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2010年6月10日木曜日

菅直人新政権の今後予想

 別に体調不良だと言うわけでもないですが、この所はこれまでにないくらい更新が少ないです。更新が少ないことに大した理由はないのですがこれだけ政治が動いているのに何も書かないのもあれなので、前回予想を外しておきながら今回もまたひとつ政治予想をして見ようかと思います。予想する内容も、菅直人新政権の今後です。

 鳩山由紀夫前首相の突然の辞任を受け、下馬評どおりに同じ民主党内の菅直人氏が新首相に就任することになりました。就任直後の内閣支持率は六割を超えて各識者、並びに私の周りでもあれだけ落ち込んでいた民主党への支持がこれだけ回復するとはと皆一様に驚くような意見が多かったのですが、私の見方はまさにこれとは逆で、六割しか取れなかったのでは先行きは険しいだろうという印象を覚えました。
 これは何故かと言うと、2000年代の日本の首相の支持率はどれもその就任時が最も支持率が高くなる傾向があり、これは逆に言えば今後どうあがいても支持率が六割を超える事がないということで、しかも前政権が前政権だったゆえに下降する際の角度は急激になる可能性も高く、そう言った事を考慮すると参議院選挙時は五割か四割を切る事になると思います。

 では民主党は参議院選挙の間まで何をするべきかと言えば、ひたすら貝のように黙って選挙日が来るのを待てば良いのではないかと私は考えました。支持率がこれ以上上がらないと行っても過半数の支持は得ているのだし、このまま黙って粛々と選挙まで運べば大負けは確実に避けれて、下手すればまた勝利を得られるのではないかと見ました。
 そう思っていた矢先、発足当初に新しく官房長官に就任した仙石氏が国民新党との連立を維持し、しかも今回期中に郵政改革法案を通過させると約束したのを見て私自身が呆れましたし、世論もはっきりとは見せないまでも何かしら動くだろうと感じました。

 郵政問題については過去に書いた「郵政民営化の是非を問う」の記事で私の意見はまとめていますが、今回国民新党がこだわっているこの郵政改革法案は事実上の逆行法案で、あれだけの苦労をしてようやく改革した郵政を以前以上にひどいものに変えようとするこの法案は見ているだけでイライラさせられる内容でした。一例を挙げると、国家公務員の新規採用人数を来年度は四割近く削減する一方、この改革法案では現在の郵政で雇っている派遣社員らをすべて正社員として雇用しなおすと書かれており、一体何がしたいんだと言いたくなるような態度です。田原総一郎氏も書いていましたが、国民新党の亀井はただ単に小泉憎しで郵政を叩き潰したいと本人も言っているそうで、何かしら政治的な必要性で動いていないのは明白です。

 結局、菅氏に首相が変わってもこの郵政はまた元に戻されてしまうのかと私も半ばあきらめていましたが、なんだか昨日から今日にかけて現在の会期予定では成立は困難と民主党が主張し始め、言ってはなんですが少し見直しました。折角ですからこの時点で国民新党と連立を切った方が、個人的には民主党のためにもいいんじゃないかと思います。
 ちょっと断片的な内容ばかりですが、敢えて選挙前に民主党に波乱があるとしたらこの国民新党の処遇ではないかというのが今日の私の意見です。

2010年6月7日月曜日

大原騒動と悪代官 後編

 前編中編と続いてようやく最後の後編です。結構ちんたら書いたもんだ。
 さて前回の中編では散々悪知恵働かした大原紹正が不幸な最後を遂げたもののその息子の大原正純が郡代職を継ぎ、父親と変わらぬ圧政を続けた所まで解説しました。

 具体的に息子の大原正純はどんな事をしたかですが、彼がまず最初に行って反感を勝ったのは災害対策金の着服でした。1783年、この年に浅間山が噴火した事により「天命の代飢饉」と呼ばれるほどの大不作となったのですが、幕府としてもただ手をこまねくわけにもいかず、飛騨高山にも1600両の救済金が配られる予定でした。ところがこのお金を大原正純は何を思ったか、救済金を得るために献金活動で金を使ったからそのままもらうといって、なんと一銭も農民に配りませんでした。それどころか財政がよくないとして、村々に対して一条金、今で言う地方国債のような拠出金を6000両も出すように命じたのです。
 これには前回、前々回の明和、安永騒動でこっぴどくやられた農民らも黙ってはおられず、代表者を数人決めて江戸に直訴するべく動き出したのです。

