仮に尊敬する人は誰かと聞かれるのであれば、私ならいの一番にほかならぬ野茂英雄氏の名前を挙げます。なんでまたこの人を尊敬しているのかというとその野球での実績以上に日本人野球選手に対してメジャーへの道を切り開いたパイオニアとなったことに尽き、そこで今日は米野球協会殿堂入りにノミネートされたこともありますし、ほぼ放置していたこの企画不定期連載で取り上げようと思います。
野茂氏が日本球界からメジャー球団であるドジャースに移籍したのは1995年でした。野茂氏は1990年にプロデビューしていますから日本での実働5年を経て、プロとして6年目からアメリカに渡ったということとなります。
現在でこそメジャーに挑戦する日本人選手は今話題の田中将大選手を初め、行ってみて本当に上手くいくのかが楽しみなロッテのミスターサブマリンこと渡辺俊介選手など枚挙にいとまがなく、高校生の時点でメジャーを希望する選手まで出てきております。しかし野茂氏がドジャースに移籍した当時はメジャーなど別世界という感覚であり、向こうは向こう、日本は日本と完全に分け隔てて考えられていたように思います。
では何故そんな別世界に野茂氏は飛び込んだのでしょうか。現在メジャーに渡る選手のようにより高いレベルでの世界でプレイしたいというプロ選手ならではの欲求もあったのかもしれませんが、巷間で伝えられている内容を聞く限りですとそれはやはり二の次で、単純に日本球界で野茂氏がプレイする道がほぼ閉ざされていたことが最大の原因でしょう。
この辺りの過程についてはウィキペディアに詳しく解説されておりますが、野茂氏は1994年のシーズンを終えた後の近鉄球団との契約更改で球団側と大きく揉めます。元近鉄ファンの方に対して非常に失礼であることは百も承知ですが、この球団は後年にも数多くの選手と契約交渉で騒動起こしたり、末期には球団のネーミングライセンスを他社に売却しようとするなど本気で経営する気がほとんど感じられないほど問題がある球団でした。一説によるとこの時の契約更改でも、優勝すると選手の年俸を上げなくてはいけないから2位くらいの成績が一番いいなどという球団幹部の放言も出ていたそうです。
話は野茂氏に戻りますが、複数年契約等を求める野茂氏に対して球団側は即座に拒否した上でマスコミに対し、野茂氏は年俸を引き上げるために交渉を長引かせているなどという悪辣な情報を流していました。また当時の近鉄監督である鈴木啓示氏と野茂氏の間ではプレイや調整法などで激しく対立があり、かといって当時においてほぼナンバー1の投手であった野茂氏を他球団に放出する考えは近鉄になく、野茂氏が自分の意図するように野球を行おうにも日本では行えないような状況となっておりました。このように交渉が難航した結果、日本球界に復帰する際は近鉄が所有権を持つことなどを条件に米球団への移籍を球団に認めさせ、野茂氏はドジャース入りすることとなります。
当時のチームメイトなどによると野茂氏自身は必ずしもメジャーにいきたかったわけでなく、単純に近鉄球団ではプレイできないためだと漏らしていたそうです。私もこの話は本当だと思え、その理由というのもメジャーへの移籍によって野茂氏の年俸は前年の十分の一以下である約980万円まで落ち込んだからです。またメジャーに行く前に記者に対して言った、「僕は英語を覚えるためにアメリカに行くわけじゃない。野球をやりに行くんです」というセリフが彼の強い決意を物語っていると思えます。
こうして海を渡った野茂氏に対して当時の日本メディアは、当時子供だったので正直なところあまり良く覚えていないのですが、少なくとも「頑張っていって来い!」というよりは「散々交渉こじらせて我侭で勝手に飛び出していった」といったような、冷淡な扱いだったと聞きます。かすかな自分の記憶を辿っても、「新たな日本人メジャーリーガーが誕生、勇気をもってアメリカに挑戦!」というようなフレーズは当時聞いた覚えがありません。
当時の心境は本人のみぞ知る所でしょうが、傍目にも決して気分のいいものではなかったことでしょう。ただ野茂氏のさすがともいうべきところはそのような逆境の中、ましてや環境が全く異なるアメリカのグラウンドで桁違いの脱三振率と防御率を叩きだすという実績を残した点です。その活躍ぶりは現地アメリカ人も認めるほどで、また当時のメジャーリーグは選手のストライキ問題で人気が低迷した中だったそうですが、トルネード投法と呼ばれる野茂氏の独特なフォームが大きな注目を呼んで観客動員数の増加に貢献したと言われ、実際に当時のチームメイトから野茂氏は「お前はメジャーを救った」という言葉をかけられたそうです。
この時の野茂フィーバーは私もよく覚えており、確か同年にブレイクしたイチロー選手が日産のCMに出て好評を博したことから、シーズンを終えて帰国した野茂氏に対してトヨタがすぐに契約してCM出演していたはずです。もっとも、イチロー選手ほど売り上げを伸ばすには至らなかったようですが。
その後、野茂氏はアメリカでプレイし続け二度のノーヒットノーランを初め輝かしい記録を作った上で2008年に引退します。私が野茂氏を尊敬するのは半ば日本から追い出されるような逆境の中、自らの実力で以って世間に自らを認めさせたことと、未踏とも言っていいメジャーへの移籍を実現した上でその道を開拓したためです。仮に野茂氏がいなければ現代の様に多くの日本人選手がメジャーでプレイしていたかとなるとやや疑問で、仮にプレイしていても今ほど多くなかったことは確実でしょう。このような意味から野茂氏はしばしば「開拓者」と呼ばれますが、現代においてこの呼び名が最も相応しい人物だと私も思えます。
なお自分が中国へ渡り転職したのは26歳の頃でしたが、たまたまですが野茂氏がメジャーに渡ったのも26歳で、全然次元も難易度も違いますが野茂氏と同じ年で海外に渡ったというのが自分の一つの自慢です。
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