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2015年6月9日火曜日

ダイエー・松下戦争

 私より上の世代ならお馴染みかもしれませんが私より下の世代ならせいぜい私と冷凍たこ焼き大好きな友人くらいしか知らないと思うので、今日は一つ昔話としてダイエー・松下戦争を紹介します。

ダイエー・松下戦争(Wikipedia)

 この戦争は1964年から1994年の足かけ30年に渡ってダイエーと松下(現パナソニック)との間でテレビ販売の取扱いを巡り繰り広げられた戦争を指します。何気に30年という期間といい、片方の親玉の死去により集結したことといい、ドイツ三十年戦争といろいろ被ります。

 この戦争の始まりはダイエー側から松下側への侵略ともいうべき交渉から始まります。当時、松下は自社製テレビをいわゆる「ナショナルのお店」と言われた特約店にのみ卸していたのですが、その特約店に対しては小売価格を統制し、実質的に生産から卸売、小売までのサプライチェーンを垂直統合しておりました。
 そもそも松下は日本の家電メーカーとしては技術力や開発力が特段優れていたわけではなく、この点で言えばむしろソニーや三洋の方が大きく上回っていたでしょう。にもかかわらず何故松下は日本一の家電メーカーとなり得たのかというと、商品の供給を条件に上記の特約店を厳しく管理し、価格の下落を防いできたからです。このサプライチェーンの統制こそが松下幸之助の代表的な経営手法と言えるでしょう。

 こうした幸之助の牙城に対し切り崩しにかかったのがほかでもなくダイエーの中内功でした。中内は松下がテレビの販売に当たって許容していた希望小売価格の値下げ範囲の15%を超える20%引きで販売しようとしたところ、この動きを懸念した松下はダイエーに対してテレビの供給をストップさせました。そしたら今度はダイエーが松下のやり方は独占禁止法違反だとして裁判所に訴えだし、両者の関係は泥沼へと向かいます。

 ダイエー側はあくまでもいい商品を安く提供するという「消費者の利益」を主張したのに対し、価格を維持して適正な利潤を上げることによって特約店との「共存・共栄」を主張し、議論は平行線を辿ります。両社のトップは何度か直談判して和解策を探ったものの、結局どちらも折れることなく対立は続き、1970年にダイエーがプライベートブランドで13インチのカラーテレビを当時としては破格値である59800円で売り出したことによってより先鋭化していきました。
 最終的に両社が和解したのは幸之助が没した後の1994年で、ダイエーが松下と取引のある小売会社を買収して取引を再開するようになり、結果論で言えば松下が折れてダイエーが勝利したと言えるのがこの戦争の結末です。

 この30年戦争によって何が起こったのかというと、最も大きいのはなんといっても家電メーカーと小売店の立場の逆転でしょう。先程も書いたように以前はメーカーである松下が商品の価格決定権を持っており、これに逆らう小売店には商品供給をストップさせることで締めだすことが出来ました。しかしダイエーが風穴を開けて以降、価格決定権は小売店、並びに消費者が持つに至り、メーカー側はむしろ小売店に頼み込んで商品を置いてもらわないと売上げが立たなくなるほど立場が弱くなりました。
 実際、現代において小売と家電メーカーでは小売側が圧倒的に力が強くなっており、大手家電量販店が新店舗をオープンさせる際は家電メーカーの営業社員を雑用として無賃で働かせるという例もよく報告されており、ネットなどで見ていても小売側から出される無理難題にメーカー営業社員が泣かされるという話を目にします。

 そのように考えるとこのダイエー・松下戦争は現在のサプライチェーン間における立場の逆転を決定づける象徴的な事件だったのではないかと思え、なかなかに無視できない大きな事件だったようにこの頃思います。ただ仮にこの事件がなくともグローバル化によって現代のような趨勢は起きていた、言うなればダイエーがいなくてもいずれこのようになったと思いはしますが。

 最後にもう一つだけ付け加えると、一時期は猛威を振るった家電量販店も近年はネット販売の普及によって最大手のヤマダ電機を筆頭に苦戦が続いていると報じられています。所変われば時代は変わるもんで、恐らくこの流れは今後も続くでしょう。これに対して家電メーカー側は米アップルの様に強力なブランド力を持つか、自らネット販売のサプライチェーンをうまく構築できなければますますフェードアウトすると私は見ており、BTOパソコンの様にBTO洗濯機やBTO冷蔵庫を作るベンチャーも現れるんじゃないかと密かに期待してます。

2015年6月8日月曜日

プライベートブランドで得するのは誰か?

