母親を殺人容疑で再逮捕 2幼児遺棄 「食事与えず死んだ」(産経新聞)
上記リンクに貼った大坂での二児放置事件の詳細についてはすでに各所で報じられているのでわざわざここで説明しませんが、何度もこんな事は繰り返してはならないと事件のたびに報道されるもののまたもこうして痛ましい事件が起きてしまったというのは残念な事この上ありません。
さて以前に私は「児童虐待致死の厳罰化機運について」という記事にて近年次々と明らかになる児童虐待事件を受けて、社会的にも虐待を行った親に対して厳罰化、具体的にいうなら現在主に適用される「保護責任者遺棄致死罪」ではなく「殺人罪」、もしくはもっと重たい刑が課されるような法改正をすべきだという機運が高まっており、早晩法改正が行われるのではという意見を書きましたが、すでに現時点で司法界もそのように認識が切り替わってきているようです。
先にも述べました通り、これまでの幼児や児童の虐待致死事件では上記リンク先のニュースにも書かれている通りこれまでは「保護責任者遺棄致死罪」という刑法によって虐待を行った親は裁かれるのが一般的だったのですが、今回のこの大坂の事件では幼児らに対して明確な殺意があったとして(死ぬとわかってやっていた)初めから「殺人罪」で起訴される事となりました。またこの事件が目立ってこちらはやや隠れがちですが、
女子高生、乳児殺害容疑で追送検へ 神戸・側溝遺棄事件(朝日新聞)
こちらの事件は女子高生がトイレで生んだ赤子を放置して死なせたという悲しい事件ですが、こちらも大坂での事件同様に殺人罪で起訴される運びとなっております。
なんだかんだ言って、検察も昨今の社会的影響を考えてか児童虐待に対して厳罰を以って望もうとしているように感じられます。全部が全部、社会的の空気に影響されて物事の基準が変わるというのは問題ではありますが、私はこの児童虐待については倫理上でも社会的観点からでも厳罰化は歓迎すべきだと考えております。
ここで話は少し変わりますが、今回の大坂の事件とよく似たケースとして1988年にこんな事件がありました。
巣鴨・置き去り事件(オワリナキアクム)
この事件は主演の柳楽優弥氏の好演で話題となった「誰も知らない」という映画のモデルとなった事件ですが、今回の大坂の事件同様に母親が幼い子供五人を部屋に残したまま殆んど家に帰らず、たまに長男にだけお金を渡して何年にも渡って置き去りにしていたという事件です。結果から言えばこの五人の兄弟のうち二人は死亡していたのですが、この事件の最も奇妙というか理解しがたいというべき点として、近所に住む大人たちが誰もこの家族の存在に気がつかなかったという点です。同じく親に見捨てられた子供の話でも死刑判決を受けた永山則夫の例では見かねた近所の住人が福祉事務所に連絡を行っていますが、大坂の事件でもこの巣鴨の事件でもそういったことはついには起こりえませんでした。
別にそれで近所の連帯がどうたらこうたら言うつもりはありませんし、いまさらそんな牧歌的な時代に立ち戻ろうとするよりも目下の虐待を防ぐためにも児童相談所といった行政の権限を強める事の方が大事だと私は思いますが、100歳以上の高齢者で行方不明者が相次いでいる件と絡めて考えると、今の日本社会は誰とも付き合わなくともそれなりにやってけるようになったと感じます。それを退化と取るか進化と取るかは人それぞれですが。
最後に巣鴨の置き去り事件について、この事件の裁判で子供を置き去りにした母親には「懲役3年、執行猶予4年」の判決が下りていますが、仮にこの事件が今年に起きていたらまず間違いなく執行猶予はつかなかったでしょう。この差についてちょっと表現し難い感情を持ちえますが、時代の違いだと言って割り切るしかないでしょうね。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年8月11日水曜日
2010年8月10日火曜日
日本の首相の選ばれ方
近年、日本の首相は猫の目のようにめまぐるしく一年ごとに変わっておりますが、そもそも日本の首相はどういった基準で選ばれるのでしょうか。法的には日本の首相は国会議員の中から選ぶという制約以外は自由ですが、憲政の常道という事で与党の代表者が就任する事が戦後では慣例となっているため、日本の首相は基本的には与党の代表者とイコールだと考えてもいいです。ではその与党の代表者が選ばれる基準は一体何なのかというと、結論から言えば選挙を有利に運べるような知名度があってイメージのいい人間ということだけしかなく、この事実こそが近年の日本政治を最も混乱させている原因の一つだと私は考えております。
話は昔に遡って戦後から平成に至るまで首相はどう決まっていたのかですが、この頃は数の力というか、自民党内の派閥の人数が首相を決める上で大きな指標となりました。それでも佐藤栄作の頃までは前任者が在任中に暗に後継者を指名するような形で決まっていましたが、田中角栄が首相になったあたりからは派閥を構成する力こと資金力が徐々に物をいうようになって行き、竹下登内閣でのリクルート事件発覚を受けてこうした金権政治に対して国民の倦んでいったような印象を覚えます。
その後自民党の下野や社会党との村山富一連立内閣を経て橋本龍太郎内閣に至り、また元の自民党政治こと派閥で大勢が決まる政治体制に戻りかけたのですが、小渕敬三の急逝を受けてこの流れが大きく変わることとなりました。小渕敬三の後はこれまた派閥の兼ね合いから密室の談合を経て森喜朗氏が首相となったわけですが、これがまた結果が悪くかつてないほどの支持率を受けて当時はリアルに自民党は次の選挙でまた下野するだろうとみんな考えていました。そんな世論を自民党側もよく理解しており、ここで最大の奇手こと、従来の価値観からすると最も首相から遠いと思われていた小泉純一郎氏を総裁とすることでこの危機を見事に脱す事に成功しました。
ここまでいえば分かると思いますが、日本の首相が国民受けがいいかどうかで決まるようになったのはまず間違いなく小泉内閣からです。ただ仮にこの小泉内閣が失敗していればこの動きはその後も続かなかったのかもしれませんが、皮肉な事に小泉内閣ががけっぷちだった自民党を見事に立ち直らせてしまったのでその後釜にも国民的人気の高かった安倍晋三氏が後継につくこととなってしまいました。
