このブログでは政治から歴史、文化に渡って結構幅広い内容を取り扱っていますが、これだけあれこれ書いているだけあって日常生活でもよく知識の豊富さを周りから誉めてもらえることが多いです。その際、「花園さんって頭いいんですね」って言葉もよくかけてもらえるのですが、本音を述べると実はあんま頭はいい方ではない、というより理解力は存外低いのではないかという自己分析しております。
自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。
だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。
もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。
理解速度×回転速度=理解力
なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。
ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。
このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。
先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。
ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。
というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。
表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)
よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。
8 件のコメント:
指導力の根幹である表現力に大きく関わる要素のひとつとして「理解方法」があるのではないかと考えます。
人の頭の中が覗けるワケではないので自分を基にした推論になりますが、
人間というのは恐らく「抽象的思考」と「具体的思考」の二つの思考形態を持っているものだと思います。
このうち「抽象的思考」は「イメージ」や「感覚」といった自分のみが分かる思考、そして「具体的思考」は「システム」や「言語」といった他者にも伝達できる思考です。
なので「抽象的思考」が理解方法の主軸となっている人は理解速度が速かろうが遅かろうが結果として他者への説明が下手になり、
逆に「具体的思考」が理解方法の主軸になっている人のほとんどは他者への説明が上手いのではないか…というのが私の考えです。
常々「具体的思考」を心掛ければインプットすると同時にアウトプットの訓練になるということなのでこういった人が指導者に向くのではないでしょうか。
もちろん「具体的思考」しかしない人物であっても理解速度が速すぎる場合は他者への説明が色々端折られるのでやはり指導は下手かもしれませんが。
ただだからといって「具体的思考」>「抽象的思考」というワケでもなく、やはり感覚でしかつくりえない世界というものは存在します(多分)。
天才といわれる人々は「抽象的思考」に偏ることで凡人には成しえないことをやってしまうのでしょうけれど(だから指導が下手)、凡人もまたこちらを多少は持ち合わせないと
限られた枠の中での思考しかできなくなってしまい能力がスポイルされることになるはずです。
結局自分の持ち場と特性を考慮してバランスをとるのが大事になってくると思われます。
長嶋茂雄の打つ玉はコンピューターでも解析できなかったらしいですしね。
王貞治選手が右寄りの打球を打つ事が多い事に広島カープの関係者が気づきました。そして
東洋工業(現マツダ)の所有する計算機で測定させた結果、右側の守備を厚くすれば、王選手の
打率は低下するという結果が出てきました。
当然カープは、王と並ぶ名選手、長嶋茂雄の打球も計算させませたが、ついに打球の法則性
を見出すことができず、計算機による測定は失敗に終わりました。
長嶋茂雄氏には論理的に説明出来ない何かがあり、それが彼を天才打者たらしめているのでしょう。
それが 凡人には理解できないのです。
ちなみに王選手は上記の計測結果をもとにした広島カープの守備 通称「王シフト」に一時期苦し
められたものの、自分のスタイルを崩すことなく、ホームランやヒットを量産しました。彼も別の意味で
天才ですね。
抽象的思考と具体的思考の分別は頭になかったなぁ。いつもながらナイスなご指摘ありがとうございます。
ことコミュニケーションに限れば具体的思考でもってしか二者間の伝達が出来ないことを考えると、ご指摘の通りに具体的思考の強弱は理解力、指導力双方に大きな影響を確かに与えると思います。ただ画期的なひらめき、革新的な発想は抽象的な思考から始まりやすいことを考えると、具体的思考の一辺倒だけというわけにはいかないでしょうし、なかなか難しい所ですね。自分なんかは具体的思考、言い換えるなら論理的思考を重んじる傾向があるし他人にもそれを求めますが、抽象的思考も得られるのならば得たいところですし、意識的には鍛えるよう努力はしています。
天才型の人間によるわかりにくい説明の仕方の例として長嶋茂雄氏をあんまり考えずに引用しましたが、実際の所彼のバッティング技術は現代の表現では説明も出来なければ解明も出来ないもので、そもそも説明のしようがなかったモノだったのかもしれませんね。ただその一方、現オリックスの中島選手のみ、他の誰もが理解できなかったという長嶋氏の指導を受けてとても納得できたと語っており、同じ感覚型、上の若生さんのコメントを引用するなら抽象的思考の人間同士なら通じ合えるのかもしれません。
「王シフト」の話は自分も以前に聞いたことがあります。こういった変則的な守備に限らず内角攻めや四球攻めに遭いながらも毎年あれだけのホームランと打率を残したことは驚異的というよりほかなく、王選手のプレイは今の時点でもっても私は尊敬しています。昔ある学者が言ってましたが、真の天才というのは努力し続けられることだと書いていましたが、王選手なんかはその典型とも言えるでしょう。
みなさんのコメントを読んでいて思ったのですが、日本人は具体的思考よりも抽象的思考を好む傾向が強いと思います。というのも日本人は、字数を限界まで限定し、洗練することによって言葉の領域を超えた抽象的概念を表現してきたものである俳句、短歌、和歌といったものを好んできた歴史があるからです。おそらく短歌などはどうにかして抽象的概念を言葉で表現しようと格闘してきたんでしょうね。趣がある、わびさびといった言葉は抽象的概念を指す言葉であり、英語ではこういった言葉はないような気がします。現在は西洋化が進んできているために日本人の抽象的思考能力は下がってきているかもしれませんがひょっとしたらこのような歴史的背景が日本人のコミュニケーション能力の低さの原因のひとつなのかもしれません。
余談ですが個人的には全ての人に抽象的概念を理解する能力は備わっていると思います。おそらく、多くの人が映画を見た時に何故だか涙を流してしまう、というような経験を一度くらいはしていると思います。これはおそらく、言葉や音楽、役者の演技、映像などの力により表現された言葉の領域を超えたある抽象的概念を感じ取って涙が出てきてしまうのでしょう。私も最近ある歌を聴いて不意に涙が出てきてしまいました。これも同じような理由かもしれません。しかし以前、音楽の場合は数式のような法則によって喜怒哀楽の曲を作ることが出来ると聞いたことがありますので違うかもしれませんが(笑)
人の心を動かすような小説、歌、映画、美術などを作ることができる人はおそらく抽象的概念に対する理解が深く、感受性が強いのでしょう。やはりこういった類いの人たちと常人とでは見えてる世界が全く違うんでしょうね。
家畜にはなりたくないさん、コメントありがとうございます。
なかなかいいところを突いているというか、言われてみて確かに日本語は曖昧な表現が多く、抽象的思考に根付いているような気がします。それが現代になるにつれて白黒はっきりつけさせる欧米の概念が社会に浸透し始めてきて、社会上で様々な齟齬を生んできているのではと読んでて思いました。
抽象的概念は私も芸術性に深く関与しており、強弱はあれど誰もが共有する概念だと私も思えます。自分なんかは普段はこのブログで硬い記事ばかり書いていますが一時期は小説に凝って、この手の表現をそこそこ勉強したつもりですが、いつまでたっても雲をつかむようでなかなかカチッとしたものはまだ得られていません。
なお最近私が感動して涙を流した経験を上げると、地下鉄サリン事件について書いた自分の記事を読んで、「現場の人は本当に頑張っていたんだなぁ(ノД`)」って具合で自分の記事読んで泣いてました。
恋におけるInputとoutputはあるのでしょうか?
恋のdownloadって曲は昔あったよ。
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