人間、いろんなものを書いておくものだなぁと、今日は自分のブログを見るなり思いました。
・早稲田大学のつくば市風車裁判の判決
リンク先は2008年に書いたFC2の方の私のブログ記事ですが、今日ちょっとアクセスを見ていたらなんとこんな以前の記事にもかかわらず今日だけで二つも拍手コメントがついておりました。一体何故こんなことが起きたのかというと、今日このつくば市と早稲田大学の回らない風車についての裁判で二審判決が下りたというのが原因と見て間違いないでしょう。
・回らぬ風車、控訴審判決は「つくば市の過失が大」早大の賠償を減額(産経新聞)
詳しくは私の元の記事を読んでもらいたいのですが概要を簡単に説明すると、環境にいいエネルギーを作ろうってことでつくば市が早稲田大学に委託して風力発電が出来る風車を三億円も掛けて市内のあちこちに作らせたのですが、なんとこれが当初試算された発電量を得るどころか全然回らず、結局無駄金だけ使ってしまったので金返せとつくば市が早稲田に起こした裁判です。
一審ではつくば市の言い分が通って早稲田側に二億円の賠償金を課す判決が出たのですが、今日下りた二審では当初の試算を下回る発電量になることを市側も認識していたとして、前回は早稲田とつくば市の過失割合は七対三だったのが、今度の判決ではつくば市側の過失の方が重いとして見事にひっくり返り三対七とされ、早稲田側に課される賠償金額も二億円から約九千万円へと大幅に減額されました。(過失割合が一割増えるごとに約三千万円ほど上がる計算でしょうね)
きちんと裁判を傍聴せずにこんなこと言うのもなんですが、確かにつくば市も今回過失として指摘されたクリーンエネルギー事業をやると国から補助金が出るという話に飛びついたというのも不自然ではなく恐らくあったかと思いますが、それでも早稲田大学を上回る過失があったかといえば私はそれはやりすぎじゃないかと思います。仮に過失割合が五対五ならまだしも、書いた本人もすっかり忘れていましたが早稲田側はこの裁判の始まった当初にて、「試算された発電量は、作られた風車の三倍の大きさのものであった」と言っていた辺り、やっぱり私は早稲田側の過失の方が大きいように思います。これまた元の記事で書いていますが、作られた風車を早稲田の主張する三倍の大きさのものにすると羽の長さは約15メートルにも及び、これほど巨大な風車で試算をしたというのは苦し紛れの言い訳にしか聞こえません。こんなでかいの作って、マイクロウェーブでも受信するつもりなのか?
それにしても昔の記事がこんなことで日の目を見ることもあるんですね。去年に取り上げられた法人税についての記事でもそうですけど、これからももっとこういう風に過去の記事が日の目を浴びる機会が増えたらこの上ないのですが。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年1月20日水曜日
2010年1月19日火曜日
三国志の成り立ち その二
前回に引き続き三国志の成り立ちの話です。
さて前回では正史三国志の後に裴松之の「注三国志」が現れ三国時代の話がまとめられていったというところまで話しましたが、この注三国志には当時にまで伝えられていた様々な三国志に関連する書物が引用されており、その中には東晋時代にいた習鑿歯(しゅうさくし)の「漢晋春秋」という特筆すべき書物も入っておりました。この漢晋春秋が何故特筆すべきなのかというと、筆者の習鑿歯の先祖は陳寿同様に蜀に使えていた官僚で、そういった影響からか彼は自分の著作にて歴史上初めて魏ではなく蜀こそが正当な王朝であると主張したのです。
もっとも蜀を正当王朝とする意見はこの東晋時代には徐々に広まっており、当時の知識人らが残した日記においても三国志の講談をすると曹操が勝つ場面で聴衆はくやしがり、劉備が勝つ場面では喝采が集まったと記されております。ただこうした人物の選り好みや贔屓以上に、この時代の漢民族が置かれた状況が蜀正当論に拍車を掛けたのだろうという意見が現代では有力です。
ちょっとややこしい話になりますが三国時代が終わった後には晋という王朝が出来るのですが、この晋という王朝は出来るやすぐに激しい内乱が起こり、そこにつけこんだ北方異民族によってあっさりと中国の北半分を占領されて漢民族は南方へと追いやられてしまいます。中国史ではこの晋という王朝を南方へ追い込まれるまでを西晋と呼び、追い込まれてからは東晋として区別しているのですが、習鑿歯のいた東晋時代はそれまで中央文化圏であった北方地域が異民族に占領され、逆に蛮地とされていた南方地域に漢民族が住んでいた時代だったのです。
こうした時代背景ゆえに、北方地域を異民族が占領している中で三国時代にその地域を領有していた魏を正当王朝とすると当時の漢民族には具合が悪く、それよりもむしろ南方の蜀や呉を正当王朝とすることで自分達が現在置かれている状況でも正当性を保てることから蜀漢正当論が強まったとされております。無論これ以外にも曹操が恐怖政治に近い手法を取っていたのも影響しているでしょうが、基本的に私はこの意見に同感です。
さてそういったもんだから、注三国志以降はどれも蜀贔屓の三国志ばかりとなって行きます。注三国志のすぐ後に成立したであろう「世説新語」はまだ注三国志と似たような逸話集なのですが、元代に成立した小説の「新全相三国志平話」に至っては三国志演義以上に蜀中心に偏って書かれており、魏や呉の場面が極端に少なくなっております。また当時は小説に限らず三国志を題材にした講談も各所で行われ、こうした様々な文学的要素を下地にして作られたのが現在の我々が手に取る「三国志演義」というわけです。
三国志演義は元末から明初に羅貫中がそれまでに伝わっている話をまとめた小説で、一般に三国志の話と言われたら基本的にこの演義の話を指すほどスタンダードな代物となっております。ただこの演義はあまりにもスタンダード過ぎて実際の史実と脚色の演出部分がわかり辛く、清代の学者の章学誠に「七部が真実で三部が虚構。しばしば読者を混乱させる」と評されておりますがまさにその通りな代物です。
こうしてオーソドックスな三国志は完成を見るわけなのですが、もちろん日本人の我々には漢文で書かれた三国志を読めるわけではなく、訳本なりなんなりでなければ読むことは出来ません。余談ですがかつて高校で漢文マスターと呼ばれた上に中国語も習得したこの私ですら、内容もわかっているはずなのに三国志の原文を見てもさっぱり読めませんでした。
ではそんな日本人にとってのオーソドックスな三国志はというと、昭和期の作家の吉川英治氏の「三国志」がまさにこれに当たるでしょう。私が評するのもなんですがこの吉川英治版三国志というのは非常によく出来ており、日本人があまり好まない幽霊が出てくる場面や食人の場面をことごとくカットした上で丁寧に日本人に合わせて作られております。そんな吉川英治氏に続いて柴田連三郎氏、陳舜臣氏などもそれぞれの筆で三国志を書いておりますが、やはり吉川版には及ばないというのが実情ではないかと思います。
そんな吉川英治氏に次いで強い影響力を持っているのが、私の贔屓も入っていますが横山光輝氏による漫画版「三国志」でしょう。私もこの横山版三国志の一巻をゴミ捨て場で拾ったのが運の尽きで中国に留学するほどはまることとなったわけですが、あの膨大な内容の三国志を漫画化したというのは偉業以外の何者でもないでしょう。連載期間は15年間にも及びましたが、横山氏は途中からこのままでは書ききれないとして毎月100ページを執筆して連載を続けていたというのですから頭が下がります。
なおこれまた余談ですが、横山氏が当時連載していた雑誌が休刊してしまったせいで話が一度中断してしまい、そのせいで載るはずだった一回分の原稿が収録されずに終わってしまったことがあったそうです。その回を横山氏は官渡の戦いのあたりと述べていますが、実際にこの辺りを読み返すと程昱の十面埋伏の計、劉備の汝南の戦い、袁氏の滅亡といった過程がすっ飛ばされて一気に年代ジャンプしているのがわかります。