もうそこからはあまり語る必要もありませんが安倍氏以降の日本の首相は、福田康夫氏は多少微妙ですが、どれだけ知名度が合って国民受けがいいかの基準でもってしか選ばれず、言ってしまえばそれ以外の面にについては全くと言っていいほど問われる事がありません。麻生太郎氏に至っては明らかに政治家としての資質が非常に疑わしかった人物にもかかわらず自民党は総裁に立て、案の定その資質のなさから自民党を本当の意味で壊してくれました。
その麻生氏を選挙で下した民主党からは鳩山由紀夫氏が出て首相となりましたが、こちらの在任中は惨たるもので、政権末期には思わず「どうしてこうなった……」と言いたくなるような状況でした。この鳩山氏も麻生氏と同じく政治家としての資質、というよりも毎年1500万円も母親から金をもらっていながら知らぬ存ぜぬと言い張る辺りかねてから一般人として見ても相当に疑わしい資質の人間ではありましたが、そんな人間でも首相になってしまっています。まぁこの人について言えばその金の力でなれたんだろうけど。
そんな鳩山前首相の後継が今の菅直人首相ですが、こちらも私の目からするとかつての「O-157カイワレ原因説」を過去に不用意に口にしているなど、やはり政治家としての資質に疑わしい点が多い人選だという気がします。もちろん他に首相を張れる様な政治家が現在いないというのも原因かもしれませんが、それにしたって知名度以外にももう少し選ぶ基準という物がある気がします。また知名度や国民受けがいいというだけで首相が選ばれるというのであれば、その時点で「選挙のための政治」というより他がない状態でしょう。
かつての派閥の力関係で首相が決まる自民党のやり方が正しいと私はいうつもりはありません。ただ知名度だけで選ばれるという今の状況よりは、以前のやり方のほうが確実にマシだったとは主張します。またこうした議論となるとすぐ「首相公選制」の導入が叫ばれますが、首相公選制ではますます知名度だけで決まりかねないために私は反対です。
さらに苦言を呈すと、日本国民も知らず知らずのうちに知名度だけで首相が選ばれる事に慣れてしまっている気がこのところします。ちょっと前に菅氏の後には誰が来るのかという論評をどっかのメディアが行い、仕分けで名を挙げた蓮舫氏を挙げたらそれに対してネット上でいくらなんでもそれはありえないなどと反応が起こり、なんだかんだ言って盛り上がっていたのを見たことがあります。
別に蓮舫氏が悪いと言うつもりはさらさらありませんが、そのネット上の反応を含めて彼女がどのような政策案を持ってこれまでどのようなスタンスを取ってきたかについて言及がなく、ただ仕分けについてだけでしか議論がなかったのをみて私には物足りなさをどうにも感じました。中には蓮舫氏が台湾系日本人だからという意見を言う人もいたけど。
じゃあ私は誰なら首相にいいかといえば、この際日本のためにまともにやってくれる人なら男性だろうが女性だろうが、少年だろうが年寄りだろうが、なんだったら外国人であっても構わないという考えをしています。そもそも戦後の日本で最も偉大な政治家を挙げるとしたら、いつもダグラス・マッカーサーを挙げてる位だし。
話は昔に遡って戦後から平成に至るまで首相はどう決まっていたのかですが、この頃は数の力というか、自民党内の派閥の人数が首相を決める上で大きな指標となりました。それでも佐藤栄作の頃までは前任者が在任中に暗に後継者を指名するような形で決まっていましたが、田中角栄が首相になったあたりからは派閥を構成する力こと資金力が徐々に物をいうようになって行き、竹下登内閣でのリクルート事件発覚を受けてこうした金権政治に対して国民の倦んでいったような印象を覚えます。
その後自民党の下野や社会党との村山富一連立内閣を経て橋本龍太郎内閣に至り、また元の自民党政治こと派閥で大勢が決まる政治体制に戻りかけたのですが、小渕敬三の急逝を受けてこの流れが大きく変わることとなりました。小渕敬三の後はこれまた派閥の兼ね合いから密室の談合を経て森喜朗氏が首相となったわけですが、これがまた結果が悪くかつてないほどの支持率を受けて当時はリアルに自民党は次の選挙でまた下野するだろうとみんな考えていました。そんな世論を自民党側もよく理解しており、ここで最大の奇手こと、従来の価値観からすると最も首相から遠いと思われていた小泉純一郎氏を総裁とすることでこの危機を見事に脱す事に成功しました。
ここまでいえば分かると思いますが、日本の首相が国民受けがいいかどうかで決まるようになったのはまず間違いなく小泉内閣からです。ただ仮にこの小泉内閣が失敗していればこの動きはその後も続かなかったのかもしれませんが、皮肉な事に小泉内閣ががけっぷちだった自民党を見事に立ち直らせてしまったのでその後釜にも国民的人気の高かった安倍晋三氏が後継につくこととなってしまいました。
もうそこからはあまり語る必要もありませんが安倍氏以降の日本の首相は、福田康夫氏は多少微妙ですが、どれだけ知名度が合って国民受けがいいかの基準でもってしか選ばれず、言ってしまえばそれ以外の面にについては全くと言っていいほど問われる事がありません。麻生太郎氏に至っては明らかに政治家としての資質が非常に疑わしかった人物にもかかわらず自民党は総裁に立て、案の定その資質のなさから自民党を本当の意味で壊してくれました。
その麻生氏を選挙で下した民主党からは鳩山由紀夫氏が出て首相となりましたが、こちらの在任中は惨たるもので、政権末期には思わず「どうしてこうなった……」と言いたくなるような状況でした。この鳩山氏も麻生氏と同じく政治家としての資質、というよりも毎年1500万円も母親から金をもらっていながら知らぬ存ぜぬと言い張る辺りかねてから一般人として見ても相当に疑わしい資質の人間ではありましたが、そんな人間でも首相になってしまっています。まぁこの人について言えばその金の力でなれたんだろうけど。
そんな鳩山前首相の後継が今の菅直人首相ですが、こちらも私の目からするとかつての「O-157カイワレ原因説」を過去に不用意に口にしているなど、やはり政治家としての資質に疑わしい点が多い人選だという気がします。もちろん他に首相を張れる様な政治家が現在いないというのも原因かもしれませんが、それにしたって知名度以外にももう少し選ぶ基準という物がある気がします。また知名度や国民受けがいいというだけで首相が選ばれるというのであれば、その時点で「選挙のための政治」というより他がない状態でしょう。
