノД`)・゜・。
昨日の今日でなんですが、昨日の記事で批判しようとしたのがこの作品です。昨日書いたように3巻辺り、というか15話から本番だというので3巻まで買って読みましたが、まぁ無理して買う必要もなかったかなという風に考えています。
この作品を知ったのはふとしたきっかけからで、ネット上で一時話題になった問題作ということから今回の電子書籍セールに合わせて購入してみました。内容は上記のウィキペディアの記事に詳しいですが、漫画の「ど根性ガエル」の作者である吉沢やすみ氏の娘である大月悠祐子氏が、最初のヒット作以降は全く作品が当たらず家庭崩壊していた状況を書いたという漫画です。
興味を持ったのは私の年代なら誰もが知るであろう「ど根性ガエル」の作者がそのような状況になっていたということもありますが、実はそれ以上に昔「ギャラクシーエンジェルズ」読んでたってのが大きいです。ついでに言うと「アクエリアンエイジ」でもかなんが描いたキャラのカードをよく使ってましたが、このネタが分かる人はかなり限られる気がします。
話は戻りますがこの作品はいろいろ曰く付きというか事情があり、元々は週刊アスキーで連載されていたものの打ち切られ、その後白泉社のWebサイトで連載が再開というか仕切りなおされています。
曰く付きなのはその移籍の背景で、アスキーでの連載は吉沢やすみ氏がギャンブル依存症となってDVもあったし過程も崩壊したけど、それでも漫画を愛する心があったからこそ私(=作者)も漫画家になった……的な味付けで話が進むのですが、なんと作者自身が途中でこの方針を拒否するようになったそうです。その理由というのも、家庭崩壊は未だに続いていると考えていたからです。
その辺の下りは非常によく赤裸々に書かれており、連載企画で親娘対談をやったところちょっとした発言で父親が激怒し、途中で退席してしまっていたのですが、当初の漫画ではそんなことなぞなかったように和やかな会談シーンが描かれました。その後、「あれは実は嘘だった」的に、当時の実際を描いたのが話題となった15話でした。ついでにその回では連載中に吉沢やすみ氏が脳卒中で倒れて一時半身不随になったことも描いています。
そのほか家庭崩壊に関しては、中学生時代からギャンブルの金欲しさに父親から小遣いを盗まれて、でもって非難したら追っかけられ、母親に伝えたら「お前が悪い」と言われて土下座させられたり、わざと腐った食べ物を食べるよう強制されたりといったエピソードが描かれています。また作者自身の拒食、過食症で引きこもった時期も描くなど、そうしたありのままに当時の事情を描いている点は素直に評価できます。
ただ、それでも私はこの漫画を評価することはできず、はっきり言えば読む価値もほとんどないとすら考えています。理由は大きく分けて二つあり、一つは単純に漫画作品として質が異常に低いためです。
実際に読んでもらえばわかりやすいですが、この漫画はどのページもコマがやたら大きく、なのにセリフは少なくて1ページ当たりの質が極度に低い印象があります。書き込みが多ければいいってものではないですが、深刻な家庭事情の話なのに変にキャラクターもデフォルメ化してそれらしい効果もつけられてて、読んでてずっと「なんでこうなの?」という違和感を感じてなりません。
実際にというか、今朝に2巻と3巻を端末にダウンロードしたのですが、通勤途中の地下鉄に乗っている約20分間で2冊ともほぼ読み終えてしまいました。それくらいコマが大きいためコマ数と情報量が少なく、漫画というより絵本に近い内容です。にもかかわらずやたらと見開きのページが多く、その見開きの絵の内容もびっくりするくらいスカスカで、ページ数を水増しするためやってるのかとすら内心感じます。
もしかしたら編集などからの指示なのかもしれませんが、もし作者が意図してこれをやってるのなら、単純に漫画家としての技量が不足しているとしか言いようがありません。それだけ1ページにおける薄さがこの漫画は際立っています。
次に問題だと感じたのは、時系列がてんでバラバラで、読んでて非常に読みづらいという点です。現代の場面が描かれたかと思ったら突然「ド根性ガエル」の連載時代になったり、また現代に戻ったかと思うと今度は急に作者の子供時代→高校時代→中学時代みたいな感じで、時系列が脈絡なく飛び続けます。おまけにそこで描かれるキャラクターも毎回作者や吉沢やすみ氏というわけじゃなく作者の母親や弟で彼らの心情が書かれたりして、でもってまた急に現代になって「当時どうだったの?」的なインタビューがガンガン差し込まれます。はっきり言って読みづらい上に感情移入も全くできませんでした。
あくまで個人的な憶測で述べると、作者自身が心の整理がついてないからこうなっているのではないかという気がします。家族との関係や過去の体験について向き合ってはいるものの、整理というものは全くついておらず、だから一つの話の流れにまとめることができずエピソードごとに単体としてでしか書けなかったのではと読んでて思いました。そしてそれがゆえに、どうしてもというか各話はどれも主観が強くにじみ出ていて、
