先日友人と話をしている際にふとこの頃映画が量産傾向にある米マーブルのアメコミヒーローについて話が及び、「あいつら、しょっちゅう仲間割れしてね?」と言葉が出てきました。知ってる人には早いですがマーブルのヒーローは映画の「アヴェンジャーズ」を筆頭にコラボレーション企画が非常に多く、互いに共闘することもあれば逆に対立し合う企画もよく持たれます。
それに対し日本のヒーローはウルトラ兄弟が激しい兄弟喧嘩をすることもなければ、仮面ライダーでも善玉と悪玉に分かれて戦うことはあっても善玉同士で本気で殴り合う話はそんなにないと思います。では何故この違いが生まれるのかについて自分なりの意見を今日書くつもりですが、結論から書くとアメリカのヒーローは理想や正義ががあるのに対し日本のヒーローにはそれがないためではないかと考えています。
マーブルというかアメリカのヒーローは上述の通りにコラボレーション企画が非常に充実しており、その中ではヒーロー同士が本気で戦い合うという話もたくさんあります。たとえばこれは同一作品上ですがウルヴァリンでおなじみの「Xメン」では主人公たちは人類とミュータントの平和的共存を求めて活躍していますが、敵役のマグニートーというキャラクターはミュータントが差別される世の中を変えるため、暴力的な手段に訴えてでもミュータントの権利向上を目指して主人公たちと対立します。
主人公たちとマグニートーたちはどちらもミュータントの権利向上という、同じ目的でもって活動していますが手段が異なるため対立しているという構図です。黒人の人権活動で活躍したキング牧師とマルコムXの構図(恐らく意識されていると思う)に近いのですが、こうした構図からマグニート―はただの敵役として見られず、ホロコースト体験者というある種最も差別を受けてきた立場という設定もあって高い人気を誇ります。また手段は違えど同じ目的を抱えるということから、時には主人公たちを助ける側に回り、一時期はXメンのチームリーダーにも就任しています。
このようにXメンは敵味方で完全に善と悪に分かれているわけではなく、またマグニートーがチームリーダーになるように敵が味方に、逆に味方が敵に回ることもあり、Xメンの初期メンバーの一人であるサイクロップスなんか平和的手段では限界があるとして、ミュータントの独立国家を暴力的な手段を伴い強行的に作り始める話だってあります。
このXメンの例で注意してもらいたいのは、ヒーローが独自の正義なり理想なりに従って行動しているという点と、敵役にも歪んでいることもありますが独自の正義を持っているという点です。この辺りが日本のヒーローとの最も大きな違いと見ています。
次の例に移りますが、これは実際に別作品同士のコラボレーション企画が持たれた例なのですが、バットマンとパニッシャーという二人のヒーローがいます。これなんか非常にわかりやすいのですがバットマンはどんなに凶悪な犯罪者でも絶対に殺さずに捕まえるという信条を持っているのに対し、パニッシャーはどんな犯罪者も必ず殺すという信条を持っててまさに真逆とも言っていいキャラクター同士です。
どちらも犯罪者によって家族が殺され、犯罪者を撲滅というか減らすという目的では一致しているものの、犯罪者に対する取り扱いに関しては全くもって逆です。またもう一つどちらにも共通する点として、正規の法手続きを踏まず自警団的に犯罪者を捕縛・処罰しており、彼らの行為自体が共に法に違反しています。いわば法に違反してでも自分の価値観に従って犯罪者を減らすという、見方によれば押しつけがましいまでの正義感が動機になっているといったところでしょう。
ここまでくれば大体わかると思いますが、アメコミの代表的なヒーローたちはそれぞれが独自の価値観や正義、理想とする考えを持っており、そうした概念に従って行動しています。その概念に反するのであれば法は無視するし、他の事なんか知ったこっちゃないとばかりに暴力的な手段も用いたりするわけで、言うまでもないでしょうがお国柄がよく出ている気がします。