 先日書いた「安けりゃいいってもんじゃないプライベートブランド」の記事で、友人からコメントで下記のような質問を受けました。質問主に対してはその後でスカイプで連絡を取り既に回答をしましたが、折角だからブログ上でもこの問いに対する私の回答を下記に記します。

<質問内容>
 「値切ってナンボな世界の方が消費者はどんどん賢くなろうとして良いのでは?」と思うと同時に「でもそうなると買い物もギスギスしながら、腹さぐりあいながらで神経削れるなぁ」とも思います。花園さんとしてはどちらの購入方式が主流の方が社会的に大きい利益になると考えられますかね?

<回答内容>
 結論から言えば消費者が賢くなって商品の価格と品質にシビアになれば小売り側としても対応せざるを得なくなり、「価格に対する品質」は確実に向上していくでしょう。ただ消費者の要求が異常に高く、たとえば商品やサービスの質がいいにもかかわらずさらに価格を下げるような要求が続くとサービスの供給側は疲弊することとなり、結果的には上記の価格に対する品質は悪化することとなるでしょう。
つまりいい消費市場は品質に対し相応の代価を支払う消費者と、代価に対し相応の品質を提供する供給者の二者が揃って初めて成立すると言えます。そういう意味では消費者も供給者も互いに賢くなることが求められるわけですが、実際の商取引上は供給側の方が有利というか消費者をだましやすい立場にあるため、消費者を保護するような法体系が必要だと私は考えます。

 と、上記のような回答をした後、追加で下記のような新たな質問を受けました。

<質問内容 その二>
 プライベートブランドによって商品を生産するメーカーのメリットは大きいのでしょうか?

<回答内容 その二>
 恐らく、メーカー側としては本音ではプライベートブランドなんてやりたくないのではないかと思える。

 実はこのトピックは最初の記事でも書こうと思っていた内容でしたが、最初の記事ではかなり文章が長くなってしまったためやむなく省略していた内容だっただけに、この質問が来て内心うれしい思いがしました。そもそもの話をするとこのプライベートブランド関連の記事ネタは冷凍たこ焼きが好きな友人との会話をまとめたもので、その際に一番盛り上がったのもこのメーカー側の影響話でした。

 そんなわけで解説に移りますが、プライベートブランドとは販売業者、たとえば「セブンプレミアム」で言えば販売を行うセブン&アイ・ホールディングスが企画・開発し、食品メーカーなどに生産してもらう商品を指します。この販売手法の各方面に対するメリットとデメリットは前回記事でまとめましたが、販売側のメリットとしては自社の開発製品として売り出せるため粗利率の上昇、並びにブランドイメージの向上があり、メーカー側としては工場稼働率の上昇、自社ブランド(=ナショナルブランド)製品を売り出す下地作りが出来ると挙げられています。

 しかし実際には、こう言ってはなんですがメーカー側にはほとんどメリットがないというのが実態のようです。一つ例を出すと、味塩コショウを作っているある食品メーカーが小売業者からプライベートブランドの企画を持ちだされ、その話に乗るとします。小売業者と一緒に開発するとはいえ変わるのはパッケージ程度なもので、味塩コショウの中身自体は従来品とほぼ全く変わることはありません。ですがプライベートブランド化に伴って商品の卸値は引き下げられるので、メーカー側としては味塩コショウの粗利率は下がってしまいます。
 さらにそうして開発された味塩コショウは、持ちかけてきた小売業者のブランドで売られるため、他の小売業者に対して並行販売することが出来なくなります。契約した小売業者がある程度まとまった量で購入し続けてくれるとはいえ商品の横展開はできなくなるため、メーカー側としては決して面白くないでしょう。

 ではここで疑問ですが、粗利率は下がるし横展開も出来なくなるなど一見するとデメリットの方が多いように見えるのにどうしてメーカーはプライベートブランドの企画に乗っかるのでしょうか?これは私と友人の推論ですがメーカー側としては、本音ではやりたくないものの小売業者に圧迫かけられて無理矢理やらされているというのが実情のように見えます。
 実際にイトーヨーカドーやイオンの売り場を見ているとプライベートブランド商品がずらっと並んでいる棚には通常のメーカーブランド商品がないことが多いです。つまりプライベートブランドに協力しないと売り場から商品が締め出されるため、やむなくデメリットを覚悟でメーカーは作ってるのではないかと思えます。さっきの味塩コショウなんかそれで、前から気に入っているダイショーのが買えなかったし。

 実際、こういうことがまかり通るほど現代社会では小売企業のイニシアチブがどこの業界でも強いです。別にこうしたやり方を否定するつもりはないしひどいやり方だとは思いますが、メーカーとしては何らかの形でナショナルブランドを確立させないと今後どんどん埋没していく可能性があります。対抗手段としては同じメーカー同士で何かしら連合を組むとか、大手の小売業者に対抗するため第三極となるような企業を応援するとかやった方が良いのではと個人的に思います。

