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2023年3月2日木曜日

中世のイタリアは何故共和制自治を取れたのか 後編

 昨日の記事に引き続き、何故中世イタリアではミラノをはじめ共和制自治形態をとる都市が多く成立したのかについて持論を述べます。結論から言うと、商業が非常に発達して商人市民が強い力を持ったことこそが最大の原因だとみています。

 中世においてイタリアは世界屈指の商業地域で、現代における複式簿記の原型もイタリア発祥です。東のイスラム世界と西のキリスト教世界の中間に位置し、ライバルとしてビザンツ帝国こそありましたが地中海、アドリア海貿易においてイタリア商人の重要性は非常に高く、銀行家をはじめとして数多くの大商人が生まれました。
 これら商人は従来からの貴族ではなく平民層から生まれ、財力で貴族を上回るようになると自然と参政権も要求するようになります。一部都市ではこうした新興層を新たに貴族として取り込むことで貴族層が勢力を維持した例もありますが、大半の都市では平民議会が作られ、そしてそのまま新興平民が貴族を圧倒して主導権を握るパターンを辿っています。でもってこうした有力者はメディチ家をはじめ新たな貴族となっていき、ローマ教皇から支配のお墨付きをもらってミラノ公とかフィレンツェ公などという領主になっていったりします。

 とはいえ、日本や中国の封建的支配と比べると大体どの都市も合議制を維持しており、その結果として内部派閥対立も起きて他国に攻められる間隙もできたりしますが、こと自治という点ではかなり長期にわたり維持されてきました。何故自治が成立したのかというと前述の通り土地と農民を支配して食料を分配する封建領主以上に、領域外から財を集め力を持つ商人がどんどん伸びてきたことが第一の理由ですが、その力の源泉が財にあることも大きいとみています。

 例えば封建領主であれば土地から生産される食料を収奪し、分配することが力の源泉であり、この収奪を実行するには言うまでもなく軍事力が物を言います。それに対し商人領主は軍事力以上に資金力が物を言い、その資金力の源泉は何かというと当時としてはやはりネットワーク、人脈で、遠隔地の中継取引所や製品の原産地とのつながりが大事です。そうした点で単一的な権力者であるより、権力そのものを分配することが自身を高めることにもつながり、合議制形式の政体ができていったのではないかと思われます。
 さらに言えば封建領主と比べると土地に縛られず、国外からも優秀な人材を引っ張ってこれたりする点でも合議制の方が都合がよかったのかもしれません。

 以上のような経緯を踏まえると、商業の発達は共和制、ひいては民主制の成立に物凄く大きな役割を持つのではないかという風にも見えます。実際にというか日本においても、戦国時代で最大の商業地と言われた大阪にある堺では、信長が来るまでは町衆による自治が行われていました。当時の宣教師にも「東洋のベニス」と評されており、何で「東洋のベネチア」じゃないんだと思ったりもしますが、堺という商業都市でこうした自治が成立したということからすると、やはり商業、というより重商主義と自治は物凄い関係があるように思えます。

 さらに発展すると、カール・マルクスじゃないですが資本主義の発達は先ほど説明した通り土地に縛られた封建領主の力を削ぐことになり、民主主義、特に議会の権力を大きく高める効果があるように見えます。実際ヨーロッパ世界でも早くから重商主義に走っていた英国は議会の権力が国王より強く、逆に農業国であったフランスは絶対王政がフランス革命まで続くなど、割と明確なリンクが見えます。
 日本も江戸時代までは封建制がが続きましたが、商業自体は江戸時代を通して一貫して発達しており、商人の力もどんどんと増していたことから、あのまま続いていればペリーが来なくても幕藩体制は崩壊していた可能性が高いと前から思っています。言うなれば封建領主にとっては商業の発達は国力を高める一方、自身の権力も弱らせる一手となる可能性もあり、うかつに商業投資とかはあんまできないものだなと思います。まぁ英国みたく議会を味方につけるってんなら、話は別でしょうが。

 さらに現代に話を進ませると、土地に農民を縛り付けている北朝鮮で王権が異常に強いというのも、封建制の表れなのかもしれません。社会主義自体が土地に住民を縛り付け自由を束縛する要素を必然的に持つことからも、先祖返り的に封建的な政権になる要素を多分に含んでいると言えるでしょう。

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