前も少し書きましたが、この漫画の作者はある意味で従来の漫画表現を否定するかのような破壊的表現で連載を続けています。やはり本人も映画好きだと言っている通りにその表現手法は映画に近く、一般の漫画がストーリーを追っていくのに対し、この人の漫画は演出を追うためにストーリーを負わせるというべきか、演出を何よりも優先している感じがします。
真面目にこれだけで話を終えてもいいのですが話を本題に映すと、先月からやっているこの「日本の歴史観」の連載はやらなきゃよかったと真面目に後悔しています。なんで後悔しているのかというと、一本記事書くのに物凄い負担が大きいというか、書き終えた後にめっちゃ疲労するため、書く前の段階から尻込みします。
実を言うと今日は本当は連載の続きで自虐史観について書く予定でしたが、チェンソーマン……じゃなく会社の仕事でやや疲労気味だったために、どうしても書く気が起きませんでした。自虐史観自体はこの連載の中でも書きやすい部類のネタで、ひとつ前の皇国史観と比べたらずっと楽なのですが。
そもそもこの連載を始めたのは、内容が良ければまたJBpressのコラムにも流用できるだろうという当て込みからです。自分もJBpressでコラム連載してから丸4年経ち、いい感じに手を抜く手法を磨いてこれてます。
書き始める前の段階で徳川史観、皇国史観、自虐史観、そして平成期における史観プラスワンの五本立て、連載中に思い浮かんだらもう一本という筋立てで始めたのですが、意外と平成期の史観については考察を深めると実は現在、ほとんど整理されていないという事実に気が付きました。また誇張しすぎかもしれませんが、平成期における史観については整理するのは私がはじめてになるんじゃないかと内心思え、参考となる資料とか分析もない中で一からその史観について分析、論証する羽目となりました。これがほんとしんどかった。
他の人はどうだか知りませんが、私はゲームしてる時とプラモ作っている時以外は常に何か考えています。ご飯食べてる最中も「虫の進化が虫を食べる動植物の進化にどう影響したのか?」とか、風呂入っている最中に「三種のマジックリン(バス・トイレ・ガラス)のうちゴキブリを殺すのに最も適しているのはどれだろう?」とか常にくだらないこと考えています。
ブログネタも大体トイレしている最中か歩いている最中に「今日何書こう?」的に考えていつも決めていますが、この連載の下準備は三日くらい通勤途中にずっと考えて練っています。これは自分にとってもかなり異例で、これ以前の分析が足りなかったのもあるものの、意外と考察すれば深くなるという特徴があります。
前回の皇国史観も、最初は南朝贔屓で実証主義から離れていったということだけ書こうと思っていたのですが、よくよく検証すると皇国史観が流行り出したのは明治後期であるということに気が付き、この時点で「時の政府が強制したのではなかった」ということにも気が付き、当たりを付けて調べて言ったら案の定というか政争の具として発展していった系譜を知りました。何気にこの辺の過程を知ったのもこの連載の準備を始めてからで、「史観」というワードに着目したのは意外と発見であったと気づくとともに、いざ各段階になると苦労が半端ないということにも気が付きました。
連載初めに書いた通り、歴史というのは決して中立ではなく何らかの思想に立って評価分析されるというのが私の持論です。現代史はもちろんのこと先史時代も未だに邪馬台国論争を言う人もいるくらいで、スイスの様に「完全中立」なんてのはなく、如何に中立に近づくかというアプローチでないと歴史はやっぱり語れないでしょう。
そういう価値観で見ると、歴史観というのはやはりその時代ごとの世論というか状況に左右されることが多く、そうした社会背景を分析しながら追っていくとまた見えてくるものがあります。その点をこの連載では上手く反映できるように意識して書いていますが、内容が深まり過ぎて果たしてJBpressでも使えるかとなると結構不安になってきました。
なおJBpressの次の原稿は既に提出しており、今日ゲラ来てオッケー出しました。また中国社会ネタですが、友人からは「いつもと方向性が違う(;゚Д゚)」と言われました。自分でもそう思う。
逆に最近JBpressで歴史ネタから遠ざかっているから、そろそろまた何か歴史ネタ書こうかなとか考えています。個人的な欲求ですが、一回でいいからキスカ島ネタは公のメディアで記事を出し、「キスカについては俺も書いたことあるぜ(^ω^)」と言える立場になりたいです。阿川弘之なども書いているから、自分が書いていいものか凄く悩むのですが。
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