かつての派閥の力関係で首相が決まる自民党のやり方が正しいと私はいうつもりはありません。ただ知名度だけで選ばれるという今の状況よりは、以前のやり方のほうが確実にマシだったとは主張します。またこうした議論となるとすぐ「首相公選制」の導入が叫ばれますが、首相公選制ではますます知名度だけで決まりかねないために私は反対です。
さらに苦言を呈すと、日本国民も知らず知らずのうちに知名度だけで首相が選ばれる事に慣れてしまっている気がこのところします。ちょっと前に菅氏の後には誰が来るのかという論評をどっかのメディアが行い、仕分けで名を挙げた蓮舫氏を挙げたらそれに対してネット上でいくらなんでもそれはありえないなどと反応が起こり、なんだかんだ言って盛り上がっていたのを見たことがあります。
別に蓮舫氏が悪いと言うつもりはさらさらありませんが、そのネット上の反応を含めて彼女がどのような政策案を持ってこれまでどのようなスタンスを取ってきたかについて言及がなく、ただ仕分けについてだけでしか議論がなかったのをみて私には物足りなさをどうにも感じました。中には蓮舫氏が台湾系日本人だからという意見を言う人もいたけど。
じゃあ私は誰なら首相にいいかといえば、この際日本のためにまともにやってくれる人なら男性だろうが女性だろうが、少年だろうが年寄りだろうが、なんだったら外国人であっても構わないという考えをしています。そもそも戦後の日本で最も偉大な政治家を挙げるとしたら、いつもダグラス・マッカーサーを挙げてる位だし。
2010年8月9日月曜日
エコカー補助終了について
経済ナビ:エコカー補助9月終了 景気回復に影響も メーカー各社減産検討(毎日新聞)
麻生政権の頃に実施されたエコカー購入補助が今年九月に終了するということで、このところ自動車の駆け込み需要や景気への先行き不安といったニュースをよく見ます。このエコカー補助が始められた理由は環境保護や景気対策といえば聞こえはいいですが、始まった当初に中部大学の武田邦彦氏が、
「このエコカー減税やら補助は結局は車を買う人間にしか恩恵がなく、車を買わない、もしくは買えない人間の方からすると取られた税金が一方的に使われる制度で不公平極まりない」
と主張していました。
この武田氏の主張に私も同調し、うちの親父から「ダイハツのコペン買いなよ( ・∀・)←自分が乗りたい」と再三誘いをかけられたものの、奪う側でいるよりは奪われる側にいようと思って拒否し続けました。まぁそれ以前に貯金がなかったのが原因だけど。
またこのエコカー補助ですが、名前こそ「エコカー」であるもののそもそも現在日本で販売されている新車はどれも燃費性能が高く、一部のスポーツカーを除くと大体が補助や減税の対象となっております。確かに古い車から買い換えるのであれば燃費性能が上がって環境にもいいかもしれませんがわざわざ税金を使ってまで一挙に買い替えを勧めるべきかといったら私はそこまで優先順位は高くなく、むしろ介護や医療といった逼迫している分野へ投資する方が未来があったのではないかと思います。
また景気対策として考えてみても、確かに自動車産業は裾野が広い産業ではあるものの、どうしてこの業種にのみ購買補助が行われたのかについて公平さがありません。言ってしまえば自動車とは関係ない繊維や不動産、IT関係には一切お金が配られないのに対し、自動車産業だけは税金からお金が配られたという事で、こりゃやっぱり政治的な力関係で決まってしまったとしか思えません。
そんな感じで初めから気に入らなかったこの制度もようやく終わるそうですが、何気に自動車産業はこれから物凄い再編が行われるような気がします。というのも今後はハイブリッドエンジンに変わってモーターこと電気自動車がますます増えて普及していく事が予想されるのですが、仮にそうなった場合に劇的な産業転換が行われる必要があります。
あくまで私個人という素人の意見ですが、聞く所によると自動車部品で重きをなすのはやはりエンジン周りの部品だそうで、その部品点数も複雑な構造ゆえか非常に数が多くて自動車産業に属す企業の中でもエンジンパーツのメーカーが相当の割合を占めているそうです。
これに対して電気自動車の動力となるモーターは非常に簡単な構造をしており、組み立てに必要な部品もエンジンに比べるとはるかに少ない点数で間に合ってしまうそうです。電気自動車で今後重要になってくるのは一にも二にも電池部ですが、動力がエンジンからモーターに移り変わるだけで現在自動車産業に属す中の相当数の企業が廃業か転進を迫られる事になるかと思います。
そういう風に先を見越すと、影響を受けそうな部品メーカーは下手に延命させるよりも早くに産業転換を図っていかなければならない気がします。まぁ電気自動車が普及しなけりゃそれまでだけど。
麻生政権の頃に実施されたエコカー購入補助が今年九月に終了するということで、このところ自動車の駆け込み需要や景気への先行き不安といったニュースをよく見ます。このエコカー補助が始められた理由は環境保護や景気対策といえば聞こえはいいですが、始まった当初に中部大学の武田邦彦氏が、
「このエコカー減税やら補助は結局は車を買う人間にしか恩恵がなく、車を買わない、もしくは買えない人間の方からすると取られた税金が一方的に使われる制度で不公平極まりない」
と主張していました。
この武田氏の主張に私も同調し、うちの親父から「ダイハツのコペン買いなよ( ・∀・)←自分が乗りたい」と再三誘いをかけられたものの、奪う側でいるよりは奪われる側にいようと思って拒否し続けました。まぁそれ以前に貯金がなかったのが原因だけど。
またこのエコカー補助ですが、名前こそ「エコカー」であるもののそもそも現在日本で販売されている新車はどれも燃費性能が高く、一部のスポーツカーを除くと大体が補助や減税の対象となっております。確かに古い車から買い換えるのであれば燃費性能が上がって環境にもいいかもしれませんがわざわざ税金を使ってまで一挙に買い替えを勧めるべきかといったら私はそこまで優先順位は高くなく、むしろ介護や医療といった逼迫している分野へ投資する方が未来があったのではないかと思います。
また景気対策として考えてみても、確かに自動車産業は裾野が広い産業ではあるものの、どうしてこの業種にのみ購買補助が行われたのかについて公平さがありません。言ってしまえば自動車とは関係ない繊維や不動産、IT関係には一切お金が配られないのに対し、自動車産業だけは税金からお金が配られたという事で、こりゃやっぱり政治的な力関係で決まってしまったとしか思えません。
