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2020年5月15日金曜日

五等分の花嫁の最終巻がつまらなかったわけ

佐賀新聞の「押し紙」を認定 元販売店主が勝訴、賠償金1070万円 佐賀地裁判決(弁護士ドットコム)

 上のニュースも大事だけどそれ以上に重要なこと思いついたのでそっち書きます。

 先日にも少し書きましたが、これまで絶賛していた漫画「五等分の花嫁」の最終巻をこの前ようやく読んだところ、あまりのつまらなさにびっくりしました。それまではどの巻も非常に楽しめて満を持しての最終巻も非常に楽しみだったのですが、読んでる最中も驚くくらい面白くなく、なんでこんなつまらないんだろうと訳が分からなかったです。普通、買ったばかりの漫画は数回通しで読むのに、この五等分の花嫁の最終巻は一回読み終えるとまた読もうとは思わず、そのままデータすら削除してしまいました。

 この後はネタバレを含むので、先を黙っててほしいと人はそのままそっとお閉じください。



 ヒロイン五人の中で私の推しは誰かというと、読み始めた頃から四葉一筋でした。最終的に勝者となったのはこの四葉でしたが、四葉推しでありながら先ほどから書いているように最終巻は全く面白いと感じませんでした。この結果については自分でも非常に不思議で、なぜこんなつまらないんだろうとここ数日ずっと気になっていましたが、今日会社休んだのに結局自宅で作業している最中にふと納得のいく結論が出てきました。
 なぜつまらなかったのかというと、四葉が勝者となる理由がほぼ皆無だからです。

 この結論に至った最大のヒントは結末について議論し合っているネット掲示板でみた、「この漫画のヒロインは加点方式ではなく減点方式で決まってしまった」といった内容のコメントでした。実際その通りというか四葉が何故ほかの五つ子を差し置いて主人公に選ばれることになったかという理由は実はほとんどなく、逆にというか他のヒロインが選ばれなかった理由が後半にかけて断片的に描かれていたように感じます。いわば、「この子がいい!」という理由ではなく、なんとなく消去法的に四葉が選ばれてしまった感があります。

 そんな風に考えていたところ、今日休みなのに結局仕事する羽目となって嫌だなぁとか思いながらお茶を入れている最中、「当て馬」という単語が出てくるとともに、頭の中でパズルピースがピタリとはまる感覚を得ました。それによって、四葉が選ばれることについての不自然さが明確化しました。

 この漫画では物語当初、勉強マニアの主人公は「恋愛なんて無価値だ」と否定していたのですが、主人公を慕うようになった五つ子からのアプローチを受けて徐々に恋愛行為を否定しなくなり、最終的に自身も恋愛感情を持つに至るという展開となっています。問題なのはこの過程で、主人公が恋愛感情を持つようになったアプローチはすべて四葉以外の五つ子から受けたものでした。逆に四葉は自身の負い目もあって主人公に対しては何の恋愛アプローチも行わず、むしろ一歩引いた距離を主人公と終始保っていました。
 ですが家庭教師開始当初から他の五つ子たちと違って主人公から素直に勉強を教わっていたという理由から(だけで)、主人公は最終的に四葉を選びます。ぶっちゃけていうと、「え、理由これだけ?(;´・ω・)」っていう気がしてならないのですが、実際にこうだからしょうがない。

 この構図を意識して改めて全体内容を見返してみると、主人公に振り向いてもらうために他の五つ子(実際のところ三人だが)たちはアプローチをかけて見事に主人公を恋愛感情に目覚めさせたものの、そうして目覚めた恋愛感情はそれまで全くアプローチをしてこなかった四葉に向かってしまったように見えます。こんなん、アプローチかけてた他の五つ子たちは当て馬以前というか、なんかおかしくね?
 仮にアプローチがなかったとしても、主人公が四葉との間でもっといろんなコンタクトやイベントがあったならまだしも、物語全体でそうした類のイベントは明らかに少なく、最終逆転要素とされた小学生時代の思い出も最終巻では全く触れられずに終わりました。こういっちゃなんだけど、「もしかしてあの時の女の子は?」くらいは入れた方がよかったのでは……。

 以上の様に、他の五つ子が苦労して育てた果実を、何も育成作業を手伝わなかった四葉が丸ごといただくような構図となってしまったことが、自分がこの漫画の最終巻をつまらないと感じた原因だと考えています。先にも書いているとおり、それでも主人公が四葉を選ぶ理由や感情がもっと描かれていればまだしも、他の五つ子のアプローチを無視して四葉を選ぶ理由はほとんど見つからず、不自然極まりない展開であったと思います。

 加えて言えば個人的な意見として、最終巻の絵にはなんかまるで魅力がありませんでした。元々その美麗なイラストもこの漫画の人気の一つで、実際他の巻はここぞという場面のイラストや構図が素晴らしくよく、見開きページのセンスも抜群でした。しかし最終巻はどのページもこれはと思うページがなく、特に最終ヒロインの四葉に至ってはなんかかわいさが他の巻と比べて2割減、下手すりゃ半減と感じるくらいに魅力を感じませんでした。四葉推しの私ですらそう感じたのですから、他の五つ子ファンなんかどうだったんだろう。
 なんていうか、四葉に関しては告白後も不気味なくらい変化がなく、それ以前のまんまなキャラクターであったのが読んでて不思議でした。さらに最後の見せ場の結婚式の場面でも使い古された「五つ子当てゲーム」をやる展開となり、折角の見せ場なのに全員全く同じ造形を延々と見させられ、「( ゚Д゚)……」みたいな気になりました。マジで。

 無論これは私個人の感想でしかありませんが、それまでの面白さがびっくりするくらい感じられない結末だっただけに、何故だか無駄に考察を広げてしまいました。なおこの後に読んだ「エリア88」も「なんだよこの結末は(´・ω・)」という幕引きで、なんか意気消沈させられるラストを二本連続で見させられました。

2020年5月14日木曜日

手段の数が勝敗を決める

 最近仕事で使う知識の解説本を読んでいますが読んでてよく思うのは、「こいつ説明下手だな」っていう感想です。割と専門知識を取り扱う本なのでわかりづらいのも仕方ないですが、そうした理由以上に私がこのように感じるのは、私自身が異常なくらい解説や説明が得意だという事情があるかと考えています。

 やや調子に乗った見方ですが、こと解説方面の文章を書かせたら私の右に出る日本人はほとんどいないと思います。自分でもそう思うくらい解説や説明文章を書くのが得意だと自認しており、この方面では未だに新たな表現技法を開発、試みたり、また過去に事情関係が複雑な歴史事実を記事化した際に「内容がわかりやすい」というコメントを得たことから、そこそこ自信を付けました。
 そうした理由もありますが、私自身が一番自分の解説文章に自信をつける理由としては、他の解説文章を読んでてどこをどう直せばもっとわかりやすくなるのかが一見してわかるようになったということの方が大きいです。単語の位置関係、説明の順番、用語tipsの配置を初め、一読してその説明文章がどうしてわかりづらいと感じるのかという理由や改善点が意図せずともすぐ見つけ出すようになっており、自分の説明技法が優れているとよく実感します。

 偉そうな言い方を続けましたが話を真面目な方向に戻すと、ではわかりやすい文章を書くにはどうすればいいのかという問いについて答えるとしたら、単純に文章で説明するテクニックをどれだけ持つかが一番大きく左右すると思います。きちんと自分自身で認識しているか否かに係らず、説明内容に合わせて適切な表現技法を選べるか、また選べる以前に適切な表現技法を持ってるかは、この方面で差をつける要素だと考えます。

 いくつか具体例を挙げると、例えば以下の文章を見てどうすればよくなるのか考えてみましょう。

「A社の自動車販売台数は今年78.9万台で、2018年に比べて45%増加しました。またB社の自動車販売台数は55.4万台で、2018年比で25%減少しています。市場シェアはA社が1.3%、B社が1.1%です」

