あとまた関係ないけど、第二次スパロボαみたいに部隊名を好きに決められるゲームだと部隊名を「ヤクザ」にすると「ええい、またしても邪魔しに来たかヤクザめ」などと敵キャラに言われます。なお自分はこういう時にはいつも「回し下痢」という部隊名にしています。
話は本題ですが、先日に例によって失言で降りた森こと森喜朗について友人が、「森の生涯最大の功績はラグビーワールドカップだろうな」と言った際、「いや、それは違う。村山政権成立時の暗躍だろう」と私は答えました。
詳細はその辺のWikipediaにも書いていますが、1993年に自民党は単独過半数を割り、細川連立政権が成立して野党に転落するという、55年体制の崩壊が起こりました。当時の自民党について在職していた議員らは、「官僚が途端に相手をしてくれなくなって与党でなくなったことを思い知らされた」と話しており、内外で大きな影響を被ったことには間違いありません。
ところがそうしてできた細川政権が短期間に終わると次にできた羽田内閣も急場で作られた内閣故に求心力不足からすぐに店終いとなり、次はどこが組閣するかが大きな議題となります。ここで森や亀井静香といった自民党内の一部中核メンバーが、何としても「与党に返り咲くため」として、小沢一郎ら新進党との連立に不満を持つ社会党の一部メンバーと接触し、社会党の当時の委員長である村山富市氏を首班指名して連立することを打診します。これらは内々のうちに進められ、自民党内の反発しそうな人(中曽根とか)には内緒で、黙ってると抵抗してくるけどまだ拙速できそうな人(小泉とか)には説得するなどして下地を作っていきました。
こうした根回しの上、首班指名を誰にするかの会議で森が「自民党は村山富市で行く」と発表したわけです。ただ自民党内には宿敵ともいえる社会党との連立に反発を示す議員も依然と多かったことから、この発表時には相当な怒号が飛び交ったと言われます。その中でも森は態度を崩さずにあくまで村山首班指名を貫き通して会議を終えたとされ、その会議後に亀井が泣きながら「森さん、よくやった」と抱き着いたというエピソードを聞いたことがあります。
結果論で言えば、最終的に首班指名投票で海部俊樹と争ったものの村山富市が多数票を取り村山内閣が成立し、自民党も連立与党として与党に返り咲くことが出来ました。そして村山の次には同じ連立攻勢で橋本龍太郎が総理となり、名実ともに自民党が完全な与党として復活したことを考えると、当時の森や亀井の策動は結果的には見事成功したと言え、もし仮にあの「社会党抱き込み戦略」がなければ、自民党はあのまま野党として落ちるところまで落ちていった可能性もあったでしょう。そういう意味では、歴史を変える一撃を打ち込む上で、森はかなり重要な役割を果たしていました。
こうした点を見るにつけ、森は政党内部や国対方面においては非常に高いパフォーマンスを発揮するタイプで、以前から私も主張しているように、表に出てあれこれ取り仕切るのは逆に全く向いていない人間だと改めて思います。自分の得手不得手を把握していない、または把握していても場違いな場所に配置されるほどの人の才能の不幸はないと私は常々思いますが、森に関しては彼にとって総理にさえならなければ今以上に高い評価がなされていたのではないかと思えます。
そう考えると、小渕恵三の急死は森にとっては天啓ではなく、むしろ死兆星っぽい出来事だったのかもしれません。まぁあれがあったから森派での小泉純一郎氏の会長就任が来て、その後の小泉政権に続くわけなのですが。