 すでにこの時期には十代将軍家治が亡くなっており、それに伴って権勢を振るっていた田沼意次も失脚しておりました。その田沼のかわりに老中主座についていたのは後に「寛政の改革」の指導者として名を挙げた松平定信で、飛騨高山の農民も清廉さに定評のある彼に訴えでました。
 この訴えを受けた松平定信は早速郡代の下の元締職である田中要介を江戸に呼び出して取調べを始めたのですが、この農民側の動きに対して焦りを覚えた郡代の大原正純はあらかじめ手を打とうと、国内の主だった農民指導者の逮捕に動き出すのでした。

 この大原正純の動きに気づくや農民らも各地に身を隠し、将軍の代替わり毎に全国各地を視察して問題がないかを調べる巡検使、比留間助左衛門と密かに接触し、群題のこれまでの悪行を訴え出たのです。先の松平定信への訴えもあったことから比留間も農民の話をよく聞き、その噂を聞いた他の村々からも次々と同じような訴えが集まりここに至って大原正純は追い詰められていったのでした。
 さらに農民側は念には念と、登城途中の松平定信に対して訴状の直訴(駕籠訴)まで行いました。明治時代もそうでしたが、この時代の直訴は重罰で、死罪さえもままおりる様な行為でしたがそれでも飛騨高山の農民らは実行したのでした。

 こうした農民側の訴えが功を奏し、すでに取調べを受けていた元締の田中要介は打ち首、そして大原正純は八丈島へ流罪という判決が下りたのです。更に松平定信に直訴した農民らは「おしかり」という、今で言うなら訓戒という最も軽い罰で止まり、取調べ中に牢死した者以外らはすべて軽い罪で許されたそうです。

 ちなみにWikipediaでこの「大原騒動」を見ると駕籠訴を行った農民には死罪が下りたという風に記述されていますが、私の持っている資料、所詮は歴史漫画ですがこちらでは上記のように「おしかり」で済んだと書かれており矛盾しております。そこでちょっと調べて見た所、ここの高山市立南小が恐らく総合学習でまとめたのであろうこの騒動の顛末記では、私の資料同様に駕籠訴をした二人は「おしかり」だったと書かれています。ま、もうちょっと検証しないとはっきりしませんが。

 今日ここで紹介した騒動は「天明騒動」と呼ばれ、前編の「明和騒動」、中編の「安永騒動」と三つ合わせて「大原騒動」と定義されております。

 最近はそうでもないですが十年位前に出ている学者らが書いた本などを読むと、「日本や中国、ロシアやドイツでは英米と違い、伝統的に政治支配階級が強権を振るって庶民らをいじめ続けた歴史がある(だからファシズムのような全体主義がはびこった)」という記述がさも当たり前かのように色んな本に書かれていますが、私はやはりこのような意見は偏見に満ちた意見だと考えております。
 確かに江戸時代初期は支配階級である武士の力が社会でも非常に強かったですが、中期以降ではどの武士も借金漬けで町人より力がなく、また差別されていじめられっぱなしだったと言われる農民も幕末にやってきた欧米人の手記などを読むと、彼ら欧米のどの国々の農民よりも日本の農民は豊かで幸せそうに暮らしていると完全に一致した見解が持たれております。

 今回三回に分けて紹介したこの大原騒動ですが、確かに悪代官が悪辣な手段で農民をいじめる話ではあるものの、見るべき者(今回は松平定信)が見て、最後には裁かれるべき者が裁かれる結末で終わっております。水戸黄門や暴れん坊将軍がズバっと現れズバっと悪人斬って一挙に解決とまでは行きませんが、粘り強い農民の努力もあったとはいえ、世の中にもまだ救いがあると思える話だと思えます。