 中国語の自動車業界経済記事によく出てくるようなテキストですが、原文がこのように描かれてあると、翻訳ライターはよくそのままの文章でこんな風に書いてしまいます。まぁ見ての通り、悪い例なのですが。

 修正箇所のポイントを挙げると、文章というのは短ければ短いほどいいのが大前提ですが、短過ぎてわからないと評価はゼロとなります。ではわかりやすく書くためなら長い方がいいのかというと、まぁその通りですが、それでも短くできるのには越したことはありません。
 上記文章の場合、同じ単語が何度も出てくるのがポイントです。その上で、中国語だとあまり使われず、案外日本語ならではの表現技法である括弧書きを私なら用います。そんな具合で修正するとしたら、

「2019年における各社の自動車販売台数とその市場シェアは、A社は前年比45%増の78.9万台(市場シェア1.3%)、B社は同25%減の55.4万台(市場シェア1.1%)でした」

 単語に関してはイメージしやすいように「今年→2019年」、「2018年→前年」とした上で、年次比較においては最初に「前年比」を出した後は「同~%」と省略しています。今回出てくるのは2社だけですが、これが5社くらいあるとこの省略が非常に生きてきます。
 また市場シェアの数字は括弧書きにして販売台数と一緒に並べていますが、仮に前年比増減がなければ「市場シェア○○%」とはせず「市場シェア」という単語も取っ払って「○○%」だけにしているでしょう。この手の数字は変に文章を切り分けず、対応する数字の近くに並べるが良です。

 上記の表現技法は経済記者時代に学んだものですが、経済記事の場合はとにもかくにも属性の異なる数字がたくさん出てくるため、如何にわかりやすく、直感的に並べるかに非常に特化しています。もっとも括弧書きは割と自分で開発したものが多いですが。

 今回こうしてわかりやすく説明する表現技法を少し紹介しましたが、こうした技法をどれだけ持っているか、またいざ実際に文章を書くときにパッと出てくるかが、表現者としての実力が分かれるところになります。こうしたことを考えると、文章にも限らないと思いますが武器となる手段をどれだけ持っているかがどの分野でもやはり実力を分けるところになるのではないかと思います。ドラテクで言ったら、四輪ドリフトだけじゃなく、溝落としとかブラインドアタックも持ってる的な意味で。

2020年5月13日水曜日

内部進学の弊害

さすがになし? いや…案外いいかも 8年目の奇跡!! 三菱ミラージュのマイナーチェンジはなぜ行われたのか(ベストカー)

 ちょっとだけ、「いいじゃん」とか思っちゃいました。っていうかマイチェンやってたこと自体初めて知りましたが。何気に同じ三菱製コンパクトの「コルト」のデザインは好きだったので、あの頃のコルトを彷彿とさせるデザインは素直にいいです。

 話は本題に入りますが数ヶ月前の受験シーズン中、「関学の凋落が著しい」、「関関同立の名折れよ」、「関近同立だこれからは」などという議論が交わされている掲示板を見ました。ほんまかいなと思って偏差値を調べましたが、一応比較したサイトでは「関関同立」の水準にあり、また同じような議論は見かけなかったので、あまり実態に則した議論ではなかったのかもしれません。
 ただそこで語られていた関学の凋落理由として、「系列高校から内部進学した内部生比率が高いため受験生に敬遠された」という指摘については、他の大学を含め十分ありうるのではと読んでて感じました。

 かくいう私も関西の私大に進学しており、そこも系列高校が複数あることから内部生の比率は非常に高かったです。ここだけの話をすると進学した学部の人数は約180人で、受験時の募集人数も確か180人だったと思います。しかし蓋を開けて入学すると内部生の割合は約50%、実際に90人弱が内部生でした。それと同時に、「実質90人の枠によく入ったな俺(;´・ω・)」と、あまり成績良くなかっただけにわが身の幸運にもびっくりでした。
 この辺は数字のマジックというか、実際どこの大学でもやっています。試験募集人数でこそ100人、200人としますが、その枠に内部生を突っ込むことで倍率を高め、偏差値を内部操作するかの如く無理やり引き上げています。逆を言えば国立の様に全学生を試験でしか入学させなかったら、恐らく大手大学ほど受験偏差値が急落することになるでしょう。

