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2010年1月12日火曜日

都会と田舎の時間速度の違い

 実に三ヶ月ぶりに「時間の概念」のカテゴリー記事です。始めたはいいけど北京留学記の記事の連載と掛け持ちだとやっぱり大変で、ひとまず留学記を終えてから再開しようかと思っていたら最後の記事からもう三ヶ月も経ってしまいました。いくらなんでも、いい加減な計画だったと反省しきりです。
 ただ元々このカテゴリーの記事は内容的にあまり連関は少なくなく、今日のこの記事から読んでもあまり影響はないかと思います。ただこれまでの記事は単体でも我ながらよく出来ていると思うので、興味があれば上記のリンクから読み返していただけると幸いです。

 それでは本題に入りますが、よく「田舎に帰ると時間がゆっくりと流れる」という呟きを日常で聞くことはないでしょうか。私自身もお袋の実家の鹿児島県に帰るとやはり同じように感じ、同じ一時間でも関東での生活と比べると随分と長く感じてしまいますし、実際に周りに聞いても同じような返事が返ってきます。
 では都会での生活より田舎での生活の方が時間が長く感じると仮定した上で一体どうしてそのような時間間隔に差が生まれるのか、もったいぶらずに考えられるその要因を明かすと、私はまず雑音の量や大きさが大きく影響しているかと思います。

 雑音、というよりも最近の日本語だと「ノイズ」と表現することが増えていますが、これがどうして時間間隔に影響を及ぼすのかという、ひとつこの様な状況を連想してみてください。ある場所で友人が帰ってくるまで30分ほど待たなければならないとして、車や人が激しく往来する雑踏の中で待つのと、人どころか獣も通らないような山道で一人ぽつんと待ち続けるのとでは一体どちらの方がその30分間という絶対時間を長く感じるでしょうか。あくまで私の感覚ですが、私は後者の方が圧倒的に長く感じるかと思います。

 またここまで極端な例をとらなくとも、外から雑音が入ってくる部屋と完全に防音が保たれる部屋とで同じ十分間椅子に座っているのを比べれば、感覚的には何も音が聞こえない部屋で座っている方が長く感じるのではないかと思います。出来ればこういう実験を100人単位くらいでやってみたいところですが、どこかやってないかな。

 この様にいろいろ比較してみると、雑音があるかないかで同じ一分や一時間に感じる長さの間隔が変わってくるのではないかという気がしてきます。またこれまた私の体験談ですが、同じ勉強をするにしても静かな図書室でやるのと音楽を聞きながらやるのとではなんとなく勉強した時間が違ってくるような気もします。
 私が思うにこれらの感覚の差異は、一つのものに集中するか複数のものに集中するか、ということから来るのではないかと思います。

 雑音が聞こえない環境で勉強をする場合、その本人が横着しないことを前提にすればその意識は勉強科目へ集中して注がれます。それに対して音楽を聴いたり、雑音の入る環境ではよっぽど周りを気にせずに出来る人以外は勉強科目とともに耳に入ってくる情報こと雑音、なんだったら車の音とか人の咳の音とかに意識が分散してしまいます。
 もしそういった周囲の雑音が時間感覚に影響するとこれまた仮定すると、私の解釈では意識の集中対象の数がそれら時間間隔に影響を与えているのではないかと考えます。例えば意識が向かう対象が少なければ時間はゆっくりと感じられ、逆にたくさん雑音があったり道路を走ったりする車に注意しなければならないなど、意識する対象が多い環境では時間が早く流れるように感じる……といった具合で。

 都会と田舎の時間間隔の違いは、恐らくここにあるのではないかと思います。もちろん大分以前の「社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編」にて私は、「物事が変化するのを見て初めて時間の流れを感じる」という一つの定義を出しましたが、建築物や人の流れの変化の量も都会と田舎では雲泥の差があり、そうしたものもそれぞれの時間間隔に影響を与えているというのも非常に大きいでしょうが。

 ただこの記事ではそうした変化量の度合いは小さく扱い、都会と田舎を引き合いに出して敢えて雑音というものを大きく取り上げました。今の私はいちおう都市部に居住していますが、やはりこういったところで生活していると一切無音になる時間が非常に少なく感じます。逆に以前に京都に住んでいた頃は一つ辻を曲がると昼間でもどこも驚くくらいに閑静になり、下宿にいた頃も夜なんか街灯が少なくて真っ暗な上に無音なもんだから、恐いくらいに夜の時間が長く感じることが出来ました。私の友人などは逆にその夜が長いのが辛かったらしく、夜な夜な町内を徘徊して立ち読みの常習犯としてその名を轟かせていましたが……。

