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2010年5月19日水曜日

就活期の早期化と大学教育、及び私の体験

<就職活動>「授業より就活」 3年秋に始動、4年秋以降の内定も(毎日新聞)

 今に始まった事でもないし以前にも似たような事を書きましたが、今日また新しいニュースが出たのでもう一度この問題を取り上げておこうと思います。
 上記リンクに貼ったニュースは企業の新卒大学生採用選考時期、大学生の側からすれば就活時期が年々早まり、かつては四回生の秋からだったものが今では三回生の夏からスタートで一般化した事により、就活に時間を取られる学生が授業に出席しなくなって大学教育の本質が失われてきているという内容のニュースです。

 近年に就職活動をやった経験のある人間なら話は早いのですが、現在大半の企業で採用内定を出すのはゴールデンウィーク前となっており、実質就職活動はその前の春休みが本番です。仮にゴールデンウィーク前に内定が取れれば四回生の一年間は比較的自由に行動が出来ますが、それまでに内定が取れない学生となるとそれ以降も延々と就職活動をせざるを得ず、本来ならば卒業論文などにもボツボツ取り組まなければならないにもかかわらず、余計に授業やゼミに出席できなくなって学業でも就職でもどんどんと追い込まれていきます。特にリーマンショック以降はどこも採用を減らしたので、このような悪循環に陥る学生はかつてないほど多くなっていると見て間違いないでしょう。

 この問題で誰が一番悪いかと言えば、それはやっぱり採用日程を早めた企業側です。大企業などは三回生の夏休みから自分ところのインターンシップに参加する学生を集めて青田刈りを行おうとするなどしてますますこの動きに拍車をかけていますし、他の一般企業も遅れまいと、まるでチキンゲームのように新人研修をしている横で採用面接をやっているのが当たり前となってきました。普通に考えるなら、人事部は採用選考と新人研修の時期を分けた方が効率的だというのに。

 このように就活時期が90年代の頃より早まっている事について、以前に読んだ評論では現在の大学生は実質的には三年間しか自由がなく、またようやく自分で勉強、研究が出来るようになってくる時期に学問の機会が奪われているという指摘がありました。実際に私の周りでも、それまで遊び回ってた連中が四回生になってからもっと勉強しておきたかったと言う人間が増えてきました。まぁ夏休み終了前に、「ちゃんと宿題しとけばよかった(´Д⊂)」というの一緒だろうけど。

 あまりグダグダ話すのもあれなので私の就活の実体験をここで話すと、やはり企業に対して納得いかない思いが強かったです。普通の学生は三回生の12月位から企業訪問を本格的に始めるのですが、私は就職のためではなく勉強するために大学に進学したのだという自負があったので敢えて三回生の後期テストが終わる二月までは一切そういう活動は行いませんでした。そしたらそしたで、二月以降から就活を始めたと言うとどこの企業の面接官も、「君、遅いねぇ」と私に言うので、「それ以前からやっている奴は勉強もまともにしないクズです」と言い返したかったです。

 しょっぱなからこんな感じなので、私が就活をした年は「かつてない売り手市場」と言われていたにもかかわらず私は激しく苦戦しました。しかも私の場合、就活真っ只中の4月に突然肺に穴が空き(自然気胸という病気。痩せ型の若い男しかならない)、手術をして約二週間も入院したためにその間の面接や説明会も全部キャンセルする事態となりました。
 なおこの時、病院と通っていた大学が近かったために医師に頼み込んで一部の重要な授業には病院から直接通わせてもらいました。その際には肺に溜まった空気を抜くために、胸に突き刺している管を紙袋に入れた小さなポンプと接続させたまま外出して授業を受けましたが、今思うと結構グロいし、あそこまで無茶しなくてもという気もします。幸い、周りにはばれなかったけど。

