前編に引き続き、大原騒動の顛末について紹介します。
さて前回では江戸時代の飛騨高山に大原紹正という代官がやってきて、よくもまぁこれだけ悪知恵が働くと言いたくなるほど農民に圧迫をかけていく過程について紹介しましたが、この後も大原紹正は手を緩める事なくさらに農民を追い込んで行きました。
江戸時代の農民への徴税は田畑ごとにあらかじめ決められた量の米を納める事でなされていたのですが、その税額を決めるのは田畑の広さや質を測る検地でした。この検地は毎年行うのではなく数十年に一回というペースで行い、その時に定まった量が次回の検地まで基準としてあり続けたのです。
大原紹正は前回の明和騒動の後、以前の検地時より新田が増えているとして新たに検地を行うと取り決めたのですが、農民の側からすると一方的に税額が増えるだけなのでもちろん反対しました。そこで大原紹正は検地を行うのは新田のみで、すでに検地がなされている従来からの田畑には縄を入れないと約束して検地の実施に移ったのですが、面の皮が厚いというかこの約束も見事に反故にして、従来からの田畑もそれまで以上に米が取れる計算で新たに検地し直し、なんと従来の1.5倍以上もの増税見込みをつけたのです。
ただでさえ材木業が出来なくなって生活に困っていた農民達だけにこの一方的な増税には反対して隣国の家老に訴えたり江戸の老中に直訴したりもしたのですが、この農民の動きに大原紹正は主だった農民側の代表者達を逮捕、処刑して沈静化に動きました。
そこで農民達は一計を案じ、自分達が作る農作物や炭といった生産物の流通を停止し、商業生活者である町人たちへ売らないようにしたのです。今で言うストライキみたいなものですがこれには飛騨高山の町人らも米が買えなくなるなど困り果てて、やむなく大原紹正も農民側との話し合いに応じて年貢高の増額やすでに捕まえている農民らへの拷問の禁止を約束しました。
しかし、ここまで来ればもうわかるでしょうが、やはりというか大原紹正がこんな約束を守るわけなどなく、農民側を追い返すやすぐに近隣の藩に兵士を出兵させ、自分に歯向かった農民を強襲して一斉に百人以上も検挙したそうです。そしてこの時の騒動で捕まった農民の代表者、並びに前回の明和騒動で捕まえられていた代表者は一斉に処刑され、停止されていた検地も実行された結果、飛騨高山の石高はそれまでより五万五千石も増えたそうです。はっきりいいますが、これはありえないくらいの増税です。
この増税の成功と田沼意次への賄賂が効いたか大原紹正はこの直後に代官から郡代へと昇進したのですが、天もさすがにこんな人間を放っておかなかったと言うべきか、まもなく大原紹正の妻が夫の農民へのあまりの仕打ちに心を痛め自害し、その翌年には大原紹正の目が突然失明し、そのまた翌年には熱病にかかってそのまま亡くなりました。ここまで一連の騒動は、前回の「明和騒動」に続く形で「安永騒動」と呼ばれております。
農民側も多大な犠牲を負ったものの当事者である大原紹正自身が不幸な最後を遂げ、後味が悪いもののこれで幕引きかと思われたこの騒動ですが、大原紹正の後の新たな郡代に中央からまた誰かが派遣されてくるかと思いきや、なんと大原紹正の息子の大原正純が郡代職を継いだのです。この世襲も田沼意次への賄賂が効いたと言われ、蛙の子は蛙と言うか、息子の大原正純も郡代就任後は父親に負けず劣らず農民への苛政を続け、中央への賄賂を贈り続けたわけです。
こんな強欲親子二代に農民側も黙っていられるわけなく、安永騒動から七年後、この飛騨高山代官バトルの第三ラウンドが開かれることとなるわけです。そういうわけで、結末は次回へ。
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