 最後に次回への引きとして、この記事で私は、「一つのものに集中するか複数のものに集中するか」が時間間隔を左右するとして、集中の対象が少なければ時間は長く感じるのではと書きましたが、恐らくこれを読んで、「でも時間を忘れるくらいに何か一つに集中するとも言わない?(・д・)」、という風に思った型もいるのではないかと思います。事実私もそう思いますし、集中対象が一つでも時間を短く感じることも少なくないと思います。
 ではそうしたことは何故起こるのか、次回はその集中対象と集中度の関連について算数的な話を書こうと思います。

2010年1月11日月曜日

このブログを二年間やってきて

 まず最初にちょっと違和感を覚えた時事通信社のニュースがあったので、それについて一言書いておきます。

小沢氏側に23億円移動=新生、自由党解散時に-多額の公金流入(時事通信)

 この記事の何が問題なのかと言うと、書いてある内容というのが私が「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」で紹介した文芸春秋一月号に書かれている松田賢弥氏の記事そのまんまだということです。特に自分でこれという取材をした、新たな事実がわかったという痕跡もなく、一ヶ月前にすでに同内容を報じている松田氏の文芸春秋の記事を伏せてこの様な記事をさも自分達が得たニュースかのように見せるこの書き方には、あなた方に記者としてプライドはないのかと強く言いたいです。
 これまた私が前回に書いた「菅直人氏の財務相就任について」の記事にて突っ込んだ「藤井財務相続投」と伝えた誤報といい、時事通信社の政治部は一体どうしているのか疑わしいものです。

 そうしたことは置いといて、そろそろ本題に入ります。
 この陽月秘話は2007年の12月からスタートしており、先月までで実質二年間、ほぼ毎日一本記事を書きながら続けて来れました。当初は二、三日に一本くらいでいいものかと思っていましたが元から文章を打つことにそれほど苦労を感じないので、気がついたら習慣の様になってこのペースを維持して来れました。

 ただこの一日一本のペースにはちょっと迷いもあり、毎日一本ずつ書くことでリアルタイムで時事解説などを行える一方で、ネットでの簡単な調査をやった上での世相分析のような記事が書き辛くなっております。現在でも休日とかにそういったものをいくつか取り扱っておりますが、それでもこう細かく記事をアップするよりも内容のしっかりした記事を隔日で出す方がいいのではないかとも以前から感じており、それを考える上で更新回数についてどう思うのかというアンケートを本店に作った所、現在まで4票すべてが「普通」と書かれて、なんかどうしようもないなと感じてしまいました。まぁこのアンケートは「多すぎる」、「普通」、「少なすぎる」の三択で聞き方が悪かった気がしますが。

 アクセス数については現在の所、本店の方では30人強、出張所の方では50人前後の方に毎日アクセスしてもらえて書いている側として非常にありがたいのですが、なんていうか本店が出張所に追い抜かれるとは最初は想像もしておりませんでした。恐らく原因はグーグルなどの検索サイトの検索で、自分でもいろいろなトピックスで検索を掛けているのですが、このところは同じ話題でも本店より出張所が引っかかりやすくなっており、リピーターはともかく新規アクセス者の差がこの差を生んだものかと見ております。

 本音を言えばこれだけ毎日書いているんだし、内容もそこそこ面白いのではと自負する記事もいくつかあるのでもう少し伸びてくれないものかといつも思うのですが、そこらへんはやっぱり思うようには行かないものです。とはいえこれだけ堅い内容でだらだらとした文章でも、リピーターが何人かついてもらえるかだけでも本当にありがたく思えます。

 そうした中、去年一年で一つの手ごたえを掴んだと言うか、ちゃんと書き続けていればそれなりに評価してもらえるのだというような確信を得ることは出来ました。その理由というのも過去の記事でも書いていますがどこかのサイトで紹介してもらったのか、「日本の法人税は本当に高いのか」の記事が書いてから約一年も経っているにもかかわらず去年の十月にやけにヒットし、下記の掲示板にて議論の対象となったからです。

はてなブックマーク
コッソリアンケートβ

 書いた本人に言わせると、この記事は「新聞赤旗」さんの記事の引用でそれにプラスαこと経団連の悪口かいただけで、こんなのでアクセスを増やすというのには内心悪いような気がしたのですが、この記事でこれだけアクセスが増えるのであれば、もっといい分析の行えている記事も時間が経つことによって評価されるのではないかと前向きに思えるようになりました。
 おかげさまでこの記事は「ガジェット通信」さんにも取り上げてもらえましたが、まぁまた本音を書くとこんなのよりももっと他の記事を取り上げてくれよという気持ちもありましたが……。

