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2010年5月23日日曜日

社会学とは?

 よく私が自分の専門科目が社会学だと話すと、「社会学って何?」とよく聞かれます。これは何も私に限らず社会学に携わるものなら皆経験している事だと思いますが、どうも社会学は他の学問と比べて世間一般へ認知が低いようです。実際に私も大学に入学するまで社会学がどういう学問なのか全くと言っていい程認知しておらず、取り扱う分野が他の学問より広そうだという考えだけで選択しました。ちなみに後で聞いたら知り合いの中国人もそうだったようです。

 そんな社会学の定義は曖昧な学問分野ということもあって答える人によって違うでしょうが、敢えて私なりの定義を言うと、「集団人格の心理や行動を主な対象として研究する学問」、といったところです。

 もう少しこの定義を掘り下げて説明すると、まず前提として「人間は集団となると別の人格を持つ」という考え方が社会学にはあります。
 簡単な例を挙げると、人間というのは一人だったらまずしないような行動を集団になるとどんどんとやってしまうことがあります。例えば野球場でのチームへの応援も自分一人だけなら太鼓叩いて応援するような人となると殆んどいないでしょうが、これが十人、百人単位のファンクラブであれば周りの目も気にせず意気揚々と行えてしまいます。同様に小中学校でのいたずらも、自分一人では行わないようなくだらない行為でも複数人で計画するのであれば実行する確率は一気に跳ね上がります。

 我々社会学一派はこのように、人間というのは集団となると個人とは別の人格を持つと前提しております。たとえばAさんという人がいて、この人はこの人なりの人格を持っていますが、Aさんが加入している団体においてはAさんを含めた構成員全員が持つ個々の人格とは異なる、その団体の人格というものがあるというような感じです。
 唯一例外があるとしたら、社長の気分次第でどうにでも決定が覆るワンマン企業くらいなもので、そのような集団の人格は限りなく社長個人の人格と同一なものとみなします。

 このような個人から独立した、集団の人格を主な対象としてあれこれ研究するのが社会学なのですが、見方によっては心理学の中の「集団心理学」なのではないかと思われる人もいるかと思います。実際に社会学と集団心理学の区別はつき辛く、社会学のテキストには社会学者として書かれている研究者が心理学のテキストでは心理学者という肩書きに変わって載っている事も多いですし、ぶっちゃけ勉強する人物は集団心理学とかなりダブります。レオン・フェスティンガーなんてその典型だし。
 さすがに社会学ではフロイトやユングといった心理学の大家は取り扱いませんし、心理学もエミール・デュルケイムは取り上げないでしょうが、近現代の研究者だとまるで綱引きをするが如くに奪い合っているような状態です。

 敢えて私独自の社会学と集団心理学の違いを説明させてもらうならば、やっぱりアプローチの仕方が両者で異なっているのではないかという気がします。
 これは私の体験ですが、以前に日本の自殺について調べている際、97年から98年にかけて自殺者数が約23,000人から約31,000人(統計によって多少前後するが)に増加していることに気がつきました。このデータを見た私は咄嗟に、「この一年で新たに現れた8,000人の自殺者というのはどういう人物群なのだろうか」と考えました。

 多分、というより普通こんなデータを見たら、「どうして8,000人も自殺者が増えたのだろうと」考えると思うのですが、私は初見でいきなり、「98年の自殺者31,000人のうち前年度と同じ数の23,000人は従来からの原因で自殺したとして、増加した8,000人はこの一年のなにかしらの変化によって新たに現れた自殺者なのだろう」と考えました。前者が自殺者が増えたと考えるのに対し、後者は自殺者が新たに現れたというようなアプローチですが、私は意図せずに後者のような考え方をするのがスタンダードとなっております。実際には98年から自殺者のカウント方法が変わった事が原因だと言われておりますが。

 勝手な当て推量で語って申し訳ないのですが、集団心理学は個々の人格が合わさって集団という一つの人格が出来上がるというアプローチを採るのに対して、社会学は一定数の人間が集まると個々の人格が全く無視されて新たに、独立した集団という一つの人格が出来上がるように考えている気がします。極端な例を挙げると、家庭では皆良き父親であったナチスの幹部らがユダヤ人虐殺を主導していたといったように。

