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2012年1月6日金曜日

論理的に正しいもの、破綻したもの

 基本的に議論というものは「自分の意見を通す」ということではなく、「論理的に最も正しい意見をみんなで共有する」ということが目的だと私は考えております。そのため議論中に相手の意見、もしくはその場で出てきた案が最も論理的な正当性を持っていれば、当初持っていた自分の意見を捨て去る必要もあります。中にはこの原則を持たず、やはり自分の意見を通そうと場合によっては怒鳴ったりするなど脅しを手段とする人もいますが、はっきり言ってそういう方々とは議論をする価値もないと言っていいでしょう。

 ただここで勘違いしてもらいたくないのは、論理的に正しいことが必ずしも現実に適用する際に上手く作用するというわけではないということです。一例をあげるとマルクスの考えた社会主義は論理的には確かに通らないこともないのですが(人間の意欲は完全に無視しているけど)、実際にその通りに作り上げたソ連は社会的にも閉鎖した国となり崩壊しました。私の友人なんか、「あれは人類史上、最も壮大な社会実験」と言い切ってますが。
 論理的に正しいのにうまくいかない理由というのは私は単純に、人間の知恵には限界があるせいだと思います。それこそ先ほどのソ連の例だと人間の勤労意欲や欲望を無視していることもさることながら、共産党の一党独裁政権となることから密告社会になってしまったという可能性が見落とされておりました。無論その可能性に気づいていたところでどうにかなるわけじゃありませんが、概してこういう失敗パターンは「想定外」の事態によって起こり得ます。

 そういう意味では、実際に成功を収めたプロジェクトの多くはそういった想定外の事態に対する対応、それこそ石橋を叩いて渡るような慎重さで準備がなされているように思います。もしくは想定外の事態に立ち会った際、必死でリカバリーを行ったアポロ13や日本の探査機「はやぶさ」といった例でも最終的に成功へ至っております。
 自分もそうした成功するプロジェクトにあやかろうと何か計画を立てる際は比較的に余裕を持たせるというか、細かい内容までは敢えて決めず、応変に対応できるようにして臨むことが多いです。ただあまりにも細かいことを決めず大雑把すぎて失敗することも多いのですが。

 話を戻しますが、やはり基本的には論理的に正しいことは現実面でも重視するべきです。たまに頭の中だけで考えた通りに行くはずがないと頭から論理を否定する意見も見受けられますが、やはりこれは問題のある意見だと思います。というのも今日一番に言いたいことをここで書きますが、論理的に正しいことが必ずしも正しいというわけではないものの、論理的に破綻したものはまず以って正しくはないと言えると考えるからです。論理的に破綻しながら実行されてやっぱり失敗した例は本当に数限りなくありますが、昔で言えばシミュレーションで必ず負けると出ていながらも「勝負はやってみなきゃわからない」で開戦した太平洋戦争、最近の例だと「津波は起こらない」と可能性を捨てきった福島原発。

 この頃の政治を見ていて、どうして論理破綻していて明らかに取り合う必要もない案件についてもぐだぐだ言い合いを続けるのかとよく思います。その筆頭は八ッ場ダムの問題で、過去数十年にもわたって工事に移れなかったというだけでもその建設価値が疑わしいのに、建設の根拠とされた国土交通省作成のデータが実は都合のいいように改ざんされていたにもかかわらず、どうしてまた建設へと舵を切るのか理解出来ません。論理がすべてではありませんが、ここまで無視するのは冒涜もいいところだと感じます。

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