  参考資料
「まんが人物日本の歴史2 徳川将軍と庶民」 小学館 1992年出版

2010年6月5日土曜日

大原騒動と悪代官 中編

 前編に引き続き、大原騒動の顛末について紹介します。
 さて前回では江戸時代の飛騨高山に大原紹正という代官がやってきて、よくもまぁこれだけ悪知恵が働くと言いたくなるほど農民に圧迫をかけていく過程について紹介しましたが、この後も大原紹正は手を緩める事なくさらに農民を追い込んで行きました。

 江戸時代の農民への徴税は田畑ごとにあらかじめ決められた量の米を納める事でなされていたのですが、その税額を決めるのは田畑の広さや質を測る検地でした。この検地は毎年行うのではなく数十年に一回というペースで行い、その時に定まった量が次回の検地まで基準としてあり続けたのです。
 大原紹正は前回の明和騒動の後、以前の検地時より新田が増えているとして新たに検地を行うと取り決めたのですが、農民の側からすると一方的に税額が増えるだけなのでもちろん反対しました。そこで大原紹正は検地を行うのは新田のみで、すでに検地がなされている従来からの田畑には縄を入れないと約束して検地の実施に移ったのですが、面の皮が厚いというかこの約束も見事に反故にして、従来からの田畑もそれまで以上に米が取れる計算で新たに検地し直し、なんと従来の1.5倍以上もの増税見込みをつけたのです。

 ただでさえ材木業が出来なくなって生活に困っていた農民達だけにこの一方的な増税には反対して隣国の家老に訴えたり江戸の老中に直訴したりもしたのですが、この農民の動きに大原紹正は主だった農民側の代表者達を逮捕、処刑して沈静化に動きました。
 そこで農民達は一計を案じ、自分達が作る農作物や炭といった生産物の流通を停止し、商業生活者である町人たちへ売らないようにしたのです。今で言うストライキみたいなものですがこれには飛騨高山の町人らも米が買えなくなるなど困り果てて、やむなく大原紹正も農民側との話し合いに応じて年貢高の増額やすでに捕まえている農民らへの拷問の禁止を約束しました。

 しかし、ここまで来ればもうわかるでしょうが、やはりというか大原紹正がこんな約束を守るわけなどなく、農民側を追い返すやすぐに近隣の藩に兵士を出兵させ、自分に歯向かった農民を強襲して一斉に百人以上も検挙したそうです。そしてこの時の騒動で捕まった農民の代表者、並びに前回の明和騒動で捕まえられていた代表者は一斉に処刑され、停止されていた検地も実行された結果、飛騨高山の石高はそれまでより五万五千石も増えたそうです。はっきりいいますが、これはありえないくらいの増税です。
 この増税の成功と田沼意次への賄賂が効いたか大原紹正はこの直後に代官から郡代へと昇進したのですが、天もさすがにこんな人間を放っておかなかったと言うべきか、まもなく大原紹正の妻が夫の農民へのあまりの仕打ちに心を痛め自害し、その翌年には大原紹正の目が突然失明し、そのまた翌年には熱病にかかってそのまま亡くなりました。ここまで一連の騒動は、前回の「明和騒動」に続く形で「安永騒動」と呼ばれております。

 農民側も多大な犠牲を負ったものの当事者である大原紹正自身が不幸な最後を遂げ、後味が悪いもののこれで幕引きかと思われたこの騒動ですが、大原紹正の後の新たな郡代に中央からまた誰かが派遣されてくるかと思いきや、なんと大原紹正の息子の大原正純が郡代職を継いだのです。この世襲も田沼意次への賄賂が効いたと言われ、蛙の子は蛙と言うか、息子の大原正純も郡代就任後は父親に負けず劣らず農民への苛政を続け、中央への賄賂を贈り続けたわけです。
 こんな強欲親子二代に農民側も黙っていられるわけなく、安永騒動から七年後、この飛騨高山代官バトルの第三ラウンドが開かれることとなるわけです。そういうわけで、結末は次回へ。