 最近書こうと思う内容、並びに今日も起こった頭痛が頻発しているのでしばらく社会学関係を中心に書いてこうと思います。このところ本気で自分の健康に不安感じているので、いい突破口になればと願います(;´Д`)

またも佐野眞一氏講演会

 去年も行ってきましたが、昨日ノ某所で行われたンフィクション作家の佐野眞一氏の講演会に友人と一緒に参加して来ました。前もって予想はしていましたが、一般参加者で若い世代となると私とその友人を除くと数人程度で、ほとんどがお年を召した方ばかりでした。

 今回の佐野氏の講演のテーマは平成以降の総理大臣についてで、全般的に政治関連の話題が多かったです。
 まず佐野氏が言うには自分は昭和生まれの人間であってこれまで自らが取り上げてきた内容はダイエーの中内功など昭和の人物が多く、時代としては昭和を扱って来はしたが、すでに平成に入って二十年が過ぎており一つの時代として歴史的に見るの十分なほどの年月を過ぎていると切り出しました。そう踏まえた上で佐野氏は、平成期の総理大臣の数は他の時代と比べて明らかに多く、どの首相も弱い政権基盤ゆえに短い任期で終わってしまう傾向があるとして、そのような流れを作る事となった悪い意味でのターニングポイントが二回あったと述べました。

 まず最初のターニングポイントは、平成以降に初めて誕生した宇野宗佑内閣だったと佐野氏は言いました。宇野内閣は詳しくはWikipediaを見てもらえば分かりますが、佐野氏曰く愛人への給金を渋ったがゆえに造反を起こされて、スキャンダルによって発足からわずか二ヶ月で退陣を余儀なくされた内閣です。この宇野宗佑はそもそも首相となれるほどの政治家ではなかったものの、前任の竹下内閣を襲ったリクルート事件によって自民党内の主要政治家はどれもすねに傷を抱えており、唯一この事件の煽りを受けなかったことから首相に就任したと通説では語られています。

 しかし佐野氏が言うに、竹下登退陣後に当時のキングメーカーであった金丸信は、当時自民党が非常に厳しい立場に置かれている事から知名度も実力もあり、宇野同様にリクルート事件に関わっていなかった元首相の福田赳夫を再登板させるべきと考えてあちこちへ働きかけていたそうなのですが、この金丸の動きに待ったをかけたのが福田赳夫と犬猿の中だった中曽根康弘氏で、なかばねじ込む形で自派の宇野宗佑を次期総理にねじ込んだそうです。結果は自民野党転落の第一歩を踏んだわけですが。

 この宇野宗佑に続く第二のターニングポイントは、森喜朗内閣だそうです。森内閣については私も前から佐野氏とほぼ同じ意見を持っており、密室で作られた内閣だけあって空転に空転を重ねてダメになった内閣という印象しかありません。あのえひめ丸の事故も、今考えてもどうしてまだ議員を続けられるのか不思議なくらいに唖然とする対応だったし。
 ただ佐野氏は、この時の自民党にはまだ復元力があったとして、まさにジョーカーとも言うべき小泉純一郎氏をこの森内閣の後に持ってきて延命を図ったと指摘しました。しかしその小泉内閣以降は森内閣の誕生同様、支持率が落ち込むたびに首相を取り替えればなんとなかるという思考ゆえに総理大臣を支える事をせず、自ら崩壊の道を歩んで行ったとまとめました。

 そんな佐野氏が平成以降の総理大臣で印象に残った人物として、小渕敬三と小泉純一郎を挙げておりました。小泉氏については異色の総理大臣としてそれほど多く語りませんでしたが、小渕氏についてはいろいろと因縁もあって詳しくあれこれ語っていました。
 特に今の鳩山政権で問題となっていて、今日も訪問して大反発を食った沖縄と小渕のこだわりについて詳しく話し、小渕が学生時代に沖縄を訪れて感じた体験から沖縄サミットを強行したことなどを話していました。