 話は戻しますが、昔このブログでも書いていたように外部生と内部生の実力差ははっきり言って松戸の闇ほど深く、外部生であった私も在学中はあまり内部生とは付き合わず、周囲の友人はみんな外部生でした。そもそもいろんなところから話を聞くと、慶応の系列高校を筆頭に付属校に通っていてもできる子供は内部進学したりせず、東大とか京大など国立大を受験して進学するそうです。そりゃ内部生の質が下がるわけだ。

 で、こういった内部生が原因による大学生の質の低下は結構笑えない水準に来ている気がします。というのも早慶など大手大学ほど系列高校を増やす一方、近年の国や都の指示もあって大学定員は縮小するという、いわば内部生の濃縮みたいなことをやっているのではないかという気がしてなりません。仮にそうだったら外部生の方がこれからはレアになりかねないのですが、私の時代ですら全学生の40%くらいは内部生だったので、過半数が内部生という大学ももうそんな珍しくないような気がします。

 最初の関学の話じゃないですが、真面目に私が今受験生でこうした状況にあっては、内部生が少ないというだけでその大学を評価して進学理由の一つにするかもしれません。そう考えると、「内部生が少ない」というのは今後大学や学部のアピールポイントになりうるでしょう。

 最後に余談ですが社会人になって自分と同じ大学出身の先輩に会うこともたまにありますが、今まで凄かったのは、年間平均1週間しか登校しなかったけどきちんと4年で卒業したという先輩でした。どんなマジック使ってたんだろう(´・ω・`)

2020年5月11日月曜日

10万円給付関連記事の裏側

社会主義ですか? 日本の10万円給付に中国人が驚愕(JBpress)

 さて今週のサザエさんはじゃなくて自分の記事ですが、そこそこアクセスはいいようです。それもそのはずというか、最近アクセス悪かったから初めからPV数をそこそこ稼ぐ目的で書いています。逆を言えば、この記事でもアクセス稼げてなかったらそこそこ打たれ強い自分でもちょっとしょげてたことでしょう。
 アクセスゲットを目的に書いた、とは言ったものの、ここで書いてある内容は実は前々から主張したかった内容です。そうした気持ちが先走ったところもあってか記事文章自体はやや流麗さに欠けあんまり褒められたものじゃないですが、一番言いたい内容だった後半部分は短い中に割と濃い主張を詰め込められた気がします。

 ヤフコメなどを見るとこの記事の反応として「日本が社会主義か」という論点に強く反応している人が多いですが、いくらかミスリードさせる風に書いたところはあるものの、この点については実はそれほど主張したかった内容というわけではありません。コメントなどにもある通り、「何をいまさら」といった内容程度でしょう。
 同様に、現金給付は欧米諸国など他の資本主義国でも行われているという点についてもあらかじめ了解している内容で、そうした事実を無視して何故中国との比較に終始したのかという意図まで探ってくれたら作者冥利に尽きるのですが、そこまではいなかったようです。

 では何が言いたかったのかというと、後半に書いてある自助努力意識の差です。この点については、下記のコメントをくれた方は完全に自分の意図を読み取ってくれています。

「筆者が言いたいのはどちらの国が資本主義か社会主義かということより国に頼らず自らの力で回復を目指す中国国民とまず国、政府に支援を求める日本の国民との国民性の違いを言いたかったのでは。生活水準が向上し先進国として長くその位置にいると精神は退化していくようだ。日本に限らずだけどね。一言で言えば日本人の精神に逞しさが失われつつあるのかも知れない。国が政府が頼りに出来ない時ほど自らの力で立ち上がらなければならないのだが。事の是非は別として全世界でマスク不足状態が発生すると中国では9000社にも上るマスク製造会社が出来た。そのため不良品が相次ぎ政府がマスクの輸出管理に乗り出さねばならない事態になったようだがそのバイタリティは賞賛すべきである。」

