2015年4月6日月曜日

ポーランドの民主化革命

 大学受験時に世界史を選択した方なら恐らく共通するかと思いますが、「連帯」という言葉を見ると即、「ワレサ」というワードが頭に浮かんできます。極端な話、「連帯責任」という言葉を見るだけでも「ワレサ」が出てくるので一種職業病じゃないかと思うこともあるくらいなのですが、私と同じく世界史を勉強した友人も「逆も然り、ワレサというワードを見る度に連帯って言葉が浮かんでくる」と話しています。
 一体何故こうなったのかというと大学受験における歴史科目は登場するワードに対して適切なワードを選ぶことが得点稼ぎの基本で、特に範囲の広い世界史においては各事件や人物の細かい背景をいちいち理解していては追いつかなくなる傾向もあるだけに一単語に対して選択問題の回答に出やすい一単語を覚えていくという作業になりがちだからです。なもんだから、「そもそもワレサってどんな人?連帯って何?」と考えている受験生や大学生は少なくないんじゃないかと思え、この辺は詰め込み教育の弊害といってもあながち間違いではありません。

 ただ、ワードさえ覚えていればその後の人生で学ぶ機会というかとっかかりはあるとも言えます。そういう意味で私は現代日本の詰め込み教育を否定するつもりはありませんし、自分もまたそのような過程でもってポーランドの民主化革命を後年調べました。

東欧革命(Wikipedia)

 前回の記事で私は二次大戦中にあった「ワルシャワ蜂起」を紹介しました。この事件というか戦闘ではソ連はワルシャワ市内にいたポーランド人を見殺しにする形で無謀な蜂起を誘発させ、事実その通りに蜂起は失敗して多くのポーランド人がドイツ軍によって虐殺されました。
 この戦闘中、ワルシャワ近くに駐屯していたソ連軍の中には親ソ連派のポーランド人部隊もおり、ソ連軍本体が見殺しにしている中で単独ながら市内のポーランド軍へ物資輸送などの支援を行っていました。そしてこのワルシャワ市街のポーランド人部隊の中には、後にポーランド書記長となり臨時初代大統領となるヴォイチェフ・ヤルゼルスキも一士官として在籍していました。

 二次大戦後の終結後、ソ連を中心とした共産圏の一員となったポーランドでヤルゼルスキは出身とする軍内部で着実に地位を固めていき、1981年には首相兼第一書記というポーランド国内の最高権力者に就任していきます。ただポーランドの最高権力者と言っても当時はソ連の強い影響下にあり、外交はおろか内政すらもクレムリンの意向に逆らうことなどできない状態でありました。
 折り悪くと言うべきか当時のポーランドでは食肉の値上げに対する反発をきっかけに国民の間では民主化を望む声が高まってきており、その筆頭には後にポーランド大統領となりノーベル平和賞を受賞することとなるワレサことレフ・ヴァウェンサがいました。

 ここでちょっと余談を挟みますがレフ・ヴァウェンサというのは現地の発音に即した名前なのですが何故か日本では「ヴァウェンサ(Wałęsa)」という表記をローマ字っぽく間違えて読んだ「ワレサ(Walesa)」が流布してしまい、現代においてもこの読み方が訂正されないままとなっております。私の考えとしては現地の発音に即すべきで、そのため本記事では「ヴァエンサ」で以下貫きます。

 話しは戻りますが、造船所の電気技師であったヴァウェンサは労働組合団体「連帯」を組織し、ヤルゼルスキ率いる体制側を批判するなど民主化を要求する政治活動を展開します。こうした国内の動きに対して首相のヤルゼルスキは戒厳令を発し、ヴァウェンサを拘束するなどして民主化要求に対し弾圧を加えます。
 ただこの時のヤルゼルスキの行動については、本心から弾圧を加えるものだったというよりはソ連に対する一種のパフォーマンスだったとヤルゼルスキは後年主張しており、歴史家たちからもそのような目的で行われたものだとして弾圧を批判する声があるのと同時に評価する声もあります。というのもソ連は過去に民主化に舵を切ろうとしたハンガリーやチェコといった国々に対して軍事介入し、力づくで民主化を叩き潰すということを何度もやっており、あのまま国民の民主化要求を自由にさせていればソ連が介入してくることを恐れ、形だけでも社会主義を堅持する姿勢が必要だったとヤルゼルスキは述べており、事実ソ連からは「実力行使も辞さない」という通牒が当時なされていたと明かしています。