 なお小売業者がサプライチェーンの中でメーカーの力を上回るように至る、一つ大きなきっかけとなる事件が過去にありました。ちょうど頃合いだし前から準備もしていたので、次は私がそのきっかけとみなしている松下・ダイエー戦争についてでも書いてみましょう。

2015年6月7日日曜日

フジテレビの「~パン」シリーズにおける起死回生策

 昨日は自転車サークルで暑い中約70キロ走ったせいか今日はやけに体重く、昼ごはん外に食べに行った後で昼寝してましたがいまいち今日なにしたかという記憶曖昧です。晩御飯には8元(約160円)の卵チャーハン食べて12元(約240円)のケーキ買って帰ろ。

視聴率1%台でフジの「○○パン」がついに打ち止め? 局内からも「パンが多すぎる」と批判の声(週プレNEWS)

 そんなけだるい気分の中、ちょっと気になったのが上記のニュースです。フジテレビの代々の新人女性アナがMCを務め、そのMCの名前から無理やり「~パン」とするトークバラエティ番組シリーズの視聴率が絶望的で打ち切りが健闘されている模様です。このシリーズ番組は初代MCの千野志麻アナの名前に引っ掛けて「チノパン」となって以降、「アヤパン」とか「カトパン」とか、こう言っちゃなんだけど無理して番組名にするなよと思うような名前のMCにも無理矢理「~パン」としてやってきており、最初のコンセプトの時点でいろいろ間違ってたんじゃないかなと個人的に思います。

 現在は永島優美アナによる「ユミパン」という名前で放送されているようですが視聴率は上記のとおりひどいもので、もうこの際だから打ち切ったらどうかってのが上記の記事内容です。しかしもし何でもやっていいのであれば私の中には一つ、起死回生の腹案があります。
 それはどんな腹案かというと、無理矢理「~パン」と名前を付ける人物をMCにつけるのではなく、始めから「~パン」と呼ばれている人物を持ってくる、具体的に言えば、現役在職時代にネット上で「チンパン」とあだ名された福田康夫元首相をMCに持ってくるという柵です。

 この方法なら「~パン」という無理矢理なネーミングにねじ込む必要がないどころか初めから「チンパン」で定着しているし、福田元首相が普通の女子アナがやってるようなグルメレポートやエステ体験をしてテレビ番組に流せば視聴者も反応するだろうし、官房長官時代の様に「ここのエステはまぁ、人並みには見られるようにはなるんじゃないですか」などとまるで他人事のようなレポートしてくれればしめたものです。
 またちょっとお堅いニュースも報じようってのなら福田元首相から政治家へアポなし取材をかけてもらうのもありかもしれません。アポなしとはいえ、元首相からのインタビュー依頼を断る政治家なんてそうそういないでしょうし。

 私案ながらこの起用策は決して悪くない気がします。ですので落ち目のフジテレビには是非とも福田元首相にこのコンセプトで出演依頼をかけるべきでしょうし、役に立たない女子アナなんてわざわざ番組に使うこともないでしょう。

 最後に本題とは関係ありませんが、知ってる人には有名ですが最初に挙げた千野志麻アナは2013年に静岡県のホテル駐車場内で男性一人を轢く死亡事故を起こしております。千野アナには昔の傷を穿り返すような書き方になるのでいくらか申し訳ないと思うのですが、この事故後、千野アナは逮捕されないまま書類送検となり、罰金刑を受けております。
 仮にこのような死亡事故を一般人が起こした場合、警察はまず間違いなくその当事者を逮捕した上でメディアも実名などをニュースで報じることになるでしょう。では何故千野アナは逮捕されなかったのかですが、知名度が高く逃亡が難しいと判断されたとも考えられますが、それにしても事故後の警察の対応は非常に温度差があったように感じられます。

 またこれとは別に、事故被害者が赤信号で飛び出して来たとか、別の車に弾き飛ばされて轢いてしまったなどの不可抗力ともいえるケースでも、死亡事故を起こした当事者は事故後に職業とフルネームがメディアによって報じられてしまいます。刑罰には社会的制裁も含まれるとはいえ、このような不可抗力と思えるケースでもそこまでの制裁を受ける必要があるのか強く疑問を覚えます。はっきり言えば、飲酒運転など当事者に強く起因する事故でない限りは名前などは報じるべきではないというのが私の意見です。

2015年6月5日金曜日

安けりゃいいってもんじゃないプライベートブランド

 「トップバリュ」や「セブンプレミアム」などで既におなじみのプライベートブランドですが、今日は少し昔話と共にこの販売戦術の表と裏について私の思うことを書いていきます。

プライベートブランド(Wikipedia)

