またどうでもいいですが前髪が長くなってきたせいで非常に気になります。基本自分は髪型に一切のこだわりがなく「伸びたら切る」の精神でもってきっかり三ヶ月ごとに一回、年四回だけ理髪店に行きますが、中国の床屋だと頼みもしないのに勝手にパーマをかけ始めたり、田舎出身の理髪師が多くて自分の標準的な中国語が通じなかったりするのであまり行きたくありませんが、来週あたり腹くくっていかないとなぁ。海外生活で困るのは一に食事、二に床屋、三にカレーだと思う。
そういうわけで本題に入りますが、このところ日本史ネタをほとんど取り扱ってないのでパッと書ける浜口雄幸に関する話でも紹介します。
・浜口雄幸(Wikipedia)
浜口雄幸とは大正から昭和初期にかけて活躍した政治家で、政党政治を徹底して貫いた上で総理にも昇りつめた人物です。名前が「雄幸(おさち)」と一回聞いたら大体一発で覚えられそうな特徴的な名前をしていますがこれには実はわけがあり、生まれた当初に両親は彼の名前を「幸雄」と名付けようと思ってたところ父親が出生届を出しに行く時に酔っぱらったまんま出かけちゃったもんだから、届けに書く名前をあべこべに書いて「幸雄→雄幸」となってしまったそうです。いい加減にしろよこのクソ親父と思いたくなるエピソードですが、こんな親の下でも総理になれるんだから親は無くとも子は育つもんだなぁ。
浜口雄幸は幼少時から秀才であったことは間違いなく、地元高知の学校を卒業した後は東大に進学してそのまま大蔵官僚になります。その官僚時代に割と人材コレクターな気のある後藤新平に目をつけられて引っ張られる形で政界入りし、所属する憲政会の中でもその謹厳実直な性格が周囲に受け入れられていき徐々に有力議員として周囲からも目されるようになります。
昭和四年(1929年)に起こった張作霖爆殺事件について天皇から叱責を受けた田中義一内閣が退陣すると、その後継として当時憲政党の総裁であった浜口雄幸に組閣の命が下ります。こうして発足した浜口内閣はやっぱり浜口自身の人望が高かったこともあり高い人気でありましたが、時は昭和恐慌の時代であったため民衆が彼に求めたのは現代同様に経済の立て直しでした。
経済を立て直すに当たって浜口は蔵相(この言葉を使うのに懐かしさを覚える)に任命した井上準之助と共に金本位制の復帰を強行し、そこへニューヨーク発の大恐慌が襲ったことから景気はそれ以前よりも一層厳しい状態を迎え、文字通りデフレスパイラルに入ってしまいました。この金本位制の復帰は実施当時であっても経済政策として間違っているなど批判にさらされており、現代の分析においても逆行させる悪手であるとの評価が多いです。私自身の考えも同様で、浜口、井上の人格はともにしっかりしたものだし信頼に足るような人物ではあったものの、経済政策に関しては弁解のしようがありません。特に井上の後を引き継いだ高橋是清が全く逆の政策でもって一気に金融を立て直した実績と比べると尚更です。
その後の浜口ですが大方の人間も歴史の時間で学んだ通り、最終的に右翼青年によって暗殺されます。この暗殺劇ですが銃撃されて即死亡したわけではなく、襲撃直後の浜口は一命を取り留めておりました。しかし当時は政党政治が悪い意味で発達し始めた時代で、野党の立憲政友会はこれこそ政権奪回のチャンスとばかりに総理の浜口のいない間に散々あることないこと批判を行った挙句、「総理、怪我したとか言い訳してないで出てこい」とばかりに攻撃し、これに応える形で治療中の浜口は無理をして国会に出席する日もありました。しかしその代償は大きく、出席してからというもの浜口の容体は悪化して総理の職からも引きましたが時すでに遅く、襲撃から9か月後の1931年8月に逝去します。
なおこの時に激しく浜口の登壇を求めたのはほかならぬ鳩山一郎でした。また浜口を襲った人物は襲撃理由を浜口内閣が統帥権の干犯を犯したからだと主張しましたが、「統帥権の干犯とはなんだ?」という警官の質問については何も答えられなかったそうです。
これも知ってる人からしたら有名ですが、「統帥権の干犯」という言葉を生みだしたのはほかならぬ鳩山一郎でした。ぶっちゃけいこいつさえいなければ浜口雄幸も死なずに済んで、その後の軍部の暴走も起こらなかったんじゃないかなと思えてきます。また浜口を襲った襲撃犯についても、いつの時代も下らない人間ほどどうしようもないことをしでかすものだと、現代にありながらこの人物に対して見下げた感情を覚えます。
2 件のコメント:
この人を知りませんが、浜ちゃんとんかつを知っていますわ。
逆に俺は浜ちゃんとんかつを知らんわ。
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