 とはいえポーランドの民主化活動は戒厳令によって一時静まります。これが再び熱気を帯びる一つのきっかけとなったのはポーランド人として史上初めてローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世で、同教皇はヤルゼルスキと会談し、暗に弾圧を行わないよう求めるなど「連帯」を支援する動きを見せました。また1985年、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任して「ペレストロイカ」を推進するなど旧来の支配方法から脱却する動きを見せたことも重なり、ヤルゼルスキは戒厳令を解除した上で政治改革を視野に入れて「連帯」との話し合いを持っていきます。

 このような過程を踏んでポーランドでは1989年の2月から4月、抜本的な政治改革案を話し合うためヤルゼルスキを筆頭とした体制側、ヴァウェンサを中心とした「連帯」が出席する「円卓会議」が持たれました。この会議はテレビでも中継され、ポーランドの全国民が注目してその模様を眺める中で、

・大統領制の導入
・自由選挙の実施
・言論、政治活動の自由

 といった民主化へと一気に舵を切る改革案が採用されることとなります。そしてこの改革案を受けて同年6月には部分自由選挙が実施され、この選挙で「連帯」が大勝利を収めるとあらかじめなされていた協定に従いヤルゼルスキが初代大統領に就任し、その翌年にはヤルゼルスキは政敵であるヴァウェンサへ禅譲する形で大統領職を引き渡し、完全な意味での民主化をポーランドは達成することとなります。

 この時期、東欧では民主化ドミノといえるように各国で民主化革命がほぼ同時に起こっております。ただこの時の民主化革命ではハンガリーやルーマニアの様に旧政権が民衆や軍によって無理矢理引き摺り下ろされるような形が大半で、革命の過程では少なくない血が流れています。
 そうした他国とは異なりこのポーランドでは無血でもって民主化が達成され、その後の混乱も圧倒的に小さく、現代においてもリーマンショック直後の2009年時ですら経済成長を維持したほど安定した政治、経済体制を守っています。私が言うのも僭越ですがこのポーランドの民主化革命は偉業とも言っていい事績のように思え、その立役者であるヴァウェンサやヤルゼルスキといった人々に対しては強い尊敬の念を覚えます。

 特にヤルゼルスキに対しては、ワルシャワ蜂起の一件から察するに当初からソ連の支配に対してかなり強い拒否感を持っていたのではないかと伺えます。しかしそうした意識を表には見せず、またソ連の介入を防ぐための妥協策として戒厳令を実施して最悪の事態を避けるなど、政治家としても優れたセンスを見せるなど役者として政治家として超一流です。またこの時の戒厳令によって逮捕されたヴァウェンサや「連帯」のメンバーでヤルゼルスキを当時強く批判していた人々ほど後年になってヤルゼルスキを評価する人間は多く、間違いなく彼はポーランドを含め、東欧革命の主役の一人と言っていいでしょう。
 同時にヴァウェンサが率いていた「連帯」も、急進的な民主化を望むメンバーに対して穏健派が粘り強く説得して、組織として穏健な姿勢を維持し続けた点も見逃せません。決して急進的にならず過激な行動に走らなかったからこそ、他の東欧諸国の様に民衆の暴動を伴う革命にならずに改革が達成されたのでしょう。

 体制側、改革側双方で血を流すことを求めず、また努力がなされた。だからこそ革命後、双方の主要メンバーは文字通りのノーサイドにもなれたと思うだけに、このポーランド革命については人類の偉大な革命の一つだと思えるわけです。

4 件のコメント:

  1. ポーランド革命について、わからなかったのですが、そのように無血な派閥のできない高等な革命をしていのですね。以前は、アメリカ人のようにバカにした考えでしたが、ポーランドの見方が変わりましたね。

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    1.  自分もポーランドは勉強し始めたばかりですが、地味に堅実な経済成長を続けていたりと、旧共産圏の中でもかなりの優等生だったりします。興味があるので、誰か詳しい人がいたら自分も解説を聞いてみたいものです。

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  2. 連帯と同伴の違いは何でしょうか?

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    1.  連帯は見返りを求めない協力関係、同伴は見返りを約束し合った協力関係。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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