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2013年5月28日火曜日

韓国の近現代史~その十四、ソウルの春

 また時間が空いてしまいましたが、韓国の近現代史の連載再開です。前回では朴正煕暗殺事件を取り上げましたが、なんか一つの区切りってことで続きがやけに書き辛いです。当初は一気に進めようかなと思いましたがちょっとそこまで気力持たないので、ゆっくりやってくために今日は「ソウルの春」について書いてきます。

 絶対的な独裁者であった朴正煕が突然の暗殺によって亡くなった後、韓国では鄭昇和陸軍参謀総長が戒厳司令官となり軍部が実権を握り続けました。ただ朴正煕の後任となる大統領には朴正煕政権下で首相を務めていた崔圭夏が就き、それまでの戒厳令による政治弾圧が幾分かは緩められることとなります。

 ここで少し話を脱線させますが朴正煕政権、そしてこの後もしばらく続く軍事政権下では戒厳令といって、北朝鮮との軍事的緊張を口実に韓国国民の日常生活を非常に厳しく制限しておりました。ちょうど最近読んだ本にそのあたりのことが書いてあったのですが、当時のソウル市内ではサイレンが鳴ると公共バスを含むすべての乗用車は運転を止め、窓に覆いをして次のサイレンが鳴るまで待たなければいけなかったそうです。また大統領府に向いた建物の窓は常時閉め切った上にこちらもまた覆いをする必要があり、夜間も市民は外出が一切禁止されるなど息苦しい社会だったと言われております。密告もあったろうし。

 話は戻りますが、荒谷大統領となった崔圭夏は文民出身だったからかもしれませんが、これら戒厳令の政策を一部緩めるようになります。具体的には先程書いた大統領府へ向いている窓の覆いを取っ払ったほか、民主派政治家の一部活動も認めるようになります。これを受けて後に大統領となる金泳三とか金大中も動きを活発化させたそうです。

 このように開放的なムードが一時的に表れ、大学における学内デモや労働争議も増えていき民主化への機運も高まったわけなのですが、「プラハの春」みたいな言い方をしているだけにそうは問屋が卸すわけではありません。文民の政治活動が活発化していくことによって実権を失うのではないと警戒した軍部はすぐさま行動を開始し、戒厳令の権限を強化するなど露骨な政治関与を始めます。その一方で、軍部内での対立も徐々に強まり内部抗争も始まるわけですが、そこは次回の「粛軍クーデター」で詳しく解説します。

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