 こんな思いを経て退院後もあれこれ就職口を捜しましたが殆んどどこからも相手にされず、合計するとシャレや冗談じゃなく100社以上から不採用通知を受けました。さすがにうちの広島に左遷された親父も見かねて大学院への進学を勧めてくれましたが、これ以上は両親に迷惑を掛けられないために歯を食いしばって探し続け、最終的には今勤務している会社に七月に内定を貰いました。その間、登録してある授業はほぼ100%の出席率で出続けております。

 このような自分の体験があるだけに、当時は企業の採用選考のスタートが四回生の10月からであればと何度も思いました。途中にも書きましたが、今の就活のシステムだと授業やテストなどをほっぽり出したり、要領よく単位を取ろうとする学生ほど得をするシステムで、真面目に授業に出ようとすればするほど馬鹿を見るようでなりません。頑張る事、真面目にやる事の意義がこれでは見出せず、また大学の存在価値自体も揺るがしかねません。

 ではこのチキンゲームの様相をなしている新卒採用選考をどうすればいいかですが、この際法律で強制的な措置をするのが一番いい気がします。そもそも内定自体が法的根拠が何もなくて近年流行している「内定切り」という問題もあるのですから、大学生の採用選考は卒業後でなければならないなどと法制化してしまったほうが全体の利益に適うかと思います。

  おまけ
 私がこの就活期の苦労を話しつつ、ちょっと得意になって中国語も使えるのにここまでむげにされなくてもと友人に話した所、「花園君みたいな危険思想を持った奴なんて、どこも取りたがらないよ」と言われて、何も言い返せなかった事があります。

  おまけ2
 私がなかなか内定が取れない頃、就活状況を聞いてきた当時授業に出ていたロシア語の講師に話をした所、「当たり前じゃん。だってあんた、愛想がないもの(・∀・)」と言われました。この発言には周りの学生もドン引きして、
「せ、先生、何もそこまで言わなくとも(;´Д`)」
「何言ってんのよ。あたしらの世界でこれは誉め言葉よ。あんたもそう思うでしょ!( ゚Д゚)」
「え、えぇ、まぁ……(´A` )」
 という会話がありました。確かにいつもだったら「愛想がない」と言われても誉め言葉として私は受けるのですが、この時は弱ってただけに内心胸にきました。

2010年5月18日火曜日

今日のニュースの雑感

 今週に入ってから慢性的に頭痛に悩まされているので、どうもブログの方も力を入れた記事が書き辛くなっております。ちょうど今日はいろいろと個人的に注目するニュースが集中したので、一つ一つ短い雑感を集める事で終えようと思います

朝日新聞阪神支局襲撃“実行犯”名乗った男性自殺? 北海道で白骨化(産経新聞)
 私もかつて「週刊新潮、赤報隊事件の犯人手記について」の記事で取り上げましたが、この一連の週刊新潮の誤報記事にて当初朝日新聞阪神支局を襲った犯人だと自称していた島村征憲が北海道で自殺していたそうです。この時の週刊新潮の編集長はこの誤報を流した事が原因となって左遷となりましたが、この元編集長には人間一人自殺に追い込むだけの報道価値はあったのかと直接聞いて見てやりたいです。

公務員採用削減再び見送り 官房長官は21日の閣議決定目指す(産経新聞)
 こちらも先日に関連する「国家公務員、採用半減指示について」という記事を書いたばかりですが、なんでも鳩山首相を初めとしてこの国家公務員の来年度以降の新規採用を半減かする案に対して省庁側は抵抗をし続けているそうですが、それを今週中になんとしてでも閣議を通過させようというのがリンクに貼ったニュースです。この記事では総務省がまとめた具体的な削減案もかかれており、引用させてもらうと、

「(1)I種(キャリア)とII種は2割抑制(2)地方の出先機関職員などは8割抑制(3)国税調査官や刑務官など専門職種は5割抑制」

 だそうで、私が見た朝日新聞の記事ではI種の採用数は前年度維持だったのですがこっちでは二割抑制となっています。ただそれ以上に気になったのは、「国勢調査間や刑務間など専門職種は5割抑制」の部分で、鳩山首相が毎年実母から1500万もの金額を贈与されていたのを国税庁が見逃していたという事を考えると、ここは減らす所じゃなくて増やす所じゃないかとついつい口に出して突っ込んでしまいました。