そんな感じで初めから気に入らなかったこの制度もようやく終わるそうですが、何気に自動車産業はこれから物凄い再編が行われるような気がします。というのも今後はハイブリッドエンジンに変わってモーターこと電気自動車がますます増えて普及していく事が予想されるのですが、仮にそうなった場合に劇的な産業転換が行われる必要があります。
あくまで私個人という素人の意見ですが、聞く所によると自動車部品で重きをなすのはやはりエンジン周りの部品だそうで、その部品点数も複雑な構造ゆえか非常に数が多くて自動車産業に属す企業の中でもエンジンパーツのメーカーが相当の割合を占めているそうです。
これに対して電気自動車の動力となるモーターは非常に簡単な構造をしており、組み立てに必要な部品もエンジンに比べるとはるかに少ない点数で間に合ってしまうそうです。電気自動車で今後重要になってくるのは一にも二にも電池部ですが、動力がエンジンからモーターに移り変わるだけで現在自動車産業に属す中の相当数の企業が廃業か転進を迫られる事になるかと思います。
そういう風に先を見越すと、影響を受けそうな部品メーカーは下手に延命させるよりも早くに産業転換を図っていかなければならない気がします。まぁ電気自動車が普及しなけりゃそれまでだけど。
2010年8月6日金曜日
最近のニュースの雑感
昨日はまたもやる気が出ずにブログ更新をサボってしまいました。私は中国に留学中も他の生徒がしょっちゅうズル休みをするのに対して始業から毎日遅刻もせずに授業に出席していたのですが、ある日寝坊をしてしまい一年間の授業でたった一日だけ遅刻をすると、その日教室入るなり教師生徒揃って大爆笑されました。このブログも他の方のブログと比べると更新数が異常に多いため、人によっては休んだりすると「あれっΣ(゚Д゚;)」っと思われてるかもしれません。
さてそういうわけで休み明けの今日ですが、今日は関東地方は雲が多くて久々に朝方に涼しさを感じられて夜になった今も昨日と比べると俄然元気です。最近やけに体がだるいのは間違いなく今年の猛暑のせいでしょうが、今年の夏は私が今まで生きてきた中で一番暑いんじゃないかと思うくらい嫌になります。アイスランドの火山や桜島が噴火しているので噴煙の影響を受けて今年は冷夏になると予想していたのですが、一体何がどう間違えてこんだけ暑くなったのかNHKの半井さんに詳しく問い詰めてみたいです。
そろそろ記事の本題に移りますが、このところ興味を惹くものの一本の記事に仕上げるにまで至らないニュースが多いので、今日はちょっといつもと趣向を変えて各ニュースを紹介しながらそれぞれに私の意見を載せて行く事にします。
首相「核抑止力は必要」 秋葉市長発言を牽制(産経新聞)
8/6の広島原爆の日を迎えた今日の会見で菅首相は非核三原則を堅持する重要性を訴えつつも、核兵器や大量破壊兵器の流出が相次ぐ今の時代において、特に北朝鮮の核開発問題への対策としてアメリカの「核の傘」に入る「核抑止力」の必要性を主張しました。
発言の内容自体は核不拡散を訴える日本の立場を堅持するとともに現実路線に則ったものでおかしなものではなく、むしろ理想ばかり追っかけずに最低限必要なことは言うのだなと思える内容なのですが、今日たまたま正午のNHKニュースでこの会見を見ていたのですが、菅首相は見事なくらいに手元を見ながら朗読をし続けていました。多分最後の、「~と思います」くらいしかオリジナルの発言はなかったんじゃないかな。小学生でももう少し前向いて台本どおりに喋るぞ。
別に悪い事じゃないけど、外務省作成のペーパー通りにしか発言が出来ない首相というのもどんなものかと。ちなみにペーパーというと官僚の言うことを聞かないため自分勝手に話す小泉元首相、渡されても漢字が読めない麻生元首相など、最近は人によって傾向が変わってきてますが。
杉並の都内最高齢女性不明:杉並区、100歳以上面談調査へ /東京(毎日新聞)
日本で二番目に長寿とされた男性が実は30年以上前に死んでいたという事件を受けて全国各地で一挙に調査が始まり、あれよあれよと高齢行方不明者が日本であふれ出る事となりました。ちょっと無理矢理な関連付けかもしれませんが7月の文芸春秋にてある海堂尊氏が、日本は死者の死因特定をあまりやりたがらず事件性のあるもの、ない物を含めて非常にいびつで怪しい診断が多いとし、今では簡単に調べられるCTでも大部分の死因特定が出来るようになったのだからもっと死因特定を行って研究するべきだという記事を寄せてました。
図らずも今回のこの一件で日本は医療の現場のみならず行政上でも死者の扱いがいびつな状態にあることが分かりった訳ですが、今回の件は年金横領の疑いもあることで見ている国民もピリピリしており、この際徹底的に特定と対策を行わねば後に大きな禍根を残す事になることは予想に難くありません。長妻厚生大臣は高齢者を全部調査したら膨大な作業になるとして110歳以上に限って調査をすると発表しましたが、今回死んでいたことが明らかになった方は80歳頃に死んでいたことを考えるとこの110歳という区切り方はいまいち納得が出来ません。第一、高齢者であれば大半は何かしら医者にかかる年齢なので、この二、三年の間に健康保険を使用しているかどうかを調べるだけで大多数の生存確認ができる事を考えると、長妻大臣の言うように調査に膨大な手間がかかるとは私には思えません。この人ももう官僚に取り込まれたのだろうか。
元交際相手の男に懲役23年=「枠超えた重い刑不相当」―女性殺害、次女連れ去り(時事通信)
上記リンクのニュースは去年に元交際相手の女性を連れ去るために61歳の女性の母親を殺害した被告に対して懲役23年の判決が下りたというニュースですが、この裁判で被告は「もみ合っているうちに首が切れた」と主張するなど何度も刺し傷があったにもかかわらず殺意を否認する発言をした上、元交際相手の女性を連れまわしたことも合意の上だと話すなど全く事件について反省がないにもかかわらず有期刑となっています。私はこの事件でいくらなんでも有期刑というのはどう考えても低すぎ、出来るなら死刑、最低でも無期懲役とするべきだと思うのですが、千葉の裁判所はどうもよその事件との兼ね合いの方が重要に考えるようです。こういった面を含めて、司法改革が今一番日本にとって大事なんじゃないかと感じるのですが。
