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2010年1月18日月曜日

三国志の成り立ち その一

 折角先の記事にて、よりによってこの私に向かって三国志の正史と演義の区別もつかない奴だと妙なコメントした奴のことを晒したので、前から書こうと思っていた三国志の成り立ちについてここでご紹介します。

 まず皆さん知っての通りに三国志というのは紀元後二世紀末から三世紀中盤までの間、三つの国(国号)が並立して存在していた中国の時代、またはそれを題材にした物語のことを指しております。この言葉の由来は三国時代の後に中国を統一した晋朝において、この時代の歴史書として晋朝の官僚であった陳寿によってまとめられた「三国志」という書物からつけられており、ほぼすべての三国志の物語はこの陳寿編纂による三国志を原典にしてあると言っても過言ではありません。なおこの陳寿の三国志は他の多くの三国志を題材にした物語らと区別するために、通常は「三国志正史」であったり、単純に「正史」と呼ばれております。

 この三国志正史は純粋な紀伝体の歴史書で、他に確認する術はないですが三国志における歴史事実はすべてこれに準拠しているかどうかで史実であるかどうかが判断されております。また最近奈良県が卑弥呼の墓が見つかったとして最近えらく勢いづいていますが、この卑弥呼の邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」というのはこの三国志正史の中に収められている史料で、日本とも縁の深い史料でもあります。
 ついでなのでここで書いておきますが、三国志の「志」の文字の意味は日本語みたいに意志とか志しを表す意味ではなく、単純に雑誌や週刊誌などの「誌」という本や史料といった意味を持っております。今でも中国語では雑誌のことを「雑志」という風に書きます。「雑」の字は簡体字になるけど。

 話は戻りこの正史三国志の評価ですが、全般的に記事が簡略でよくまとめられていることから他の史料と比較しても高い評価を受けております。また作者の陳寿は元々は蜀の官僚であったにもかかわらず魏を正当王朝として書いていることも公平性が高いと言われておりますが、この点は書かせたのが魏を継承した晋朝なのですから当たり前といえば当たり前ですが。
 ただそんな陳寿の正史三国志にも一つだけ大きくケチがつけられる点があり、それは何を隠そう三国志における最重要人物といっていい諸葛亮孔明にについてやや冷淡に書いている点です。陳寿は諸葛亮の項目において、

「内政、外交といった方面においてよく事を熟知していたが、長らく魏との戦乱でついに勝利を得ることが出来なかったのは応変な戦術に欠けるところがあったからだろう」

 と、政治家としては一流でも軍略家としては二流だったとまとめております。
 同時代の他の人物が遺した史料などでも当時からすでに諸葛亮の神格化とも言うべき高評価がされていたことがわかる中、この陳寿の評価はそれらとは一線を画す異彩を放つ評価です。この点については様々な意見が交わされていますが、こうした周囲に囚われない冷静な評価が三国志正史における公平性を証明しているなどともいわれております。

 こうしてすべての原典の正史三国志は成立したわけなのですが、実は現代の我々が見聞きする大部分の三国志の逸話はこの中には収められておりません。特に最も割りを食っているのは蜀の趙雲で、彼の記述については長坂破で劉備の息子の阿斗を救ったとだけしか書かれておらず、小説「三国志演義」にて書かれている彼のスーパー超人ばりの活躍は皆無に等しいです。
 ではそういった話はどこから補填されていったのかですが、実はここからが本当の話のミソで、原典の「正史三国志」から我々が一般に見聞きする小説の「三国志演義」が成立するまでの過程には実に様々な三国志が他にもあるのです。

 そういった三国志を補填していった史料の中で代表的とも言える第一弾というのも、南北朝時代の宋朝の官僚であった裴松之(はいしょうし)によって編纂された「注三国志」です。業界用語ではこの史料のことを編纂者から「裴注」と読んでおりますが、これは陳寿の三国志正史を含め当時までに様々な形で伝えられていた三国志について書かれた書物を綿密にまとめ上げ、原典の記述の正誤を判断するとともに異説、別説も併記しており、物語としての三国志演義の成立に正史以上に貢献しているだろうと言われております。
 ちなみにこの裴注で取り上げられている異説の中には、裴松之自身も信頼度は低いとしながらも、終盤で蜀を裏切って粛清にあった魏延の方が先に蜀の楊儀らに裏切られたという話も載せられています。

 思っていた以上に力が入ってきたので、続きはまた次回にて。

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