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2020年3月10日火曜日

日本の意思決定プロセスの崩壊

 先ほど友人から例の高輪ゲートウェイ駅の謎フォント(明朝体)について少し話しました。
 この駅名については説明するまでもないでしょうが、当初行った公募では「高輪」が最多得票であったにもかかわらず、わずか36票しか得ていなかったこちらの名前が結局は採用されました。公募と言っておきながら、初めから名称が決められていたと考えるほかない、というよりそういう風に思わない人間の方が異常でしょう。

 初めから決まっているんなら当初から公募せずにやればいいというものの、適当に批判をかわす目的で無意味に公募が行われた可能性が高いです。この意思決定者が誰なのかはわかりかねますが、独断で決める度胸もなく妙な隠れ蓑を使う当たりは責任感のない人間だと疑われます。同時に、変に公募を行った辺り、自身も内心ではこの名称に自信を持ってなかったのではないかとも見ています。

 この高輪に限らず、最近の日本を見ていてその意思決定プロセスの奇妙さには疑問を感じるところが多いです。卑近な例を挙げると突然休校を決めた安倍首相ですが、これは本人は言わないものの、安倍首相本人が独断で決めたものと見てほぼ間違いないでしょう。専門家諮問会議では誰も休校について言及しなかった証言が出ており、またそれを裏付けるかのように「諮問会議の議事録はない」と常識ではあり得ない発言まで飛び出してきており、意思決定責任者を覆い隠そうと政府も必死です。
 一部で言われていますが、この休校決定については北海道の鈴木知事が道内で感染者が広がっていた背景から国に先駆けて休校を自ら決定したことに対し、政府の威信というかプライドを守るためだけにトップダウンで決められた可能性が高いとみています。安倍首相としては、恐らく本気でこの意思決定が世間から称賛を受けると思い込んでいた節もあり、当初でこそ非常に強気でしたが、思ってた以上に世論が否定できだったのを受けて翌日には「強制ではなく要請」発言が飛び出すこととなりました。でもって後から入れ知恵的に次々と休業中の補償方針を朝令暮改の如く打ち出して、現場を無駄に混乱させ続けています。はっきり言えばこの件に関して鈴木知事が「責任は自分がすべて負う」と発言したのと比べると、安倍首相は鈴木知事を持ち上げるために自ら汚れ役をやっているようにしか見えないくらいに無様で評価できないと私は見ています。

 ただこうした、「責任は負いたくないけど物事を決めたい」的な無責任な意思決定プロセスは、安倍首相に限りません。確かに日本はワンミスが命取りなくらいな極端な減点主義方式の社会で、あの子もどの子もただひたすらに責任を回避し続けるのが絶対正義なところがあり、私の世代などはリアルに「見ざる言わざる着飾る」な生き方をモットーにしている人が多いです。
 そうした人々について私個人としては、いくらかは根性がないとは思うものの、時代が時代故にこうした生き方もやむを得ないかと理解する点も少なくありません。

 その一方、こうしたメンタルが世の中で支配的なことから、先ほどの責任は忌避しつつ物事を決めるという、責任所在者をわざと組織的にあいまいにさせる意思決定プロセスが、更なる混乱を招いているように見えます。具体的に言うと、自分が責任を負わなくていいから真面目に意思決定をしない、メリットやデメリットなどの要素を真剣に検討しないで意思決定が行われていると思う節が日本のあちこちで見られます。中にはどうせ責任を負わないんだからと、高輪ゲートウェイのように冗談みたいな誰もがおかしいと感じる意思決定すら平気でやらかす輩も出てきており、日本の意思決定プロセスは「責任を負わなくていいから適当に決める」ということが一般化しつつあるように思えます。