小沢氏、再度不起訴へ=週内にも最終協議―陸山会虚偽記載・東京地検(時事通信)
 細かい内容をすっ飛ばして結論を述べると、今回小沢氏を検察が起訴しなければタイミング的には参議院選挙直前の七月にまた検察審査会が起訴相当の議決を採り、小沢氏に強制起訴がなされる可能性があります。検察の捜査というのは本来有権者に影響を与えないように選挙前などを避けなければならないのですが、今回の起訴見送りが悪手にならない自信があるのか詳しく聞いて見たいものです。

一定地域内の全頭処分を検討、口蹄疫で官房長官表明 首相、政府対応の問題認める(産経新聞)
 あまりこの口蹄疫という感染症に対して詳しくないためにこれまで発言は控えてきましたが、現時点まで色々情報を集めて私が言いたいのは、民主党は恥を知れ、という一点に尽きます。民主党は政府の対応に問題はなかった等と抗弁していますが政治は過程ではなく結果しか求められない世界で、頑張っているのだから許してくれなんて言う事自体聞いてて反吐が出ます。
 特に本来この問題の最高責任者であるはずの赤松農水大臣は口蹄疫の発症が報告されていたにもかかわらず外遊に出かけ、今も現地宮崎県に足を踏み入れていないという事実には閉口する以外なにも出来ず、過激なことを書きますがたとえこの人が誰かに刺されたとしても私は同情をしないでしょうし、この問題の対策速度に変化も起きないと思います。

2010年5月17日月曜日

土曜授業復活の是非

 一昨日の朝日新聞朝刊にて、土曜授業の復活するべきかどうかについて陰山英男氏と本田由紀氏がそれぞれ賛成と反対の立場で意見を寄せておりました。
 それぞれの意見を要約すると、陰山氏は子供の学力は授業時間を増やせば必ずしも高まるものではなく、むしろ陰山氏が導入して効果を上げた百マス計算などといった教え方の比重の方が影響力が高いとして、現状でも授業時間外にも授業準備などの仕事をしなければならない教師から更に時間を奪ったりせずに授業内容の効率化、充実化を図っていくべきだとして土曜授業の復活に反対でした。

 それに対して本田氏は、国際学力調査で高い成績を収めたフィンランドは今の日本以上に小学校の授業時間数が少なく、こちらも授業時間数が必ずしも学力向上に直結するわけではないとしながらも、土曜授業がなくなったかわりに現在は平日の授業時間数が増加したためにかえって教師の負担は大きくなっていると指摘しております。その上で土曜授業を復活させる一方、もっと教員の数を増やして交代で休暇がとれるような仕組みを作って授業の充実化を図って行くべきではないかと提案しておりました。

 双方の意見を読んだ私の感想はと言うと、どちらの意見にも納得させられる部分が多くてなかなか考えさせられることの多い内容でした。どちらも授業時間数の増加よりも授業内容の充実こそが子供の学力向上につながるとしながらも、教師の意欲や体力を高めるのは週休二日制がいいのか週休一日制がいいのかという点で意見が分かれております。

 実際に私の目から見ても確かに現代の教師の仕事は大変そうで、かつてあった半ドンの土曜日授業は今の公立校にはないものの、部活動の顧問をしている教師は今でもたとえ休みの土日であろうと学校に来て指導などしなくてはなりません。また夏休みなど長期休暇が教師にはあるとかつては言われましたが、最近は世間の目も厳しくなって無理矢理にでも補習、補講授業を夏休みに開校しては出勤させられるようになって来ているそうです。

 またタイムリーな事に先月友人と久々に母校の中学に毛沢東Tシャツを着て行ってみたのですが、土曜にも関わらず職員室を覗くと知っている教師らはほぼ出揃っており、教師たちは土曜授業があろうとなかろうと変わらないんじゃないのかと改めて感じました。
 そういう意味で今回の論者二人の言うように教師の休暇の取り方、休み方についてはもう少し考えるべきであり、予算的に可能であるならば本田氏の主張するように教員数を増やしてローテーションで休みを取れるような仕組みを作るのがいいかと思います。

