以前に何かの記事で、「原敬が暗殺された際に元老であった山縣有朋は大いに嘆いた」という記述を見て、強い違和感を覚えました。何故かというと、山縣はかねてより政党嫌いの超然主義者であり、また政敵(最初「性的」と表示されたがこれはこれで間違ってない気がする)であった伊藤博文に引き立てられる形で立憲政友会を引き継いだという立場からも、山縣にとっては完全に線対称でむしろ嫌われる立場にある人間ではないかと考えたからです。
何故山縣はこのような立場的に対立するしかないような原敬にかような感情を抱いたのか、そうした疑問から以下の「原敬-「平民宰相」の虚像と実像 」(中公新書)を手に取ってみました。
そもそも原敬について自分は、薩長閥でない初の平民出身の総理となったものの普通選挙法の実施にはやや否定的で、また財閥など大勢力を贔屓にする政策を取ったことから人気を亡くし最終的には暗殺された人物だとみていました。そのほか人柄に関してはやや怜悧な人物で、頭は切れるがやや人望が薄く、慕う人間もそんなに多くなかったという風な印象を覚えていました。
上記のような私の印象は根本的なところで間違ってはいないものの、あまり語られることが少ない人物でもあることから、その人物の本質については自分はあまり理解できていないかったと今回この本を読んで感じました。具体的には見出しにも掲げている通り、原敬は同時代において比類なきゼネラリストともいうべき人物で、総理になるべくしてなったというような凄まじい経歴と能力の持ち主であったという風に考えを改めています。
具体的にはその経歴を追う方が早いです。
盛岡藩の家老の家として生まれるも戊辰戦争後に父はなくなり、家は傾き、立身出世を目指して東京に出てあちこちの学校に入ってはやめてを繰り返して、最終的には法曹官僚育成学校であった司法省報学校に通うようになります。ただここで騒動に巻き込まれたことから退学を余儀なくされ、官界への道は一時絶たれるのですが、伝手を頼りに新聞社(郵便報知新聞)に就職することとなります。
その後、しばらくはジャーナリストとして活動し、財界ともこの時期にパイプを作ります。ただ新聞社内の派閥抗争に巻き込まれてまた退社を余儀なくされますが、井上馨との縁があり、彼の引き立てでフランス語が使えることから外務省へ入省し、外交官となります。この外交官時代に伊藤博文とも知己を得て、有能ぶりが各所から認められたのですが、その後に外務大臣となり後に政敵となる大隈重信には嫌われ、外務省を追い出される形で今度は農商務省に移ります。そこで新たに上司となったのが、陸奥宗光でした。
陸奥から信頼されるとともに高く引き上げられた原敬はそのまま陸奥の秘書のような立場となり、陸奥が官界にいる間はずっとサポートし続けます。ただ陸奥が病気となって官界を去るや原もいったんは官僚をやめ、再び新聞社の経営者となりますが、政界、財界、官界にパイプを持ち、尚且つ有能と認めていた伊藤博文の引きにより、立憲政友会の創設メンバーに引き入れられます。
こうして政治家となった原は伊藤、次いで西園寺公望の片腕となり自他ともに認める政友会の幹部として明治後半期を過ごします。西園寺が政界から引いた後は、自らの人望のなさを自覚してか政友会を集団合議体制にしますが、徐々に党内からも信頼を得たのと、同じ党内のライバルであった松田正久が逝去してからは正式に党首となり、持ち前の頭脳を使って政友会を引っ張り、選挙で度々勝利を収めていきます。
ただ、総理になるに当たっては当時は元老の指名が絶対必要であり、実質的に藩閥出身者にまだ限られていました。しかし藩閥出身者のうち児玉源太郎や桂太郎などが早くに亡くなり、これという後継もなくなったことで徐々に人選に事欠くようになってきました。チャンスは近いと考えた原は驚くことに、ここで総理就任に当たっての最難関となる山縣有朋を度々訪問し、関係の悪さを率先して修復するように動いたそうです。
実際、山縣は政党出身者、というより政党に政権を任せてはポピュリズムに走ると懸念していたそうなのですが、原と会って話をするうちに原のことを信頼するようになり、何より政界、官界、財界、果てには貴族院ともパイプを持ちつつ利害調整に長けていた原のことを、物事を総合的に判断できる人物であると信頼するようになったそうです。
その後、大隈内閣、寺内内閣が世論の批判を受け倒れた後、山縣は当初は西園寺に再登板を促したものの本人が固辞し、またその西園寺からの推薦を受け、原を総理とすることを決断したそうです。
以上の原の経歴を追っていくと、ジャーナリスト、官僚、(新聞社)経営者、政党政治家といくつもの経歴を渡り歩いており、また官僚時代は外交や経済分野に携わり、政党に入党してからは党内運営や他党との交渉や対策もこなすなど、マジで何でもかんでもやってきています。唯一、本人が苦手と自覚していたのは財税政策で、「過去に要請があったのだから財務大臣をやっとけばよかった」と述べていたそうです。
そんなもんだから自分が総理の時は財税においては高橋是清にほぼ一任していたそうです。
実際に原の総理時代の功績を見ると、非常に利に適っているというか高所的判断による施策が多いです。ただマクロ過ぎる政策のため末端の一般市民からすればないがしろにされているとみられたのも無理なく、それが彼の暗殺を招いたというのは真に不幸というよりほかないです。
地味に驚いたのは、晩年に特に力を入れていたのは後に昭和天皇となる皇太子の摂政就任だったそうです。前準備として皇太子を欧州歴訪に送り出すなどしており、病気がちな大正天皇に変わる執行システムとして、皇室の継続と運営にもかなり気を配っていたことがわかります。
なお大正天皇と原敬はかなり仲が良く、大正天皇からは頼りにされていたそうです。
やはり心があったまるようなホットなエピソードが少なく、怜悧で有能な官僚としてのイメージが強いですが、こと政治家、それ以前にトップ運営者としての才能と実力で原敬は明らかに抜きんでた人物であったと、今回思い知らされました。近年の総理でいえば、福田康夫総理に近かったような気がします。
一方、同時代の原の政敵であり後に普通選挙法を実現する加藤高明に関しては、完全なポピュリストであり、別に崇高な自由平等思想があったわけじゃなく党利党略のためだけに生きてきた人物だったのだなとやや見下げた印象を覚えました。実際、普通選挙法の施行により藩閥勢力は衰えたけど、その代わり軍部が台頭して日本はおかしな方向に向くことになったのだし。
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