2012年1月26日木曜日

猛将列伝~袁崇煥

袁崇煥(Wikipedia)

 なんか思うところあって中国の明の時代を調べていたら面白そうな人がいたので、ちょっと取り上げておきます。
 袁崇煥は明末期(17世紀前後)の武将ですが、元々は軍人ではなく文官でした。35歳で当時の官僚採用試験である科挙に合格後は地方官でありましたが、38歳のころに諜報関係の役職に就くと当時から力を持ち始め国境を侵食し始めていた、後に明を滅ぼして清王朝を作る女真族こと満州族について徹底的に調べ上げます。その後、報告書にて当時の対満州族最大の防衛拠点であった山海関の外に寧遠城という要塞を築くように進言して自らがこれを築城します。
 この寧遠城ですが、Wikipediaの記述をそのまま引用すると、「城壁の高さは10.2m、城壁の厚さは基底部で約9.6m、上部で約7.7mあり、ほぼ方形で、4つの門をもっていた。」となっており、非常に大規模な要塞だったことがわかります。さらに袁崇煥はこの城に周囲の反対を押し切ってポルトガルから直輸入した大砲を取り付け、「紅夷砲」と名付けて満州族に備えました。

 こうして準備万端整えた袁崇煥に対し、満州族を統一して「清」を作った太祖ヌルハチ率いる軍が1628年に一斉に攻め寄せてきたのですが、なんとこの戦いで袁崇煥率いる寧遠城守備隊は敵を散々蹴散らすほどの大勝を挙げて見事撃退に成功しております。しかもこの戦闘の直後にヌルハチは病死しており、一説には戦闘で負った傷が元となって戦死したのではないかとまで言われています。この翌年、ヌルハチの後を継いだ二代目ホンタイジも、何気に瀋陽市でこの人のでっかい墓を直接見に行ったこともありましたが、父の敵を討たんとばかりに再度攻め寄せますがこれも見事撃退しております。

 こうした活躍から袁崇煥は明朝で昇進を遂げ、恐らく文官出身ということもあるでしょうが三国志の名軍師である諸葛孔明になぞらえるまでに讃えられたそうです。ただいつの世もいいことは長く続かないというか、二度も大敗したことによって相対するホンタイジも袁崇煥は一筋縄でいかないと考えたのか、迂回策を取って彼を追い詰める作戦に出ました。
 なんていうか中国史では本当によくあることで真面目に「またかよ」と言いたいのですが、ホンタイジはスパイを使って北京にいる宦官を買収し、袁崇煥が謀反を考えているという噂を宮中に流したそうです。でもってそれをまた真に受けちゃった当時の皇帝こと崇禎帝は袁崇煥を召還するとあっさりと袁崇煥を処刑してしまい、その後はセオリー通りというか同じ漢民族である李自成による反乱軍に北京を包囲されたことによって明朝は崩壊することとなりました。

 こうして袁崇煥の活躍は「亡国で善戦した名将」として決して報われることのない歴史に刻まれたわけなのですが、彼の子孫らはその後、袁崇煥が戦った清軍に身を投じてあちこちで活躍するなど脈々と受け継がれ、なんと8代目の人なんか日清戦争にも従軍していたそうです。名将の血は裏切らないと言うべきか。

 最後に一つ北京の観光案内をしておきますが、北京で一番の観光地とくれば天安門こと紫禁城です。この紫禁城はまさに今回紹介した明代から使われているのですが、ここのかなり奥まった場所には景山という裏山があり、そこにはなんと追い詰められた崇禎帝が首を吊った木というものが存在しています。実際には元の木は文革期に切り倒され、っていうか明らかにそれ以前からもうなかったんだろうけど、今植えられている木は新しく植え直した木だそうです。まぁその木の辺りで首吊ったのは間違いじゃなさそうですけど、こういうのも案外観光地になるんだなといろんな意味で感心させられる場所です。

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