このほか三国志を取り扱った漫画は「蒼天航路」や「龍狼伝」などありますが、後者はもはやただのバトル漫画と化しているのであまり評価はしておりません。また漫画に限らず現代では私も頭がおかしくなるほど遊んだ光栄(現コーエー)の「信長の野望シリーズ」と並ぶシミュレーションゲーム「三国志シリーズ」、同じく光栄の「真三国無双シリーズ」も新たな三国志ファンの開拓に大きく貢献しているでしょう。
私がこの三国志に触れた小学生の頃、いつか三国志を題材に小説を書いてみせると北斗七星に誓いましたが、その日はまだまだ遠そうです。とはいえこうして三国志についてながなが書けるのだから、私のハマリ具合もまだまだ捨てたもんじゃないなと思います。
参考文献
三国志グラフィティ シブサワ・コウ編 光栄 1996年
さて前回では正史三国志の後に裴松之の「注三国志」が現れ三国時代の話がまとめられていったというところまで話しましたが、この注三国志には当時にまで伝えられていた様々な三国志に関連する書物が引用されており、その中には東晋時代にいた習鑿歯(しゅうさくし)の「漢晋春秋」という特筆すべき書物も入っておりました。この漢晋春秋が何故特筆すべきなのかというと、筆者の習鑿歯の先祖は陳寿同様に蜀に使えていた官僚で、そういった影響からか彼は自分の著作にて歴史上初めて魏ではなく蜀こそが正当な王朝であると主張したのです。
もっとも蜀を正当王朝とする意見はこの東晋時代には徐々に広まっており、当時の知識人らが残した日記においても三国志の講談をすると曹操が勝つ場面で聴衆はくやしがり、劉備が勝つ場面では喝采が集まったと記されております。ただこうした人物の選り好みや贔屓以上に、この時代の漢民族が置かれた状況が蜀正当論に拍車を掛けたのだろうという意見が現代では有力です。
ちょっとややこしい話になりますが三国時代が終わった後には晋という王朝が出来るのですが、この晋という王朝は出来るやすぐに激しい内乱が起こり、そこにつけこんだ北方異民族によってあっさりと中国の北半分を占領されて漢民族は南方へと追いやられてしまいます。中国史ではこの晋という王朝を南方へ追い込まれるまでを西晋と呼び、追い込まれてからは東晋として区別しているのですが、習鑿歯のいた東晋時代はそれまで中央文化圏であった北方地域が異民族に占領され、逆に蛮地とされていた南方地域に漢民族が住んでいた時代だったのです。
こうした時代背景ゆえに、北方地域を異民族が占領している中で三国時代にその地域を領有していた魏を正当王朝とすると当時の漢民族には具合が悪く、それよりもむしろ南方の蜀や呉を正当王朝とすることで自分達が現在置かれている状況でも正当性を保てることから蜀漢正当論が強まったとされております。無論これ以外にも曹操が恐怖政治に近い手法を取っていたのも影響しているでしょうが、基本的に私はこの意見に同感です。
さてそういったもんだから、注三国志以降はどれも蜀贔屓の三国志ばかりとなって行きます。注三国志のすぐ後に成立したであろう「世説新語」はまだ注三国志と似たような逸話集なのですが、元代に成立した小説の「新全相三国志平話」に至っては三国志演義以上に蜀中心に偏って書かれており、魏や呉の場面が極端に少なくなっております。また当時は小説に限らず三国志を題材にした講談も各所で行われ、こうした様々な文学的要素を下地にして作られたのが現在の我々が手に取る「三国志演義」というわけです。
三国志演義は元末から明初に羅貫中がそれまでに伝わっている話をまとめた小説で、一般に三国志の話と言われたら基本的にこの演義の話を指すほどスタンダードな代物となっております。ただこの演義はあまりにもスタンダード過ぎて実際の史実と脚色の演出部分がわかり辛く、清代の学者の章学誠に「七部が真実で三部が虚構。しばしば読者を混乱させる」と評されておりますがまさにその通りな代物です。
こうしてオーソドックスな三国志は完成を見るわけなのですが、もちろん日本人の我々には漢文で書かれた三国志を読めるわけではなく、訳本なりなんなりでなければ読むことは出来ません。余談ですがかつて高校で漢文マスターと呼ばれた上に中国語も習得したこの私ですら、内容もわかっているはずなのに三国志の原文を見てもさっぱり読めませんでした。
ではそんな日本人にとってのオーソドックスな三国志はというと、昭和期の作家の吉川英治氏の「三国志」がまさにこれに当たるでしょう。私が評するのもなんですがこの吉川英治版三国志というのは非常によく出来ており、日本人があまり好まない幽霊が出てくる場面や食人の場面をことごとくカットした上で丁寧に日本人に合わせて作られております。そんな吉川英治氏に続いて柴田連三郎氏、陳舜臣氏などもそれぞれの筆で三国志を書いておりますが、やはり吉川版には及ばないというのが実情ではないかと思います。
そんな吉川英治氏に次いで強い影響力を持っているのが、私の贔屓も入っていますが横山光輝氏による漫画版「三国志」でしょう。私もこの横山版三国志の一巻をゴミ捨て場で拾ったのが運の尽きで中国に留学するほどはまることとなったわけですが、あの膨大な内容の三国志を漫画化したというのは偉業以外の何者でもないでしょう。連載期間は15年間にも及びましたが、横山氏は途中からこのままでは書ききれないとして毎月100ページを執筆して連載を続けていたというのですから頭が下がります。
なおこれまた余談ですが、横山氏が当時連載していた雑誌が休刊してしまったせいで話が一度中断してしまい、そのせいで載るはずだった一回分の原稿が収録されずに終わってしまったことがあったそうです。その回を横山氏は官渡の戦いのあたりと述べていますが、実際にこの辺りを読み返すと程昱の十面埋伏の計、劉備の汝南の戦い、袁氏の滅亡といった過程がすっ飛ばされて一気に年代ジャンプしているのがわかります。
このほか三国志を取り扱った漫画は「蒼天航路」や「龍狼伝」などありますが、後者はもはやただのバトル漫画と化しているのであまり評価はしておりません。また漫画に限らず現代では私も頭がおかしくなるほど遊んだ光栄(現コーエー)の「信長の野望シリーズ」と並ぶシミュレーションゲーム「三国志シリーズ」、同じく光栄の「真三国無双シリーズ」も新たな三国志ファンの開拓に大きく貢献しているでしょう。
私がこの三国志に触れた小学生の頃、いつか三国志を題材に小説を書いてみせると北斗七星に誓いましたが、その日はまだまだ遠そうです。とはいえこうして三国志についてながなが書けるのだから、私のハマリ具合もまだまだ捨てたもんじゃないなと思います。
参考文献
三国志グラフィティ シブサワ・コウ編 光栄 1996年
2010年1月18日月曜日
三国志の成り立ち その一
折角先の記事にて、よりによってこの私に向かって三国志の正史と演義の区別もつかない奴だと妙なコメントした奴のことを晒したので、前から書こうと思っていた三国志の成り立ちについてここでご紹介します。
まず皆さん知っての通りに三国志というのは紀元後二世紀末から三世紀中盤までの間、三つの国(国号)が並立して存在していた中国の時代、またはそれを題材にした物語のことを指しております。この言葉の由来は三国時代の後に中国を統一した晋朝において、この時代の歴史書として晋朝の官僚であった陳寿によってまとめられた「三国志」という書物からつけられており、ほぼすべての三国志の物語はこの陳寿編纂による三国志を原典にしてあると言っても過言ではありません。なおこの陳寿の三国志は他の多くの三国志を題材にした物語らと区別するために、通常は「三国志正史」であったり、単純に「正史」と呼ばれております。