 こんな具合で手ごたえを得る一方、当初は連動して運営するつもりだったホームページサイトの「陽月旦」を放置することになってしまったのは我ながら残念です。言い訳をするとデータ管理が非常に面倒で、総理や総裁など役職が変わる度にいちいち人物項の記載を直さなければならず、また私自身がhtmlに慣れていないのもあってなかなか集中して作れなかったのが失敗要因です。もう少しマクロを勉強したらどうにかなるかもしれないけど、再開はまだまだ未定です。

 あとこれも企画倒れになるかもしれませんが、そろそろ隠れた本願であった小説をこれまた専門のブログを新たに作って書いていこうかなとも計画中です。元々私はこういう政治、社会問題の分析よりも小説が書きたいとずっと考えており、こっちの更新を減らして小説の連載もやっていくべきかと現在悩んでおります。ただ私は日本語のリズムは縦書きでなければ表現しきれないとも考えており、htmlの制約からくる横書きでまともな小説が書けるのか、そうした問題も未だ抱えております。
 ひとまず実験的に何か短編でも書いてアップしてみようかと思いますが、この三連休はちょっと調子が悪くてブログ自体の文章も張りがないので、それもいつになることやらと先が思いやられる始末です。

2010年1月10日日曜日

組織の腐敗とは

 以前に組織論と称して、集団を大中小それぞれに区分した上でどのような構成が最も効率的に活動できるのか等をいろいろ考えていたことがありました。別に社会学の定義を出さなくとも、大体5人以上の構成員を持った集団ができるとその5人の思考や人格とは別に集団という独立した擬似人格というものが生まれ、そういったものを社会学や集団心理学は取り扱うのである意味専門にあったことを構想していたと思えます。

 もちろん集団を如何に機能的にするかはその集団がどのような目的を持っていてどのような状況にいるかによって変わるので一概に言い切れるものはないのですが、唯一と言っていいくらい言い切れる法則として、比較的大規模な組織は基本的に腐敗していくものだと考えました。
 たとえ組織の結成当初はどれだけ崇高な志を持って結成されていたとしても、またその精神を綱領なり憲法にて書いておいたとしても、組織ごとに速度に差はあってもいつかは腐敗して汚職や不正行為といったような本来の目的とはかけ離れた行動を取るようになると言えると思います。日本政府の官僚組織を引き合いに出すまでもなくソ連や中国共産党、日本の仏教は奈良時代や平安時代に結構好き勝手やったやんちゃな時期を終えているのか現代では大分大人しくなりましたが。

 ではこの組織の腐敗化を根絶できないにしても、いかにすればその腐敗するのを抑えて高いモラルを保てるのか、いわば組織に対する防腐剤のような手段はないのかですが、いろいろあるでしょうが敢えて最も効率のいいものを私が挙げるとしたら、換骨奪胎こと組織の外見を維持して中身を挿げ替える手段が唯一の方法ではないかと思います。言うなれば、名前だけ残して古い組織を潰し、新しい組織に変えてしまうというやり方です。

 そのように中身がすげ変わった代表的な組織をいくつか歴史上の中で取り上げると、まずは日本の鎌倉幕府でしょう。当初は源頼朝の専制色の強かった武士団でしたが、頼朝の死後に彼の子である頼家と実朝が早くに亡くなると有力御家人の合議制へと変わり、さらには北条義時と政子の活動によって三代目執権の北条泰時の題に至って再び執権による専制色の強い組織へと舞い戻っております。
 はっきり言って鎌倉幕府は設立してまもなく起こった天皇家の巻き返しこと承久の乱の際は非常にピンチでしたが、最初の合議制の移行が比較的うまくいったために乗り切れた感があります。

 この様な組織の中身が入れ替わると言う事例は何も昔に限らず現代でも起きており、また一例を出すと元松下電器こと現パナソニックなんかその例だと思います。
 松下は失われた十年末期に深刻な経営不振に陥り、その際に社長に就任した中村邦夫氏(現会長)がドラスティックな改革を行い、見事経営を立て直しました。なおその際の社内改革は苛烈を極め、当時から中村氏は「幸之助精神の破壊者」と呼ばれていました。そして実際に人伝に聞くと現在のパナソニックはすっかり以前とは社風が変わり、松下幸之助の会社であった松下電器は中村邦夫のパナソニックに名前だけでなく組織全体が変わったと評されております。それがいいかどうかは別として。

2010年1月9日土曜日

天才を世に出す価値

 相互リンク相手のサカタさんのブログ「毘沙門道」にて、「パプテマス・シロッコ」の記事がアップされたので、応援の意味を込めてちょっと関連する内容というか私の考えを書いてみようかと思います。
 まず先にこのパプテマスシロッコというキャラクターの事を簡単に説明すると、この人は「機動戦士Zガンダム」に出てくる登場人物で、物語全般の黒幕に当たるような人物です。一貫して野心の強い人物として描かれており、特に作中の彼のセリフで、「常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ!!」というセリフは彼の役柄を強く反映しております。

