先日見ていた掲示板で、中国初の統一王朝である秦はどうしてこれほどまで悪く言われるのかというコメントを見ました。というのも最初に統一した事自体が偉大な功績であり、またその諸制度は次代の漢王朝でも流用されており、非難される理由が言われているほど見当たらないとのことでした。
その後出てきた意見としては、始皇帝陵造営をはじめとする多大な労役などで恨みを買ったのではなどとありましたが、結論から言うと焚書坑儒が最大の理由でしょう。
・焚書坑儒(Wikipedia)
焚書坑儒とは主に法家の人間によって行われた儒家への弾圧行為で。儒家を生き埋めにしてその文書を燃やしたことから文字通りとなっています。一体これが何故秦が批判される理由になったのかと言うと、後の時代の歴史は儒教を基本思想として評価が行われており、ある意味で評価裁定を下す儒家に嫌われた時点で悪く書かれてしまう傾向があります。
同様の理由で、道教の経典なども儒家目線から批判されることも少なくありません。要するに秦王朝で儒家への弾圧が行われた一点で以って後の時代、政権からは非難されるようになったと私は見ています。
もっともその儒家というか儒教も、共産党中国の成立時においては「古き悪習」として批判されており、魯迅や毛沢東に至っては焚書坑儒を「ええこった」と評価していたそうです。その逆に、秦王朝に関しては力こそ正義的な価値観と初の統一を行ったという点で再評価が進められたそうですが。
なお日本においては儒教的価値観からくる批判や言論闘争は中国ほどには多くありませんが、天皇史観による足利尊氏などへの偏った批判など、天皇制フィルターが働くことのほうが多いです。以前と比べればだいぶ中立的な視点で歴史評価がなされるようになってきてはいますが、未だ古代史におけるこの手の阻害要因は少なくないだけに、早くそうしたものから脱却すべきだと個人的には思います。
2 件のコメント:
ローマの火災をキリスト教徒のせいにして彼らを弾圧した暴君ネロに近いものがありますね。
のちにキリスト教全盛の時代がくるとネロは本来の業績以上に悪く言われるようになりました。
劉邦は最初は儒教を馬鹿にしている人間でしたが、国家運営のため儒教を取り入れたので、
始皇帝のように批判されることがすくなかったのでしょう。
儒教的価値観といえば 劉邦が項羽との戦いに敗れて馬車で逃げたとき、馬車の速度が
落ちるので息子娘を馬車から投げ捨てたという逸話があります。儒教的価値観からいえば
親の方が大事で親のために子供が苦労するのは当然のことだと劉邦の行為を擁護する人
もいます。 でも、劉邦の行為はほめられたものではないと思っています。なにより
側近の夏侯嬰が劉邦の行動に抗議して子供を拾い上げ再び馬車に乗せています。
当時でも、劉邦の子捨てはよくない行為だと認識されていたのでしょう。
実際にはネロによる大火の後処理は比較的良かったと言われるのですが、これはもう完全になかったコトにされてますね。劉邦の子供の下りは普通に考えて、気持ちはわかるがやっちゃいけない行為ってみんな認識してたでしょうね。逆を言えば、この行為を正当化し始めた当たりから儒教も形式張っておかしくなっていったと見ることもできるでしょう。
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