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2019年10月2日水曜日

チベット仏教の個人崇拝について


 先日の記事にも書きましたが先々週に中国西部の青海省と甘粛省を旅行してきて、その際に複数のチベット教寺院を参観してきました。これまでチベット仏教についてはあまり興味がなかったことから勉強してこず、ダライ・ラマが亡命しているということくらいしか知らず教義についても全くわからないまま訪れました。
 そうしたまっさらな状態で訪れた感想としては、「ああ、これは中国政府が危険視するのもわかるな」というのが率直な意見です。というのも、個人崇拝の意識が極端に強い宗教だと感じたからです。

 一体何故このように感じたのかと言うと、各寺院にはそれぞれ複数の伽藍というか建物が設けられているのですが、仏像なども置かれてはいますがそれ以上に、どの建物にもチベット仏教ナンバー2に当たる先代、先々代のパンチェン・ラマの遺影が飾られていました。それでいて、参観者や修行している僧たちはそれらの遺影に対して強く祈りを捧げていたからです。
 日本の仏教に慣れている身からすれば、如来や観音、あとブッダとかに祈るのなら理解できるものの、どうしてこれほど過去のパンチェン・ラマに対して強く祈るのかが不思議に思えました。無論、当代や先代の教祖に祈ることは日本の仏教においても珍しくはないものの、あくまで主役は如来や観音様であり、教祖の遺影を祭壇のど真ん中に置いて激しく祈るのは日本だとあまりないでしょう。

 ただ、チベット仏教がこのような形態を取ることはその背景を考えるとそれほどおかしいわけではありません。というのもチベット仏教では神が人間に転生して降りてくるという考えがあり、そのため当代のダライ・ラマやパンチェン・ラマが逝去すると、逝去同時期に生まれた子どもたちの中から次代のダライ・ラマやパンチェン・ラマを選び、教育を施した上で生き神として祀るからです。
 つまり、チベット仏教においては教祖自身が神性を備え、一般信徒の崇拝対象となるわけです。そしてその程度については、如来や観音といった仏教界の神属らよりも強く、現代世界に生きる個人への崇拝が圧倒的に強い宗教であるように感じました。これはいわば個人崇拝と換言してもよく、実際に信徒らはダライ・ラマの指示であれば何にでも従うとされており、現代のダライ・ラマ本人の人格や価値観、思想を置いとくとしても、この個人崇拝ぶりには中国政府が危険視するのも理解できなくありません。

 仏教でも、たとえば浄土真宗だと開祖の親鸞や中興の祖である蓮如といった人物へ祈るということは確かに行われているものの、何代にも渡る教祖の遺影に対し、非常に長い時間と読経を込めて祈るチベット仏教の僧らの姿は個人的には強く衝撃的でした。
 なおその他の点では、寺院内には地獄絵図や曼荼羅などがよく飾られており、やはりこうした図画的なイメージから空想を練ったり、読経に独特の音響をつけたりする点では密教らしい雰囲気が感じられます。ただ日本の密教と違って、祭壇には香はあまり焚かず、代わりに独特の匂いを出す蝋燭をよく灯していて、この点で日本の仏教とは違うなと感じながら見ていました。

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