この三国志正史は純粋な紀伝体の歴史書で、他に確認する術はないですが三国志における歴史事実はすべてこれに準拠しているかどうかで史実であるかどうかが判断されております。また最近奈良県が卑弥呼の墓が見つかったとして最近えらく勢いづいていますが、この卑弥呼の邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」というのはこの三国志正史の中に収められている史料で、日本とも縁の深い史料でもあります。
ついでなのでここで書いておきますが、三国志の「志」の文字の意味は日本語みたいに意志とか志しを表す意味ではなく、単純に雑誌や週刊誌などの「誌」という本や史料といった意味を持っております。今でも中国語では雑誌のことを「雑志」という風に書きます。「雑」の字は簡体字になるけど。
話は戻りこの正史三国志の評価ですが、全般的に記事が簡略でよくまとめられていることから他の史料と比較しても高い評価を受けております。また作者の陳寿は元々は蜀の官僚であったにもかかわらず魏を正当王朝として書いていることも公平性が高いと言われておりますが、この点は書かせたのが魏を継承した晋朝なのですから当たり前といえば当たり前ですが。
ただそんな陳寿の正史三国志にも一つだけ大きくケチがつけられる点があり、それは何を隠そう三国志における最重要人物といっていい諸葛亮孔明にについてやや冷淡に書いている点です。陳寿は諸葛亮の項目において、
「内政、外交といった方面においてよく事を熟知していたが、長らく魏との戦乱でついに勝利を得ることが出来なかったのは応変な戦術に欠けるところがあったからだろう」
と、政治家としては一流でも軍略家としては二流だったとまとめております。
同時代の他の人物が遺した史料などでも当時からすでに諸葛亮の神格化とも言うべき高評価がされていたことがわかる中、この陳寿の評価はそれらとは一線を画す異彩を放つ評価です。この点については様々な意見が交わされていますが、こうした周囲に囚われない冷静な評価が三国志正史における公平性を証明しているなどともいわれております。
こうしてすべての原典の正史三国志は成立したわけなのですが、実は現代の我々が見聞きする大部分の三国志の逸話はこの中には収められておりません。特に最も割りを食っているのは蜀の趙雲で、彼の記述については長坂破で劉備の息子の阿斗を救ったとだけしか書かれておらず、小説「三国志演義」にて書かれている彼のスーパー超人ばりの活躍は皆無に等しいです。
ではそういった話はどこから補填されていったのかですが、実はここからが本当の話のミソで、原典の「正史三国志」から我々が一般に見聞きする小説の「三国志演義」が成立するまでの過程には実に様々な三国志が他にもあるのです。
そういった三国志を補填していった史料の中で代表的とも言える第一弾というのも、南北朝時代の宋朝の官僚であった裴松之(はいしょうし)によって編纂された「注三国志」です。業界用語ではこの史料のことを編纂者から「裴注」と読んでおりますが、これは陳寿の三国志正史を含め当時までに様々な形で伝えられていた三国志について書かれた書物を綿密にまとめ上げ、原典の記述の正誤を判断するとともに異説、別説も併記しており、物語としての三国志演義の成立に正史以上に貢献しているだろうと言われております。
ちなみにこの裴注で取り上げられている異説の中には、裴松之自身も信頼度は低いとしながらも、終盤で蜀を裏切って粛清にあった魏延の方が先に蜀の楊儀らに裏切られたという話も載せられています。
思っていた以上に力が入ってきたので、続きはまた次回にて。
まず皆さん知っての通りに三国志というのは紀元後二世紀末から三世紀中盤までの間、三つの国(国号)が並立して存在していた中国の時代、またはそれを題材にした物語のことを指しております。この言葉の由来は三国時代の後に中国を統一した晋朝において、この時代の歴史書として晋朝の官僚であった陳寿によってまとめられた「三国志」という書物からつけられており、ほぼすべての三国志の物語はこの陳寿編纂による三国志を原典にしてあると言っても過言ではありません。なおこの陳寿の三国志は他の多くの三国志を題材にした物語らと区別するために、通常は「三国志正史」であったり、単純に「正史」と呼ばれております。
この三国志正史は純粋な紀伝体の歴史書で、他に確認する術はないですが三国志における歴史事実はすべてこれに準拠しているかどうかで史実であるかどうかが判断されております。また最近奈良県が卑弥呼の墓が見つかったとして最近えらく勢いづいていますが、この卑弥呼の邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」というのはこの三国志正史の中に収められている史料で、日本とも縁の深い史料でもあります。
ついでなのでここで書いておきますが、三国志の「志」の文字の意味は日本語みたいに意志とか志しを表す意味ではなく、単純に雑誌や週刊誌などの「誌」という本や史料といった意味を持っております。今でも中国語では雑誌のことを「雑志」という風に書きます。「雑」の字は簡体字になるけど。
話は戻りこの正史三国志の評価ですが、全般的に記事が簡略でよくまとめられていることから他の史料と比較しても高い評価を受けております。また作者の陳寿は元々は蜀の官僚であったにもかかわらず魏を正当王朝として書いていることも公平性が高いと言われておりますが、この点は書かせたのが魏を継承した晋朝なのですから当たり前といえば当たり前ですが。
ただそんな陳寿の正史三国志にも一つだけ大きくケチがつけられる点があり、それは何を隠そう三国志における最重要人物といっていい諸葛亮孔明にについてやや冷淡に書いている点です。陳寿は諸葛亮の項目において、
「内政、外交といった方面においてよく事を熟知していたが、長らく魏との戦乱でついに勝利を得ることが出来なかったのは応変な戦術に欠けるところがあったからだろう」
と、政治家としては一流でも軍略家としては二流だったとまとめております。
同時代の他の人物が遺した史料などでも当時からすでに諸葛亮の神格化とも言うべき高評価がされていたことがわかる中、この陳寿の評価はそれらとは一線を画す異彩を放つ評価です。この点については様々な意見が交わされていますが、こうした周囲に囚われない冷静な評価が三国志正史における公平性を証明しているなどともいわれております。
こうしてすべての原典の正史三国志は成立したわけなのですが、実は現代の我々が見聞きする大部分の三国志の逸話はこの中には収められておりません。特に最も割りを食っているのは蜀の趙雲で、彼の記述については長坂破で劉備の息子の阿斗を救ったとだけしか書かれておらず、小説「三国志演義」にて書かれている彼のスーパー超人ばりの活躍は皆無に等しいです。
ではそういった話はどこから補填されていったのかですが、実はここからが本当の話のミソで、原典の「正史三国志」から我々が一般に見聞きする小説の「三国志演義」が成立するまでの過程には実に様々な三国志が他にもあるのです。
そういった三国志を補填していった史料の中で代表的とも言える第一弾というのも、南北朝時代の宋朝の官僚であった裴松之(はいしょうし)によって編纂された「注三国志」です。業界用語ではこの史料のことを編纂者から「裴注」と読んでおりますが、これは陳寿の三国志正史を含め当時までに様々な形で伝えられていた三国志について書かれた書物を綿密にまとめ上げ、原典の記述の正誤を判断するとともに異説、別説も併記しており、物語としての三国志演義の成立に正史以上に貢献しているだろうと言われております。
ちなみにこの裴注で取り上げられている異説の中には、裴松之自身も信頼度は低いとしながらも、終盤で蜀を裏切って粛清にあった魏延の方が先に蜀の楊儀らに裏切られたという話も載せられています。