 さてこのシロッコのセリフですが、何を隠そう実は常日頃から私も口にしているセリフです。
 こう書くと本当に見も蓋もないですが、あのシロッコのセリフを中学生の頃に聞いてなるほどと得心した私はそのまんま引用する形であちこちで口にしては周囲から多大な顰蹙を買っております。無論こんな事言えば顰蹙買うのはわかっているのですが、それでも私は言わなければならないと考えており、保身を気にせずまともに話が出来る相手には結構急なタイミングとかで言い出したりします。

 では何故そこまでして私がこのセリフを言うのかですが、一番大きい理由としてはまず私自身が世の中を正の方向へ大きく牽引、発展させるためにはどうしても天才の力が必要だと強く認識しているからです。はっきり言って凡人が何百人いたところで画期的なアイデアが議論の上に生まれてくるわけでなく、天才のひらめきと言うか、突飛で常識破りな価値観や考え方というものがいつの時代にもどの場所にも私は必要だと考えております。トーマス・エジソンなんかもこういう風に考えていたらしく、彼の名言としてよく挙げられる、「天才とは99%の努力と1%のひらめきが必要」というセリフは実際には、「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄だ」という発言だったらしいそうです。

 そうした取り方にとっては差別的ともとられかねない意見の次に、私は天才を世に出すということは非常に難しいと考えるがゆえに先程のセリフを敢えて発言する必要があると考えております。この、天才を世に出す難しさといっても、ピンと来る人はそれほどいないかと思われるので、ちょっとそのあたりについて詳しく解説します。

 まず天才と一言で言っても、実に様々なタイプがあります。それこそ勉強もスポーツも出来る万能型や、ある野球のセンスはずば抜けているが言語センスもある意味でずば抜けている長嶋茂雄氏のような特化型、果てには欠損とも言えるほどに何かが出来ない一方で他の人が真似できないことをすることが出来る逆補償型などなど。それこそ一番最初の万能型であれば世の中に出てきてそこそこ用を成す、仕事を成すという事はそれほど難しくなさそうですが、後の二者となるとその特化している分野の世界に入ることが出来なければこれまたただの人で終わってしまいます。
 またたとえその秀でた力を活用できる世界や現場にうまいこと入れたとしても、それ相応の地位や権限、またはチャンスがなければその力を十二分に活用することも適いません。

 私が何故こんなことを言うのかというと、思うに世の中はそのような埋もれた天才と言うものが数多くいるからではないかと思うからです。元々そんな風に思うようになったのも中国史の史記を読んだことからで、歴史上数多の天才が現れるもののことごとく旧来の勢力、天才の立身出世を妬む者らによってその地位を引き摺り下ろされるものもいれば中には暗殺される者も多く、結果論からですがどうしてこんなまともな案を採用せずにあのような愚者の案を使ってしまうのかと何度となく考えさせられたからです。
 この様な天才の活躍が阻まれるという逸話は中国史(明らかに中国は他国と比して多いけど)に限らず世界中どこの歴史でも見ることが出来、いくつか例を出すとカルタゴのハンニバルや菅原道真、真田幸村にメンデルなど、どれも悲劇の人物としてよく取り扱われます。また歴史の表舞台に名前の挙がってない無名の天才というのも、主に画家や作家といった芸術分野において数多くおります。しんがぎんなんかこの類かな。

 こういった過去の歴史から私は、天才を生み出す難しさ以上に天才を世に出す難しさの方が上なのではと思うようになりました。特に私の得意とする政治、行政分野においては元々の門戸が狭いという事もあって、ほんとうにしょうもない人物の奸計によって立派な人物が退場を余儀なくされることなど日常茶飯事です。それゆえに志の高い人間、実力のある人間を本当の意味で応援する、言うなれば天才を下支えするという事がこの分野においては特に求められているかと思います。
 そういった思いからか、こういうブログを運営するようになっていったのかもしれません。まぁウォッチャーの役割を果たす重要性もさることながら、プレイヤーになりたいという下心も全くないわけじゃありませんが。

2010年1月8日金曜日

日本アニメキャラ傑作選~カテジナ・ルース~

 「日本漫画キャラ傑作選」という題でこれまでにもいくつか記事は書いているのですが、アニメキャラの方では特に項目を設けていなかったのは今思うとすこし失敗だったような気がします。これだったら「日本アニメ、漫画キャラ傑作選」のがよかったかもしれません。
 そういうわけで今日のこの記事はアニメにおけるキャラクター一人を取り扱う記事として一発目になるのですが、その一発目によりにもよってこのキャラクターを選ぶ辺り、なんか自分に対していろいろと考えさせられます。