弟:数少ない味方、理解者としてカッコよく描かれる
母:女手で育ててくれたことに対する感謝や尊敬を抱くとともに、家族の犠牲にされたという憎悪から二面性が強く描かれる
父:諸悪の根源だがどうやっても抵抗することができない存在のため統一した人格で描かれない
みたいな感じに描かれているように私には見えました。その上で、こうした実録系のドキュメント、自伝漫画では、主観が入れば入るほど作品としては価値を落とし、やはり客観性が強く求められるものだと私は考えています。主観を全く入れてはならないわけではないものの、作者の主観というのは読者からしたら他人の視点でしかなく、見ていても共感することは基本難しいです。
こういった自伝系での主観は自分自身を美化する傾向が強いものの、この漫画に関して作者はまだ自分のことを美化することは少なく、むしろ厳しい時期をよく赤裸々に描いているとは思います。しかし周囲に対する表現は主観が非常に強く、またそれがゆえに先ほど指摘した時系列がバラバラで全くまとまりがない事態を招いている節があり、客観的に描き切れていない、即ち過去の事実について整理し切れていないという風に私は受け取りました。
そのため、作者の家庭崩壊がどれだけ深刻だったのかというエピソード自体は確かに興味深いものの、内容のスカスカぶりに加え主観が入り混じった読みづらさもあり、漫画作品としてみるなら正直あまり評価できるものではなく、はっきりつまらないと感じました。むしろ漫画で読むより、文字情報にまとめた解説文の方が読んでて楽しめる気がします。ぶっちゃけ、漫画よりもウィキペディア記事の方が面白かったです。
これが私的な作品だったらまだしも、曲がりなりにもこうして有料で出版されている作品としてみるならば、私はこの作品を評価することはできませんし、人にもお勧めできません。何度も書いている通り話のネタ自体はインパクト抜群なだけに、どうしてもっと上手に料理できなかったのかという点で惜しいと感じるところは多いのですが。
なお同じように客観性がなくなり主観が入り過ぎて失敗した自伝漫画だと、平松伸二氏の「そしてボクは外道マンになる」があります。これなんか最初の方は1970年代のジャンプ編集部と当時の連載作家たちの姿をオーバーな表現で描きつつ、新人漫画家として苦しむ自分の姿が非常に良く描かれていて面白かったのですが、作品が評価され始めた2巻辺りから作者が自分自身を段々美化して描くようになり、また先ほど評価した他の作家陣などの周囲の情景も描かなくなるようになって人気が急落し、単行本4巻で敢え無く打ち切りとなっています。
自分は全部読みましたが、実際3巻以降はやばいくらい面白くなかったです。非常に皮肉なことですが2巻の後半に出てくるドクターマシリトが現代の作者に向かってこの漫画について、
「平松さんがもっと外道にならなきゃ、この漫画は売れないただのゴミで終わる」
と批評するシーンがあるのですが、本当にその通りの結末を辿っています。ウィキペディアの記事にすら、「この発言がのちに現実となってしまう」と書き込まれていますが、実際やばいくらいぴったりそのまま現実になってるからこれは仕方ない。
自伝漫画はやはりというか自分を美化せず、むしろ汚れ役として描き、尚且つ客観性が強く求められるというのが私の持論です。ではどんな自伝漫画そのような作品なのかは、また今度書きます。
余談
「ど根性ガエルの娘」の中で作者が父親に少年ジャンプのパーティに連れてってもらえるシーンがあるのですが、そこで作者は当時「キャプテン翼」を連載中(今もとは言わない)の高橋陽一氏を見つけてサインをねだったところ、快くサインしてくれた(岬くん付きで)エピソードが紹介されています。
一方、「そしてボクは外道マンになる」では平松氏のアシスタントとしてやってきた高橋氏の印象が描かれているのですが、その印象というのも「大人しくて礼儀正しく素直そうな若者」と書かれています。この高橋氏に関しては、どの紹介見ても大体こんな感じで物やさしげで大人しく柔和な人と紹介されており、これほど各自の印象が一致する人もいないなと思うとともに、「実際こんな感じの人なんだろうな」とよく思ってみてます。
余談2
同じく「そしてボクは外道マンになる」では連載前のキャプテン翼のネームを見た平松氏が、「ボールは友達」というセリフに衝撃を受けたシーンが描かれています。この時の心境について平松氏は、「俺たちスポ根世代にとっては、ボールなんてのは(試合中に相手を殺すための)殺人の道具でしかなかった」と語って、スポーツを楽しむという高橋氏の描き方に対する驚きを口にしていて、なんかいろいろ笑えました。
本当にこの作品は作者自身よりも、その周りというか風景を描いてくれているだけでよかったし、その方がずっと面白かったのに(ノД`)・゜・。
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