思っていた以上に力が入ってきたので、続きはまた次回にて。
2010年1月17日日曜日
人口減の何が問題なのか
Sophieさんの「フランスの日々」をこのところ見ていると、なんかしつこく面倒そうなコメントをしている人がよくやってきていて傍目にも大変そうに映ります。私のブログではあんまりそういう変なコメントは少ないですけど、記事の内容にあまり関係なく感情的にただ賤しめるだけのコメントとか来るとやはり頭に来るものです。
折角ですので一つ晒すと、出張所の方の「私選、三国志名場面トップ3」という記事にて、特に記事中では言及していませんが小説の三国志演義の名場面をピックアップしているのに何故か、「正史を知らんな。いつもの悪い癖?話にならん。」という、勝手に正史準拠だと決め付けてコメントしたこのbuteiという人にはこんな読解力もない人間でも文字の読み書きは出来るんだと、怒りを通り越して笑っちゃいました。ちなみにこの記事で挙げた三つの場面は、正史でも演義でも大差ない場面です。
逆に辛らつなコメントでもそれが非常に的を得ている、私が見落としている内容の指摘である場合は逆にうれしく感じます。ブログ上だけではありませんが、実際の議論でも人を批判する際に落ち着いて着実なことを指摘する人はこちらからの意見にもよく聞く耳を持ってくれる人が多いのですが、その逆の批判をする際に入れなくてもいい罵倒語を必ず入れる人ってのはあまり関わっても得るものが少ないです。
そういったことはさておき、このところのSophieさんのこれからの日本について提起している記事に寄せられているコメントにてよく、「日本は少子化だから駄目だ」、「人口減の中でそんなうまくいかない」などという意見がよく目に付きます。
この人口減という言葉ですが、結論から述べると私はこれは世間で言われているほど日本の国力、というよりは日本人の未来を削いでしまう原因ではないと前から考えています。そうは言っても人口が減れば税収は減るし、年金制度は成り立たなくなるし、働き手もいなくなるじゃないかとみなさん思われるかも知れません。
しかしここで冷静に考えてください。人口が減るということはその人口を支えるために必要な作業、資金、人員の数も同時に減るということです。一例を挙げると一億人の社会の人口を支えるために必要になる食糧生産量は、人口が半減するとそのまま必要な量も半減します。同様に介護に必要な人員、年金制度維持に必要な税収も半分になり、人口が減ること即すべてが成り立たなくなるという意味ではありません。
しかしそうは言っても今の日本は急激な少子化社会で、これまで勤労者十人で一人の老人の年金を支えていたのに対してこのまま行くと勤労者二人で一人の老人の年金を支えなければならなくなるので、日本人一人当たりの負担が大きくなるというのは事実です。しかしこれなんか自分も結構調べましたが、団塊の世代に当たる1946年から1948年生まれの人口が今の日本の中で突出しており、言い方は悪いですがこれらの方が年金を受け取り始めて亡くなられるまでの受給期間を乗り越えさえすれば日本の人口ピラミッドの構造は大分改善されます。因みに平均寿命を80歳とするとその乗り越えねばならない期間は2011年から2028年の18年間です。
私は以前からそういう風に考えており、いわばこの18年間をどうやり過ごすか、この間のみ時限立法のようにして新たな税金を徴収したり基金を積み立てさえすれば最悪の事態は避けえたのではないかと考えていました。
しかし現実はというと、この年金の問題が大きく取り扱われるようになった2004年から6年経った今でも、なんら制度の改革や対策は打たれませんでした。
ここで今日二つ目の結論ですが、日本の人口減が何故ここまで大きな問題になったのかというと、政府がこういう風に少子化になっていく傾向が明らかにわかっていたにもかかわらず、そのような社会に対応した制度へとなんら改正せずに元の制度を維持し続けていたから問題になっているのです。言ってしまえばそもそもの少子化対策も90年代初期にはこのままじゃまずいとわかっていたはずなのに、今の今までこれという少子化対策がなされてきませんでした。また年金制度についても、早くからとっかかっていればどうとでもなんとでも対応はまだ効きました。つまり人口減自体が問題ではなく、その傾向に対して何の対策もせずに放っていた政府が一番問題なのだと私は言いたいのです。
さらに言うと日本政府、というより官庁は90年代からほぼ一貫して日本の経済力が毎年5%前後成長することを前提にしてこの様な制度を作り、維持し続けてきました。しかしのっけから日本の経済成長はそんな5%はおろかマイナス成長する年もあり、そうした低成長時代もまるきり想定されておりません。
こうした問題は現在進行形でまだ続いており、手を打つのが遅ければ遅いほど傷口が広がっていく問題です。更にここで思い切って対策を打とうとしても、すでに国債が山と詰まれた現状では十年前、二十年前と比べると使える手段の幅も大きく狭められているのも事実です。
基本的に世の中というものは単純な図式を求めたがるもので、この問題も「日本の社会が悪いのは少子化、人口が減っているからだ」、という意見がわかりやすくて単純なもんだからあちこちで飛び交っているのでしょうが、一体これらがどのようにして社会に悪影響を与えるのかきちんと認識しておく必要があるでしょう。また政府の、「日本が駄目なのは少子化のせいだから、もっと子供を生めよ増やせよ」という意見に対して、「日本が駄目なのは少子化に対応する政策を作れない政府が悪い」と言い返す態度も時には必要かと思います。
補足
人口が減る場合、その当該社会の中はともかく外国との通商が絡むとGDPが下がるので国力が落ちるのは事実です。日本は食糧を海外から調達しているのでその点ではちょっと弱くはなりますが、その分自給率を上げるなどといった対策で人口減社会に対応はまだ可能だと私は思います。
折角ですので一つ晒すと、出張所の方の「私選、三国志名場面トップ3」という記事にて、特に記事中では言及していませんが小説の三国志演義の名場面をピックアップしているのに何故か、「正史を知らんな。いつもの悪い癖?話にならん。」という、勝手に正史準拠だと決め付けてコメントしたこのbuteiという人にはこんな読解力もない人間でも文字の読み書きは出来るんだと、怒りを通り越して笑っちゃいました。ちなみにこの記事で挙げた三つの場面は、正史でも演義でも大差ない場面です。
逆に辛らつなコメントでもそれが非常に的を得ている、私が見落としている内容の指摘である場合は逆にうれしく感じます。ブログ上だけではありませんが、実際の議論でも人を批判する際に落ち着いて着実なことを指摘する人はこちらからの意見にもよく聞く耳を持ってくれる人が多いのですが、その逆の批判をする際に入れなくてもいい罵倒語を必ず入れる人ってのはあまり関わっても得るものが少ないです。
そういったことはさておき、このところのSophieさんのこれからの日本について提起している記事に寄せられているコメントにてよく、「日本は少子化だから駄目だ」、「人口減の中でそんなうまくいかない」などという意見がよく目に付きます。
この人口減という言葉ですが、結論から述べると私はこれは世間で言われているほど日本の国力、というよりは日本人の未来を削いでしまう原因ではないと前から考えています。そうは言っても人口が減れば税収は減るし、年金制度は成り立たなくなるし、働き手もいなくなるじゃないかとみなさん思われるかも知れません。