 そんな考えさせられるキャラクターこと「カテジナ・ルース」というキャラクターは、「機動戦士Vガンダム」に登場する女性キャラクターの一人です。このVガンダムは数あるガンダムシリーズの中でも際立って女性キャラクターが多く登場する作品なのですが、恐らく誰に聞いても一番印象に残ったのはとなるとこのカテジナの名前が出てくるかと思われます。

 ではそんなカテジナ、っていうよりもカテジナさんは一体どういうキャラクターなのか、簡単に作品の中での立ち位置の変化を時系列で紹介します。

・年下の主人公のメールフレンドで、資産家の家の正義感の強いお嬢様として登場
↓↓↓
・戦災から脱出中に主人公のライバルキャラの不意打ちを受け、敵軍の捕虜となる
↓↓↓
・自分をさらったライバルキャラの秘書官となり、主人公と再会する
↓↓↓
・秘書官からいつの間にか敵軍のMSパイロットになる
↓↓↓
・一パイロットからいつの間にかエースとなって部隊を指揮し始める
↓↓↓
・まさかまさかでこの作品におけるラスボスとして主人公の前に立ち塞がる

 なんていうか、こうして書き起こすと荒唐無稽もいいような流転ぶりな気もします。登場当初は戦争行為自体に批判的だったのが敵軍で活動するようになるあたりからはどんどんと好戦的になり、弱気になる主人公のライバルキャラに対して何度も叱咤激励をかけて操りだすなど、気が強いというか癇が強いという性格こそストーリー上一貫しているもののその激変振りには当時の視聴者も目を丸くしたかと思います。
 特に後半に至っては敵軍の中でも圧倒的強さを誇るエースパイロットなり、さながら三国無双における呂布のような鬼人の如き活躍で物語開始当初より登場してきた主人公の仲間達を次々と殺害していき、それに合わせて本人の発言や行動もどんどんとねじがぶっ飛んだような、敵機の撃墜に高笑いをしたり、部下にありえない作戦を命じたりするようになるなど人格が破綻していくように描かれています。

 そんなカテジナさんに対して主人公のウッソ・エヴィンは当初より片思いをしていただけあって戦場で何度も説得を試みるのですが、時とともに人格が破綻していくカテジナさんにはまさに馬の耳に念仏で、終いには何度も、「おかしいですよ、カテジナさん」と言うもんだから「おかしいですよ」が「カテジナさん」の枕詞としてガンダムファンの中で定着するとともに、作中のぶっ飛びぶりから「ガンダムシリーズ、最恐の女性キャラ」と君臨することとなりました。

 実は私にとってこのVガンダムこそが初めて視聴したガンダム作品だったのですが、小学生だった私は作品中に出てくるMSをかっこいいとか思うよりもこのカテジナさんという強烈なキャラクターばかりが印象に残り、とにもかくにもいろんな意味でキレまくっているカテジナさんを見て、「大人の女の人ってこんなに恐いものなのか(゚Д゚;)」と子供心に思ったほどでした。

 その後、成人した後に改めて私はこのVガンダムは見返して見たのですが、もしかしたら私がカテジナさんに感じた恐怖というのは彼女の中にある対象のない憎悪だったのではないかと最近思うようになりました。詳しくは作品を視聴してもらえばわかるかと思いますが、当初は主人公らと行動を共にしていたのに途中から敵軍で、しかもパイロットとして活動するなど一体何を目的として何のために戦っているのか見ていて全くわからず、それでもまだ途中までは敵軍の中にいる主人公のライバルキャラであるクロノクル・アシャーへの好意から戦っているようにも見えるのですが終盤に入るとそんなのお構いなしで、ウッソとクロノクルが戦い合う姿を見て自分を奪い合っているなどと一人恍惚にはいったりします。

 小説の中では自分の父親が不倫をしていた事から対して一定の人間不信を持っていたというように幾ばくかの理由付けがなされていますが、それでもどうしてそこまではっきりとした目的や理由なく戦闘に執着できるのか、他人を憎悪できるのかがこのキャラには全く見えてきません。しかもその憎悪の対象というのも本当に見境がなく、何故そこまで怒れるのか、人を憎めるのか、カテジナさんの対象のない激しい憎悪こそが私に強い恐怖感をもたらせた要因だったのではないかとこの前から思うようになりました。

 ただこの対象の存在しない憎悪ですが、これは決してカテジナさんだけのものではないとも思います。もちろん彼女の場合は際立ってはいますが、一程度の人間にはそれ相応に備わっている憎悪感じゃないかと思います。私自身、むしゃくしゃした際に誰彼かまわず八つ当たりをしたいと思うこともありますし、三年前から一昨年までに頻発した通り魔事件などはっきりとした対象なき殺人も現に起こっています。また突き詰めて言えば、関係ない人間を巻き込んでもかまわないという自爆テロといったテロリスト活動もこの類に属するでしょう。