 最後に今の鳩山由紀夫首相については、ちょっと前に自分で本を書いたのもあってそれほど多く時間をかけて語ることはありませんでした。ただ鳩山一族については簡単に、
「鳩山家は四代続けて政治家となった、嫌な人間の一族だ。特に一番嫌な奴だったのは鳩山一郎の父親の鳩山和夫だ」
 と話していました。私から簡単に付け加えておくと、鳩山和夫というのは留学から帰国後に日本で初めて弁護士業を起こして政界では衆議院議長を務めた人物なのですが、表では欧米に倣って日本も一夫一妻制を採るべきだと言っておきながらも、自分はちゃっかり愛人を沢山囲っては隠し子も沢山作っていたという人物です。本の中で佐野氏は、鳩山家と言うのは平気で自分の発言とは逆のことを行える一族だとしております。

2010年5月20日木曜日

徳之島移設案への経緯について

普天間移設:徳之島受け入れ7条件「すべてのむ」官房長官(毎日新聞)

 本日、平野官房長官が沖縄米軍基地移設案の候補地となっている徳之島の基地移設賛成派と会い、移設受け入れのかわりとしても止められた借金の棒引き、健康保険税の免除などの条件をすべて受け入れると話した事が報じられました。なおこの会談について平野氏は参加者に「口外するな」と言っていたそうですが、どうやらあっさりばらされたようです。

 今更といえばそうですが、この徳之島移設案はどうも平野氏が発案して鳩山首相に吹き込んだ事から始まったように私は思います。私が知る限り沖縄の米軍基地移設候補地として初めて徳之島が上がったのは社民党が候補地の一つとして挙げた時だったと思いますが、この社民党の発言を受けてか、もしくはそれ以前から考えていたのかまでは分かりませんが、目下民主党内でこの徳之島移設に一番こだわっているのは町長らと何度も会っている平野氏で間違いありません。

 私の見立てだと、恐らく鳩山首相は何の考えも持たずに県外移設を打ち出してその移設候補地などは全く頭になかったかと思います。そんな鳩山首相に対して候補地として米軍も納得でき、かつ現地住民も説得できる地だとして平野氏が吹き込んだのが徳之島で、何かしら自分の地位や利権が絡んでいるのかもしれませんし言った手前もう後には引けないから頑張っているだけかもしれませんが、このような経緯があることからもはやなりふりかまわずこの案で推し進めようとしているように見えます。

 そういった平野氏の努力が実ったとも言うべきなのか、報道されている情報ですと当初は反対一色だった徳之島住民側も、政府からの援助が見込めるならば受け入れるべきだと言う賛成派が徐々に人数を増やして来ているそうです。今日の平野氏と賛成派住民の会談も恐らくは徳之島の内部分裂策の一環でしょうが、私はたとえ徳之島住民が基地受け入れを認めたとしても、アメリカ側は決してこの案を受け入れる事はないと思います。防衛上の問題はさる事より支持率の低迷している民主党政権の足元を見てこれまで以上に強気に外交で出てくる可能性もあり、最悪の結末は徳之島の住民同士で妙なしこりが残って終わりでしょう。

 ちなみに民主党のキーマンである小沢一郎幹事長は、米軍の普天間移設が決定した直後に元防衛長官の久間章生と一緒に移設地周辺の不動産を買い漁ったそうなのでこの徳之島移設案に表立って賛成する事はないでしょう。こういうところはわかりやすくて助かる。

2010年5月19日水曜日

就活期の早期化と大学教育、及び私の体験

<就職活動>「授業より就活」 3年秋に始動、4年秋以降の内定も(毎日新聞)

 今に始まった事でもないし以前にも似たような事を書きましたが、今日また新しいニュースが出たのでもう一度この問題を取り上げておこうと思います。
 上記リンクに貼ったニュースは企業の新卒大学生採用選考時期、大学生の側からすれば就活時期が年々早まり、かつては四回生の秋からだったものが今では三回生の夏からスタートで一般化した事により、就活に時間を取られる学生が授業に出席しなくなって大学教育の本質が失われてきているという内容のニュースです。