しかしここで冷静に考えてください。人口が減るということはその人口を支えるために必要な作業、資金、人員の数も同時に減るということです。一例を挙げると一億人の社会の人口を支えるために必要になる食糧生産量は、人口が半減するとそのまま必要な量も半減します。同様に介護に必要な人員、年金制度維持に必要な税収も半分になり、人口が減ること即すべてが成り立たなくなるという意味ではありません。
しかしそうは言っても今の日本は急激な少子化社会で、これまで勤労者十人で一人の老人の年金を支えていたのに対してこのまま行くと勤労者二人で一人の老人の年金を支えなければならなくなるので、日本人一人当たりの負担が大きくなるというのは事実です。しかしこれなんか自分も結構調べましたが、団塊の世代に当たる1946年から1948年生まれの人口が今の日本の中で突出しており、言い方は悪いですがこれらの方が年金を受け取り始めて亡くなられるまでの受給期間を乗り越えさえすれば日本の人口ピラミッドの構造は大分改善されます。因みに平均寿命を80歳とするとその乗り越えねばならない期間は2011年から2028年の18年間です。
私は以前からそういう風に考えており、いわばこの18年間をどうやり過ごすか、この間のみ時限立法のようにして新たな税金を徴収したり基金を積み立てさえすれば最悪の事態は避けえたのではないかと考えていました。
しかし現実はというと、この年金の問題が大きく取り扱われるようになった2004年から6年経った今でも、なんら制度の改革や対策は打たれませんでした。
ここで今日二つ目の結論ですが、日本の人口減が何故ここまで大きな問題になったのかというと、政府がこういう風に少子化になっていく傾向が明らかにわかっていたにもかかわらず、そのような社会に対応した制度へとなんら改正せずに元の制度を維持し続けていたから問題になっているのです。言ってしまえばそもそもの少子化対策も90年代初期にはこのままじゃまずいとわかっていたはずなのに、今の今までこれという少子化対策がなされてきませんでした。また年金制度についても、早くからとっかかっていればどうとでもなんとでも対応はまだ効きました。つまり人口減自体が問題ではなく、その傾向に対して何の対策もせずに放っていた政府が一番問題なのだと私は言いたいのです。
さらに言うと日本政府、というより官庁は90年代からほぼ一貫して日本の経済力が毎年5%前後成長することを前提にしてこの様な制度を作り、維持し続けてきました。しかしのっけから日本の経済成長はそんな5%はおろかマイナス成長する年もあり、そうした低成長時代もまるきり想定されておりません。
こうした問題は現在進行形でまだ続いており、手を打つのが遅ければ遅いほど傷口が広がっていく問題です。更にここで思い切って対策を打とうとしても、すでに国債が山と詰まれた現状では十年前、二十年前と比べると使える手段の幅も大きく狭められているのも事実です。
基本的に世の中というものは単純な図式を求めたがるもので、この問題も「日本の社会が悪いのは少子化、人口が減っているからだ」、という意見がわかりやすくて単純なもんだからあちこちで飛び交っているのでしょうが、一体これらがどのようにして社会に悪影響を与えるのかきちんと認識しておく必要があるでしょう。また政府の、「日本が駄目なのは少子化のせいだから、もっと子供を生めよ増やせよ」という意見に対して、「日本が駄目なのは少子化に対応する政策を作れない政府が悪い」と言い返す態度も時には必要かと思います。
補足
人口が減る場合、その当該社会の中はともかく外国との通商が絡むとGDPが下がるので国力が落ちるのは事実です。日本は食糧を海外から調達しているのでその点ではちょっと弱くはなりますが、その分自給率を上げるなどといった対策で人口減社会に対応はまだ可能だと私は思います。
2010年1月16日土曜日
何故今の若者は指示待ち型なのか
もしかしたらずっと以前からも同じことが言われ続けているのかもしれませんが、現代の若者はよく上司からの指示を待つだけで自分から率先して動こうとせず、指示待ち型、もしくはあらかじめ手順が決められた行動を欲しがるマニュアル型の人間が多いという言葉をよく聞きます。結論から言うと私はこれらの意見に対し、やっぱり一若者として納得いかない点も少なくなく、そこまで言われる筋合いはないと言い返したい気持ちが強くあります。
まず率先する行動力がないと言われる点ですが、私の方からするとたとえそれが状況の好転につながることがはっきりわかっているとしても、勝手な行動一つ取ろうものなら上下左右のオールレンジから集中砲火を食らって叱られる、注意されるからそうならざるを得ないというのが実情かと思われます。実際に私も幾度かそういう体験をしておりますが、その際に言われたのは、「今回はたまたまうまくいっただけだ。二度とこんな勝手な真似はするな!」でした。そのくせ、「ちゃんと自分で考えて行動しろ。いちいち指示を待ってるんじゃない!」とも言われるのだから正直たまったものじゃなかったですけど。
そういった個人的な話は置いといて、では何故今の若者は上の世代から見てそういったマニュアル型の人間が多くなったのかについてこの前考えたのですが、細かい理由はいくつか挙がってくるもののこれという決め手にかける理由がなかなか見つかりませんでした。そこでちょっと発送を転換して逆にマニュアルに沿うことが強く求められている現場や社会性はないのかと考えたら、浮かんできたのが近年増えている中学受験、並びに大学受験でした。
これなんか私が子供の頃によく言われてた言葉ですが、いい学校に受かっていい大学に行けばいい人生を送れる、だから何も考えず親の言うことにしたがって勉強しろ、と。
別に私に限らずとも、少なくとも90年代の間はいい大学を卒業すれば大企業に入れるというマニュアル通りの人生をみんな多かれ少なかれ信じていたと思います。もっとも就職氷河期に突入した今では当座の生活をどうするかにみんな目がいっているのか、近年の進学先は実家から通える範囲の地元の大学というのが多いそうですが。
言ってしまえば、大人がいい大学に行けば大企業に入れるというマニュアルに沿ったライフコースを信じ、子供にそれを歩むことを課していたのではないかと思います。そうして育った子供が大人になったのが現代で、いわばマニュアル型の若者を作っていたのはほかならぬその子供の親こと現代の若者より上の世代なのではないかと考えたわけです。
昔、「学歴なんて関係ない。東大に行って言ってみたい」というクズなキャッチコピーで宣伝していた予備校がありましたが、就職難の時代ゆえに現代ではある意味でそんな状況に近くなってきた気がします。その一方で大企業に入るためにはやはり学歴は重視される傾向はまだ残っているそうですし、一体何を信じたらいいのかが難しい世の中でもあります。
折しも今日は大学入試センター試験日でしたが、今の受験生達が社会に出る頃には私も覇気がない奴らだと言ってしまうのかもしれません。
まず率先する行動力がないと言われる点ですが、私の方からするとたとえそれが状況の好転につながることがはっきりわかっているとしても、勝手な行動一つ取ろうものなら上下左右のオールレンジから集中砲火を食らって叱られる、注意されるからそうならざるを得ないというのが実情かと思われます。実際に私も幾度かそういう体験をしておりますが、その際に言われたのは、「今回はたまたまうまくいっただけだ。二度とこんな勝手な真似はするな!」でした。そのくせ、「ちゃんと自分で考えて行動しろ。いちいち指示を待ってるんじゃない!」とも言われるのだから正直たまったものじゃなかったですけど。
そういった個人的な話は置いといて、では何故今の若者は上の世代から見てそういったマニュアル型の人間が多くなったのかについてこの前考えたのですが、細かい理由はいくつか挙がってくるもののこれという決め手にかける理由がなかなか見つかりませんでした。そこでちょっと発送を転換して逆にマニュアルに沿うことが強く求められている現場や社会性はないのかと考えたら、浮かんできたのが近年増えている中学受験、並びに大学受験でした。