 プライベートブランドとは主に小売企業が主体となって行われる、自社で商品を企画・開発してメーカーに生産委託し、自社のブランドで販売するという手法を指します。このプライベートブランドという販売手法によってどのような効果が得られるのかですが、上記リンク先のウィキペディアに各方面のメリットとデメリットがきれいにまとめられているので、そこから引用いたします。

<メリット>
  消費者側
・ナショナルブランドとほぼ同品質の製品を、より安価に購入できる。
・ナショナルブランドにはない高品質・付加価値のある製品を購入できる。

  販売側
・商品の仕様を容易に変更できるため、小売店・消費者の声を直接反映した商品を販売できる。
・宣伝・営業費用や卸売り業者は不要であるため、ナショナルブランド商品よりも粗利益率が5 - 10ポイント程度高く、販売価格を自由に設定できる。
・原材料・製造方法・仕様を指定することで、商品にオリジナリティのある付加価値をつけることができ、企業・ブランドイメージの向上を計ることができる。

  メーカー側
・一定量の販売が確約されることにより、閑散期でも工場稼働率を上げて効率よく生産できるため、コスト削減が可能となる。
・売上を安定させることでメーカーの経営が安定する。
・ナショナルブランドの開発・売込みの土壌を作ることができる。

<デメリット>
  消費者側
・ナショナルブランドと同じように見えても原材料や配合比率・加工方法・内容量を変えている場合があり、風味・食感に影響を及ぼしたり、品質が価格相応もしくは割高になる場合もある。
・販売店はプライベートブランド商品を優先して取り扱うためにナショナルブランド商品の取り扱いが削減され、商品の選択の幅が狭められる場合がある。
・当初からナショナルブランドより低価格の商品が多いため、特売商品となりにくい(賞味期限の近い食品などの割引を除く)。
・大半の商品で製造者が記載されていないため、消費者から製造者への意見を直接伝えるのが難しい。

  販売側
・全量買い取りであるため売れ残りが出ても返品できず、他社に転売することもできない。また追加生産のタイミングを誤ると長期間品切れになってしまうので、常に在庫リスクが発生する。
・食中毒や異物混入などの事故が発生した場合、製造者に代ってクレーム対応などの責任を負わなければならない。また生産終了後のアフターサービスも行わなければならない。

  メーカー側
・並行して生産しているナショナルブランド商品の売り上げが減少することがある。
・商品によっては粗利益率がナショナルブランドよりも10ポイント程度低くなることがある。
・販売側の指摘する規格と誤差が生じた場合、商品の受け取り拒否をされることがある。とくに食品の場合は転売はおろか中身の詰め替えもできず、大量の在庫を抱えたり、そのまま処分しなければならず、本来回収できるはずの費用が入ってこないため、資金繰りが苦しくなる。
・受託生産の依存度が高くなるとナショナルブランドの開発力・営業力が低下し、工場の稼働率が発注元の発注量に左右される。

 上記の列記された内容は非常によくまとまっており、この内容を覚えればプライベートブランドに関しては物知り博士と名乗ってもいいくらいです。ただもうこれ以上私から書くことはないと言えばそれまでとなっちゃうので、昨今のプライベートブランドの状況について続いて書いてきます。

 まず結論から言うと、プライベートブランドで最も成功しているのは間違いなくセブンイレブン、イトーヨーカドーで展開される「セブンプレミアム」と言っていいでしょう。このセブンプレミアムは消費者にも大分浸透しているように思え、またその品質と価格が幅広い層に評価されて商品幅も年々拡大しているように見えます。実際に私も日本にいた頃にセブンプレミアムの商品を買って試してたりしましたが、商品によってはナショナルブランド商品よりも割高なものもありながら品質に関しては文句がなく、値段を考えれば割に合うかと思えました。
 ただこのセブンプレミアムで一番重要な点は、品質や価格がいいから売れているというよりも、ナショナルブランドを完全に締めだしているから売れているという点もあるのではないかという気がします。これも私の体験ですが、ステーキ焼くのに味塩コショウを捜したらセブンプレミアム品しか置いてなく、いつも買っていたダイショーの商品が置いてなかったのでやむなく前者を購入しました。味塩コショウに限らなくてもセブンプレミアムにはこういうことが多く、不満はないのですけど選択肢が狭まっているような印象を覚えます。