さてそういうわけで休み明けの今日ですが、今日は関東地方は雲が多くて久々に朝方に涼しさを感じられて夜になった今も昨日と比べると俄然元気です。最近やけに体がだるいのは間違いなく今年の猛暑のせいでしょうが、今年の夏は私が今まで生きてきた中で一番暑いんじゃないかと思うくらい嫌になります。アイスランドの火山や桜島が噴火しているので噴煙の影響を受けて今年は冷夏になると予想していたのですが、一体何がどう間違えてこんだけ暑くなったのかNHKの半井さんに詳しく問い詰めてみたいです。
そろそろ記事の本題に移りますが、このところ興味を惹くものの一本の記事に仕上げるにまで至らないニュースが多いので、今日はちょっといつもと趣向を変えて各ニュースを紹介しながらそれぞれに私の意見を載せて行く事にします。
首相「核抑止力は必要」 秋葉市長発言を牽制(産経新聞)
8/6の広島原爆の日を迎えた今日の会見で菅首相は非核三原則を堅持する重要性を訴えつつも、核兵器や大量破壊兵器の流出が相次ぐ今の時代において、特に北朝鮮の核開発問題への対策としてアメリカの「核の傘」に入る「核抑止力」の必要性を主張しました。
発言の内容自体は核不拡散を訴える日本の立場を堅持するとともに現実路線に則ったものでおかしなものではなく、むしろ理想ばかり追っかけずに最低限必要なことは言うのだなと思える内容なのですが、今日たまたま正午のNHKニュースでこの会見を見ていたのですが、菅首相は見事なくらいに手元を見ながら朗読をし続けていました。多分最後の、「~と思います」くらいしかオリジナルの発言はなかったんじゃないかな。小学生でももう少し前向いて台本どおりに喋るぞ。
別に悪い事じゃないけど、外務省作成のペーパー通りにしか発言が出来ない首相というのもどんなものかと。ちなみにペーパーというと官僚の言うことを聞かないため自分勝手に話す小泉元首相、渡されても漢字が読めない麻生元首相など、最近は人によって傾向が変わってきてますが。
杉並の都内最高齢女性不明:杉並区、100歳以上面談調査へ /東京(毎日新聞)
日本で二番目に長寿とされた男性が実は30年以上前に死んでいたという事件を受けて全国各地で一挙に調査が始まり、あれよあれよと高齢行方不明者が日本であふれ出る事となりました。ちょっと無理矢理な関連付けかもしれませんが7月の文芸春秋にてある海堂尊氏が、日本は死者の死因特定をあまりやりたがらず事件性のあるもの、ない物を含めて非常にいびつで怪しい診断が多いとし、今では簡単に調べられるCTでも大部分の死因特定が出来るようになったのだからもっと死因特定を行って研究するべきだという記事を寄せてました。
図らずも今回のこの一件で日本は医療の現場のみならず行政上でも死者の扱いがいびつな状態にあることが分かりった訳ですが、今回の件は年金横領の疑いもあることで見ている国民もピリピリしており、この際徹底的に特定と対策を行わねば後に大きな禍根を残す事になることは予想に難くありません。長妻厚生大臣は高齢者を全部調査したら膨大な作業になるとして110歳以上に限って調査をすると発表しましたが、今回死んでいたことが明らかになった方は80歳頃に死んでいたことを考えるとこの110歳という区切り方はいまいち納得が出来ません。第一、高齢者であれば大半は何かしら医者にかかる年齢なので、この二、三年の間に健康保険を使用しているかどうかを調べるだけで大多数の生存確認ができる事を考えると、長妻大臣の言うように調査に膨大な手間がかかるとは私には思えません。この人ももう官僚に取り込まれたのだろうか。
元交際相手の男に懲役23年=「枠超えた重い刑不相当」―女性殺害、次女連れ去り(時事通信)
上記リンクのニュースは去年に元交際相手の女性を連れ去るために61歳の女性の母親を殺害した被告に対して懲役23年の判決が下りたというニュースですが、この裁判で被告は「もみ合っているうちに首が切れた」と主張するなど何度も刺し傷があったにもかかわらず殺意を否認する発言をした上、元交際相手の女性を連れまわしたことも合意の上だと話すなど全く事件について反省がないにもかかわらず有期刑となっています。私はこの事件でいくらなんでも有期刑というのはどう考えても低すぎ、出来るなら死刑、最低でも無期懲役とするべきだと思うのですが、千葉の裁判所はどうもよその事件との兼ね合いの方が重要に考えるようです。こういった面を含めて、司法改革が今一番日本にとって大事なんじゃないかと感じるのですが。
2010年8月4日水曜日
過剰な消費者保護によって起こる弊害
最近元気のない記事が続いているので、久々に手のかかる記事を書こうと思います。
さて世の中経済々々とそれしかこの世にはないのかって言いたくなるくらいにみんなして経済を良くしなければと口々に言っていますが、単純に経済を良くする為にはどうすればよいのでしょうか。この経済を良くするための処方箋は時代によって異なり、戦前の日本であれば如何にして生産力を上げるかが最も重要視されましたが、近現代の日本においてはいかに消費力(主に国内の)を上げるかに注力されました。
この生産力と消費力ですが、言ってしまえばこの二つのうち片方だけが良くとも経済が好転するわけでもなく、効率よく力強い経済システムをつくるためにはこの生産と消費が二つ噛み合って高い水準になければならず、これは言い換えるなら物やサービスを作って付加価値をつける生産者、それらを購入して消費する消費者それぞれが成長しなければ経済も成長しないという事です。先ほど近現代では消費力を上げる事に政府は注力していると書きましたが、これは現代日本の生産力に比して消費力が不足しているという考え方からの処方策です。
このように消費と生産は車の両輪のよう揃っていなければいい経済にはならないのですが、生産者側、言い換えると物やサービスの売り手側の努力に対して近年の日本人消費者の行動や反応ぶりがこのところいささか目に余るというか、かえって全体利益を損なわせているのではないかと思うところがあります。もう早いところ結論を述べると、ちょっとこのところは政府や世間は消費者を甘やかし過ぎなんじゃないかと言いたいわけです。
私がこのように思うようになったのも、先日に政府で100円ライターの販売禁止が検討されている事が一つの大きなきっかけになりました。
事の起こりはこうで、小さい子供らを車の中に残しておいたところ、所有者である子供の親が置いていたライターを子供がいじくったのか車が炎上してしまい、そのまま数名の子供が火傷で死亡した事件が今年にありました。この事件が起こるや設立の初めからきな臭くは感じてはいましたが消費者庁が飛びつき、子供が遊ぶと危険だからしっかりとした対策がなされない限りは現行の100円ライターは全面禁止にしようと言い出しました。