これなんか私が子供の頃によく言われてた言葉ですが、いい学校に受かっていい大学に行けばいい人生を送れる、だから何も考えず親の言うことにしたがって勉強しろ、と。
別に私に限らずとも、少なくとも90年代の間はいい大学を卒業すれば大企業に入れるというマニュアル通りの人生をみんな多かれ少なかれ信じていたと思います。もっとも就職氷河期に突入した今では当座の生活をどうするかにみんな目がいっているのか、近年の進学先は実家から通える範囲の地元の大学というのが多いそうですが。
言ってしまえば、大人がいい大学に行けば大企業に入れるというマニュアルに沿ったライフコースを信じ、子供にそれを歩むことを課していたのではないかと思います。そうして育った子供が大人になったのが現代で、いわばマニュアル型の若者を作っていたのはほかならぬその子供の親こと現代の若者より上の世代なのではないかと考えたわけです。
昔、「学歴なんて関係ない。東大に行って言ってみたい」というクズなキャッチコピーで宣伝していた予備校がありましたが、就職難の時代ゆえに現代ではある意味でそんな状況に近くなってきた気がします。その一方で大企業に入るためにはやはり学歴は重視される傾向はまだ残っているそうですし、一体何を信じたらいいのかが難しい世の中でもあります。
折しも今日は大学入試センター試験日でしたが、今の受験生達が社会に出る頃には私も覇気がない奴らだと言ってしまうのかもしれません。
2010年1月15日金曜日
石川知裕議員の逮捕と田中角栄の言葉
いつも電車に乗っている間にその日のブログに書く内容を決めているのですが、今日は何を書こうか、また「時間の概念」の続きでも書こうかとあらかじめ考えていたものの、夜になってまたアクセス数を稼げそうなニュースが入ってきてしまいました。
・石川知裕議員を逮捕 4億円不記載 東京地検特捜部(産経新聞)
上記ニュースで報じられているように、かねてから持たれていた小沢氏の秘書時代に提出されていた政治資金収支報告書の収入不記載疑惑から、石川知裕議員が今夜東京地検によって逮捕されました。この石川議員、並びに小沢一郎民主党幹事長の疑惑については私もこれまで何度か記事にして状況を追ってきていたので、まずはこれまでの記事のリンクを貼っておきます。
・小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について
・小沢一郎政治団体、家宅捜索について
簡単におさらいすると、この事件は小沢氏の政治団体「陸山会」がかつて購入した四億円の土地の購入経緯について、その購入資金の出所がはっきりしなかったことから当時小沢氏の秘書であった石川議員などへも疑惑が持たれ、ゼネコン(鹿島建設)からの献金で購入したのではないかと現在は主に報じられています。
しかし私の予想はというと、もちろんゼネコンからの献金もあったのかもしれませんが、それ以上にこの購入資金の出所とされている小沢氏の財布に何故それほどの資金をぽんと出せたかに注目しており、それは文芸春秋一月号にて報じられたようにかつて小沢氏が率いていた自由党が国から受け取っていた政党助成金をまんま着服していたのではないかと見ております。この政党助成金の着服について詳しくは上記の「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」の記事を読んでもらいたいのですが、先日に放送されたテレビ朝日の「テレビタックル」にて三宅久之氏もこの記事について言及しており、藤井裕久前財務省の突然の辞任はこの小沢氏の政党助成金の着服にあたり迂回ルートとして藤井氏の口座が使われていたことが原因だろうと述べていましたが、三宅氏が言うほどなのだからと私もちょっと自信を持ちました。
今回の石川氏の逮捕理由についてテレビや新聞はやはり鹿島建設との絡みの疑惑と報じていますが、私は鹿島建設の問題はあくまで入り口こと突破口で、検察の本当の狙いはやはり先程の政党助成金の着服の件だと思います。あまり知りもしないでいろいろ言うべきではないのですが、今月の文芸春秋に載ってある石川議員の元秘書の金沢敬氏のインタビュー記事を見る限りだと石川議員は性格的にやや軽いきらいがあり、おまけにすぐ動揺する素振りもあるので検察にしめられたら案外すぐに全部吐くんじゃないかと思います。
それにしてもこの一連の事件で私がつくづく感じたのは、どうして小沢氏はここまで資金集めに執心したのだろうかということです。もちろんお金はあって困るものじゃないし、将来どんな風に政治が展開するかもわからないのだから集めておくに越したことはありませんが、小沢氏ほど名の知られた政治家であれば普通に議員活動を行っていく上で資金に困ることはないだろうし、今回のゼネコンからの献金といい政党助成金の件といい、あの手この手でここまで資金を集める必要は正直な所なかったのではないかという気がします。
私が思うに、小沢氏のこうしたある種の政治資金への異常な執心癖は彼の父親代わりだった田中角栄元首相の影響によるものではないかと思います。言うまでもなく田中角栄も政治資金集めにおいてやや常軌を逸しているかのようなほど執心し、各ゼネコンや団体から献金を受け付けるのは当然であの手この手でそれこそ金の亡者の如くかき集めておりましたが、ついにはそれが自らの仇となってロッキード事件での逮捕によって自らの政治生命を大きく縮めてしまいました。
ただ田中角栄はこの自身の執心癖をいくらか自覚していた節があり、田中角栄の政治秘書をやっていた鳩山邦夫氏が佐野眞一氏によるインタビューにおいてこんなことを述べています。
なんでも当時秘書をしていた邦夫氏に対して田中角栄は今のうちに自分を反面教師としてよく見ておけといったそうなのですが、当時は田中角栄の人気も絶頂の頃で、一体どこを反面教師にするところがあるのですかと邦夫氏が聞くと、
「俺はこの地位に来るまで相当無理をしてきた。苦労は重ねた方がいいとは言うが、無用な苦労は重ねないに越したことはないんだ。そういうところをちゃんと見ておけ」
こうしたやり取りのあった後にロッキード事件が起こり、邦夫氏はこの事件を目にしてあの時の言葉はまさにこのことを指していたのではないかと佐野氏に話しています。
ちょっと解説を加えておくと、要するに田中角栄は自身が政界でのし上がるためにあの手この手、違法合法を問わずに資金をかき集めて見事総理の椅子を射止めましたが、そうした行為がいつかは自分の命取りになることが自身でもわかっており、今もいろいろ騒がせている鳩山家という資金に苦労しない出自の邦夫氏にはそうやって無理して資金集めに奔走するなと言い聞かせたということです。
なかなか含蓄のある教えでこれ以上ない反面教師と言えるのですが、惜しむらくは田中角栄はこの教訓を教える相手を間違えていたということです。田中角栄は自分の早死にした息子と出生年が同じだったことから特に小沢氏を可愛がっていたそうで、小沢氏も竹下派クーデターの際に裏切りますが、それまでは非常に慕って文字通り親子同然の仲だったそうです。
そんな関係だった小沢氏が民主党が与党についてからというものは影で政権を操る闇将軍と呼ばれ、権力絶頂のこの時期にまさに第二のロッキード事件とも呼べるような疑惑が持ち上がっているのは一つの歴史の巡り合せかもしれません。
最後にすでに四日前の記事ですが、松浪健四郎氏が小沢氏を評している記事があるので紹介しておきます。なかなか読んでてなるほどと思わせられるところがあるので、興味のある方は是非一読をお勧めします。それにしてもこの人って、ポツリと面白いことを語ることが多いな。
・【松浪健四郎が語る】(3完)小沢氏は「和製金正日」(産経新聞)
参考文献