 そのセブン&アイホールディングスのライバルと言ってもいいイオングループでは「トップバリュ」というプライベートブランドを展開していますが、失敗とまでは言わないまでもライバルには大分差をつけられているように思えます。価格面は確かに安価な製品が多いですが品質に対しては私の周りでは評価は高くなく、私自身も正直に言えば「安かろう悪かろう」という印象を持っています。
 さらに近年では2013年にイオンに米を卸していた三瀧商事が国産米として中国産米を偽装して販売していたことが明るみになり、これの煽りを食ってかトップバリュの製品も産地表示などで大きく疑念を持たれるようになったのも追い打ちをかけています。しかも事件が本格的に明るみになる前に週刊文春が産地偽装米がイオンの弁当などに使われていることを報じた際はイオンは事実を否定した上、文春を売り場から撤去するとともに損害賠償請求を起こしており、こう言ってはなんですが事実隠蔽と見られかねないまずい対応を取ってしまっております。


 あくまで個人的な意見ですが、この時のまずい対応を消費者はやっぱり覚えているように見えます。そのためトップバリュに対しては「安かろう悪かろう中国産だろう」のイメージが強く、このイメージを解き放つのは並大抵ではないでしょう。またプライベートブランドは文字通りその小売企業の看板を背負った商品であり、商品イメージの悪化がそのまま企業イメージにも大きなダメージを与えることにもなりません。

 実際に過去、プライベートブランドのイメージが悪くて販売する小売企業のイメージまで大きく悪化させた例があります。それは何かというと、かつての小売王者であるダイエーの「セービング」というプライベートブランドです。
 私が子供だった頃、ダイエーでこのセービングのコーラが1本50円くらいで売っているのを見て、「すげーコーラが半額だ!」と驚きながら親にねだって買ってもらって飲んだところ、あまりの不味さに全部飲み切れずに捨ててしまったという苦い思い出があります。コーラに限らずセービングの商品はどれも価格は極端に安かったものの品質が悪く、アナリストなどからも消費者のダイエー離れを加速させる一因になったとも指摘されています。
 私の中でもあの不味いコーラのイメージは強烈で、二度とセービングと名のついた商品は買うものかと北斗七星に誓ったほどでした。でもってダイエーに足を運ぶことも減ったわけですが、ダイエーのその後の顛末は歴史の通りです。

 何が言いたいのかというと、プライベートブランドは企業の看板を大きく背負っているだけに品質が悪いと会社そのもののイメージも大きく悪化するという傾向があるのではということです。そのためいくら商品を売るため品質を落として価格を下げるやり方は逆効果で、そういう意味では多少割高であっても高い品質を維持した方がブランドイメージは守れるのではと思います。
 そう考えるとセブンプレミアムの路線はなかなか理に適っており、今後もスタンダードの位置を維持していくんじゃないかと私は見ています。

  おまけ
 マッドシティの潜伏地ではヨーカドーが近かったのでよくここで買い物してましたが、あの店舗は売り場の配置が変な形になってほしい商品がなかなか見つからないことが多かったです。一番苦労したのは100円の羊羹探しだったっけな。

2015年6月4日木曜日

地方紙が減ると現職が受かる?

 先日、私がこのブログで悉く毎日の記者をこき下ろす記事を読んだのか、「毎日の記者でもこんないい本書いてるぞ」と言って、友人がある本を紹介してきました。どうでもいいですがその友人は冷凍庫にいつも冷凍たこ焼きを常備しています。



 上記の本は毎日新聞の米国支局などで働いていた方が日本以上に経営が大きく傾いている米国の新聞業界について丹念な取材をした上、現状と今後の展望についてまとめられた本です。一言で言って非常によく整った内容で、米国のジャーナリズムが今どんな状態にあるのか、またインターネットの普及によってかつてと比べて圧倒的に経営環境が悪化する中でジャーナリストたちはどのように時代へ対応しようとするのかがしっかり書かれてあり、毎日にもこんないい記者がいたのかと唸らせられました。
 この本についてつきっきりで解説してもいいのですが、今回は敢えてこの本に書かれていて私が特に注目した点について紹介しようと思います。それはどんな点かというと、地方新聞が減少するにつれて地方議会選挙で現職議員が有利になるという米国の調査結果です。

 最初にまずアメリカの新聞業界の現状について少しだけ触れますが、端的に言えばインターネットの普及に伴う新聞離れが日本の状況なんかよりもずっと深刻で、特にリーマンショックのあった2008年以降は全米で新聞社の経営が一気に傾き、新聞社で働く記者の五分の一が退職する羽目となっております。
 こうした中、米国の新聞各社はこぞって、「何故市民は新聞を読まないのか」という理由を調査し、その上でネットとどのように連動して購読料を得るのかを必死で模索したり、安価で質の良い報道をどう行うか、他社とどのように連携すればベストなのかと様々な取り組みを行っています。日本でもこういう動きが全くないわけではありませんが米国と比べるとやはり鈍く、というのも日本の場合は新聞配達システムが異常なまでに完備されているため米国ほど新聞離れが急激ではなかったという事情が作用しています。