 近年に就職活動をやった経験のある人間なら話は早いのですが、現在大半の企業で採用内定を出すのはゴールデンウィーク前となっており、実質就職活動はその前の春休みが本番です。仮にゴールデンウィーク前に内定が取れれば四回生の一年間は比較的自由に行動が出来ますが、それまでに内定が取れない学生となるとそれ以降も延々と就職活動をせざるを得ず、本来ならば卒業論文などにもボツボツ取り組まなければならないにもかかわらず、余計に授業やゼミに出席できなくなって学業でも就職でもどんどんと追い込まれていきます。特にリーマンショック以降はどこも採用を減らしたので、このような悪循環に陥る学生はかつてないほど多くなっていると見て間違いないでしょう。

 この問題で誰が一番悪いかと言えば、それはやっぱり採用日程を早めた企業側です。大企業などは三回生の夏休みから自分ところのインターンシップに参加する学生を集めて青田刈りを行おうとするなどしてますますこの動きに拍車をかけていますし、他の一般企業も遅れまいと、まるでチキンゲームのように新人研修をしている横で採用面接をやっているのが当たり前となってきました。普通に考えるなら、人事部は採用選考と新人研修の時期を分けた方が効率的だというのに。

 このように就活時期が90年代の頃より早まっている事について、以前に読んだ評論では現在の大学生は実質的には三年間しか自由がなく、またようやく自分で勉強、研究が出来るようになってくる時期に学問の機会が奪われているという指摘がありました。実際に私の周りでも、それまで遊び回ってた連中が四回生になってからもっと勉強しておきたかったと言う人間が増えてきました。まぁ夏休み終了前に、「ちゃんと宿題しとけばよかった(´Д⊂)」というの一緒だろうけど。

 あまりグダグダ話すのもあれなので私の就活の実体験をここで話すと、やはり企業に対して納得いかない思いが強かったです。普通の学生は三回生の12月位から企業訪問を本格的に始めるのですが、私は就職のためではなく勉強するために大学に進学したのだという自負があったので敢えて三回生の後期テストが終わる二月までは一切そういう活動は行いませんでした。そしたらそしたで、二月以降から就活を始めたと言うとどこの企業の面接官も、「君、遅いねぇ」と私に言うので、「それ以前からやっている奴は勉強もまともにしないクズです」と言い返したかったです。

 しょっぱなからこんな感じなので、私が就活をした年は「かつてない売り手市場」と言われていたにもかかわらず私は激しく苦戦しました。しかも私の場合、就活真っ只中の4月に突然肺に穴が空き(自然気胸という病気。痩せ型の若い男しかならない)、手術をして約二週間も入院したためにその間の面接や説明会も全部キャンセルする事態となりました。
 なおこの時、病院と通っていた大学が近かったために医師に頼み込んで一部の重要な授業には病院から直接通わせてもらいました。その際には肺に溜まった空気を抜くために、胸に突き刺している管を紙袋に入れた小さなポンプと接続させたまま外出して授業を受けましたが、今思うと結構グロいし、あそこまで無茶しなくてもという気もします。幸い、周りにはばれなかったけど。

 こんな思いを経て退院後もあれこれ就職口を捜しましたが殆んどどこからも相手にされず、合計するとシャレや冗談じゃなく100社以上から不採用通知を受けました。さすがにうちの広島に左遷された親父も見かねて大学院への進学を勧めてくれましたが、これ以上は両親に迷惑を掛けられないために歯を食いしばって探し続け、最終的には今勤務している会社に七月に内定を貰いました。その間、登録してある授業はほぼ100%の出席率で出続けております。

 このような自分の体験があるだけに、当時は企業の採用選考のスタートが四回生の10月からであればと何度も思いました。途中にも書きましたが、今の就活のシステムだと授業やテストなどをほっぽり出したり、要領よく単位を取ろうとする学生ほど得をするシステムで、真面目に授業に出ようとすればするほど馬鹿を見るようでなりません。頑張る事、真面目にやる事の意義がこれでは見出せず、また大学の存在価値自体も揺るがしかねません。

 ではこのチキンゲームの様相をなしている新卒採用選考をどうすればいいかですが、この際法律で強制的な措置をするのが一番いい気がします。そもそも内定自体が法的根拠が何もなくて近年流行している「内定切り」という問題もあるのですから、大学生の採用選考は卒業後でなければならないなどと法制化してしまったほうが全体の利益に適うかと思います。