「鳩山一族 その金脈と血脈」 佐野眞一著 文春新書
・石川知裕議員を逮捕 4億円不記載 東京地検特捜部(産経新聞)
上記ニュースで報じられているように、かねてから持たれていた小沢氏の秘書時代に提出されていた政治資金収支報告書の収入不記載疑惑から、石川知裕議員が今夜東京地検によって逮捕されました。この石川議員、並びに小沢一郎民主党幹事長の疑惑については私もこれまで何度か記事にして状況を追ってきていたので、まずはこれまでの記事のリンクを貼っておきます。
・小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について
・小沢一郎政治団体、家宅捜索について
簡単におさらいすると、この事件は小沢氏の政治団体「陸山会」がかつて購入した四億円の土地の購入経緯について、その購入資金の出所がはっきりしなかったことから当時小沢氏の秘書であった石川議員などへも疑惑が持たれ、ゼネコン(鹿島建設)からの献金で購入したのではないかと現在は主に報じられています。
しかし私の予想はというと、もちろんゼネコンからの献金もあったのかもしれませんが、それ以上にこの購入資金の出所とされている小沢氏の財布に何故それほどの資金をぽんと出せたかに注目しており、それは文芸春秋一月号にて報じられたようにかつて小沢氏が率いていた自由党が国から受け取っていた政党助成金をまんま着服していたのではないかと見ております。この政党助成金の着服について詳しくは上記の「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」の記事を読んでもらいたいのですが、先日に放送されたテレビ朝日の「テレビタックル」にて三宅久之氏もこの記事について言及しており、藤井裕久前財務省の突然の辞任はこの小沢氏の政党助成金の着服にあたり迂回ルートとして藤井氏の口座が使われていたことが原因だろうと述べていましたが、三宅氏が言うほどなのだからと私もちょっと自信を持ちました。
今回の石川氏の逮捕理由についてテレビや新聞はやはり鹿島建設との絡みの疑惑と報じていますが、私は鹿島建設の問題はあくまで入り口こと突破口で、検察の本当の狙いはやはり先程の政党助成金の着服の件だと思います。あまり知りもしないでいろいろ言うべきではないのですが、今月の文芸春秋に載ってある石川議員の元秘書の金沢敬氏のインタビュー記事を見る限りだと石川議員は性格的にやや軽いきらいがあり、おまけにすぐ動揺する素振りもあるので検察にしめられたら案外すぐに全部吐くんじゃないかと思います。
それにしてもこの一連の事件で私がつくづく感じたのは、どうして小沢氏はここまで資金集めに執心したのだろうかということです。もちろんお金はあって困るものじゃないし、将来どんな風に政治が展開するかもわからないのだから集めておくに越したことはありませんが、小沢氏ほど名の知られた政治家であれば普通に議員活動を行っていく上で資金に困ることはないだろうし、今回のゼネコンからの献金といい政党助成金の件といい、あの手この手でここまで資金を集める必要は正直な所なかったのではないかという気がします。
私が思うに、小沢氏のこうしたある種の政治資金への異常な執心癖は彼の父親代わりだった田中角栄元首相の影響によるものではないかと思います。言うまでもなく田中角栄も政治資金集めにおいてやや常軌を逸しているかのようなほど執心し、各ゼネコンや団体から献金を受け付けるのは当然であの手この手でそれこそ金の亡者の如くかき集めておりましたが、ついにはそれが自らの仇となってロッキード事件での逮捕によって自らの政治生命を大きく縮めてしまいました。
ただ田中角栄はこの自身の執心癖をいくらか自覚していた節があり、田中角栄の政治秘書をやっていた鳩山邦夫氏が佐野眞一氏によるインタビューにおいてこんなことを述べています。
なんでも当時秘書をしていた邦夫氏に対して田中角栄は今のうちに自分を反面教師としてよく見ておけといったそうなのですが、当時は田中角栄の人気も絶頂の頃で、一体どこを反面教師にするところがあるのですかと邦夫氏が聞くと、
「俺はこの地位に来るまで相当無理をしてきた。苦労は重ねた方がいいとは言うが、無用な苦労は重ねないに越したことはないんだ。そういうところをちゃんと見ておけ」
こうしたやり取りのあった後にロッキード事件が起こり、邦夫氏はこの事件を目にしてあの時の言葉はまさにこのことを指していたのではないかと佐野氏に話しています。
ちょっと解説を加えておくと、要するに田中角栄は自身が政界でのし上がるためにあの手この手、違法合法を問わずに資金をかき集めて見事総理の椅子を射止めましたが、そうした行為がいつかは自分の命取りになることが自身でもわかっており、今もいろいろ騒がせている鳩山家という資金に苦労しない出自の邦夫氏にはそうやって無理して資金集めに奔走するなと言い聞かせたということです。
なかなか含蓄のある教えでこれ以上ない反面教師と言えるのですが、惜しむらくは田中角栄はこの教訓を教える相手を間違えていたということです。田中角栄は自分の早死にした息子と出生年が同じだったことから特に小沢氏を可愛がっていたそうで、小沢氏も竹下派クーデターの際に裏切りますが、それまでは非常に慕って文字通り親子同然の仲だったそうです。
そんな関係だった小沢氏が民主党が与党についてからというものは影で政権を操る闇将軍と呼ばれ、権力絶頂のこの時期にまさに第二のロッキード事件とも呼べるような疑惑が持ち上がっているのは一つの歴史の巡り合せかもしれません。
最後にすでに四日前の記事ですが、松浪健四郎氏が小沢氏を評している記事があるので紹介しておきます。なかなか読んでてなるほどと思わせられるところがあるので、興味のある方は是非一読をお勧めします。それにしてもこの人って、ポツリと面白いことを語ることが多いな。
・【松浪健四郎が語る】(3完)小沢氏は「和製金正日」(産経新聞)
参考文献
「鳩山一族 その金脈と血脈」 佐野眞一著 文春新書
2010年1月14日木曜日
朝日新聞のこんにゃくゼリー報道について
今日は夕食時に朝日新聞の朝刊と夕刊を合わせて読んでいたのですが、夕刊の一言コラム「素粒子」にてハイチで起こった大地震について言及してあり、同じく地震国である日本も救援に手を貸すべきだという意見が挙げられていました。型通りといえば型通りの意見ですがちょうど十五年前のこの時期に阪神大震災が起きたことを思い出すといろいろ考えさせられ、いつもとんちんかんなことを言ってるけどたまにはやるじゃんとすこし感心しました。
そのままの勢いで朝刊も手に取りまず社説面に目をやると、性同一性障害から性別を女性から男性へと変えた夫と妻が第三者からの精子提供による人工授精で産んだ子が嫡出子として認められなかった問題を取り上げており、今後嫡出子として認められるように方針を変えていくといった千葉法相を大きく持ち上げる内容が書かれていました。この問題も内容の割にはあまり大きく報じられていない気がしたので、なかなかいいところをついているように感じました。
こんな具合で今日の朝日新聞は手放しでいい内容だったとまとめられるかと思っていたのですが、社会面にてこんな見出しの記事があるのを見て一変しました。
「こんにゃくゼリー危険度 餅に次ぐ事故頻度と推測」
当初の朝日新聞のネット配信の記事では、「こんにゃくゼリー 事故頻度、アメと同等 食品安全委」という見出しだったのですが、一体どこをどう間違えてこんな風に変わってしまったのかいろいろと残念でなりません。
いちいち説明するまでもないですが、このニュースの内容はそれぞれの食品の喉を詰まらせる頻度を分析した所、最も喉を詰まらせる食べ物が餅だとわかり、その他の食品の頻度とまとめると以下のようであったと報じられています。なおこの頻度は一億人が一口食べるとして、喉を詰まらせて窒息死する人数として計測されています。
