2010年6月3日木曜日

大原騒動と悪代官 前編

「おぬしも悪よのう、越後屋( ゚∀゚) v」
 悪代官と来ると、時代劇でもはや必須とも言っていいこのお馴染みのセリフが誰もが頭に浮かぶかと思います。それにしても、越後屋の「越後」こと新潟県の人はこのセリフを見てもなんとも思わないのでしょうか。長岡市は当時の越後には含まれていないけど。

 さてこの悪代官、具体的にどのような役職かというと意外によく知らないという人もいるので、ここで簡単に私がその役職を説明します。
 江戸時代、日本を治めていた徳川幕府はお膝元の江戸を中心とする関東地方だけでなく全国各地に自ら支配する直轄地こと天領を設けておりました。主なものだと京都や大坂といった現在にも続く大都市、小さなものだと収入源となる金山銀山の周辺地域、そして国防に関わってくる北海道や貿易港であった長崎も徳川家の支配地で、他の地域と違ってこれらの都市には大名はおりませんでした。しかしこれら天領は幕府直参の旗本らの領地であった江戸周辺の関東ならともかく、江戸から遠く離れた地域ではいちいち監視も行き届かず、支配や運営も江戸からの指示でやるにはあまりにも遠すぎました。それゆえこれらの地域には大名のかわりに幕府から役人を派遣し、その人物に管理や運営を任せるという、今で言うなら支社長を任命して運営させるやり方を取ったわけで、その派遣される役人の事を「代官」と呼びました。

 言ってしまえばこの代官、幕府の旗本でありながら派遣された地域で大幅な支配権が認めらており、さらには中央からの監視が緩いという、傍目にも具合の良さそうなポジションです。それゆえ講談などでは権力を笠に着た強欲者や幕府転覆を図る野心家などと格好の悪人に仕立てやすく、今に至るまでショッカーと並ぶ日本の悪の代名詞として君臨しているというわけです。
 しかし実際の代官の姿はというと所詮は派遣管理職で、変に地元と結託しないように幕府も定期的に交代させており、在任中に少しでもへまを起こそうものならすぐに左遷させられるというのが実情だったようです。

 では悪代官というのは講談の中だけの存在なのかというとそうでもなく、少なくとも私は「これぞ悪代官!」と言いたくなるような歴史上の人物とその代官が起こした騒動を一つ知っております。その代官というのは大原紹正という人物と、代官職を継いだその息子の大原正純で、この親子が飛騨高山で引き起こした江戸時代でも比較的大規模の一揆騒動というのが今日のお題の「大原騒動」です。

 江戸時代、開幕当初の飛騨高山地方は金森長近に始まる金森藩でしたが、金森氏は元禄期にこの地方の木材などといった資源に目を付けられた徳川幕府によって転封を申し付けられ、それ以降明治に至るまで天領としてあり続けました。そんな飛騨高山に江戸中期、西暦にして1700年代中期、田沼意次が政権の中枢にいた時代に代官としてやってきたのが大原紹正でした。

 この地方は山地の多い地形ゆえに農地はそれほど広くなく、当時の農民は野良作業と共に材木の切り出しを行う事で毎年の生計を立てておりました。それを大原紹正は就任早々、長らく木を伐採し続けて山が枯れ初めているとし、休山のため伐採禁止を布告してきました。これには林業で生活していた農民らも驚きすぐさま反対を訴えるものの大原紹正は聞き入れず、それどころかその年に幕府から木材代として農民に支払われる予定だった三千石の米を突如幕府に返納するとも言いだしてきたのです。

 返納するにしても急に大量の米を動かしたら米価が高騰するとして農民が反対した事で一時は中止となりましたが、農民側との約束をよそ目に大原紹正は地元の商人と結託し、他の地方から安い米を三千石購入してそれを幕府に返納し、元々返納する予定だった米は高騰した時に販売することで商人と利益を分け合おうと画策していたのです。
 これに気づいた農民側は結託した商人や町人の家を打ち壊しした上、代官である大原紹正に木材伐採の再開と、これまた大原紹正が就任直後に年貢の算定方法を見直して増加させた分の減免などを求めたのですが、大原紹正がそんな言い分を聞くわけもなく農民側の首謀者を徹底的に捜査して捕まえると牢屋に繋いで監禁してしまいました。

 この一連の騒動の事を「明和騒動」と呼ばれていますが、この二年後にはさらに大きな一揆が起こり、この時牢に繋がれた農民側首謀者らも二年後の騒動時に連座する形で死罪や流刑にされる事になります。話が長くなってきたので、続きは次回で。

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