2010年6月3日木曜日

大原騒動と悪代官 前編

「おぬしも悪よのう、越後屋( ゚∀゚) v」
 悪代官と来ると、時代劇でもはや必須とも言っていいこのお馴染みのセリフが誰もが頭に浮かぶかと思います。それにしても、越後屋の「越後」こと新潟県の人はこのセリフを見てもなんとも思わないのでしょうか。長岡市は当時の越後には含まれていないけど。

 さてこの悪代官、具体的にどのような役職かというと意外によく知らないという人もいるので、ここで簡単に私がその役職を説明します。
 江戸時代、日本を治めていた徳川幕府はお膝元の江戸を中心とする関東地方だけでなく全国各地に自ら支配する直轄地こと天領を設けておりました。主なものだと京都や大坂といった現在にも続く大都市、小さなものだと収入源となる金山銀山の周辺地域、そして国防に関わってくる北海道や貿易港であった長崎も徳川家の支配地で、他の地域と違ってこれらの都市には大名はおりませんでした。しかしこれら天領は幕府直参の旗本らの領地であった江戸周辺の関東ならともかく、江戸から遠く離れた地域ではいちいち監視も行き届かず、支配や運営も江戸からの指示でやるにはあまりにも遠すぎました。それゆえこれらの地域には大名のかわりに幕府から役人を派遣し、その人物に管理や運営を任せるという、今で言うなら支社長を任命して運営させるやり方を取ったわけで、その派遣される役人の事を「代官」と呼びました。

 言ってしまえばこの代官、幕府の旗本でありながら派遣された地域で大幅な支配権が認めらており、さらには中央からの監視が緩いという、傍目にも具合の良さそうなポジションです。それゆえ講談などでは権力を笠に着た強欲者や幕府転覆を図る野心家などと格好の悪人に仕立てやすく、今に至るまでショッカーと並ぶ日本の悪の代名詞として君臨しているというわけです。
 しかし実際の代官の姿はというと所詮は派遣管理職で、変に地元と結託しないように幕府も定期的に交代させており、在任中に少しでもへまを起こそうものならすぐに左遷させられるというのが実情だったようです。

 では悪代官というのは講談の中だけの存在なのかというとそうでもなく、少なくとも私は「これぞ悪代官!」と言いたくなるような歴史上の人物とその代官が起こした騒動を一つ知っております。その代官というのは大原紹正という人物と、代官職を継いだその息子の大原正純で、この親子が飛騨高山で引き起こした江戸時代でも比較的大規模の一揆騒動というのが今日のお題の「大原騒動」です。

 江戸時代、開幕当初の飛騨高山地方は金森長近に始まる金森藩でしたが、金森氏は元禄期にこの地方の木材などといった資源に目を付けられた徳川幕府によって転封を申し付けられ、それ以降明治に至るまで天領としてあり続けました。そんな飛騨高山に江戸中期、西暦にして1700年代中期、田沼意次が政権の中枢にいた時代に代官としてやってきたのが大原紹正でした。

 この地方は山地の多い地形ゆえに農地はそれほど広くなく、当時の農民は野良作業と共に材木の切り出しを行う事で毎年の生計を立てておりました。それを大原紹正は就任早々、長らく木を伐採し続けて山が枯れ初めているとし、休山のため伐採禁止を布告してきました。これには林業で生活していた農民らも驚きすぐさま反対を訴えるものの大原紹正は聞き入れず、それどころかその年に幕府から木材代として農民に支払われる予定だった三千石の米を突如幕府に返納するとも言いだしてきたのです。

 返納するにしても急に大量の米を動かしたら米価が高騰するとして農民が反対した事で一時は中止となりましたが、農民側との約束をよそ目に大原紹正は地元の商人と結託し、他の地方から安い米を三千石購入してそれを幕府に返納し、元々返納する予定だった米は高騰した時に販売することで商人と利益を分け合おうと画策していたのです。
 これに気づいた農民側は結託した商人や町人の家を打ち壊しした上、代官である大原紹正に木材伐採の再開と、これまた大原紹正が就任直後に年貢の算定方法を見直して増加させた分の減免などを求めたのですが、大原紹正がそんな言い分を聞くわけもなく農民側の首謀者を徹底的に捜査して捕まえると牢屋に繋いで監禁してしまいました。