 最後に私の子供時代の話をすると、ちょうど私はこの土曜休日化の移行期に当たって学年が上がるごとに土曜日授業が減って行きました。しかし当時の私達小学生からしても、確かに土曜日が休みになってくれるのは満更ではなかったものの、午前中で授業が終わって午後に遊びに行けるというあの解放感はなかなか捨てがたい物があると子供ながらにみんなで言い合っていました。今の子供達は土曜の半ドン授業が復活したら、どう思うんだろう。

2010年5月16日日曜日

ストレスは敵なのか?

 以前に読んだ事のある評論文でこんな実験が紹介されていました。実験内容は透明な水槽を二つ用意して、片方にはAという魚、もう片方にはその魚を主に捕食する、言わばAの天敵となるBという魚を入れて、それぞれの水槽を隣り合わせて配置しながら観察したそうです。もちろん水槽が別々なのでAが捕食されるという事はありえないのですが、透明な水槽のためにAは常に自分の天敵を近くで見ている事になり、意図的にストレスを与えながら生活させるとどのような変化が起こるかを調べて見たそうです。
 そうして観察を続けてみるとなんとAの魚は平均的な寿命の三倍も生存し続けたそうで、この実験結果から研究者は、ある程度のストレスは細胞やその他諸々の器官を活性化させる可能性があるのではとまとめたそうです。

 この実験を引用しながら論者は、一般にストレスは社会生活上でマイナスの効果しか引き起こさないと思われがちだが、過剰なストレスならともかく一定度のストレスは身体に対して好影響を与える要素の方が強いとまとめ、その一つの例として元オリックスの清原選手を引き合いに出していました。清原選手は最初に在籍していた西武時代には巨人に行きたいという強い願望(=ストレス)があったがゆえに立派な打撃成績も挙げることが出来たが、巨人に移籍した後はその願望が達成されてしまったがために西武時代ほどの成績を途端にあげることができなくなったのではないかと述べていました。

 清原選手の例が正しいかどうかはともかくとして、この話を一読した私はなんとなく、この論者の言わんとするストレスというのは「プレッシャー」とも言い換える事が出来るのではないかと感じました。もちろんどっちの言葉を使ってもいいのですが、どちらも心的圧迫感を表現する言葉ながらストレスでは負の意味、プレッシャーは負と正の意味を両方兼ね備えているように思います。ほんとどっちだっていいんだけど。

 話は戻りストレスについてですが、やっぱり一般社会では「ストレスは敵だ」、「ストレスをなくそう」という言葉があちこちで言われるほど世間ではストレスは嫌われていますが、私もこの論者同様にストレスは必ずしも敵ではないと考えております。私自身の体験で言えば全くストレスがない状態だった頃、だらけた生活もいい所と思うほどに行動に能動さがなくなり、何かしら小説なり文章なりを書こうと思っても時間があるにもかかわらず実行に移せない日々が続きました。
 それに比して現在は明らかにそのストレスのない時代に比べて自分の周囲の環境や余暇に使える時間的余裕が悪化しているにもかかわらず、当時の自分じゃ決してなし得ないほどの膨大な文章量を毎日このブログで更新し続けております。よく「忙中、閑あり」とは言いますが、あながち間違っていない気がします。

 もちろんうつ病を発症させるような過剰なストレス環境は間違いなく問題ですが、そうでなくてややうっとうしいと思う程度のストレスであれば、そのストレスが全くない状態より人間はかえって能動的に、人間らしく生きていけるのではないかと思います。程度的には、「かったるくて、やってらんねぇよ(´Д`)」と思いつつも毎日それなりに生活していける位が適量ではないかと見ていますが、「このままじゃ、死んじゃう(ノД`)」と思うほどなら明らかに過剰なので無理せずに休んだ方がいいと思います。

