2012年1月24日火曜日

人間の良心について

 自分のネット環境のせいかもしれませんが、今日夕方からYahooジャパンのトップページは開くものの個別のニュースページが開かなくなりました。多分検閲のせいだろうけどいろいろ面倒くさいからこういうのは早くやめてほしいのと同時に、真面目にネットの回線速度をもっと上げるよう中国には努力してほしいです。ここだけの話、回線速度が非常に遅すぎるせいで中国ではダウンロード型はともかく常時接続型のオンライゲームはしばらく発展しないと考えております。

 話は本題に入りますが、今日はちょっと「良心」について一席講じようと思います。通常、哲学で良心を取り上げる場合はよく性善説と性悪説の比較で性善説の立証として用いられることが多いかと思います。この性善説と性悪説については大分昔にも書いているので今回はスルーしますが、そもそもの話として良心とは一体どういったものを指すのでしょうか。
 Wikipediaの記述を読む限りだとやはり性善説同様に人間が生まれた頃より自然と備えている善の精神という書き方がされていますが、自分の中ではむしろ罪悪感と対にして取り上げることによってより理解がしやすくなるのではないかと見ております。

 罪悪感とくればわざわざ説明するまでもないですが何か悪いことをしたら慌てるような、誰かに怒られたり処罰されたりするのではないかと恐れる感情を指しますが、この罪悪感はよく幼児にはなくて成長とともに備わると言われております。確かに私自身も四歳くらいの頃に油性マジックで壁に落書きした際は全く悪いことだとは思わず大目玉を食らいましたが、そうした点を踏まえても私は案外、この罪悪感というのは生まれた当初はごくわずかなれど初めから備わっているものなのではないかと考えています。
 根拠としてはいくつかあり、まずごく小さな幼児といえども何かを壊したり、図らずも誰かを傷つけた際にはやはり慌てるように見えます。またこれは人間ではありませんが、猫なんかも花瓶とか鉢植えを倒したりすると明らかに動揺し始め、うちの実家で飼っている猫に至ってはそわそわし始めて目を合わせず、ひどい時なんかタンスの奥とかに隠れてしばらく出てこなかったりします。まぁ猫についてはしつけという後天的要素も十分に考えられますが。

 この罪悪感がどう良心に関わるのかというと、こうした「悪いことやってしまった(;´Д`)」という感情を惹起させる心に対し、「いいことをしたぞ(´∀`)」という感情を惹起させるものがその正体なのではないかと勝手に考えています。具体例を挙げると電車やバスで老人に座席を譲ると大抵の人は得意な気分というか、いい気持ちを味わうことが出来ると思います。逆を言えば、他人が喜ぶような行動を取っておきながら「ちっ、くだらないことをまたやってしまった……」と中二病的に悔しがる人間はまずいないでしょう。いたらいたで面白いけど。
 別にこうした心理行動も性善説でひとくくりに説明しても問題はないと思いますが、自分はやはり敢えて分けて考えるべきで、そこでこの「良心」という言葉を当てはめるのが最も適当ではないかと考えているわけです。定義としては、「他人を喜ばせることを自分の喜びにする心理、もしくは他人の喜びに共感する感情」といったところでしょうか。

 この考え方で特徴的なのは、良心というものはその行為の対象なしでは発生しないという点です。場合によっては人間ではなく動物、また広い社会が対象とはなりうることはありますが、自分一人で良心を感じる(起こすというべきか?)ことはまずありえないと考えています。それを言ったら善の精神も同じかもしれませんが。
 その上でもう一点上げると、やはり良心には個人差があるという点も言及しておきます。先程の席を譲る行為についても一日中気分が良くなる人もいればちょっとの間だけ得意になる人とで別れると思いますし、文化的慣習を抜きにして数学的な考え方もすると、席を譲るという行為で得られる喜びが大きい人は率先して譲る一方で、それが小さい人はそれほど席を譲ろうとしないとも考えられます。

 こうした点を踏まえて「良心を育てる道徳教育」とはなんなのかと言うと、他人を喜ばすことで自分が得られる喜びを大きくさせる教育なのではないかと私は思います。具体的にどう教育すればいいのかとなるまだ議論の必要がありますし、私もどうすればいいかはっきりと挙げられる自信はありませんが。良心教育を掲げている同志社大学はどういう風に意識してるんだろうな。

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