 この一連の騒動の事を「明和騒動」と呼ばれていますが、この二年後にはさらに大きな一揆が起こり、この時牢に繋がれた農民側首謀者らも二年後の騒動時に連座する形で死罪や流刑にされる事になります。話が長くなってきたので、続きは次回で。

2010年6月2日水曜日

鳩山首相の辞任について

 昨日にあんな記事を書いておきながら誠に恥ずかしいのですが、本日鳩山首相が辞任する事を発表しました。私は当初、もし鳩山首相が辞任するとしたら沖縄普天間基地移設に関して談話を発表した際だろうと考えており、その談話時に続投を表明したのだし、昨日の記事で書いたような背景もある事だから参議院選挙までは続けるだろうと予想しました。しかしその談話から一週間も経たない今日のうちに辞任をするとは、報道を見る限りだと野党の議員らも含めて各方面にとっても意外だと受け取られているそうです。

 それで今回の鳩山首相の辞任についての評価ですが、選挙戦を戦う上では辞任しないよりは遥かにいい決断なのは間違いないでしょう。どちらにしたって次回の参議院選挙は神風でも吹かない限りは民主党が敗北することが目に見えていますが、その敗北のダメージを少なくする上では遅れたとはいえまずまずの判断です。また今回辞任するに当たって同じく兼ねてより批判を受けていた小沢氏も幹事長職から一緒に辞任させ、早くも「次回の総選挙には出馬しない」と、今任期限りの政界引退を発表したのも悪くありません。
 特に、鳩山首相自体を私は評価していませんが、今回の辞任を理由にすでに七月十一日に投票が予定されている参議院選挙を引き伸ばさなかったのは麻生政権と比較すれ好感がもてます。恐らく先の政界引退発表といい、本人も麻生政権との対比を狙っているかと思いますが。

 鳩山首相の後継については現時点で菅直人氏が立候補を表明していますが、仮に対抗馬が出るとしても順当に行けばやはり菅氏がなると私は思います。新鮮さ、クリーンさという意味では枝野氏、仙石氏が上ですが、どちらもやや地味な印象は薄く党としての看板であれば知名度がある菅氏の方が有利かと思われます。また菅氏に負けないほどの知名度と来れば前原氏がおりますが、彼には未だに「永田偽メール事件」の禊がまだ続いているように思えるため今回は無理かと思います。

 今回の突然の辞任劇について現在各報道機関は辞任に至った経緯についてあれこれ想像を巡らせて報道しており、小沢氏が引導を渡したとか、かつての細川元首相同様に本人が唐突に言い出したなどとされていますが、昨日に大外れしておきがらまたも私の予想を書かせてもらうとやはり県外移設を断念した時ではないかと考えております。

 もう出し惜しみしても仕方ないのでまとめて放出しますが、鳩山首相は我々が考えるよりずっと長期的視野を持っていたと仮定すると、鳩山首相は初めから沖縄の米軍基地の県外移設はほぼ不可能と認識していながらも敢えて「五月末決着」を打ち出したのではないか、という仮説をこの前立てました。一体何故不可能と睨んでいる外交交渉を敢えて期限を切った上に啖呵を切ったのかというと、単純に社民党を連立に組み込み続けるためだったからではないかと思います。

 理屈はこうです。民主党としては去年の総選挙で勝利した頃より米軍基地の県外移設はほぼ不可能と見ながらも、敢えて県外移設を掲げる事で社民党を連立に囲い込み、彼らがいる間に自分達が通したいと考えているマニフェストに掲げた子供手当てや高校無償化といった政策を議会で通過させようとしたのではないかというわけです。五月末という参議院選挙も間近に迫るこの時期にまでアメリカとの交渉を先延ばしにしたのも、今国会で社民党を今国会就盤まで出て行かせないために打ち出したのではないかと、やや飛躍した考えである事は承知ですがこのように考えました。

 実際に今国会はかつての自民党もびっくりなくらいに強行採決が続き、民主党が目玉として掲げていた政策は高速道路無料化はともかくある程度は通過し、実施されるようになりました。ただ国民新党が力を入れていた、私が反対している郵政改革法案については昨日の徹夜国会の頑張りもむなしくこの分だと流れてしまいそうです。民主党としてももう国民新党に気を使う必要がなくなったのでしょうかね。