 このカテジナさんの声優をアニメで演じたのは現在ケロロ軍曹役で大活躍している渡辺久美子氏ですが、恐らく渡辺氏でなければこのカテジナさんは成立し得ないと思うくらいに見事なはまり役でした。ただ渡辺氏もウィキペディアによると、「あんな悪い女、見たことねぇ( ゚д゚)、ペッ」とカテジナさんのことを評しているそうです。
 最近とみに思うのは、このカテジナさんのような邪悪の塊のようなキャラクターを見かけないことです。邪悪なキャラクターではありますが、者を考えるという意味では私にとって非常にいい影響、もとい女は恐いという事を教えてくれたキャラクターゆえに、こうして記事にしようと思ったわけです。

私が成人式でやらかしたこと

 さりげなく本店と出張所それぞれでブログパーツをこのところいじくっています。特に本店のBloggerの方で最新コメントを表示できるようになったのは非常にうれしく、何でこんな簡単なことが今まで出来なかったんだろうと我ながら不思議に思うくらいでした。
 このコメントを表示するやり方自体は実はそれとなく知っていて半年くらい前にも一回試しているのですが、その頃は表示するアドレスの指定が悪かったのか何故かうまく動いてくれずあきらめていました。しかし改めて今回やってみると驚くほど簡単で、こんな簡単ならGoogle社も初めからブログパーツとして持っとけよと声を大にして言いたいです。

 まず近況からですが、昨日は平日とはいえまたブログ更新をサボってしまいました。何でサボったのかと言うと折角買ったPS3を無線でインターネットにつなげようと作業していたのですが、二時間くらい粘った結果、どうやらうちの無線LAN親機ではPS3は電波をキャッチしてくれないと言う事がわかりました。もともとこの親機が親父が安物を適当に買ってきたもので、ノートパソコンにつなげる際も電波キャッチ用の子機が非常に限定されて苦労しているのでさもありなんなのですが。

 またどうでもいい前置きが長くなりましたが、今日は一つ成人の日が近づいていることもあり、私が過去にやらかしたある事件を紹介しようかと思います。
 こんなブログばかり書いている私ですがこれでも一応社会人で、成人式もすでに数年前にやり終えております。ただこの成人式、私の頃はまだ橋本大二郎が高知県知事をやっていた頃で、ちょうど各地で新成人が暴れて問題視されていた頃でした。幸いと言うか私の住んでいる自治体はベッドタウンということもあってそれほど荒れている地域ではないのでそうした心配はなかったのですが、私自身が中学校から地元と離れた私立校に進学した事から地元の知り合いともほとんど疎遠になり、出てもそれほど感慨に耽る事もないだろうと思って当初は参加は見送るつもりでした。

 そのようなことを地元で唯一交友の続いていた友人と夏のある日にエキサイトステージ95をやりながら話してみた所、その友人も高校に進学して以降はそれほど地元の友人らと会うことはなくなり、私と似たようなものだよと話してくれました。それを聞いて、案外みんな似たようなものだったら知り合いがいないからなどと気にせず参加してもいいかと思い直すようになり、どうせ参加するのだったらそれこそ思い出に残る、もとい後年このブログで書けるネタになるような成人式にしてやろうと思い立ち、ある計画を企図するに至ったわけです。

 当時、私は一年間のほとんどを京都で過ごしており、実家に帰省する際にだけ関東に帰っていました。京都から関東、このルートを辿った人間の中で誰が一番ピンと来るかと考えたらこの時の私の中で何故か近藤勇が出てきて、折も折で大河ドラマも「新撰組」が放映されていた頃なので、地元の人間は中学から外に出て行った私のことなど憶えているはずなどないのだから一つ思い切って派手に行こうと新撰組の格好で参加してみることを思い立ちました。

 思い立ったが吉日、周りがさすがにそれはやめておけと言う中で私は独自に小道具の調達をし始めました。先程にも書きましたが当時の私は京都をメインステイトとしていたので、新撰組グッズとなればそれこそそこらへんの土産物屋でも十分なくらいに簡単に揃えることが出来、早速京極通りの親戚がやっていた店の近くの土産物屋に入り、いくつか必要な小道具をピックアップしていきました。

 まず一番重要なのは羽織。これがなければ話になりません。そして羽織の次は鉢巻。鉢金となるとやり過ぎです。ひとまずこの二つを買って着てれば周りにも新撰組だとわかると思い、店のおじさんにわけを話して値切らせてもらう事にしました。