・餅:7.6人
・アメ:2.6人
・こんにゃくゼリー:0.33人
・パン:0.25人
・肉類:0.15人
こうやって並べるとこんにゃくゼリーは喉を詰まらせない食べ物だと十分に言えそうなのですが、さすがは食品安全委員会というか、「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」という項目をわざわざ用意しており、こちらの頻度は、「最大で5.9人」であるとして、餅に次ぐ危険度だとまとめられています。
こういうのもなんですが、これは明らかな統計トリックです。私自身も過去に幾度かこの様な処理をして都合のいい統計データを出していたから言えるのですが、この調査自体がこんにゃくゼリーを悪者にしようとしてなされている可能性すらあります。
まず問題なのは「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」とありますが、一体どこからどこまでをこの枠に収めているのかという定義が見当たりません。場合によっては「ゼリー状の物質」ということで固形シャーベットも含まれているかもしれませんし、第一こんにゃくゼリーの危険度を測るのであれば0.33人というデータだけで十分でこんなわけのわからない項目を用意する必要もありません。
そして極め付けが、これは朝日新聞の記事中の記述ですので答申で出したのかまではわかりませんが、「最大で5.9人」というこの記述です。最大というからには最低は一体どの程度なのか、そもそも最大と最低って結果に幅があるのかということになってしまいます。
おそらくこれは「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」の項目に含める食品の適用範囲が、幾段か設けられているのかと思います。適用範囲が広けりゃ頻度も上がるのは当たり前で、そうやって幅のある統計を作っておくとイザって時にいい逃げ道になります。
そうした記事中の内容もさることながら、見出しにおいても「アメと同程度」と書くにしろ「餅に次ぐ」と書くにしろ、どちらも誤解を招きかねないようなひどい見出しです。アメの頻度が2.6人に対してこんにゃくゼリーは0.33で、どうしてこれが同程度なのか、むしろパンの0.25人の方が絶対値的に近いのではと考えさせられます。
さらに「餅に次ぐ」に至っては明らかに数値に隔たりがあり、恐らく「こんにゃく入り以外も含めたゼリー」の頻度に対して言っているのかと思いますが、それでもこの見出しだとこんにゃくゼリー単体が餅と同じくらい喉に詰まらせてしまうと普通に読んだら思うでしょう。
それにしても朝日新聞はどうして記事中の内容、執筆者は同じなのにネットと紙面で見出しを変えたのかがかえって気になります。なおこの件でネットで検索をかけたら先に読売新聞の方が引っかかり、こっちも同じ見出しですが記事の内容はさらに薄くてより悪質です。
・こんにゃく入りゼリー「餅に次ぐ窒息事故頻度」
かばうつもりではないですが、こんにゃくゼリーを販売しているマンナンライフはこんなに官民揃って叩かれるなんて、なにか恨みでも買ったのでしょうかね?
そのままの勢いで朝刊も手に取りまず社説面に目をやると、性同一性障害から性別を女性から男性へと変えた夫と妻が第三者からの精子提供による人工授精で産んだ子が嫡出子として認められなかった問題を取り上げており、今後嫡出子として認められるように方針を変えていくといった千葉法相を大きく持ち上げる内容が書かれていました。この問題も内容の割にはあまり大きく報じられていない気がしたので、なかなかいいところをついているように感じました。
こんな具合で今日の朝日新聞は手放しでいい内容だったとまとめられるかと思っていたのですが、社会面にてこんな見出しの記事があるのを見て一変しました。
「こんにゃくゼリー危険度 餅に次ぐ事故頻度と推測」
当初の朝日新聞のネット配信の記事では、「こんにゃくゼリー 事故頻度、アメと同等 食品安全委」という見出しだったのですが、一体どこをどう間違えてこんな風に変わってしまったのかいろいろと残念でなりません。
いちいち説明するまでもないですが、このニュースの内容はそれぞれの食品の喉を詰まらせる頻度を分析した所、最も喉を詰まらせる食べ物が餅だとわかり、その他の食品の頻度とまとめると以下のようであったと報じられています。なおこの頻度は一億人が一口食べるとして、喉を詰まらせて窒息死する人数として計測されています。
・餅:7.6人
・アメ:2.6人
・こんにゃくゼリー:0.33人
・パン:0.25人
・肉類:0.15人
こうやって並べるとこんにゃくゼリーは喉を詰まらせない食べ物だと十分に言えそうなのですが、さすがは食品安全委員会というか、「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」という項目をわざわざ用意しており、こちらの頻度は、「最大で5.9人」であるとして、餅に次ぐ危険度だとまとめられています。
こういうのもなんですが、これは明らかな統計トリックです。私自身も過去に幾度かこの様な処理をして都合のいい統計データを出していたから言えるのですが、この調査自体がこんにゃくゼリーを悪者にしようとしてなされている可能性すらあります。
まず問題なのは「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」とありますが、一体どこからどこまでをこの枠に収めているのかという定義が見当たりません。場合によっては「ゼリー状の物質」ということで固形シャーベットも含まれているかもしれませんし、第一こんにゃくゼリーの危険度を測るのであれば0.33人というデータだけで十分でこんなわけのわからない項目を用意する必要もありません。
そして極め付けが、これは朝日新聞の記事中の記述ですので答申で出したのかまではわかりませんが、「最大で5.9人」というこの記述です。最大というからには最低は一体どの程度なのか、そもそも最大と最低って結果に幅があるのかということになってしまいます。
おそらくこれは「こんにゃく入り以外を含めたゼリー」の項目に含める食品の適用範囲が、幾段か設けられているのかと思います。適用範囲が広けりゃ頻度も上がるのは当たり前で、そうやって幅のある統計を作っておくとイザって時にいい逃げ道になります。
そうした記事中の内容もさることながら、見出しにおいても「アメと同程度」と書くにしろ「餅に次ぐ」と書くにしろ、どちらも誤解を招きかねないようなひどい見出しです。アメの頻度が2.6人に対してこんにゃくゼリーは0.33で、どうしてこれが同程度なのか、むしろパンの0.25人の方が絶対値的に近いのではと考えさせられます。
さらに「餅に次ぐ」に至っては明らかに数値に隔たりがあり、恐らく「こんにゃく入り以外も含めたゼリー」の頻度に対して言っているのかと思いますが、それでもこの見出しだとこんにゃくゼリー単体が餅と同じくらい喉に詰まらせてしまうと普通に読んだら思うでしょう。
それにしても朝日新聞はどうして記事中の内容、執筆者は同じなのにネットと紙面で見出しを変えたのかがかえって気になります。なおこの件でネットで検索をかけたら先に読売新聞の方が引っかかり、こっちも同じ見出しですが記事の内容はさらに薄くてより悪質です。
・こんにゃく入りゼリー「餅に次ぐ窒息事故頻度」
かばうつもりではないですが、こんにゃくゼリーを販売しているマンナンライフはこんなに官民揃って叩かれるなんて、なにか恨みでも買ったのでしょうかね?
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