  おまけ
 私がこの就活期の苦労を話しつつ、ちょっと得意になって中国語も使えるのにここまでむげにされなくてもと友人に話した所、「花園君みたいな危険思想を持った奴なんて、どこも取りたがらないよ」と言われて、何も言い返せなかった事があります。

  おまけ2
 私がなかなか内定が取れない頃、就活状況を聞いてきた当時授業に出ていたロシア語の講師に話をした所、「当たり前じゃん。だってあんた、愛想がないもの(・∀・)」と言われました。この発言には周りの学生もドン引きして、
「せ、先生、何もそこまで言わなくとも(;´Д`)」
「何言ってんのよ。あたしらの世界でこれは誉め言葉よ。あんたもそう思うでしょ!( ゚Д゚)」
「え、えぇ、まぁ……(´A` )」
 という会話がありました。確かにいつもだったら「愛想がない」と言われても誉め言葉として私は受けるのですが、この時は弱ってただけに内心胸にきました。

2010年5月18日火曜日

今日のニュースの雑感

 今週に入ってから慢性的に頭痛に悩まされているので、どうもブログの方も力を入れた記事が書き辛くなっております。ちょうど今日はいろいろと個人的に注目するニュースが集中したので、一つ一つ短い雑感を集める事で終えようと思います

朝日新聞阪神支局襲撃“実行犯”名乗った男性自殺? 北海道で白骨化(産経新聞)
 私もかつて「週刊新潮、赤報隊事件の犯人手記について」の記事で取り上げましたが、この一連の週刊新潮の誤報記事にて当初朝日新聞阪神支局を襲った犯人だと自称していた島村征憲が北海道で自殺していたそうです。この時の週刊新潮の編集長はこの誤報を流した事が原因となって左遷となりましたが、この元編集長には人間一人自殺に追い込むだけの報道価値はあったのかと直接聞いて見てやりたいです。

公務員採用削減再び見送り 官房長官は21日の閣議決定目指す(産経新聞)
 こちらも先日に関連する「国家公務員、採用半減指示について」という記事を書いたばかりですが、なんでも鳩山首相を初めとしてこの国家公務員の来年度以降の新規採用を半減かする案に対して省庁側は抵抗をし続けているそうですが、それを今週中になんとしてでも閣議を通過させようというのがリンクに貼ったニュースです。この記事では総務省がまとめた具体的な削減案もかかれており、引用させてもらうと、

「(1)I種(キャリア)とII種は2割抑制(2)地方の出先機関職員などは8割抑制(3)国税調査官や刑務官など専門職種は5割抑制」

 だそうで、私が見た朝日新聞の記事ではI種の採用数は前年度維持だったのですがこっちでは二割抑制となっています。ただそれ以上に気になったのは、「国勢調査間や刑務間など専門職種は5割抑制」の部分で、鳩山首相が毎年実母から1500万もの金額を贈与されていたのを国税庁が見逃していたという事を考えると、ここは減らす所じゃなくて増やす所じゃないかとついつい口に出して突っ込んでしまいました。

小沢氏、再度不起訴へ=週内にも最終協議―陸山会虚偽記載・東京地検(時事通信)
 細かい内容をすっ飛ばして結論を述べると、今回小沢氏を検察が起訴しなければタイミング的には参議院選挙直前の七月にまた検察審査会が起訴相当の議決を採り、小沢氏に強制起訴がなされる可能性があります。検察の捜査というのは本来有権者に影響を与えないように選挙前などを避けなければならないのですが、今回の起訴見送りが悪手にならない自信があるのか詳しく聞いて見たいものです。

