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2015年1月15日木曜日

主観的嗜好からの選択


 上の集合写真は先日ネット上をさまよっている最中に偶然見つけた画像なのですが、一目見てたまげたというかこんなすごい集合写真がこの世にあったのかと大きな衝撃を受けました。見てわかる通りこの集合写真は昭和期のメジャーな漫画家とその奥さんが写っているのですが、その写ってる面々たるや手塚治虫、水木しげる、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、横山光輝、さいとうたかを、藤子不二雄×2など、数え上げたらきりがないくらいレジェンド級の漫画家がずらりと並んでおり、「日本漫画界版アベンジャーズ~世界よ、これが漫画家だ」と言ってもいいような凄い写真です。よくもまぁこれだけの大物が一堂に会せたものだと重ね重ね驚嘆に値します。
 なおこの中の真ん中右上に「デビルマン」や「マジンガーZ」でお馴染みの永井豪も写っていますが一目見て、「若っΣ(゚Д゚;)」という声が飛び出てきました(マジで)。あと手塚治虫の左隣に水木しげるが入っておりますが、この写真の並びについて手塚治虫のウィキペディアのページの中にある両者の不仲説とその真相に対する項目の中で少し触れられています。

 話しはこの二人の漫画家の特徴について書きだしていきますが、横山光輝とともに最前列に並んでいることから察するにこの写真が取られた当時としても両者は漫画界の超大物として扱われていたと考えられます。ある漫画評論家をして「日本の漫画は90%が手塚治虫、10%が水木しげるの影響を受けている」と評されていることからも日本漫画史における両者の存在感は非常に大きいと私も考えています。
 しかしこの両者の漫画はまるきり正反対というか好対照と言ってもいい作りをしていると常々言われており、手塚自身もその事実をことある毎にそうした傾向について話しています。現在残っている手塚の言及をまとめると、手塚自身は緻密にストーリーを練り上げ読者が何を求めているかを計算した上で漫画を描くのに対し、水木などは自分の感性のままに好きなこと、面白いと思うことを勝手気ままにストーリーを組み立て漫画を描いているとのことで、そう言われてみると両者の漫画はそのような正反対な特徴を持っているかのように見えてきます。

 それで非常に僭越ながら両者と比べると、私自身はどちらかといえば水木のようなスタイルでもってこのブログを書いており、だからこそ水木作品に対して異常な愛着を持つなどシンパシーを持っているのだと思います。手塚作品ももちろん面白くて好きですが。

 私がこのブログの記事を書くに当たってどういう基準で記事の内容を決めているのかというと、一言で言えば「自分が面白いと思うこと」を基準にして選んでいます。歴史ネタ然り政治ネタ然り、あと見ていて非常に怒りを覚えてほかの人にもぜひ自分と一緒にその怒りを共有してもらいたいような社会問題など、自分の興味(むしろ欲望)の赴くままに記事を書き綴っています。逆に読者におもねるというか、アクセスが増えそうなホットな話題や注目度の高い事件などは全く書かないわけではありませんが興味が向かなければ無視してしまい、たまに周囲からも「なんであんな大きな話題となっている事件を取り上げないの?」と聞かれることがあります。
 もちろんアクセス数はモチベーションにもつながるのでなるべく多くの人に見てもらいたいというのは事実です。それにもかかわらず何でもって読者受けするように動かずそのように自分の好きなことばかり書くのかというと、「世の中たくさん人がいるんだから10%くらいは自分と似たようなセンスを持った人がいるだろう。自分が好きなことを書いてたら最低でもその10%程度の人達は食いつくはずだ」なんていう計算が働いているからです。

 逆に読者受けするかもしれませんが自分が面白くもないと思うことを書いた場合、自分と似たようなセンスを持った人間も一緒になって面白くないと感じることが予想され、その記事は当たれば残り90%の人間は読むかもしれないが外れれば最悪0%、つまり誰もが面白くないと感じる記事になる可能性があります。それであれば10%を狙う方が手堅いというか、ややインナーな動き方かもしれませんが「自分が面白いと思うかどうか」を絶対の価値基準として記事内容をいつも選んで書いてます。
 敢えて言うなら手塚が計算型、水木が直感型であれば私は間違いなく後者のタイプで、記事の選択に限らず普段の行動でも計算して動くというよりはその場その場の直感、「なんとなくこっちの方がよさそう」と感じる方を選択して常日頃生きてます。そんな自分に言わせれば現代日本人の大半は計算型に見え、しかも計算の仕方がおかしいがゆえにマーケティングなどの面で失敗することが多いようにも見えます。

