歴史というものは得てして勝者によって語られることが多く、また勝者でなくても、その時々の価値観や発見されている資料によって見方は変わります。時にはリアルタイムの評価の方が中立的となってしまうことすらあり、歴史観というのは一種の意思を持ったものであるというの自分の中の定義です。
そういうわけで一発目の今日は、江戸時代における歴史観こと徳川史観について書きます。
大まかにまとめましたが、割と的確に特徴を突いている気がします。
そういうわけで一発目の今日は、江戸時代における歴史観こと徳川史観について書きます。
まず徳川史観というのは何かというと江戸時代の徳川家による支配の中で、当時政権側が指導して、定着していた歴史観を指します。基本的には徳川家が支配する正当性を裏付けることを目的としているため、徳川家にとってとにかく都合のいい解釈がよりどりみどりです。具体的には、
1、徳川家が支配するようになって日本は平和になった
2、家康はめちゃ努力家で勤勉家でえらかった
3、豊臣政権はカスだった
4、武田家はめちゃつよだった
5、天皇家?いたっけそんなの?
大まかにまとめましたが、割と的確に特徴を突いている気がします。
まず1番目ですが、「戦国時代を終わらせたのときたら徳川家」的に関ヶ原と大坂の陣を大々的にピックアップしています。これは両大戦が徳川家の大勝利で終わったという背景もありますが、日本は平和になったという主張に関してはあながち間違っておらず、実際に長い間平和だったので実際に真実だと思います。
次に2番目ですが、これは東照宮をはじめとする徳川家康の神格化などから見て取れます。案外天皇家もこんな感じで、支配の正当性を裏付けるために後からいろいろ神格化していったのかもしれません。
次に3番目ですが、これが徳川史観の最も代表的特徴でしょう。何も徳川家に限るわけじゃないですが、前政権を打倒した新政権はその支配の正当性を主張するために、前政権が悪だったということにして自らが打ち倒す正義を語ります。豊臣家もこの例にもれず、徳川家に反抗しようとした、平和をかき乱そうとしたという風に描かれていますが、如何せん障害となったのはほかならぬ、最後の豊臣家当主である豊臣秀頼でした。
というのも秀頼は家康の孫でもあり、また若年であったことから実際に政務を切り盛りしておらず、秀頼が何か悪さをしていたと主張するには徳川家的にも無理があると考えたのだと思います。そのためスケープゴートになったのは主に生前の豊臣秀吉と淀君で、特に淀君に至ってはやはりこれでもかというくらいに悪者扱いされ、豊臣家を滅ぼした中心人物としています。
実際にというか、現代で検証されている範囲では豊臣家を大きく動かしていた責任者は淀君であると思われ、こうした批判も間違ったものではないと思います。そう思う一方、どことなく淀君がやや過剰に悪者にされ過ぎていないか、大阪方の意思決定者は他にもいたのではないかと思う節もあります。この辺については現代においても徳川史観の影響が残っているのかもしれず、今後更なる検証を待ってみたいのが本音です。
次の4番目ですが、これも徳川史観ならではです。武田家は三方ヶ原の戦いで完膚なきまで徳川軍を叩いた歴史があり、この事実だけは隠蔽しようにもどうしようもなかったのでしょう。なので、「徳川家の武士は強かった、武田家はさらにその上を行く強さだったから仕方ない」的に、負けたのも仕方ないくらいの強敵認定することで徳川家の権威を守ることになったのでしょう。
そうした影響もあってか江戸時代においては武田家の活躍を描いた軍記物が多数出されており、ぶっちゃけ徳川家関連よりも多かったんじゃないかと思いいます。またその延長で、大坂夏の陣で家康本陣まで迫った真田家、というより真田幸村に対しても称えるべき強敵認定されたこともあって、真田十勇士をはじめとする軍記物作品が多数生まれたのでしょう。
逆にというか、これは恐らく私以外誰も主張したことのない説でしょうが、フェードアウトの対象となったのは織田家であるような気がします。というのも江戸時代に流行ったとされる小説や講談を見て織田家の影というものがほとんど一切見られず、その日本史への影響に比して異常なまでに影が薄いです。
敢えて推論を述べると、徳川家にとって織田家との同盟は半従属的な同盟であり、当事者たちからすれば屈辱的に感じるものだったのかもしれません。それ故に事実自体をねじ曲げたりはしないものの、敢えて黙して語らず、織田家の影をとことん希薄化させるという意図があったのではと推測しています。
そして5番目についてこれは徳川に限るわけじゃなく室町時代からずっとそうですが、天皇家に関しても影が薄いです。ただ天皇家に関する研究などを弾圧していたわけではなく、実際に江戸中期から国学が発達していき、皮肉なことにそれが明治維新の思想的根拠となっています。
逆に江戸時代に弾圧された学問の代表格は蘭学こと西洋思想です。これはキリスト教、特にカトリックの侵略に対する警戒感が脈々と受け継がれていった結果でしょうが、江戸中期ごろからは蘭学の実用学的な部分に関しては一時認めるようになったものの、その後も蛮社の獄、安政の大獄など折に触れて弾圧しており、西洋思想に関しては終始厳しい態度を徳川政権は取り続けています。
総括的に述べると、徳川史観は徳川家というよりも、武士らしい歴史観であるというのが自分の見立てです。強いものが勝って支配するのが当然的な価値観であり、「徳のあるものの支配」というイメージにはなんか程遠いです。実際それだけ徳川家は江戸時代において圧倒的な権力と実力を持っていたわけで、そうした構造的な面からこのような価値観になったのでしょう。
<徳川史観において株が上下した対象>
株上げ:武田家
株下げ:豊臣家、織田家
2 件のコメント:
武田家の権威が上がったがために評価が下がったのが武田勝頼です。強兵で知られる
三河武士に圧勝した武田家の権威が高まれば高まるほど一つの疑問が持ち上がります。
「それほどつよい武田家はなぜ滅亡したのか?」 武田家が滅亡したのは事実です。
徳川家が武田家の権威を利用するためには、武田家が滅亡した納得のいく理由、それ
も武田家の権威を傷つけない理由が必要です。そこで利用されたのが武田勝頼です。
武田勝頼は武田家を潰した無能な二代目として長く語りつがれることになりました
おっしゃる通りに勝頼は最もあおりを受けてますね。近年も再評価の兆しが出ている一方、「それでもやっぱり無能」という人も少なくないです。確かに評価し辛いところのある人物であって、彼に対する議論は今後しばらくは続くでしょう。
コメントを投稿