 ここで終えても全く問題はないのですが敢えてここで社会学的な発想をすると、今の日本はあまりにもストレスを敵視するあまりにかえってストレスに対する耐性を自ら弱めているのではないかとも感じます。ここら辺は渡辺淳一氏の主張する「鈍感力」にも関連してきますが気にしなくてもいいものまで気にしてしまうと無駄に疲れてしまうようなもので、うつ病を引き合いに出すと、「こんなにストレスを抱えてれば、うつ病になるんじゃ(>'A`)>」という風に無駄な不安を覚えて、自ら追い込む事でうつ病になってしまうという例も実際によく聞きます。

 ではこのような自己暗示的なうつ病を回避するためには何がいいのかと言えば、先程の鈍感力を養うという方法と、ストレスを如何に味方に付けるかだと私は思います。スポーツの世界ではプレッシャーを如何に自分の力にするかというトレーニング方法があると聞きますがそれと同じ事で、自分にかかる心的圧力を、「これだけ期待されているんだ」、「チームにとって自分はなくちゃならないんだ」というように前向きに捉えることで通常時よりもより大きな貢献ができるようになる、所謂大舞台に強い選手となることができるそうです。

 なので今日の内容をまとめると、「ストレスは敵だ」とは言わず、「ストレスは敵にも味方にもなる。お前次第でな」というのが、私の意見というわけです。

2010年5月15日土曜日

最強の指揮官と最強の兵士

 中学生くらいの頃、よく私は将来の自分の育成方針を決めるに当たり、最強の指揮官を目指すのか、それとも最強の兵士とならんとするのかを考えていました。はっきり言って誇大妄想も激しいと言えばそうなのですが、三国志に熱中していた時期もあって自分をどのようなタイプの人材として訓練を積んで行くのかをこの時期にいろいろと考えていました。

 最強の指揮官というのは言うまでもなく組織の指揮、運営を管理するタイプの人材で、三国志で言うなら諸葛亮のようなタイプで、このタイプの人材は手持ちの部下をどのように配置して動かし、また全体の動きの把握に務める事が主な仕事となります。翻って最強の兵士というのは、三国志で極端なものを挙げると張飛みたいなタイプで何も考えず猪突猛進に与えられた仕事を確実にこなすような人材で、それぞれの担当分野の能力をひたすら磨く事が主眼となってきます。

 もちろんどちらか片一方に特化する必要はなく、それこそこれまた三国志で言うなら関羽みたいに両方の役割をある程度兼任できるような人材を目指してもよいのですが、指揮官か兵士のどっちにより比重を加えて自らを磨くとすればどっちだろうかと考えたわけです。私はすでに当時から何かしら文章を書く事で、それもジャーナリズム関係で生計を立てて生きたいと考えており、その業界で指揮官となると編集者、もしくは企業運営者こと社長になり、兵士となるとそのまんま記者か作家になって来ます。

 本音で言えば前線でひたすら戦うだけの記者を目指すだけで十分だろうと考えたのですが、現時点でもそうですが日本の教育は全体的にスペシャリストばかりを育成したがっており、周りを見ても全体を見渡せるだけのジェネラリストとなれるような同世代の人間が見当たらず将来的にこの方面の人材が不足して行くことが目に見えていました。そこで当時はまだ愛国心も強かったがゆえに私は、「国の穴を埋めるのだ!ヽ( ゚д゚)ノ」とばかりに、本音とは逆にジェネラリストたらんと自分の育成方針を定める事にしました。

 といっても特別に何かをするというわけではなく何事に関しても自分とは関係ないと言って切り捨てたりせずに何にでも手を出して勉強していこうと決めただけでしたが、その後の進学先も社会学という専門のしばりが緩い学部で、前にも書きましたが文系学問なら法学以外はそこそこ手を出してやっていたので方針通りのコースを歩んできたと思います。あいにく出版業界には就職は適いませんでしたがこうしていまいち専門範囲のわからないブログを三年近く運営できている辺り、自分を意図した育成方針通りに育てられたという自負があります。

 しかしそんな風に育った今においても、未だに私は最強の兵士への思いを捨てきれているわけではありません。またまた三国志で言うなら諸葛亮を目指すのも満更ではないのですが、やっぱり前線の将軍ながらも臨機応変に対応できてひょっとしたら指揮官でも十分にやれたんじゃないかという趙雲のような人材が私にとっては理想です。

2010年5月14日金曜日

少数精鋭は成り立つのか?