 記事中にも書いている通り、普段税金を払っているのだからいざというときに政府に支援を求めること自体は何も問題だと思いませんが、最近の日本は何かあればすぐ政府を頼りにするという、政府への依存意識が異常に高すぎるように前から感じていました。今回のコロナの事態に関しては、その影響が直撃している観光、宿泊、交通業界などは支援を求めるのも無理がないとは思うものの、他にもたくさん影響を受けている業界がたくさんあるというのに、うちもうちもと支援を求める声がいろんな業界から出てきたのには違和感を覚えました。
 特に、平田オリザ氏をはじめとする芸能界の人間が堂々と政府に補償をするべきだと主張したのには呆れてものが言えません。収入が途絶えて苦しい人がいるというのなら、松本人志氏のように同じ業界内の余裕のある人間などから募金を募って配布するなどすればいいと思うのに、そうした自助努力もしない間にああしたことを発言するとはどんなものかと思います。

 また平田オリザ氏に限らずとも一般世論も政府はもっと補償すべきだなどという主張が多く、初めから政府の補償を当てにしていない中国人と比べると、ビジネスの世界じゃちょっと頼りないなという気がしてなりません。本当なら記事中に、「国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国に何をできるかを考えよ」というケネディの言葉を引用しようとも考えていたのですが、さすがにそこまでやると反発しか受けないだろうと思ってやめてます。

 極限すると、私が日中で比較したかったのは国家体制としての資本主義か社会主義かではなく、個人レベルの国民思想が資本主義的か社会主義的かという議論です。私個人としては最近なんか周りで中道だと言われているようですが、この点も「このはしわたるべからず」じゃないですが、資本主義も社会主義も極端な思想であってはならず、バランスのいい位置を維持すべきという見方です。いうなれば、政府を頼りにし過ぎてもいけないし、全く無視してもならない(政治参加意識を一程度持つ)という立場です。
 この点で言うと中国は、言っちゃなんですがやや極端な資本主義寄りにあるというか、政府を当てにしないけどその代わり政府の作った法律を無視しまくるという状態にも見えます。もっとも、こういう輩の方がビジネスでは強いんですが。日本に関しては、言うまでもないでしょう。

 なおヤフコメ見ていて、そこそこツボにはまったコメントは以下の通りです。

・中国に驚かれてもね?こっちは中国のやる事なす事、驚いてますけどね。
→すごく同感。だから中国は楽しいんだけど。

・社会主義でも 資本主義でも 支援金もらえるのは いいことだ。 鄧小平
→黒猫でも白猫でも、かわいい猫はいい猫だ。

2020年5月10日日曜日

まるで価値のないアベノマスク

マスクバブル崩壊! 4大スポットではついに50枚入りで千円台も  アベノマスク配布はたった4%(AERA)

 先日友人とチャットしたところ、日本でも各地でマスクが出回るようになって入手しやすくなっているそうです。でもって、

「アベノマスクは届いた?」
「まだ」
「10万円は?」
「まだ」

 だそうです。

 恐らく上海にいる私などよりも皆さんの方がが、もはやこの時点でアベノマスクに利用価値どころか存在意義すらないということを痛感されているかと思います。入札も経ず怪しい業者を使った挙句、今更何の役にも立たない布マスクのために466億円も使われたと考えると、もっと他にいいお金の使い道はなかったのだろうかと思えてなりません。
 報道によると、このアベノマスクを提案したのは官邸官僚の側近らしいですが、森友事件や加計学園問題といい、安倍首相はどうも人を見る目がないのか明らかに頭のおかしい側近を周りに置いた挙句、その言うことを聞く癖がある気がします。このアベノマスクも、「マスクを配ると言えば国民は安心するはず」と主張されたと言われていますが、馬鹿にされるとは微塵も思わなかったとしたら自分の判断力をもっと疑うべきでしょう。