 たとえば自動車を例にとると、メーカーとしてはなるべく多くの人間が購入意欲を持つような車を開発しようと考え、狙い方としては上位と下位それぞれ10%の層に嫌われても真ん中の80%のゾーンにいる人間が気に入る車を作れれば大成功と言えます。この最大公約数的な80%のゾーンは「ボリュームゾーン」と言われておりますが、このところ日系メーカーを見ているとこのボリュームゾーンを狙って作ってみたものの出来上がってみれば「誰もが欲しがらない」と思うようなどうしようもない製品に仕上がってしまうケースが多いのではと思います。
 こういうケースは日系家電メーカーで特に顕著ですがなんでそんなどうしようもない製品が出来てしまうのかというと、一つは「誰にも嫌われない」に比重を置きすぎるあまりに「嫌われない代わりに誰にも好かれない」製品にしてしまう。二つ目としては目には見えず存在すらしない人間に好かれる製品にするため自分自身の嗜好を置き去りにしてしまってるからではないかと密かに見ています。

 というのも、マイナスイオンを発生させるテレビとか数万円もする電子メモ帳とか、一体こんなの誰が欲しがるんだよとツッコみたくなる製品がガラパゴス大国日本ではよく見られるからです。普通にこういう製品を見ていて開発者はこんな製品をお前自身はお店で買うのかと問いたくなるようなものばかりで、開発者やマーケティング担当者からして借金してでも自分は買うと思うような製品を作れているのか強く疑問に感じます。
 確かに顧客に受け入れられるような製品を計算して作るのはマーケティングの基本ですが、少なくとも自分自身が好きになれない製品を作ったところで顧客にも受け入れられない可能性の方が高いような気がします。それであればもうちょっと主観的な嗜好で開発者自身が好きになれる製品、あったらいいなと思うような製品を作る方向に努力するべきではと言いたいわけです。

 多分読んでると思うけどこのところの友人のブログ記事を見ていてまさに同じことを思っています。ちょっと読者におもねり過ぎというか君自身はこのネタを本当に面白いと思うのか、こうした情報が必要なのかと思え、こうした視点を持つことでもアクセス数は上がるよと言ってあげたいわけです。実際、変に読者を意識して解説ぶった記事よりも自分の不満などを思い切り愚痴ってぶちまける記事の方が案外面白かったりすることもあるし。

 最後に蛇足かもしれませんが、こういう直感型というか自分の嗜好を基準にしている代表格としては地味に明石家さんまが来るかもしれません。聞くところによるとさんまは自分のテレビ番組を録画してはよく一人で見て、「俺ほんまおもろいやんけ」と笑い転げるそうですが、これなんか自分が面白いと思うトークを視聴者にも見せて成功している好例と言える気がします。
 自分の好きなものばかりを追いかけようとすると独りよがりになると警告する人もいますが、極端な方向でない限りはこういう姿勢も悪くないんじゃないかなと自分を振り返りながら思うところです。

  注
 今回の記事では故人も出てくるので、引用する人物名は芸名やペンネームということもあって敬称を省略することで統一しています。書いてて非常に畏れ多かった……。

2 件のコメント:

すいか さんのコメント...

「こんなすごい集合写真がこの世にあったのか」激しく同意します!!
しかも、妻まで、、、しかも、似顔絵まで、、、「スゲー!!」としか、言いようがありません。
梅津かずおさんは、このころはまだシマシマの服を着ていないのですね、、、
陽月秘話の「10%説」には、自分の選民意識が刺激されました(笑)。
好きです、面白いです、陽月秘話、、、。

花園祐 さんのコメント...

 言われてみて確かに楳図かずおが普通の格好していることにこちらも驚きです。あと記事本文では言及しませんでしたが、奥さん陣の中にサザエさんヘアーがリアルにいたりと当時のファッションを見てみてなかなか新鮮に思うところがあります。それと水木しげる氏の妻は水木氏が言うほどには顔は長くないかなとも。
 10%説ですが、自分で話しててやや悲しく思えてきますが恐らく世間的にはマイノリティなセンスの持ち主でしょう。ひっそりとでも胸張って今後もブログは続けていこうと思います。