 思えばこの流れの萌芽は、90年代のゆとり教育導入辺りからだったかもしれません。あの当時は誰もがこの方針へ舵を切ることに反対していたものの、当時の文部省は「一部ニーズがあるから」という言質でもって国益を考えずに導入し、案の定学力が大幅に低下してさらに批判が起こるとあっさりこの方針を放棄して、元の水準へ戻すよう揺り戻しました。
 この揺り戻しの際、ゆとり教育導入を推し進めた文部省の責任者は、「国民が導入を望んだ」、「少なくとも一部の人は導入を強く主張していた」などと話し、当時の世論の大反対を無視したことに対する責任を認めなかったばかりか、導入することによって得られると見込まれた効果の狙いや検証根拠などについて、一切口にしませんでした。

 何も結果責任を必ず取れと声高に主張するつもりまではありませんが、意思決定前に複数ある選択肢について事前に、どちらが今現在選択する上で最善なのか、科学的且つ合理的に日本人はもっと検証して、その検証結果を意思決定に反映させるべきだと思います。なんとなく、そうした検証を経ることよりも勘のような判断であちこち決断が行われているように見えてなりません。

4 件のコメント:

ルロイ さんのコメント...

日本の責任回避の風潮は、切腹文化があったことからかなり昔からあったんじゃないかと思います。
失敗したら死ぬという世界にいたら、そりゃ失敗回避が最優先になるよなと思うので。

学校がやたらいじめを隠蔽するのは、校長というポジションが教師にとって「一度も処分や問題がなく生きてきた人のゴール」であり、あとは定年を待つだけというポジションなので、もう失態を起こさず逃げ切りたいという気持ちが先に出てしまう業界だからという側面があるようですが、
そのくらい「失敗しないで生き抜くことに価値がある」国なのかなぁと思ってしまいます。

ただそれと別として、戦後の厳しい環境を生き抜いた経営者や政治家などは、自分の判断に自信がある分責任感も今の人よりは強かった印象があります。その分強欲でワンマンな人が多かったようですが。
ただその後の世代には、「自分のような苦労を子や孫にさせたくない」という意志が強く(自分の祖父母もそうでした)、無難で安泰な人生を歩ませるように育てた人が多かったようで、その辺が逆効果になってしまっているような気がします。

そもそも日本には欧米的な意味での「責任」という概念があまりなかったんだろうなと感じることが多いです。「任命責任」とか人を責めるために使ってますしね。
部下がやりたいことを提案したときに、「失敗しても俺が責任とるから好きにやれ」という人より、「失敗したら俺の責任になるからダメ」という人が多い上、後者の方が出世するのを見ると、この点は非常に根深く簡単には変わらないだろうなと思います。

花園祐 さんのコメント...

 やはり成果と責任が一致しない面が日本には多いですね。原因としては個人ではなく組織単位で責任などを考えるため、現代社会にうまくマッチさせられないんだと思います。その辺、日本は個人主義が歪な形で発展したと言えるのかもしれません。
 自分も以前ブログに書きましたが、今の日本人は「責任を回避すること」が幸福であると本能的に考えている節があります。そのため無責任な人間ほど上に行き、責任感ある人ほど下に落ちていく悪循環にあるように思え、どうにかしたいとは思うけどもう無理かとあきらめの境地に達してきました(´Д`)ハァ…

ルロイ さんのコメント...

個人的な印象では「責任を回避することが幸せ」と感じる日本人は80年代に就職した世代前後が多いと感じています。
働きはじめた頃からもうかなり裕福になっていて、あとはそれを今まで通り維持することが仕事と学んだ上に、不況に直面して守りの経営しか経験していない世代ですね。

今は成果を出さないと生きていけない時代になってきているので、昔のように社会に身を置きながら責任を回避し続けて生き残るのはちょっと難しいように感じています。そういう人が上にいると、下が潰れて仕事が回らなくなって、上の立場も悪くなりますからね。

花園祐 さんのコメント...

 年齢的なものもあるでしょうが、若い世代(90年代、00年代生まれ)の方が失うものがない、というよりはアクション起こさないと死ぬとわかっているからチャレンジングですね。80年代世代は自分も含まれますが、周りと歩調を合わせることがすべての行動原理になっているところがあるだけに、無責任な奴が多いと私も思っています。