 よく事業に行き詰って人員の少なくなっていく企業ほど、「うちは少数精鋭だからな」などと強がりますが、果たして本当に少数精鋭というのは成り立つのでしょうか。精鋭というと確かに聞こえは良いのですが、戦争などをするに当たってやはり数は多いに越したことがなく、シミュレーションゲームの「信長の野望シリーズ」などでも兵数は質が低かろうが多い方がやはり優位に事を運べることが多いです。
 しかし私が知る中で、この少数精鋭主義を実際に実行して大きな成功を納めた人物が一人おります。その人物は誰かというと、ほかならぬ秦の始皇帝です。

 始皇帝がまだ中国を統一しておらず秦王だった頃、ある日自国の将軍に対して今いる60万の兵を三分の一の20万にまで減らせと命令しました。この命令を受けた将軍は戸惑い、どうして兵力をわざわざ減らすようなことをするのかと始皇帝に聞き返した所、秦国は土地が痩せているため常に兵糧の確保が難しく、役にも立たない雑兵を多く飼っておくよりは精鋭を選り抜いて兵力を削減した方がいいと始皇帝は答えました。
 それでしぶしぶこの将軍も兵力の削減、今風に言うならリストラを推し進めた所、なんと新たに編成された精鋭部隊はそれまでいくら攻めても全く落ちなかった隣国の城を次々と落とすようになり、編成を行った将軍も驚くほどの成果を直ちに挙げるようになったのです。

 この始皇帝のリストラがどこでも通用するというわけではないですが、秦の土地が痩せていた、元々の兵隊がそこそこ強かった、などという当時の秦の状況を鑑みるなら実に的を得た決断だったと私も思えます。ただこの急激なリストラ策は多くの反発者も生み、異を唱えたがために始皇帝に処刑されかけた秦のある将軍は燕国に逃亡して後にあの有名な始皇帝暗殺計画に加担するようになるなど、円満にこのリストラが進められたというわけではありません。それだけ始皇帝の改革や決断がドラスティックだったというわけで、あの広い中国(今の中国に比べりゃ狭いけど)を始めて統一しただけはあります。

 余談ですが私は高校時代に文化祭で出し物をやろうと企画して賛同者を広く募ったのですが、今思いだすと頭数を無理に揃える位ならしっかりと信頼の出来る人間数人とだけ組んでやっとけばよかったと思うほど、引っ張っていく途中で散々な目に遭いました。恐らく私の生まれ育った年代も関係しているでしょうが、やはり私は組織というものはフットワークの軽い小さな少数精鋭組織の方が上手く回るんじゃないかと思います。公務員が嫌いってのも影響しているでしょうが。

 なお今日取り上げた始皇帝ですが、現在ヤングジャンプで連載中の「キングダム」という漫画がまさにこの時代の秦を描いており、中国史好きもあって面白く読ませてもらっております。この漫画は登場人物が着る衣装から時代背景、戦闘の描写などが細かく、どうしてこんな漫画家が今まで日の目を浴びてこなかったと思うほどなのですが、唯一欠点だと思うのは、「男かと思っていたら実は女だった!Σ(・Д・ノ)ノ」、という展開がやけに多い事です。作者の趣味なのかと疑うくらいに多いのですが、それにしても同じヤングジャンプでは「ノノノノ」という、これまた性別を男性だと偽っている女性スキージャンパーが活躍する漫画があるなど、何かとユニセックスの激しい連載陣が続いております。