しかし100円ライターを子供に渡しても平気なほどの対策を行うとなると明らかに製造コストが跳ね上がり、現製造メーカーらは規制が作られれば廃業してしまうと主張したものの消費者庁はだったら廃業してしまえと言わんばかりに、今でも聞く耳を持っていません。
そもそもの話、私はライターを子供の手の届く所に置いていたことこそが一番問題だと思います。厳しい意見となりますが子供が死亡した先ほどの車の炎上事件ではライターが置かれていた車内、さらには燃えやすい可燃物も置かれていたそうで、寝ていたとはいえ子供をそんなところに置きざりにしていたのですから同情こそするもののそれでライターを置いていたことが事故の原因とするのにはおかしさを感じます。
またこの100円ライター同様、二年前の秋葉原連続殺傷事件で両刃のナイフが使われたことを受けてすぐさま一定の長さ以上の両刃ナイフが販売はおろか使用まで禁止されましたが、牡蠣の養殖業を携わる方によると閉じた牡蠣の殻を割って中身を取り出す際に細身の両刃ナイフが長年使用され続けてきたのですが、この新しい規制によってこのナイフまで使用禁止となり、使用していた場合には罰金刑が課されるようになってしまったそうです。
100円ライターにしろ両刃ナイフにしろ、絶対的多数の人間、それこそ99%以上の人間が本来の生活上役に立つ使い方をしていたにもかかわらず、1%にも満たない不心得物が間違った使い方をしたのを受けて正直者99%に使用を禁止するなんて、どれだけ馬鹿な世の中なんだと言いたくなってくる話です。
特に100円ライターについては私は煙草を吸わないものの、家で逝去した祖父母に線香を焚く際によく使いますし、突然の大地震やバイオハザードが起きてゾンビが街に溢れたりするサバイバルな状況下では非常に有用なツールになるので禁止されるなんてふざけるなと声を大にして言いたいです。まぁバイオハザードはともかくとして、線香に火を点けるのであればチャッカマンでもいいのではと言う声もあるかもしれませんが、それだとライターが駄目でチャッカマンがいいという論理がまたおかしい気がします。第一、煙草に火を点けるのもチャッカマンに変えたら余計に危ない気がするし。
このように近年は何か事件や事故、しかも明らかに使用者側に問題があると思われるケースが起こるたびにすぐ規制がかかって関係のないほかの使用者も使えなくなるということが増えているように思えます。消費者保護といっては聞こえはいいですが実態的には単なるメーカーやまじめな使用者イジメにしかなっておらず、メーカー側もこうしたわけの分からない規制やクレームに対応しなければならないことを考えると社会全体に対して重いコストにしかなっていません。
もちろん商取引上、生産者(販売者)の方が消費者に対して偽装や欠陥を秘匿することができるため基本的には消費者保護の姿勢を社会は持たねばなりませんが、過剰な消費者保護は生産者はおろか真っ当な消費者の利益をも阻害しかねないと私は考えます。
特に近年は脅迫まがいのわけの分からないクレームをつける人間も増えており、消費者を保護する一方で真面目な生産者を社会が保護する必要性も現れてきたかと思います。生産者の側も商品やサービスを提供するからと言ってなんでもかんでも頭を下げても結局はそういったクレーマーを助長させることにしかならず、そろそろ正当なクレームと脅迫はしっかりと分けて、脅迫をしてくる人間に対しては「帰れボケッ( ゚皿゚)キーッ!!」って、時には怒鳴り返すことを社会も認めるべきでしょう。あくまで時にはだけれど。
さて世の中経済々々とそれしかこの世にはないのかって言いたくなるくらいにみんなして経済を良くしなければと口々に言っていますが、単純に経済を良くする為にはどうすればよいのでしょうか。この経済を良くするための処方箋は時代によって異なり、戦前の日本であれば如何にして生産力を上げるかが最も重要視されましたが、近現代の日本においてはいかに消費力(主に国内の)を上げるかに注力されました。
この生産力と消費力ですが、言ってしまえばこの二つのうち片方だけが良くとも経済が好転するわけでもなく、効率よく力強い経済システムをつくるためにはこの生産と消費が二つ噛み合って高い水準になければならず、これは言い換えるなら物やサービスを作って付加価値をつける生産者、それらを購入して消費する消費者それぞれが成長しなければ経済も成長しないという事です。先ほど近現代では消費力を上げる事に政府は注力していると書きましたが、これは現代日本の生産力に比して消費力が不足しているという考え方からの処方策です。
このように消費と生産は車の両輪のよう揃っていなければいい経済にはならないのですが、生産者側、言い換えると物やサービスの売り手側の努力に対して近年の日本人消費者の行動や反応ぶりがこのところいささか目に余るというか、かえって全体利益を損なわせているのではないかと思うところがあります。もう早いところ結論を述べると、ちょっとこのところは政府や世間は消費者を甘やかし過ぎなんじゃないかと言いたいわけです。
私がこのように思うようになったのも、先日に政府で100円ライターの販売禁止が検討されている事が一つの大きなきっかけになりました。
事の起こりはこうで、小さい子供らを車の中に残しておいたところ、所有者である子供の親が置いていたライターを子供がいじくったのか車が炎上してしまい、そのまま数名の子供が火傷で死亡した事件が今年にありました。この事件が起こるや設立の初めからきな臭くは感じてはいましたが消費者庁が飛びつき、子供が遊ぶと危険だからしっかりとした対策がなされない限りは現行の100円ライターは全面禁止にしようと言い出しました。
しかし100円ライターを子供に渡しても平気なほどの対策を行うとなると明らかに製造コストが跳ね上がり、現製造メーカーらは規制が作られれば廃業してしまうと主張したものの消費者庁はだったら廃業してしまえと言わんばかりに、今でも聞く耳を持っていません。
そもそもの話、私はライターを子供の手の届く所に置いていたことこそが一番問題だと思います。厳しい意見となりますが子供が死亡した先ほどの車の炎上事件ではライターが置かれていた車内、さらには燃えやすい可燃物も置かれていたそうで、寝ていたとはいえ子供をそんなところに置きざりにしていたのですから同情こそするもののそれでライターを置いていたことが事故の原因とするのにはおかしさを感じます。