大企業支援の拡大検討 コロナ対策、政投銀出資枠 西村再生相(時事通信)

 さらにここへきて上記報道の様に大企業支援策の検討が発表されました。何も中小企業を優先すべきだとか、こうした企業支援が無駄だというつもりはありませんが、果たしていま宣言してまで議論すべき話題かというと疑問です。今本当に議論すべきはコロナウイルス対策であり、まずは他のすべてを度開始してでも終結、緩和させる手段に全力を注ぐべきです。出ないと社会的損失がどれほどに上るのかも見えず、そうした損失見積りを立てた上で支援策ももっと検討すべきだろうという風に私は考えます。

 またこの関連でいうと、大阪の吉村知事が緊急事態解除条件の基準を政府に先駆け発表しましたが、この基準発表は非常に大事で大したものだとみています。逆を言えば政府は何故基準をこれまで作らなかったのか、日銀の金融緩和といい出口戦略をまるで何も考えていなかったのではとも見えます。いちいちやることが場当たり過ぎて、私の予想だとこのコロナ騒動はまだまだ続く気がします。

 あと関係ないけど、マイナンバーもなぜか今の時期にごたごたしているそうですが、マイナンバーできたときから中国にいる私からしたら手続きもできないだけに、もうちょっと海外居住者のことも考えてほしいなとか思います。領事館とかでやってくんないかな。

ある自宅出勤な一日

 今日は土曜日ながら、五月の連休を増やすために休日が振り替えられたおかげで中国では出勤日扱いとなり、普通に仕事でした。とはいえあんまり用事があるわけでなく、休みも取る人が多いので自分は今日は自宅出勤とし、前夜にパソコン持ち帰って今日は家で作業してました。

 朝は通常通りに七時に起きたのですが、その後すぐに仕事に入るわけじゃなく、昨日買っておいた「人形の国」の最新刊をタブレットにダウンロードするためだけに早起きしました。中国だと電子書籍のデータダウンロードは昼間とか夜だと上手くいかないため、早朝の回線が空いている時を狙うことが多いです。
 首尾よくダウンロードができると、八時半の業務開始までまだ時間があるので二度寝して、八時にまた起きるとまだ時間があると思って、何故だかニンテンドースイッチで「ストライカーズ1945Ⅱ」をプレイし始めました。何故やり始めたのか自分でもわからないですが、使用した機体はフォッケウルフ Ta152でした。

 八時半になったので観念してパソコン起ち上げて仕事に入り、今日のスケジュールをいろいろ組みました。昨夜が八時半まで作業してたので今日は軽めにしようと負担の少ない業務を選んでやって、お昼に冷凍うどん食べて、余った時間で「人形の国」を読んで、午後からまた仕事に入って夕方まで作業してました。終業後は、ラーメン屋に行って夕食食べた後、スーパーで買い物して、ネット見て、「エリア88」を大人買いとかしてました。

 少しは真面目な話をすると、日本ではリモート作業の時もビデオ付けてサボってないか監視しようとする動きがあると聞いて心底呆れました。自分の会社ではチャット機能のオンオフでスタンバイしているかは見れますが、逆を言えばオンにしておけば何してもバレないので、自宅作業では自由にお茶とか入れたりできます。無論、お茶汲みは会社でも自由に行えます
 何が言いたいのかというと、作業してるか監視しないといけないということは、普段から業務状況や結果を実績で判定評価できないという事実を自ら認めてるようにしか見えないということです。普段から実績で判断してるなら作業進捗とか日報や週報だけでも十分把握できるわけで、それができない、結果さえ出せば比較的自由にしていいと言えない辺り、その企業には根本的な問題があるように思えます。

 ちなみに自分の会社はコーヒーメーカーとかオフィスに備えられてるけど、みんなして「まずい」というので、自分は同じく備え付けられてるネスカフェのインスタント飲んでます。決しておいしくないけど。
 他には菊茶とかも置いてあるけど、あれだと一度入れた後、菊の花捨てるのが面倒であんま飲みません。急須とかあればいいんだけど、さすがに会社へマイ急須持っていくのには自分でもためらいがあります。

