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2009年4月28日火曜日

二重の革命であった明治維新

 ちょっと前に書いた鳥取の記事の中で私と叔父が一緒に海水浴に行ったことを書きましたが、その旅行中のある夜、叔父からこんなことを聞かれました。

「ところで、君はなんで明治維新は成功したと思っとる。君の得意な中国なんか何度も改革をやろうとしては失敗しておって、それと比べると日本の明治維新は出来すぎる位に大成功やったと思うんだが」
「そうですね。敢えて言うとしたら旧弊こと、幕府の老臣を一挙に排除して若くて実力のある薩長の功臣が武功によって政治の実権を握ったからじゃないでしょうか。改革が失敗する原因というのは決まって、守旧派の巻き返しによるものですし」
「そうやろなぁ。普通に考えとったらあれだけ人事が変わることなんてありえんしのぉ」

 この会話で叔父が言った通りに、日本の明治維新は世界史上でも文句なしに大成功といえる革命劇という評価でいます。そしてその原動力はなんだったのかというと、上の会話でも言っているように後腐れを完膚なきまで排除した維新の方法、薩長による旧政権の親玉である徳川幕府の倒幕があったことからだと私は見ています。

 今でもこの自分の意見に大きな間違いはないだろうと考えていますが、私もファンである歴史学者の半藤一利氏が今月の文芸春秋に「明治維新は非常の改革だった」という題の記事を寄せてあるのを読んで、明治維新にはまだこんな見方があったのかと、いつもながら思いもよらぬ所からの着眼点に文字通り目からうろこが落ちました。特に今回の記事で一番なるほどと思わせられたのが下記の引用箇所です。

「私は明治維新とは二重の革命だったのだと考えます。一つは薩長の倒幕による権力奪取。そしてもう一つは、下級武士隊殿様、上級武士の身分闘争です」

 言われることまさにその通りで、歴史に詳しい方ならわかると思いますが明治維新で活躍した偉人はほぼすべてと言ってもいいくらい下級武士の出身で、平時であれば武士の中でも同じ武士として認められない、たとえて言うなら行政上は京都市の一部なのに上京区、中京区を中心とした住民から京都市民とは認められない伏見区の住民みたいな人たちでした。ちょっとたとえが複雑すぎるかな。

 薩摩藩の西郷と大久保は二人ともその日を食うや食わずやで過ごしてきたほど貧乏な家の出身で、母親が豪商の出身だったために家は裕福ではあったもののやはり下級武士だった坂本龍馬、そして長州藩の桂、高杉、伊藤、山縣に至ってはどん底もいいところというほどの下級武士でした。ついでに言えば、幕府の側も勝海舟や福沢諭吉は下級武士出身でした。

 彼ら維新の功臣たちは明治に入るや版籍奉還や廃藩置県によって、かつて自らが率いて維新を起こした藩とその藩主たちを事実上行政の長から無理やり引きずりおろし、日本全体の実権を自らの手にすべて集めてしまいました。一部の歴史の教科書では明治維新は武士間の一種の政権闘争で、被支配層である農民を始めとした一般民衆は変わらずに支配層だけが変わっただけので革命とは呼べないとする説を主張するものもありますが、私は江戸時代の階級制度を考えると彼ら下級武士の台頭は十分に革命と呼べるほどのインパクトがあったと思え、そういう意味で半藤氏の言う二重の革命とは非常に適切な表現だと感心させられました。

 さらに半藤氏は彼ら功臣が下級武士出身者だったからこそ士族への共感が薄く後の徴兵令による士族の完全な解体も行えたとして、特に徴兵令についてはこれを主導した山縣有朋は幼少時に身分の低さから散々に同じ武士からいじめられた体験が大きかったのではないかとも述べています。
 私から付け加えると、功臣の中でも西南戦争を起こした西郷隆盛を始めとした一部の人間は士族への共感が強かったとも思えますが、歴史的に見るなら冷徹にあの時代のうちに士族を切った大久保を始めとした政府幹部の決断と実行力は後の発展の大きく寄与したでしょう。そして士族に共感した西郷や萩の乱を起こした前原一誠らの反乱は皮肉にも、徴兵令によって作られた明治軍隊に鎮圧されたことで真の意味での維新の完成を促したとも見ることが出来ます。

 半藤氏も西郷の死で維新は完成したとまとめており、革命には冷徹な非情さが必要という具合に筆をまとめており、近年の改革の成否やナポレオンのエジプト遠征時の兵士置き去り事件を思うにつけまさにその通りだと私も思います。

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