ページ

2020年11月5日木曜日

日本の歴史観~その4、自虐史観

 愚痴った後で連載再開で、今回はある意味昭和後期を代表する歴史観こと、自虐史観です。

 この歴史観、というより戦後の歴史観は基本的に第二次世界大戦の日本をどのように評価をするかがに論点が集中するのですが、逆を言えばそれ以外の点、具体的には江戸時代以前に関してはその前の皇国史観と比べて余計なバイアスが解消されたことで、実証的な研究が花開くこととなりました。

 特に皇国史観においてはある意味否定されていた先史時代に関しては昭和中期から後期にかけて考古学ブームが起こり、それまでの遅れを取り戻すかのように活発に研究が行われるようになっています。
 惜しむらくは平成期において石器発掘捏造事件が起こったことで事実上、それ以前の研究や発掘成果に疑問符がつくこととなってすべておじゃんとなったことです。もっともそれ以前から考古学は恣意的な研究発表や実績考査が絶えなかったとされ、それらが発掘捏造に関しても事前に疑問視されていた声を黙殺していたと言われるだけに、遅かれ早かれ自滅していた気がします。少なくとも現代において、平成期と比べ考古学が日本国内で話題に上がる回数は明らかに少なくなっています。

 また先ほどはバイアスがなくなったのは「江戸時代以前」と書きましたが、正確には明治中期、それも日露戦争の1905年までの時代は自由な議論が許されるとともに、実証的な研究が進みました。一体何故ここで区切りとなったのかというと、私は二つの理由があると思います。
 ひとつは、日露戦争後に朝鮮半島が実質的に日本の支配下に置かれ、後の併合につながるからです。これ以後に日本は「植民地を持つ帝国主義国家」となり、自虐史観が否定した戦前の軍国主義の起点とされてしまい、日露戦争以後の日本の歴史については基本的に否定するものとして自由な議論は許されなくなったと私は見ています。

 もう一つは、地味に司馬史観こと司馬遼太郎の「坂の上の雲」効果ではないかと本気で考えています。今述べた通りに日露戦争以後は帝国主義国家となるけれども、「坂の上の雲」では「日露戦争以前の日本は立ち遅れていた状態から西欧に必死でキャッチアップしようと、明治維新を起こして改革していた」という、今風に言えば「美しい日本」的に描いたことで、こうした認知が歴史評価の大きな区切りをつける流れに一役買ったのではと見ています。
 なので西郷隆盛や大久保利通は「歴史上の人」となりましたが、伊藤博文や山縣有朋は「現代人」というようなくくりで、伊藤や山縣以降の時代と人々は歴史的な評価というか議論がしづらいというか実質的に制限される事態を招いたと考えます。個人的に非常に惜しいのは大正時代がこのあおりを受けたことと、昭和というハイスケールな時代に挟まれたことと相まって、あまり話題に出ることもなければ検証もされる機会を失ってしまった気がします。普通選挙に至る過程や原敬などアクのある人物は現代においても取り残されてしまっている感があり、今後の研究が待たれます。

 そんなわけでようやく自虐史観の本体についての話に移れますが、私が説明するまでもなく、この歴史観の特徴は「日露戦争以後~二次大戦以前の日本を否定する」ことで成り立っています。具体的には、

・日露戦争以前の日本には正義があったがそれ以降はただの野蛮な帝国主義国家
・日本の二次大戦は侵略戦争
・アジア諸国に多大な損害を与えてしまった
・ついでに朝鮮にもひどいことをしてしまった
・無謀にもアメリカ様にケンカを売ってしまった

 ざっとした内容は以上の五点に集約されるでしょう。一体何故この自虐史観が戦後にスタンダートとなったのかというと、やはり戦後の日本人自身が強い負い目を感じていたことが大きいと断言できます。特に実際に従軍した方や、戦後の政治家になったものなどはその発言などを聞くと戦争で中国などアジア諸国に対し略奪を始め大きな損害を与えてしまったという後悔を口にしている人が多く、その内容や態度から見て実際にそのような贖罪意識は高かったように感じます。
 それだけに、「こんなひどいことをした日本は間違っていた」、「こんなことは繰り返してはならない」という過去を否定する自虐史観は心情的に受け入れやすかっただろうし、また日本の国際的立場から言っても、そうした殊勝な態度を示すことが国益にも叶うと考えた政策担当者も多かったのでしょう。もちろん日本人自身も戦争で大きな損害を受けたことで、「もう戦争はこりごり」という意識を持ったことも大きかったでしょうが。

 ただこの自虐史観ですが、その名が示す通りともかく戦前の日本を貶めるだけ貶め、中には事実以上に日本のことを悪く批判、否定する声も少なくありませんでした。そうした反発が平成期に花開くこととなるのですが、逆を言えば何故平成に入ってから花開くこととなったのかというと、それはやはり昭和天皇が崩御したということが最大の理由だと考えます。
 ある意味で最大の当事者であった昭和天皇が崩御するまでは、昭和天皇自身も受け入れていたこの自虐史観について、反発を持つ者たちも否定することが出来なかったのだと思います。逆を言えば昭和天皇の崩御がもっと早かった場合、自虐史観からの揺り戻しはもっと早くに起きていたと思います。

 私自身は先ほども書いた通り、戦後の冷戦期という時代においてこの自虐史観が日本でスタンダードとなったことは、国際社会における日本の地位回復において有利な結果を運ぶ要因になったと考えています。極論を言えば、損害を与えたアジア諸国への補償としての政府開発援助(ODA)にかこつけて、日本製品や技術の売りつけや企業進出が果たすことができたし、諸外国も戦前の日本に対する反発を持ちながらも、見た目だけでもへこへこする姿を見て警戒を緩めていったことを見れば、復興期においては非常に役に立ったとみるべきだと私は思います。
 そういう意味では、この歴史観をその身をもって維持させた昭和天皇に関してはよくぞ長生きしてくれたという風にも感じます。あまり言われないですが、昭和天皇の崩御に伴う歴史観の切替えという概念は地味に重要である気がします。

0 件のコメント: