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2011年9月19日月曜日

東條英機に対する私の評価

 太平洋戦争開始時の首相、そしてA級戦犯の代表格ということで有名な東條英機ですが、彼の評価については現代において色々あって分かれており、あくまで私感で述べると昭和の時代までは時局もあったのか否定的な評価が支配的でしたが近年は逆評価のような肯定的な評価のされ方が増えて来ているように思います。そんな東條に対する私の評価をどんなものかというと、先に書いてしまうとこの人は首相、軍人である以前に人としてもどうかと思うほどどうしようもない人物だったと見ています。

東条英機(Wikipedia)

 東條の詳しい来歴などについては省略するので、興味のある方は上記ウィキペディアの記事をご参照ください。まず東條への批判として最も多いのは勝算の見込みが全くないにもかかわらず太平洋戦争を開戦した(参謀本部はシミュレーションだと全部日本の敗戦だったのに、「勝負はやってみるまで分からないよ( ゚∀゚)」と言い切ったらしい)という点が挙がってくるでしょうが、これについては私はあまり気にしていません。何故なら東條一人が旗を振ったから当時にあの戦争に突入したわけでなくそれ以前からの長年の積み重ねと、これは近年になってようやく主張できるようになりましたが軍部だけでなく当時は国民の大半も中国、アメリカとの戦争を望んでいました。それゆえ東條がたとえ存在しなくとも戦争に突入したであろうと私は考え、開戦の責任まで東條に負わせるのは真相を解き明かす上で致命的な躓きになりかねないと考えています。

 ではそんな東條のどこが嫌いなのかといえば、我ながら結構細かいですが一つ一つのエピソードがどれも気違いじみているところに激しい嫌悪感を覚えます。そんな気違いじみたエピソードの代表格は、バーデン=バーデンの密約で、これは大学受験レベルの日本史ではまず出てこないのですが是非とも後世に伝えるために指導するべきだと私一人で主張している史実です。これは1921年に東條を含む欧州に滞在していた陸軍若手官僚同士がドイツのバーデン=バーデンに集まり、陸軍の近代化や後に国家総動員法として後に実施される案をお互い一致団結して目指すということを誓ったという会合で、この時集まったメンバーらは後の統制派、皇道派という戦前陸軍の二大派閥の指導者となっていきます。

 仮にこれだけの内容であればさして気にするほどでもないのですが、この時に示し合わされた議題の一つに当時の陸軍で権勢を振るっていた長州閥の排除も含まれていました。東條自身も自分の父英教が陸大一期を首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだと信じ込んでいた節があり(事実かどうかは不明)、長州閥への憎悪は強かったようです。
 そんなことを誓い合った東條達はどんな方法で長州閥の追い出しにかかったのかというと、なんと自分たちが陸大の入学選抜に関わって長州出身者を徹底的に排除するというやり方を取りました。具体的にどんな方法かウィキペディアの記事によると、入学選抜の口頭試験において長州出身者のみに対し、「貴官は校門から、試験会場まで、何歩で到着した?」、「陸軍大学のトイレに便器はいくつあるのか?」などという全然選抜する上で関係のなく、答えられるはずのない質問をして落としていったそうです。その甲斐あってある年を境に長州出身の陸大入学者は、陸大が廃止されるまで10年以上に渡って現れることがありませんでした。

 このエピソードだけでも十分神経というかいろいろ疑うのですがこれ以外にもこういった人間の小ささをアピールするかのようなエピソードが東條には多く、陸軍内部で人事権を握るや能力如何にかかわらず自分と馬が合うかどうかで人事を決めていき、戦時中もノモンハン事件の辻正信やインパール作戦の牟田口廉也など軍人として致命的なまでに能力が欠けていて実際に大失敗をやらかした人物らに対し、「名誉挽回のチャンスを与えねば」と、どんどんと中央に上げていって戦争指揮を任せています。その一方で陸軍内部で良識派と呼ばれ実際に多大な戦果を挙げた今村均や山下奉文については「仲間」だと判断しなかったせいか、中央に呼び寄せることなく延々と現地司令官のままに据え置きました。石原莞爾に至ってはお互いに犬猿の仲だったこともあり、左遷から予備役にまで追い込んでます。

 このほかにも戦時中に、「竹槍で勝てるものか」と批判記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者(当時37歳)を報復のために硫黄島へ送ろうとしたり、東條内閣退陣を促そうとした逓信省工務局長の松前重義(当時42歳)を二等兵として招集し、こちらは実際に南方に送っています。しかも40代という明らかに徴兵年齢としては高齢過ぎる松前を目立たせないよう、松前に近い年齢の老兵を合わせて数百人も招集するほどの手の入れようだったそうです。
 極めつけが終戦直後で、戦時中に「敵の捕虜になるくらいなら自決しろ!」と言っていたにもかかわらず本人は阿南大将と違ってなかなか自決せず、GHQが逮捕に来た段階に至ってようやく拳銃自殺を図り、案の定未遂に終わっています。この時に東條は腹部を撃っていますが、いろいろ意見が言われているものの普通自決するなら頭を撃つのが自然じゃないかと思いますし、そもそももっと早くに自決してればよかったのではという気がしてなりません。公家出身の近衛文麿ですら当時既に自決してたのに。

 その後は知っての通りに東条は極東国際軍事裁判で裁かれるわけですが、この裁判において東條は戦争責任が昭和天皇に及ばないように自身がスケープゴートになろうと努めたと巷間言われておりますが、私はこの説に対して率直に疑っております。東條自身がスケープゴートたらんという意識を持っていたということに対しては否定しませんが、東條がそう務めたからと言って何かが変わったのかといえば何も変わりはしなかったと思います。こう思う根拠としてアメリカは日本のポツダム宣言受諾以前から対日占領政策を研究しており、その研究の中で天皇制を維持することは占領政策にかなうとはっきりと結論を出しており、天皇への戦争責任は初めから見逃されることが決まっていたからです。
 そのためこういうと実も蓋もないですが、東條=スケープゴート説というのは彼を無理矢理にでも肯定的に評価しようとする人たちに作られた説、もしくは東条とその支援者らが自己満足するために作られた話ではないかと見ています。第一、スケープゴートになろうってんなら初めから自決未遂なんかしてるんじゃないよと言いたいし。少なくとも、東條がいてもいなくても昭和天皇は戦争責任から外されていたであろうことを考えると取り上げる価値もありません。

 最後に東條の靖国合祀について一言を添えると、「死ねと命令した人間」と「死ねと命令された人間」が同じ場所に合祀されるのはやはりおかしな気がします。それもまともな戦争指揮ならともかくインパール作戦をはじめとしたかなり偏った、異常な価値観で決められた戦争だとするとなおさらです。

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