一定地域内の全頭処分を検討、口蹄疫で官房長官表明 首相、政府対応の問題認める(産経新聞)
 あまりこの口蹄疫という感染症に対して詳しくないためにこれまで発言は控えてきましたが、現時点まで色々情報を集めて私が言いたいのは、民主党は恥を知れ、という一点に尽きます。民主党は政府の対応に問題はなかった等と抗弁していますが政治は過程ではなく結果しか求められない世界で、頑張っているのだから許してくれなんて言う事自体聞いてて反吐が出ます。
 特に本来この問題の最高責任者であるはずの赤松農水大臣は口蹄疫の発症が報告されていたにもかかわらず外遊に出かけ、今も現地宮崎県に足を踏み入れていないという事実には閉口する以外なにも出来ず、過激なことを書きますがたとえこの人が誰かに刺されたとしても私は同情をしないでしょうし、この問題の対策速度に変化も起きないと思います。

2010年5月17日月曜日

土曜授業復活の是非

 一昨日の朝日新聞朝刊にて、土曜授業の復活するべきかどうかについて陰山英男氏と本田由紀氏がそれぞれ賛成と反対の立場で意見を寄せておりました。
 それぞれの意見を要約すると、陰山氏は子供の学力は授業時間を増やせば必ずしも高まるものではなく、むしろ陰山氏が導入して効果を上げた百マス計算などといった教え方の比重の方が影響力が高いとして、現状でも授業時間外にも授業準備などの仕事をしなければならない教師から更に時間を奪ったりせずに授業内容の効率化、充実化を図っていくべきだとして土曜授業の復活に反対でした。

 それに対して本田氏は、国際学力調査で高い成績を収めたフィンランドは今の日本以上に小学校の授業時間数が少なく、こちらも授業時間数が必ずしも学力向上に直結するわけではないとしながらも、土曜授業がなくなったかわりに現在は平日の授業時間数が増加したためにかえって教師の負担は大きくなっていると指摘しております。その上で土曜授業を復活させる一方、もっと教員の数を増やして交代で休暇がとれるような仕組みを作って授業の充実化を図って行くべきではないかと提案しておりました。

 双方の意見を読んだ私の感想はと言うと、どちらの意見にも納得させられる部分が多くてなかなか考えさせられることの多い内容でした。どちらも授業時間数の増加よりも授業内容の充実こそが子供の学力向上につながるとしながらも、教師の意欲や体力を高めるのは週休二日制がいいのか週休一日制がいいのかという点で意見が分かれております。

 実際に私の目から見ても確かに現代の教師の仕事は大変そうで、かつてあった半ドンの土曜日授業は今の公立校にはないものの、部活動の顧問をしている教師は今でもたとえ休みの土日であろうと学校に来て指導などしなくてはなりません。また夏休みなど長期休暇が教師にはあるとかつては言われましたが、最近は世間の目も厳しくなって無理矢理にでも補習、補講授業を夏休みに開校しては出勤させられるようになって来ているそうです。

 またタイムリーな事に先月友人と久々に母校の中学に毛沢東Tシャツを着て行ってみたのですが、土曜にも関わらず職員室を覗くと知っている教師らはほぼ出揃っており、教師たちは土曜授業があろうとなかろうと変わらないんじゃないのかと改めて感じました。
 そういう意味で今回の論者二人の言うように教師の休暇の取り方、休み方についてはもう少し考えるべきであり、予算的に可能であるならば本田氏の主張するように教員数を増やしてローテーションで休みを取れるような仕組みを作るのがいいかと思います。

 最後に私の子供時代の話をすると、ちょうど私はこの土曜休日化の移行期に当たって学年が上がるごとに土曜日授業が減って行きました。しかし当時の私達小学生からしても、確かに土曜日が休みになってくれるのは満更ではなかったものの、午前中で授業が終わって午後に遊びに行けるというあの解放感はなかなか捨てがたい物があると子供ながらにみんなで言い合っていました。今の子供達は土曜の半ドン授業が復活したら、どう思うんだろう。

2010年5月16日日曜日

ストレスは敵なのか?