「実はこれ、次の成人式で使うんです」
「ほうほうそんで」
「羽織と鉢巻でどれくらいまかります?」
「兄さん、この二つでまけとったらわしら商売してかれへんで」
「折角の記念ですやん。気持ちだけでもお願いします」
「ほんま200円もまけとったら、わしら商売上がったりや」

 こうして小道具を用意している最中、事を聞きつけたうちのお袋から電話でこんな事を言われました。

「あんた、羽織と鉢巻で下はどうすんのよ?」
「そんなんジーパンでええやん」
「ジーパンって、上下が合ってないじゃないの」
「そこまでこだわる必要ないやろ」

 と電話で言い合いをした後、うちのお袋は私に内緒で年末に一万円くらいの袴のレンタルをしていました。当初は新撰組の格好ではなくスーツで行けと言っていたくせに、途中からはむしろ私以上に乗り気でした。

 そうしてやってきた成人式当日。さすがにこの格好して一人うろつく勇気はなかったので、あらかじめ時間を指定して唯一交友のあるその友人と会場前で待ち合わせを約束していたのですが、車で親父に会場まで送ってもらう途中、「さすがにそれは置いていけ」と言われて中学生の頃に京都で買ったみやげ物の模造刀を腰に佩くのは断念しました。さすがにあれもついていると、暴れる新成人そのものだったし。

 頭に「誠」の一文字が書かれた鉢巻を巻き、上は新撰組の羽織に下は袴姿な私を見た友人の第一声は、「本当にやってきたんだ(;´Д`)……」でした。私も最初は、まさか本当にやることになるとは思っていなかったのですが。
 そして会場に入ると、それはもう周りから明らかに奇異の眼差しが自分に集まるのが手に取るようにわかりました。それこそ成人式会場とコスプレ会場を間違えて入ってきたような珍客に周りは明らかにドン引きしていましたが、先にも書いたようにそれほど荒れた地域ではないのと会場が関東だったので妙な絡み方をしてくる人間はいませんでした。仮にこれが関西の会場だったら、いろいろと絡んでくる人間がいるか誰も気にしないかの二択だったでしょう。

 結局その後は市長の話を聞いて、昔馴染みの友人らに何人かに会って私の成人式は終わり、その日の夜には京都に戻りましたがやり終えてほっとしたの半分、あまり周りの反応が面白くなかったの半分でなんとなく消化不良気味に感じました。もう少し市の受付の人の反応とか欲しかったのですが、私が期待しすぎなのかもしれません。

 ただこの時の私はレンタルしてきた袴を履きましたが、呉服屋にとっては一年で最も稼げるイベントということあって、成人式の是非を問う声もある中で必死にその必要性をアピールしているそうです。別に呉服屋をヨイショするわけじゃありませんが、一生に一回と言わず一年に一回くらいはみんなで和服を着る機会とかはあったほうがいいのではないかと個人的に思います。それこそ街中を新撰組の羽織着て自転車をかっ飛ばす人間がいても、誰も気にしないくらいに。

2010年1月6日水曜日

現代の中国の若者

 前からやろうやろうと虎視眈々と機会を狙っていましたが今日念願叶ってインタビューに成功したので、中国の若者から聞いた彼らの実体について今日は記事を書きます。

 今回私がインタビューを行ったのは、去年大学を卒業して就職したばかりで私と同じ会社にいる女性社員です。彼女は日系企業に就職しただけあって大学では日本語を専攻しており、流暢というわけではありませんが私とは日本語、中国語を織り交ぜれば問題なく意思疎通ができる相手です。聞くところによると在学中に日本語検定一級を取得したとのことで、我々からすると中国語検定一級を取るようなもんだから相当勉強したのだろうと思うのですが、彼女いわく一級取得はそれほど難しいわけでなく周りの友人らも一緒に取得しているとのことだそうです。ちなみにこの事実を「京橋のキムタク」と自称する上海人の友人に話したら、きっとカンニングをして取ったのだろうとやけに悔しがってました。

 そんなわけで早速インタビュー内容を紹介しますが、今回私が主に聞いたのは中国の大学生活、そして卒業後の進路などについてです。
 まず最初に聞いたのは、どうして彼女が大学で日本語を専攻したかです。私としてはやはり卒業後の就職などを考えてのことかと思っていましたが出てきた答えは興味があったからというだけで、特別な理由は何もなかったそうです。ちなみに彼女は未だに日本へは一度も渡航したことがありませんが、見たところ嘘をついているようにも見えなかったのでその後は深くは聞いたりしませんでした。

 それでは大学の授業はどんなものかと聞いてみたところ、あらかじめ話には聞いていましたが中国の大学は基本的に午前中に授業が集中し、午後は授業があったりなかったり午前と午後ではっきり分かれるようです。私が留学していた北京の大学も基本は午前にしか授業がなく、午後は取りたい人だけが取るオプションの授業しかありませんでした。もちろん私は何も選ばなかったけど。