またこの100円ライター同様、二年前の秋葉原連続殺傷事件で両刃のナイフが使われたことを受けてすぐさま一定の長さ以上の両刃ナイフが販売はおろか使用まで禁止されましたが、牡蠣の養殖業を携わる方によると閉じた牡蠣の殻を割って中身を取り出す際に細身の両刃ナイフが長年使用され続けてきたのですが、この新しい規制によってこのナイフまで使用禁止となり、使用していた場合には罰金刑が課されるようになってしまったそうです。
100円ライターにしろ両刃ナイフにしろ、絶対的多数の人間、それこそ99%以上の人間が本来の生活上役に立つ使い方をしていたにもかかわらず、1%にも満たない不心得物が間違った使い方をしたのを受けて正直者99%に使用を禁止するなんて、どれだけ馬鹿な世の中なんだと言いたくなってくる話です。
特に100円ライターについては私は煙草を吸わないものの、家で逝去した祖父母に線香を焚く際によく使いますし、突然の大地震やバイオハザードが起きてゾンビが街に溢れたりするサバイバルな状況下では非常に有用なツールになるので禁止されるなんてふざけるなと声を大にして言いたいです。まぁバイオハザードはともかくとして、線香に火を点けるのであればチャッカマンでもいいのではと言う声もあるかもしれませんが、それだとライターが駄目でチャッカマンがいいという論理がまたおかしい気がします。第一、煙草に火を点けるのもチャッカマンに変えたら余計に危ない気がするし。
このように近年は何か事件や事故、しかも明らかに使用者側に問題があると思われるケースが起こるたびにすぐ規制がかかって関係のないほかの使用者も使えなくなるということが増えているように思えます。消費者保護といっては聞こえはいいですが実態的には単なるメーカーやまじめな使用者イジメにしかなっておらず、メーカー側もこうしたわけの分からない規制やクレームに対応しなければならないことを考えると社会全体に対して重いコストにしかなっていません。
もちろん商取引上、生産者(販売者)の方が消費者に対して偽装や欠陥を秘匿することができるため基本的には消費者保護の姿勢を社会は持たねばなりませんが、過剰な消費者保護は生産者はおろか真っ当な消費者の利益をも阻害しかねないと私は考えます。
特に近年は脅迫まがいのわけの分からないクレームをつける人間も増えており、消費者を保護する一方で真面目な生産者を社会が保護する必要性も現れてきたかと思います。生産者の側も商品やサービスを提供するからと言ってなんでもかんでも頭を下げても結局はそういったクレーマーを助長させることにしかならず、そろそろ正当なクレームと脅迫はしっかりと分けて、脅迫をしてくる人間に対しては「帰れボケッ( ゚皿゚)キーッ!!」って、時には怒鳴り返すことを社会も認めるべきでしょう。あくまで時にはだけれど。
2010年8月3日火曜日
最近ハマッている漫画
土曜日曜は一日十時間眠っていたのに対し月曜と昨夜は5時間くらいしか眠れなかったのがたたって、どうにも頭がボーっとします。通勤がもう少し短ければなぁ……。
そんなわけでまた趣味の漫画の話を今日はしようかと思いますが、実はこのところ漫画の購入量が急激に増えています。私は普段は漫画喫茶などを利用するなどして新刊はチェックするのですが、一回読むだけでは納得行かないと思えるいい作品にこのところよく会えています。
そんな中今一番はまっている作品ですが、もったいぶらずに言うと弐瓶勉氏の「シドニアの騎士」という漫画です。元々弐瓶勉氏についてはデビュー作の「BLAME!」の頃から知っており、当時からも他の漫画家と大きく一線を画す、巨大な建築物とその間における人間の対比が絶妙といえるような絵柄と、一回読んだだけじゃ全く何も理解できない超絶難解なストーリー構成から只者ではないと思っていましたが、現在も連載中のこの「シドニアの騎士」は「BLAME!」と比べて絵も内容も随分とマイルドになり、なおかつストーリーの重厚さは失われていなかったので改めてすごい漫画家だと思い知らされました。また「BLAME!」も買いなおそうかな。
弐瓶勉氏と並んで今私がもう一つはまっているのに、押切蓮介氏の「でろでろ」があります。元々押切蓮介氏はある日知ってしまった「ミスミソウ」という作品のストーリーがかなりアレだと聞いて興味が湧き、ひとまずデビュー作の「でろでろ」から読んでみようと手に取ったのがきっかけでした。
「でろでろ」の内容を簡単に紹介すると、これは一話完結型のギャグホラー作品なのですがなかなか癖になる話も多く、なおかつ意外と言っては失礼かもしれませんがキャラクターの書き分けが上手くて何度読み返しても面白いと素直に感じました。押切氏の絵についてもう一言加えると、最近の漫画家にしては非常に珍しくベタ(黒一色で塗りつぶす効果)の使い方が上手く、近年の漫画家が髪の毛をスクリーントーンを貼り付けて表現するのに対して押切氏はベタとケズリで器用に表現しています。こんなことしているのといったら他には「もやしもん」の作者と石川雅之氏くらいしか出てこないし。
そんなわけでまた趣味の漫画の話を今日はしようかと思いますが、実はこのところ漫画の購入量が急激に増えています。私は普段は漫画喫茶などを利用するなどして新刊はチェックするのですが、一回読むだけでは納得行かないと思えるいい作品にこのところよく会えています。
そんな中今一番はまっている作品ですが、もったいぶらずに言うと弐瓶勉氏の「シドニアの騎士」という漫画です。元々弐瓶勉氏についてはデビュー作の「BLAME!」の頃から知っており、当時からも他の漫画家と大きく一線を画す、巨大な建築物とその間における人間の対比が絶妙といえるような絵柄と、一回読んだだけじゃ全く何も理解できない超絶難解なストーリー構成から只者ではないと思っていましたが、現在も連載中のこの「シドニアの騎士」は「BLAME!」と比べて絵も内容も随分とマイルドになり、なおかつストーリーの重厚さは失われていなかったので改めてすごい漫画家だと思い知らされました。また「BLAME!」も買いなおそうかな。
弐瓶勉氏と並んで今私がもう一つはまっているのに、押切蓮介氏の「でろでろ」があります。元々押切蓮介氏はある日知ってしまった「ミスミソウ」という作品のストーリーがかなりアレだと聞いて興味が湧き、ひとまずデビュー作の「でろでろ」から読んでみようと手に取ったのがきっかけでした。