2020年5月6日水曜日

ガンダム世界で一番あり得ないこと

 ガンダムシリーズの世界では、なんでもミノフスキーで片づけてしまうほぼ無尽蔵なエネルギーとか、未だ模型で完全再現がなされていない謎なゼータガンダムの変形機構などあり得ない設定がたくさんありますが、中でも自分が一番あり得ないと思うのは地味に通信です。どういう意味かというと、戦闘中にもかかわらず敵機と延々と通信して話し続けるという点です。

 通常、っていうか普通の神経していたら戦闘中に敵軍と会話するなんてまずあり得ないことです。作戦目的や行動の意図が読み取られる恐れがあり、自分のみならず味方すら危険に招きかねない行為なのに、なぜかガンダム世界では戦場で敵同士が出会うと当たり前のようにおしゃべりを始めてしまいます。SEEDに出てくるアスランに至っては、味方よりも敵との通信時間の方が長いんじゃないかと思うくらい延々と敵機とおしゃべりを続けてました。でもって案の定毎回すぐ裏切るし、でもって強いしで、ガンダム界の呂布奉先もいいところでしょう。

 なぜガンダムでは敵同士なのに会話するのかというと、これは昔のテレビインタビューで監督の富野氏自体が「リアリティがないのはわかっている」と話した上で、会話シーンを持たせないと作画が持たないためという苦肉の策だということを認めてました。まぁそれを考慮してもアスランは適としゃべり過ぎだし、裏切り過ぎですけど。

 改めてこの点に着目すると、ガンダム世界における戦闘というのは基本的に駆け引きがないということにも気が付きました。例えば戦闘機であれば現代では数機でフォーメーションを組むのが当たり前で、また二機一組でも一機が旋回しながら囮となって敢えて敵機を背後につかせ、もう一機がそのさらに背後を突くというのが定石の戦法となるなど、戦闘における駆け引きは非常に複雑かつ有用です。
 にもかかわらずガンダム世界では双方ともに真正面から相撲の様にガチンコでぶつかり合うだけで、僚機がいても何も通信しながら連携を取ることなく、互いに好き勝手に敵機と戦うだけです。中には味方機から勝手に離れて勝手に戦い続ける奴すらいる始末です。

 なんでこんなことを書くのかというと、意図の読めない相手というのは非常に手ごわいと感じるからです。味方機が撃墜されても気にすることもなく移動を続けようとしたり、一機だけ前に出ながら他の僚機は何故か延々と旋回していたりとか、こうした何をするかわからない相手だとこちらもどう出るか判断が難しく、そこをどう打開するかというのが空戦における駆け引きになってきます。
 然るにガンダム世界ではそんな高尚な戦場の駆け引きなど一切なく、っていうか作戦目標すらあるのかと疑いたくなるくらい目の前の敵と戦うだけです。基本、戦闘は攻略戦などは少なく両軍出会い頭の遭遇戦ばかりというのも、上記の「敵と通信で会話する」という要因の影響ではないかとすら思います。

 何もとことんリアリティを追求しろと娯楽作品に向かって言うつもりはないですが、やはり戦闘における味方との連携、敵を出し抜く作戦とかあった方が面白いと思うので、こんなこと書きました。なおガンダム世界にはこれらがないないと言ってますが、08小隊のグフカスタムは長距離砲の破壊という目的をはっきり持って、見事に敵を出し抜く戦いぶりを見せており、何気にガンダムシリーズ最高の戦闘シーンだと個人的に思ってます。
 あと連携だと、いちおう初期にジェットストリームアタックというのが存在していますが、その後似たような連携攻撃戦術はほとんど皆無な状態です。あ、でも今思い出したけどガザストームはあったか。大抵こういうのやるとその後すぐ負けちゃんだけど。