 そのように米国の新聞業界、というよりメディア業界は激しく揺れ動いている最中なのですが、先ほどの新聞離れの原因を探る調査の中で一つ面白い結果が出ており、それが地方紙が減ることによって地方議会選挙で現職議員が有利になるという調査結果です。
 米国は日本と比べると、というより日本の新聞業界だけが世界的にも珍しく朝日や読売といった全国紙のシェアが極端に高い国なのですが、米国にもワシントンポストなど全国紙はあるもののどちらかと言えば州や都市ごとに発行される地方紙を購読する層の方が多いです。ただ地方新聞社は全国紙の新聞社と比べると経営体力は弱く、リーマンショック以降は経費節約のため取材範囲を狭めたり、下手したら倒産するケースが増えており、発行される地方新聞の種類は減少傾向にあるそうです。

 そうした中で起きている変化というのが、先ほどの地方議会の選挙結果です。一体何故地方新聞が減ることで選挙に影響が出るのかというと、地元の選挙について各立候補者の主張にまで掘り下げた取材をして報じる記事が減るからです。
 地方紙がメインに扱うトピックは言うまでもなく地元のローカルニュースです。逆に全国紙は日本の全国紙よろしく、大都市ならともかく小さい地方自治体の議会選挙なんて細かく報じることはないでしょう。なので各立候補者の政治信条や政策案などを細かく報じる地方紙が減少すると有権者たちは地元の選挙戦の情報が得られないためか、自然と「前もやっていたんだし」とばかりに現職への投票行動を強め、新人議員が出辛くなっていくというのが今、米国で起こっているそうです。

 この話を見てパッと思いついた言葉は、「日本は何年前からだ」という一言でした。日本にも地方紙はもちろんありますが米国ほど流通量は多くなく、大半の日本人が読むのは全国紙です。地方議会選挙について関心を持つ市民は大都市を除くと傍目から言ってそれほど多くないし、また地方紙を除くと立候補者についていちいち報じるメディアは皆無と言っていいでしょう。
 日本はただでさえ地方紙を読む層が多くない上に、近年は地方新聞社の経営悪化によって取材の範囲も狭まっているとよく聞きます。つまり何が言いたいのかというと、日本の地方議会の混乱や腐敗は地方紙の衰退が大きく作用しているのではと言いたいわけです。

 日本の地方議会の混乱に関しては昔から何度もこのブログで私も狂犬のように吠えてきましたが、去年の号泣議員みたいなカス議員の話は枚挙に暇がなく、なんでこんなのが受かるのかっていうとメディアの監視が機能せず世間もほとんど関心を持たないということに尽きるでしょう。そして一番監視を行うべき立場にある地方紙がこのところ元気がなく、米国の様に現職ばかり受かって新人地方議員が生まれてこないという悪循環が以前から続いているのではないかと私は考えます。

 私は以前から日本の政治の混乱は政治家が育たない土壌に原因があり、それは国会というよりも政治経験を鍛えることのできる地方議会がきちんと機能していないせいだと分析してきました。今もこの考えは変わっていないのですが、地方議会の問題点や、逆に有望な新人をきちんと報じて有権者に伝えられるメディアがいないというのが案外、根本的な原因ではないかと思えてきました。
 ではこれからの日本のために地方紙にはもっと頑張ってもらうしかないかと言えば、ちょっとこれには私は「うーん」と言ってしまいます。なんでかっていうと日本の地方紙最大手の「中日新聞」は逆恨みもありますが大嫌いだし、ほかにも具体名は挙げませんが大きい地方新聞社は大概にしろよと言いたくなるほど偏向的な報道が見られます。田中康夫の時は酷かったし。
 一番期待したいのは米国流ですがNPOで、地方議会の現状は選挙において有権者へ適切に情報を送るような組織が育ってもらいたいというのが一番の希望です。私自身がそういうNPO作りたかったのもありますが、さすがにもうこれ以上は運命に翻弄されたくないしなぁ。

2015年6月3日水曜日

ジョジョに見る美しい日本語

 先日、私は「負のオーラ」という記事で鬱憤なりフラストレーションがたまった状態の方が良い記事が書きやすいと紹介しました。言ってしまえば憎悪を剥き出しにして何かを批判する記事を書くとそれなりに文章も締まってメッセージ性も高まるのですが、これらは言うまでもなく負の感情がこもった文章です。
 ただこれの逆、つまり何かを誉めたり賞賛したりする正の感情を文章にするというのは案外難しかったりします。文章で何かを誉めようとすると有体な表現というか見慣れた表現の連発になりやすく、またそうした表現は繰り返せば繰り返すほど安っぽく見えてきます。なお余談ですが、京都人が誉め言葉を使う際は本当に誉めて言っていることより皮肉で言っていることの方が多いです。