「でろでろ」の内容を簡単に紹介すると、これは一話完結型のギャグホラー作品なのですがなかなか癖になる話も多く、なおかつ意外と言っては失礼かもしれませんがキャラクターの書き分けが上手くて何度読み返しても面白いと素直に感じました。押切氏の絵についてもう一言加えると、最近の漫画家にしては非常に珍しくベタ(黒一色で塗りつぶす効果)の使い方が上手く、近年の漫画家が髪の毛をスクリーントーンを貼り付けて表現するのに対して押切氏はベタとケズリで器用に表現しています。こんなことしているのといったら他には「もやしもん」の作者と石川雅之氏くらいしか出てこないし。
2010年8月2日月曜日
組織拡大と綱領について
イギリス元首相のトニー・ブレアとなると日本ではジュニアブッシュに追従してイラク戦争に参戦したことからあまりいい評判ではありませんが、こと内政に関しては長く続いたイギリス病と呼ばれる長期不況から脱するなど目覚しい功績を残しております。そんな彼の経歴ですが、労働党の党首に若くして就任するやそれまでの労働党が持っていた社会福祉の絶対重視という綱領を一部捨て、保守党のマーガレット・サッチャーに始まる「第三の道」こと新自由主義路線の政策を採って中産階級にも支持を大きく広げることでなんと44歳という若さで英国首相という地位に上り詰めております。
トニー・ブレアの細かい政策内容についてまでは言及しませんが、彼は社会主義的性格の強い労働党の労働者保護などといった綱領を一部緩めるという事で組織拡大に成功したわけなのですが、早くから結論を述べると基本的に組織というのは綱領を強めた所ほど組織が縮小し、逆に緩めたところは組織拡大が起こる傾向があると以前から見ております。
同じく社会主義政党で英国労働党とちょうど好対照なのは日本の社民党なのですが、ここは冷戦が終わって社会主義国家像が薄れてからは以前よりも労働者保護と憲法護持という従来の主張をどんどんと強めていったのですが、結果は見ての通りですでに生息と息の泡沫政党にまで成り下がってしまいました。
私は組織というのは基本的に、アメーバのようなブヨブヨした流動体のような形で想像しております。組織というのはそのようにブヨブヨしているものだから、いくら綱領という凝固剤を投入したとしても時間が経つにつれてどんどんと崩れ落ちて行き、ボーっとしているとそのまま組織自体がなくなってしまうように考えています。
では組織を維持するためには何が必要なのかといえば、単純に行って門戸を大きく開き、新規の加入員をどんどんと連れてくることが何よりも大事です。たとえ一時期に大きな人気を博した綱領(憲法護持など)も経年劣化は避けられるわけもなく、時代ごとに求められる新たな概念を打ち出さなければ政党というものは自然消滅していくように思えます。
なにも日本の社民党に限らず世界的にも落ち目になってから従来からの支持者を強く繋ぎとめようと昔から持っている綱領を強めた組織は数多くありますが、結果的にはどれも余計に門戸を狭める事になって消滅を早める例が多いです。
何も綱領を全く持たずに緩々の組織であれば言いというわけではありませんが、がちがちに綱領を固めればいいってもんでもないという事でよくこのトニー・ブレアの話はあちこちでするようにしております。
翻って今の日本の消費市場ですが、どこの企業も対象とする顧客を強くゾーニングし、限られた顧客層に強く商品を売り出そうという傾向がこのところ強く見えます。顧客対象を調査して狙いをつけるということ自体は悪いというつもりはありませんが、なんていうか新たな商品をこれまであまり縁のなかった顧客層にもどんどん広げて行こうという、拡大していこうというような気概がどうもこのところ感じられません。昔のチキンラーメンみたいに、日本の食を変えてやるというような商品がでてこないものかとこのところよく思います。
トニー・ブレアの細かい政策内容についてまでは言及しませんが、彼は社会主義的性格の強い労働党の労働者保護などといった綱領を一部緩めるという事で組織拡大に成功したわけなのですが、早くから結論を述べると基本的に組織というのは綱領を強めた所ほど組織が縮小し、逆に緩めたところは組織拡大が起こる傾向があると以前から見ております。
同じく社会主義政党で英国労働党とちょうど好対照なのは日本の社民党なのですが、ここは冷戦が終わって社会主義国家像が薄れてからは以前よりも労働者保護と憲法護持という従来の主張をどんどんと強めていったのですが、結果は見ての通りですでに生息と息の泡沫政党にまで成り下がってしまいました。
私は組織というのは基本的に、アメーバのようなブヨブヨした流動体のような形で想像しております。組織というのはそのようにブヨブヨしているものだから、いくら綱領という凝固剤を投入したとしても時間が経つにつれてどんどんと崩れ落ちて行き、ボーっとしているとそのまま組織自体がなくなってしまうように考えています。
では組織を維持するためには何が必要なのかといえば、単純に行って門戸を大きく開き、新規の加入員をどんどんと連れてくることが何よりも大事です。たとえ一時期に大きな人気を博した綱領(憲法護持など)も経年劣化は避けられるわけもなく、時代ごとに求められる新たな概念を打ち出さなければ政党というものは自然消滅していくように思えます。
なにも日本の社民党に限らず世界的にも落ち目になってから従来からの支持者を強く繋ぎとめようと昔から持っている綱領を強めた組織は数多くありますが、結果的にはどれも余計に門戸を狭める事になって消滅を早める例が多いです。
何も綱領を全く持たずに緩々の組織であれば言いというわけではありませんが、がちがちに綱領を固めればいいってもんでもないという事でよくこのトニー・ブレアの話はあちこちでするようにしております。
翻って今の日本の消費市場ですが、どこの企業も対象とする顧客を強くゾーニングし、限られた顧客層に強く商品を売り出そうという傾向がこのところ強く見えます。顧客対象を調査して狙いをつけるということ自体は悪いというつもりはありませんが、なんていうか新たな商品をこれまであまり縁のなかった顧客層にもどんどん広げて行こうという、拡大していこうというような気概がどうもこのところ感じられません。昔のチキンラーメンみたいに、日本の食を変えてやるというような商品がでてこないものかとこのところよく思います。
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