 さらにさっきの仮説に立って鳩山首相はこの時期の国会運営をどのように想定していたのかというと、またも飛躍した予想をすると社民党が連立から離脱するのは仕方ないとしても、これまでに通過させ、実施してきた子供手当てなどの法案がもっと世間から支持されて、たとえ県外移設を断念しても選挙で戦えるという甘い考えを持っていたのかもしれません。しかしこの沖縄の問題が想定以上に支持率低下や批判を集める事になり、選挙も完敗する可能性が見えてきた事から今回辞任したという、本当にこれだったら無責任もいい所だけど。

 最後にいい訳をすると、今日ここで書いた内容は根拠もないのにかなり大胆な予想も含まれていて、私自身も本気で信じているわけじゃありません。ただこうした大胆な予想というものは当たらずとも何かしら世間の動き、各プレイヤーの思惑を考える上で取っ掛かりとなる事が多く、読者の方の一助になればという考えからこの際書く事にしました。どうか多めに見てください。

2010年6月1日火曜日

鳩山首相、進退議論について

 なんかかまびすしいので、一応取り上げておこうと思います。

 先週の普天間基地移設に関する発表、社民党の連立離脱といった一連の事態を受け、今週に入ってから連日鳩山首相退陣論がニュースを騒がせております。もっとも今朝に限っては木村カエラ氏と瑛太氏の結婚ニュースのが大きく取り上げられて気がするけど。

 結論から言うと、私は少なくとも参議院選挙まで鳩山首相は退陣する事はないと見ております。その判断理由を幾つか挙げると、以下の通りとなります。

1、すでに七月初旬に選挙を行う日程が組まれている
2、鳩山首相と小沢幹事長が同じ資金問題を抱えている
3、鳩山首相の後継がいない

 一つ一つを説明すると、まず一番目については言わずもがななので省略しますが、二つ目についてはすこし世論と見方が違うので詳しくやっておきます。
 昨夜から鳩山首相は小沢幹事長と度々会ってなにやら話をしており、これを各ニュースでは小沢氏が鳩山氏に対して退陣要求を突きつけている、見放したなどと書かれていますが、現在鳩山氏と小沢氏は共に自らの政治団体における政治資金終始報告書の偽装記載の嫌疑が掛かっており、仮に片方がお縄に掛かるとしたら自動的にもう片方の首にも掛かりかねないような状況です。もし鳩山首相が降りて次の民主党総裁が鳩山氏、小沢氏に近い人物であればさほど問題にはなりませんが、逆に彼らと距離を置く議員が総裁になるのであればそれこそ選挙前の人気取りとばかりに彼ら二人をかつての三木武夫のように切り捨てる事も考えられます。そうした事を考えると、私は小沢氏が鳩山首相に退陣を求めるとは考え辛く、むしろ励ましたり煽ったりしているのが実情かと思います。

 三番目の理由もあまり詳しくやるまでもないのですが、仮にここで鳩山首相が辞めるにしても今の民主党には選挙の顔となれるような政治家はいなく、むしろ首相を挿げ替えてどうにかなると思っているのかとかつての自民党時代同様に国民に足元を見られる可能性が高いです。その上、今ここで変わっても新しく首相となる方は就任早々に参議院選の敗戦処理をしなければならず、下手すりゃ敗戦の責任を取らされて就任と共に辞めてしまうという笑えない事態すら起こり得ます。そんな火中の栗を拾うような状況で誰が立候補するかと言ったら私は疑問です。まぁ、菅直人氏ならやりかねないけど。

生徒への髪型強制の是非

 今日帰りの電車に乗る際、坊主頭をした中学生らしき集団に遭遇しました。肩にはこれからどっかに旅行でも行くのかって言うくらいでかいバッグを抱えていたので恐らく運動部に所属しているのでしょうが、どうやら現在でも運動部の生徒は坊主頭強制という概念は生きているようです。