 なんで本当に心の底から賞賛したいという気持ちがあっても、それを文章で表現するとなるとそれは至難の業です。賞賛に限らず感謝や激励といった正の感情を文章にぶつけようと思ってもなかなかぶつけきれず、これまで私もそこそこの時間を文筆に捧げてきましたが「これだ」と納得できる表現に仕立て上げられた覚えは負の感情とは違い一度もありません。逆に負の感情だったら「どうや!」って言える表現はいくらでも作ってきた覚えはありますが。
 なおまた話が横道それますが正の感情の中で一番頻出なのは恋愛系の感情で、J-POPの歌詞なんかは逆にこれしかないのと言いたくなるくらい溢れてます。しかしどの恋愛ソングも私の胸を打つ表現はなく、「てめーらの感情なんてこの程度か」とやけに上から目線で物言ってます。

 話は戻しますが、そういう正の感情が込められた文章として一番私の胸を打った作品は何かというと、変な話ですが人気漫画の「ジョジョの奇妙な冒険」でした。この漫画はセリフ回しが独特で名言も数多く生み出されていますが、それらの名言とされる表現はどっちかっていうと激しいものが多く、具体的には、「このド低能がぁー!」、「かかったなアホが!」などばかりですが、こうした暴言に紛れて実にきれいな日本語表現がたまに入ってきます。
 それらのきれいな表現はそれまでのストーリーがあるからこそ映えるというのもありますが、第七部「スティール・ボール・ラン」の後半で主人公のジョニィ・ジョースターがそれまで一緒に旅して苦楽を共にしてきたジャイロ・ツェペリに向けて言った下記の言葉が、本当に私の胸を打ちました。

「ありがとう…ありがとうジャイロ。本当に…本当に…『ありがとう』…それしか言う言葉がみつからない…」(22巻より)

 恥ずかしい話ですがこの表現を見る度に私はリアルに涙を流します(ノД`)
 必要以上に言葉は重ねず、友へ向ける感謝の気持ちを「ありがとう」としか言えないとするこの表現は私が知る限り最も感情が込められている表現のように思え、もし仮に使う機会があったらどっかで使おうと密かに画策しているくらい気に入っています。

 同じくこの第七部では本編とは別にインターミッション的な回想シーンがあるのですが、そこでの文章も際立って美しい表現が成されています。ここで簡単にこの第七部のあらすじを説明しますが、主人公たちは騎馬でのアメリカ横断レースに参加しているのですがそのレースの過程で「聖人の遺体」を奪い合うこととなり、暗殺者たちに狙われながらレースというか旅を続けるという話です。
 そのインターミッションは旅の途中、主人公が独白するような形で語られます。ちょっと長いですが引用すると、


馬が入れる木の下や岩陰を見つけたら
とにかくその場所に防虫対策の簡易ベッドを作って ひたすら寝た
馬は立って眠る
陽が傾きかけたら再出発で 月明りがあれば夜進み
闇夜なら 馬が岩や毒トゲで負傷するリスクをさけ 即刻キャンプの決断をする
ぼくらの馬は水を4日間飲まなくても大丈夫だった

夜のキャンプ時もそれなりに忙しい
馬の毛並みのブラッシングをみっちり数時間してやる
筋肉マッサージの意味もあるが 防虫や病気の危険回避のためだ

進行中 道幅の視界が狭くなり
仮に道端に朽ちた木の十字架が何基かあったら要注意だ
過去に山賊が旅人を虐殺したか それに近い事故が起こった場所の可能性が高い
襲撃に適した「地形」という事だ
敵はいないかもしれないが まわり道するか
または覚悟を決めて 戦闘態勢をとってそこを通り抜けるしかない

でも レース中もっとも神経と体力を使うのは「河」を渡る時だ
それが大きい河だろうと 小さい河だろうと
水に入ると360°無防備状態になるし ブヨや蚊の大群はいるし
もし水の中を泳いでいるマムシに馬が噛まれでもしたら その時点でアウトだからだ

ここまでの旅 いったい何本の「河」をぼくらは渡って来たのだろう……
そしてあといくつの「河」を渡るのだろう……

ジャイロの淹れるイタリアン・コーヒーは こんな旅において格別の楽しみだ
コールタールみたいにまっ黒でドロドロで 同じ量の砂糖を入れて飲む
これをダブルで飲むといままでの疲れが全部吹っ飛んで
驚くほどの元気が体の芯からわいてくる
信じられないくらいいい香りで もっともっと旅を続けようって幸せな気分になる
まさに大地の恵みだ
ジャイロはたまにこれをヴァルキリー(馬)たちにぬるーくして飲ましている
(14巻より、サイト「族長の初夏」さんの「荒木飛呂彦の文体」という記事を参照しました)