 そしてこれはよくコメントくれるPrincessmiaさんから必ず聞きだせと言われていたので聞いてみた質問ですが、中国での英語の授業についても聞いてみました。前知識として私は近年の中国では英語熱が高まって学外の英語塾などに通う小中学生が増えていると聞いていたのですが、一体何故英語熱が高まっているのかというと中国が海外との交流が増えてきたのもあるでしょうがそれ以上に、単純に受験で有利になるという理由が実際のところは大きいと言われています。中国全土が同じというわけではないですが確か北京市においては日本で言う英検みたいな資格をある級以上持っていると高校受験での英語の試験は免除され、事実上英語の点数が満点で計算された上で入学試験を受けられるようになるそうです。そのため小中学生の子供を持つ親は必死で子供に英語を教え込むそうですが、勢いあまってスパルタ教育化しているところも少なくありません。

 そんなわけで実際のところはどうだ、英語の授業はどんな感じかと聞いてみたらそんなに日本と変わらず、他の科目同様に課題文読みながら先生が解説してくれるだけだそうです。ただ英語、というよりすべての科目についてもそうだと言い、基本的に高校の勉強は日本語で言う詰め込み型教育で応用が全くないとやや憤慨気味に述べてました。そのため英語については中国の大学生は受験知識は豊富でも会話となったらてんでお話にならないそうで、そんなに中国人は英語がしゃべれないと話していました。
 この点については私も深く同意するところで、このまえコーヒー用の砂糖を買いにスーパーに行ったら砂糖の発音をど忘れして、英語でSugerといっても店員には通用しませんでした。結局自分で見つけたけど。

 で、ここからが肝心ですが卒業後の進路についても聞いてみました。近年、日本は不況から新卒就職率がかつての就職氷河期を越えるほどの悪化の一途を辿っておりますが、実は中国の大学卒業者も就職先がなかなか見つからず実困る人が多いそうです。中国は経済成長しているからそうではないだろうと思われるかもしれませんがなんといっても母数の人口が桁外れであるがゆえに、全員に就職先が行き渡る事はほとんどないそうです。
 それでは今回インタビューをした彼女はどうだったのかというと、案外簡単に今の会社に決まったそうで、面接して三日後にすぐ内定もらえたと言っていました。中途だけど私なんか面接したその日にもらったが。

 ではほかの学生はどうかと聞くと、やはりそんなに就職活動がうまくいかずストレスを抱える学生が多いそうです。念のためほかの日本語学科の友達らはどうなったか聞いてみると、大学寮で同じ部屋(八人部屋)だった友達らは大概見つかったようで、勤務地はばらけて北京や上海といったところから内陸の河南省とか広州だったりと均一ではないそうです。
 ここまで聞いた上で、「嫌なら話さなくていい」と前置きした上で、その友達らの給料はどれくらいかと聞いてみました。これは婉曲的にインタビューを行っている彼女を含む大卒初任給について聞いているのですが案外素直に答えてくれて、確実にわかっているので月1500元(約19,400円)とか2000元(約24,000円)くらいだと教えてくれました。

 元々、中国の大卒初任給2000元前後と聞いていたので情報通りといえば情報通りですが、その一方で中国沿岸部の企業であればもう少し高いのではないかと内心考えていました。しかし実際には比較的生活費のかかる沿岸部でもこの金額とのことで、日本の大卒初任給と比べると為替格差もありますがやはりその少なさにはいろいろと考えさせられます。
 ちなみに日本人が中国に転職する場合、知識や経験なしである程度中国語が話せる人間の給料の相場は北京や上海だと大体8000元(96,000円)前後です。かつては日本語ネイティブなら引き手あまたで中国語もある程度できるのであれば20,000元の募集もざらだったそうですが、最近はおしなべて低くなって来ている傾向があります。それでもこのような一般の中国人社員の給料と比べると、ここまで差があるものかと感じざるを得ません。

 こんな具合でいろいろ話を聞いたのですが、最後に通っていた大学は地元出身者が多いのかと聞いた際に確かに同じ省出身者は多いが自分のように外から来る人もいると話したので、試しに都市戸籍か農村戸籍かと聞いてみたら以前は農民戸籍、つまり農村出身者だということを教えてくれました。前から田舎っぽい顔してるよなぁと思ってたので得心したわけですが、彼女によると大学に進学してくるのは農村出身者も少なくないそうです。

 また機会があれば彼女にほかにもいろいろ話を聞いてみたいと思うのですが、週末に例の京橋のキムタクと会う予定になっているのでそいつの話が先になるかもしれません。