このようにヒーローそれぞれが独自の価値観を持っているため、ヒーロー同士でも価値観がぶつかるというか対立が起こり得て、マーブルではヒーロー同士の仲間割れみたいな企画が出てくるのでしょう。近年にはそうしたヒーロー同士の対立をメインに描く作品として「シビル・ウォー」という、一大クロスオーバー企画があり、この企画ではヒーローを国家管理するために作られたヒーロー登録法を巡り賛成する側(アイアンマンやスパイダーマンなど)と反対する側(キャプテン・アメリカやハーキュリーズ)に分かれ文字通り全力でのヒーロー同士の殺し合いが展開されます。なお私はこれを直接読んだことはないのですが上述のパニッシャーも出てくるのと、最終的にキャプテン・アメリカが降伏するものの登録法に賛成したスパイダーマンがその後不幸な目に遭うことを考えるとアーティスティックな反骨精神を感じます。
話は戻りますがこうしたアメコミヒーローたちに対して日本のヒーローはそこまで対立しません。チーム内で言い合いしたり派閥争いする程度のことはありますがウルトラマン然り仮面ライダー然りアンパンマン然りワンパンマン然りで、どちらかというと侵略なりなんなりで向こう側から一方的にやってくる怪人などの敵役を受動的に迎撃しているパターンが多いような気がします。でもって敵役も、なんというか世界征服とか私利私欲で行動していてマグニートーのような「押しつけがましい正義」なんてのは、中にはいるけどこっちもそんなに多くないような気がします。
そうした「押しつけがましい正義」がないのは敵役だけでなくヒーロー側も、というかヒーロー側の方がもっと顕著で、「敵役がかかってくるから倒す」という方針で何か明確な目的でもって、確実な殺意でもって敵役を倒すなんてことはまずレアでしょう。日本のヒーローは口々に「平和のために」と述べますが、私なりの言い方をさせてもらうと、彼ら日本のヒーローにとっての平和とは日常を守ること、いわば現状維持が最大の目的ではないかというように見えます。今ある世界をもっと良くするため、理想の世界の実現のために戦うとなると日本じゃヒーローになりづらいかもしれません。
このように日本のヒーローには目指すべき理想や独自の価値観に基づいた正義というのはあまりはっきり出ておらず、そのため価値観のぶつかり合いによるヒーロー同士の対立はアメコミほど成立しないのではと思うわけです。日本のヒーローにとって価値観がぶつかり合う点というのは、日常を壊すか否か、この一点だけでしょう。
もうわかっているでしょうが、こうした日米のヒーローの違いは両国の国民性、お国柄がはっきり出ているのではと私は言いたいわけです。特に今の日本という国家の方針を見ると、どうすれば今よりいい国家になれるか(ある意味富国強兵)を探るより、国民も政府もどうすれば現状の生活を維持し、守れるかの方に意識が向かっているように見えます。
別に私はこうした日本の姿勢を否定するつもりは全くありませんが、こうして比較するにつけやっぱり自分は大陸向きなんだなとつくづく思います。
おまけ
実は私はスパイダーマンが前から非常に好きで、特にサム・ライミ版の映画「スパイダーマン2」は折に触れ何度も見ています。スパイダーマンはどっちかというと巻き込まれ型のヒーローでそんなキャラを気に入るってことはやっぱ自分も日本人かなとも思えますが、作品を通した絶対的なテーマである「大いなる力には大いなる責任が伴う」というスパイダーマンの信念は凄くハートに来ます。なお「スパイダーマン2」は叔父も大好きで、「単純やけどあれがめっちゃええねん」と自分に話したことから見ようと思うきっかけになりました。
8 件のコメント:
スパイダーマン2は観たことはありませんので、今度見てみたいと思います。
自分的にはアメイジングの方が見たことあるのですが、なんで二種類あるのでしょうか?