 紀行文のような文章ですが、読んでいて旅の様子が目に浮かぶようであり、また主人公二人の本筋には出てこない交流も書かれるなど、一読して凄い衝撃を受けた文章でした。正直に述べると、これほどきれいな文章を自分には書ける自信がありません。

 「ジョジョの奇妙な冒険」の作者である荒木飛呂彦氏は漫画家としても一流ですが、こうした場面場面の言葉の表現においても地味にすごい才能の持ち主のように見えます。ジョジョというと激しい表現ばかり注目されがちですが、こうしたきれいな表現ももっと注目されてもいいのではないかと思えます。

2015年6月1日月曜日

派遣雇用の望ましい形

 このブログ開設当初はたくさんあった政策話をこのところほとんどしていないのと、ここらでまたすこしテコ入れしとかないともう次はないと思うので、また派遣雇用について私が「こうあるべきだ」と思う形について説明します。
 結論から述べると、私は日本の雇用形態は現在の正社員を中心として考える法体系から派遣雇用を中心とした形態に変えていくべきで、言ってしまえば派遣雇用をもっと促進するべきだという立場を取ります。ただそれは派遣雇用がきちんとしたルールの上で運用されることを前提としており、現状は罰則がないため折角の法律も機能しているとは思えず、また派遣企業の乱立振りも目に余るため業界再編を促すべきだとも考えております。

 私は今年の1月に改正派遣法によって各派遣企業に公開が義務付けられているマージン率がきちんとネット上で公開されているのか、またその平均値はどの程度なのかを調べ、下記の記事にてそのデータを公開しました。

人材派遣企業各社のマージン率一覧、及びその公開率

<マージン率は原則ネット上で公開するべし>
 記事の内容は執筆前から友人に太鼓判を押されていたのもありますが私としても絶対の自信を持っており、おかげさまで「マージン率」と検索かけたら大体どこもこの記事が一番上にヒットするようになり、コメント欄を見ても現役の派遣雇用の方々に見てもらっているようでそこそこの仕事をしたという自負があります。
 私が何故この記事を書こうと思ったのかというと前の記事でも書いてありますが、派遣雇用を考える上でいちばん基本となるデータというのがこのマージン率だと思え、このマージン率を叩き台にして現在の状況はどんなものか、派遣企業のピンハネは酷くないか、逆に良心的な派遣企業はどこなのかを探れるのではと考えました。しかし公開こそ法律で義務付けられているものの罰則がないためかネット上で正直に公開している企業は5分の1程度しかなく、これでは比較のしようがなく、派遣労働者、派遣を受ける会社双方にとってデメリットが大きいように見えます。
 繰り返しになりますがマージン率は派遣を考える上で一番重要なデータであり、公開義務を罰則をつけてでも徹底すべきだと考えます。

<同一賃金同一労働の徹底>
 企業が何故派遣労働者を必要とするのかといえば、それは間違いなく「いざとなった時に切り捨てられるため」ということに尽きるでしょう。好景気時には労働力が必要であっても不景気時にはその人員はコストにしかならないため、企業は派遣労働者を人件費の調整弁として使っているのが現状です。一部の政党なんかはこうした考え自体がおかしいとして派遣への批判を行っていますが、経営者の立場から見たらこのように考えるのは私からすれば当然で、そもそも正社員を解雇しづらい日本の現況を考えるとこうした派遣に活路を見出すしか方法がないという見方を持っております。
 ただしこれで腑に落ちないのは同じ仕事をしておきながら正社員と派遣労働者との間で手取り給与に差があることです。一般的には派遣労働者の方が収入が少なく、ボーナスも派遣だけ(現地採用もだが)出ないということもざらです。変なたとえを使うと派遣労働者というのはいざって時に弾除けとなって死んでもらう用員と言ってもよく、この事実を考えると同一賃金同一労働は当たり前どころかむしろ正社員よりも多く給与をもらってもいいんじゃないかとすら思います。
 もちろん企業は派遣労働者のみならず派遣企業にもお金を支払わなければなりませんが、その役割と立場を考えると正しく受け取るべき報酬が違うのではなんて、倫理的な価値観とずれてやしないかと思うわけです。

<派遣企業の再編推進>
 はっきり言って日本は派遣企業が異常に多すぎるような気がします。一般労働派遣ですら免許さえ取ればすぐに事業開始できるという間口の広さもさることながら現在の日本の派遣業界は乱立も激しすぎるのではないかと見ております。大手と呼ばれるような資本力の高い会社ですら両手の指じゃ足りないくらいありますし、中小零細となるとリストを見るだけでも嫌になるくらいで、何かしら法律で圧力かけるなり競争を促すなりして統廃合を促し、再編を進めるべきだと個人的に考えております。