2010年5月13日木曜日

ひきこもりやニートは救うべきなのか

 なんか時代ゆえかもしれませんが、この所ネットの掲示板を見ているとかなり昔の「こち亀」のあるシーンの画像がよく貼られているのを見かけます。それはどのシーンかというと、それまで不良だった若者が改心して警察署に来るのですが、主人公の両津はこれまで好き勝手していた人間がようやくまともになっただけで、誉める必要もなければ就職の世話とかいちいちしてやる必要もないと言うシーンです。
 これとは別で私が覚えているのだと、恐らく作者も明確に社会風刺をしようとする意思を持って描かれたと思うのですが、不良学生の更正をはかるために自治体が球場を借りて野球大会を開くことに対し、真面目に野球をやり続けている少年らにこそそのようなお金を使うべきだと発言する回が、確か96年くらいにあったような気がします。

 正直な所、私もこれら漫画の中の両津の発言の方が正しいと思います。後者の不良少年更正のための野球大会は当時実際に開かれていて、確か借りた球場というのも東京ドームだったように記憶しております。それまで野球と縁のゆかりもなかったろうな不良にはそんな厚待遇がなされるのを比べると真面目に野球をやっている高校球児が馬鹿を見ているみたいで、当時私はまだ小学生でしたが見ていて嫌な思いをしたのを未だに覚えています。

 ここですこし話は変わりますが、現代の大きな社会問題として「ひきこもり、ニート問題」があります。どうでもいいですが、ちょっと前までは「フリーター、ひきこもり問題」だったような気がするのですが、バージョンアップはいつなされたのだろうか。
 内容はわざわざ説明するまでもないので省きますが、現在国や自治体はこの問題を解消するためにひきこもりやニートの若者への就職支援、社会復帰支援政策に予算を割いております。これらの支援策として具体的にどのような政策がなされてどれほど効果を上げているかはあいにくデータを見ていないのでわからないのですが、今日片道二時間の通勤途中にあるバスの中でふと考えていると、果たしてこれら支援策は現代において優先度の高い政策なのかと少し疑問を感じました。

 私は何もひきこもり、ニート問題は放っておいてもいい問題だとは思っていませんし、これらへの支援策が全く無駄だとも考えていません。ですが現代の若者はひきこもりやニートではなく、学校をきちんと出て社会でもまともにやっていける人ですら不況ゆえに就職口はほとんどなく、地方によってはアルバイトの口捜しすら大変で生活を成り立たせることの出来ない者が数多くおります。そんな状況下で、ひきこもりやニートの支援に割けるだけの予算があるのであれば、その予算をまだやる気もあって社会でやっていける若者への就職支援、訓練などに使う方がまだ効率的なのではないかと思ったわけです。
 仮に普通の若者が普通の生活を送れる世の中であれば、ひきこもりやニートといった弱者への支援はどんどんとなされるべきでしょう。しかし現代はひきこもりやニートでなくとも社会的に弱者となる若者が数多く、同じ弱者であるのに片一方、厳しい言い方をすれば手間のかかる方にだけあれこれ支援策が使われるのはどうにも釈然としないものがあります。

 この私の意見は見方によっては冷酷だと批判されるかもしれません。確かに最底辺の弱者を支援する事は社会的にも意義ある事ですが、その一方でなんとか立ち直ろうと頑張っている若者を放置していれば、生活保護給付が最低賃金額を上回っているのと同様に社会全体で頑張ること、努力する事の価値を下げてしまうのではないかという懸念があります。そしてなにより、リアリスティックに考えるのであれば今いる若者すべてをただでさえ厳しさを増す今の日本の予算で救えるはずなどなく、ある程度の排除と淘汰と、予算の選択と集中が今だからこそ必要だと私は考えます。

 あくまでこれは私の思いつきから来る一意見であって、詳しくデータなどを比較した上での違憲ではありません。しかし最後の選択と集中というのは今の時代、強く社会に求められている事だと見ているので、敢えて現代の若者問題を取り上げて引っ張り出す事にしました。