 以前に読んだ事のある評論文でこんな実験が紹介されていました。実験内容は透明な水槽を二つ用意して、片方にはAという魚、もう片方にはその魚を主に捕食する、言わばAの天敵となるBという魚を入れて、それぞれの水槽を隣り合わせて配置しながら観察したそうです。もちろん水槽が別々なのでAが捕食されるという事はありえないのですが、透明な水槽のためにAは常に自分の天敵を近くで見ている事になり、意図的にストレスを与えながら生活させるとどのような変化が起こるかを調べて見たそうです。
 そうして観察を続けてみるとなんとAの魚は平均的な寿命の三倍も生存し続けたそうで、この実験結果から研究者は、ある程度のストレスは細胞やその他諸々の器官を活性化させる可能性があるのではとまとめたそうです。

 この実験を引用しながら論者は、一般にストレスは社会生活上でマイナスの効果しか引き起こさないと思われがちだが、過剰なストレスならともかく一定度のストレスは身体に対して好影響を与える要素の方が強いとまとめ、その一つの例として元オリックスの清原選手を引き合いに出していました。清原選手は最初に在籍していた西武時代には巨人に行きたいという強い願望(=ストレス)があったがゆえに立派な打撃成績も挙げることが出来たが、巨人に移籍した後はその願望が達成されてしまったがために西武時代ほどの成績を途端にあげることができなくなったのではないかと述べていました。

 清原選手の例が正しいかどうかはともかくとして、この話を一読した私はなんとなく、この論者の言わんとするストレスというのは「プレッシャー」とも言い換える事が出来るのではないかと感じました。もちろんどっちの言葉を使ってもいいのですが、どちらも心的圧迫感を表現する言葉ながらストレスでは負の意味、プレッシャーは負と正の意味を両方兼ね備えているように思います。ほんとどっちだっていいんだけど。

 話は戻りストレスについてですが、やっぱり一般社会では「ストレスは敵だ」、「ストレスをなくそう」という言葉があちこちで言われるほど世間ではストレスは嫌われていますが、私もこの論者同様にストレスは必ずしも敵ではないと考えております。私自身の体験で言えば全くストレスがない状態だった頃、だらけた生活もいい所と思うほどに行動に能動さがなくなり、何かしら小説なり文章なりを書こうと思っても時間があるにもかかわらず実行に移せない日々が続きました。
 それに比して現在は明らかにそのストレスのない時代に比べて自分の周囲の環境や余暇に使える時間的余裕が悪化しているにもかかわらず、当時の自分じゃ決してなし得ないほどの膨大な文章量を毎日このブログで更新し続けております。よく「忙中、閑あり」とは言いますが、あながち間違っていない気がします。

 もちろんうつ病を発症させるような過剰なストレス環境は間違いなく問題ですが、そうでなくてややうっとうしいと思う程度のストレスであれば、そのストレスが全くない状態より人間はかえって能動的に、人間らしく生きていけるのではないかと思います。程度的には、「かったるくて、やってらんねぇよ(´Д`)」と思いつつも毎日それなりに生活していける位が適量ではないかと見ていますが、「このままじゃ、死んじゃう(ノД`)」と思うほどなら明らかに過剰なので無理せずに休んだ方がいいと思います。

 ここで終えても全く問題はないのですが敢えてここで社会学的な発想をすると、今の日本はあまりにもストレスを敵視するあまりにかえってストレスに対する耐性を自ら弱めているのではないかとも感じます。ここら辺は渡辺淳一氏の主張する「鈍感力」にも関連してきますが気にしなくてもいいものまで気にしてしまうと無駄に疲れてしまうようなもので、うつ病を引き合いに出すと、「こんなにストレスを抱えてれば、うつ病になるんじゃ(>'A`)>」という風に無駄な不安を覚えて、自ら追い込む事でうつ病になってしまうという例も実際によく聞きます。

 ではこのような自己暗示的なうつ病を回避するためには何がいいのかと言えば、先程の鈍感力を養うという方法と、ストレスを如何に味方に付けるかだと私は思います。スポーツの世界ではプレッシャーを如何に自分の力にするかというトレーニング方法があると聞きますがそれと同じ事で、自分にかかる心的圧力を、「これだけ期待されているんだ」、「チームにとって自分はなくちゃならないんだ」というように前向きに捉えることで通常時よりもより大きな貢献ができるようになる、所謂大舞台に強い選手となることができるそうです。

 なので今日の内容をまとめると、「ストレスは敵だ」とは言わず、「ストレスは敵にも味方にもなる。お前次第でな」というのが、私の意見というわけです。