 昔から、「野球部は坊主頭」というのは誰が決めたかわからないけど日本の部活動教育の不文律となっております。野球部に比べればまだサッカー部はまだ緩そうな雰囲気はありますがそれでも学校によっては坊主頭が強制であり、それ以外の部活動でも強豪校ともなると運動部員は坊主頭で当然となってきます。
 さてこの坊主頭、私の意見を率直に言わせてもらうと部活動教育に対してあまり意味があるとは思えず、中には嫌がる生徒もいるんだろうから強制なんてやめた方がいいと思います。何故意味がないと判断するのかといえば、野球に限れば勝利をとことんまで追及するプロ野球選手で率先して坊主頭にしている人はほぼ皆無で、また常識的に考えるなら技術や能力の向上に何かしら影響するとは思えないからです。よく精神性やら団結性を強く主張する人がいますが、坊主頭にならなくては保てない精神というのも考え物ではないでしょうか。

 その一方、こっちは運動部に限らず全校生徒にも関わってきますが、髪の毛の染髪については学校側が禁止するのは理があるように思え、存分に黒髪を強制すべきだと考えています。一体何故私がこんな主張をするのかというと、あまり表では知られていないものの染髪というのは髪に与えるダメージが人知れず大きいからです。

 私が中学、高校生の頃はちょうど染髪ブームが起こっていた時代で、通っていた学校は割とお堅い雰囲気であったものの男女別なく中途半端に髪の毛を茶髪に染めてくる生徒が後を絶ちませんでした。こんなことを書くくらいだからわかるでしょうが私はこの時のブームには一切乗らず、今に至るまで一度も髪を染めた事がありません。
 一体何故染めなかったのかというと、「サイヤ人は黒髪だ」というベジータのセリフがあったからではなく、これから話すようにかねてから染髪が当人の髪の毛に大きなダメージを与えて後々に深い影響を及ぼすと聞いていたからです。

 染髪が髪にダメージを与えるという話はうちのお袋から、「ジャニーズ事務所に所属している男性タレントらは流行に合わせてしょっちゅう髪の毛を染め直すため、髪質がすっかりおかしくなって引っ張るとまるでゴムのように伸びるらしい」、と聞いた事が始まりでした。別に染髪に憧れていたわけでもないし流行を追う性格でもなかったのですがこの話を聞いて少し驚き、自分でも染髪がどのような影響を与えるのかといろいろ調べた所、どうもお袋の言っている事は正しく、元々髪が強い女性ならともかく男性は若い頃はよくとも染髪を繰り返していると後々髪がハゲやすくなるということがわかりました。

 現実に、というより大分ホットな話題となってきましたが、人気アイドルグループのSMAPに所属する中居氏などはまさにそのタイムリミットが来たというのか、まだ30代にもかかわらずすっかり髪の毛が薄くなってテレビ番組でも帽子を被った姿がすっかり定番となってしまっております。

 くれぐれも言っておきますが私は別にハゲが悪いことだと考えてはおりませんが、現実にハゲになりたがらない人が数多くいることを考えると、自分で物事を判断すべきである18歳以上であれば自己責任ですがまさか染髪が後々ハゲにつながってくるとは想像もできないような中高校生らには学校側が強制してでも染髪を禁止し、将来の選択の幅を広げてあげるべきだと私は考えるのです。

 実際に私の小学校時代の同級生も、卒業後は全く会ってはいませんがうちのお袋によるとかつてのプレイボーイぶりはどこ吹く風か、20代ですっかりハゲ上がってしまって育毛に数十万円をすでに投資しているそうです。
 さらに最近はかつての染髪ブーム期の中高生らが親となり、自分のまだ小学校にも上がっていない子供に大人用の染髪剤を使うという話も聞きますが、専門家によると子供は大人と比べて段違いに頭皮が弱いためにこれは非常に危険な行為だそうです。

 おしゃれをするのは自分の勝手だし今ある現実を楽しもうとする事を私は否定しませんが、将来深く後悔するようなことはあまりするべきではないと考えているので敢えてこうして記事にしてみました。
 それにしても、政治系のブログでこんなの書くのって自分だけだろうな(;´∀`)