昨夜遅くまで「ファイナルファンタジー零式」で遊んでいたためジバニャン並に「だるんですけどー」と言いたくなるような状態なので、二分で考えたネタで今日は間に合わせようと思います。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
4 件のコメント:
自分は最近になって近代文学の価値に気づき始めたのですが、花園さんの意見には大変納得するところがあります。特に4あたりの内容ですね。日本の近代文学には、西洋化していく日本、そしてそれを良しとする社会の風潮に対して、それを受け入れられなかった人たちの強烈なジレンマが作品の質を高めていた側面があるといわれたりしていますよね。しかし現在においては文壇が必要以上に権威を持ってしまったために・・・・という感じがします。
僕の世代では、「ぼくらの」という作品がバトルロワイアルに近い効果を持っていたように思います。僕も中学の頃にアニメを見て原作の漫画を買ったくらい好きなのですが、やはりこういった作品を色々と多感な中学の頃に見ているかどうかというのはその後の成長に影響を与えるものだと思います。
余談ですが、もし、今後漫画が必要以上に権威を持ち始めると、現在の文学と同じ道をたどることになるのかもしれません。
最近たくさんコメントくれてありがとうございます。特徴あるHNだから一発で覚えられましたが。
「ぼくらの」は自分が京都を徘徊している頃の作品ですね。自分もアニメ化した際に原作を一気に読んで面白いと思いましたが、インパクトで言えば私が高校生だった頃に映画が公開されこの記事でも取り上げている「バトル・ロワイアル」の方がやっぱり大きかったです。仰る通りに、中学・高校の青春期のは多感で、にこういった作品に出会えるかどうかは確かに大きいのではないかと思えます。もっとも自分の場合は小学生の頃に三国志に出会っちゃったばかりに今中国にいるわけですが……。
最後の漫画の権威についてですが、自分もかなり前から「漫画を持て囃すな」と事ある毎に述べています。メインカルチャーではなくサブカルチャーだからこそできる表現もあり、変に権威を持つと表現の幅が狭まると考えるからで、自分のこのブログも個人という立場だからこそきわどい意見を述べられると考えております。
日本歴史の現状について、ご紹介頂きたく。
歴史的に言えば、凋落が本格化してくる時代なのかもね今の日本は。
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