僕はヒーローモノはあまり見ないほうなのですが、エックスメンやスパイダーマンはストーリー性があっていいなと思えるものなので、今後も機会があれば見ていきたいと思います。
最近見た映画では、レッドゾーンという映画をレンタルで借りたのですが、なかなか面白かったです。
内容としては、アメリカがテロ対策で中東やいろんなところに軍隊を出しすぎて自国の防衛が手薄になったところを北朝鮮に侵略されるというありえない設定です。いきなり、上空から北朝鮮軍がパラシュート降下してくるところは不気味で恐ろしかったです。それから、若者がレジスタンスとして北朝鮮と対抗するというアメリカが今までしてきた立場とはまったく逆となる世界観が新鮮でした。隠れた名作といえるのではないかという作品でしたので、ぜひ見てみてください。
ヒーロー観は確かに違いますよね。アメリカのヒーロー観の方が僕はすきかもしれないです。法律なんて度外視するという自由さがアメリカらしいですよね。でも、長い間住もうと思ったら日本の世界観の方がいいのだろうけどとも思いますが。。。
毎回思うがサカタさんは自分がガツンと力を入れた記事には必ず的確にコメント暮れてるような気がします。この記事も言及してもらって非常にうれしいです。
スパイダーマンは映画配給会社のソニーピクチャーズの意向でサム・ライミが監督した旧版と、現在進行中でマーク・ウェブが監督する新版(アメイジング・スパイダーマン)とに別れています。なぜ旧版のシリーズを打ち切ったかについては諸説ありますが、予算や企画の関係などとともに、仕切り直した方が良いと判断されたというのが有力です。レッドゾーンも、機会を見つけて自分も見てみます。
ヒーロー観の違いはおっしゃる通り、アメリカだと法律を無視してでも貫く正義があるようにかかれますが、日本の場合はヒーローも割と法律の枠内で動いちゃうところがありますね。もっともそういいながら私からすると日本人は中国人と同じくらいに法律を軽んじてるようにみえ、むしろアメリカ人の方が法に対して非常に厳正です。今度これで記事を書いてみるか。
ウルトラ兄弟が殺し合い寸前の乱闘をすることは一度ありましたが、それはババルウ星人がアストラに
化けてウルトラの星のウルトラキーを盗んだという理由があっての事です。
仲間割れを起こすのは悪の組織のほうかもしれません。権力闘争でライバルを失脚に追い込んだり、
無責任な上司の理不尽な命令に苦しんだり、反逆を起こしたりする部下とかです。
日本のヒーローの仲間関係は友人など日常過ごす仲間という性質が強く、上下関係はあっても
「ウルトラ兄弟」のように兄弟姉妹という子供でも理解しやすい上下関係です。
友達や兄弟という子供でも理解しやすい人間関係でつながっている日本のヒーローは「子供向け」
なのかもしれません。
なんとウルトラ兄弟にもそんな兄弟喧嘩があったとは恥ずかしながら知りませんでした、ご指摘どうもありがとうございます。にしてもババルウ星人って悪い奴ですね……。
おっしゃる通りに自分も日本のヒーロー物で仲間割れをするのは悪の組織に多いように思え、それとともに仲間割れ起こすほど我の強い奴は悪の組織に集まるものだ……なんて日本人は考えているとみるのは深読みのし過ぎかなぁ。
中国のヒーローはどんなimageでしょうか?毛沢東とか。
明確なヒーロー像は未だにないけど潜在的なものなら、包公に代表される悪徳役人を糾弾する清廉潔白な役人じゃないかな。そういう真面目な役人が活躍するアニメを創ったら案外売れるかもね。
横槍ですみませんが、私が中国の英雄は誰かと聞かれれば「岳飛」と答えますかね。
ヒーローって悲劇性があった方が良いと思うのです。それがないと「憧れ」でしかヒーローを見ることができませんが、あればこれに加えて(言葉は悪いかもですが)「同情」の念を持つことができるからです。「憧れ」だけのヒーローというのは普通の人間からして見ればとても遠い存在になってしまいます。ところがここに「同情」を付け加えると一気に「このヒーローに味方したい!」と思わせることができるんですよね。結果としてより好感度が高いヒーローになることができるのではないかと。
ということをブルース・リーの映画を見ていた際に考えたりしました。結構悲惨な終わり方をしていることが多くて「なんか後味悪いなぁ」と感じていましたが、何故そうなのかを考えてみたところ多分上記のような効果を狙ってのものかなという推論に辿り着きました。
思えば日本でも源義経とか真田幸村とか、西洋でもジャンヌダルクだの悲劇性によってヒーロー度合いが高まった例は多いのではないかと考えています。
かくいう私はウルトラマンよりも仮面ライダーの方が好きなのです。なぜなら「改造人間にされてしまった悲しみ」という悲劇性がありますからね。
まぁウルトラマンのハヤタ隊員に至っては死んじまってウルトラマンと命を共有してるワケですが、最終回でゾフィが命くれたし…。
話が完全に脱線しますが、阪神の伊藤隼太くんの名前の由来はウルトラマンのハヤタ隊員だそうです。
それを雑誌で知った私は心の中で「ハヤタ隊員のハヤタは名字やで…(早田シン隊員)」と心の中で静かに突っ込んだのでした。
ヒーローにとって悲劇性は確かに重要ですね。その点で岳飛は確かにその条件を満たしていると思います。
日本だとそういう影を持ったダークヒーローはいないことはいないものの、やっぱり根明かなキャラクターの方が贔屓にされるのかもしれません。あとは「実は高貴な血筋の……」という設定も大好きだし。
それにしても伊藤隼大の家はウルトラマン好きだったんですね。入場曲もウルトラマンにすればいいのに。
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