谷干城と言えば西南戦争で熊本城に籠り、事実上、西郷軍撃退において最も功績の高い働きをした軍人として有名ですが、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣になるなど、政治家としても要職を務めました。そんな経歴ながら陸軍の非主流派として政権や長州閥に度々楯突いたりするなど反骨精神のある人物であったと聞いていたので、改めてどんな人物であったのか伝記で読んでみたら、自分の想像以上に反骨の相に溢れた人物でした。
なお谷干城の「干城」は戸籍名だと「たてき」ですが、本人はよく「かんじょう」と呼んでいたそうです。名前の由来は中国の古典の一説にある「干(=盾)となり城となり」という意味の文章からだそうです。
話を戻すと、坂本龍馬の二歳下という同年代で谷干城は土佐藩に生まれており、代々の神道学者という家でした。長じて本人も当初は学者として採用されますが、神道の家計なだけあって徐々に尊王攘夷運動にのめりこむようになり、公武合体派で土佐藩の政治を仕切っていた吉田東洋を目の敵にしていたそうです。
そのため吉田東洋が暗殺された際は真っ先に犯人と疑われたそうですが、暗殺直前に東洋と面談した際は普段から悪口言っている自分に快く時間を割いてくれ、またその主張も筋が経っており評価を見直したと述べています。ある意味、これ以降の彼を暗示しているかのような変節の一端が見えます。
その後、土佐藩を尊王攘夷へと政策を変えさせようと動きつつ、途中で薩摩や長州と連携して徐々に尊王討幕へと方針を変え、土佐藩兵を京都に出兵させて無理やり討幕に加担させようとするなど過激な行動を取るようになります。大政奉還を経て討幕路線が固まると、同じ土佐藩の板垣退助らとともに土佐藩兵を率いて各地を転戦し、元新選組を甲州で殲滅するなど高い軍功を挙げていきます。
その後、明治時代に入ると当初は土佐藩の執政として班内改革を進めますが、廃藩置県を経て中央政府に合流し、軍事指揮官として各地に赴任し、西南戦争直前に熊本鎮台司令として赴任します。なおこの人事の裏には、土佐出身で且つ天皇への忠誠が強い谷なら西郷軍に裏切らないという思惑があったそうで、その期待に応え見事西郷軍を撃退します。
その後、しばらくは軍人として活動するも徐々に政治家に転身し、農商務大臣就任後は主に貴族院議員として活動しています。
以上が主な彼の経歴ですが、改めて細かく政治思想や言動を追っていくと以上に変節の激しい人物であったというのが正直な感想です。具体的な変節ぶりを如何にまとめます。
・尊王攘夷→尊王討幕→攘夷はやっぱ不可能
・台湾出兵(1874年)に出陣→この際、清と戦争してやっつけろ!→日清戦争(1894年)反対!
・政党なんてカスの集まり→(国会開設以降)政党を中心に議論すべきで政府は勝手に決めるな!
(最後の政党に対する評価は当時の人からも「前と言っていることが違う」と突っ込まれている)
以上は主だった変節で、細かいところを探ればもっといっぱい「前と言っていることが違う(;´・ω・)」と思わせられる発言のオンパレードです。こうした変節は何も谷に限るわけじゃないですが、彼の場合は変節前に自分の主張を激しく展開しては猛批判した挙句、自分の主張が通らないとわかるや「だったらもう辞める!(# ゚Д゚)」とすぐ辞表を叩きつけるなど、極端な行動が目立ちます。
特に第一次伊藤政権では外務大臣であった井上馨の条約改正交渉を激しく批判し、内閣不一致を招いて井上馨の辞職を誘引するほどでした。
以上のようなイヤイヤを繰り返したことから明治政府内では何度も辞職、復職を繰り返しているものの、主張に首尾一貫したものはほぼないものの、神道学者の家だけあって天皇家、ひいては国家に対する忠誠心は誰もが認めるものがあったことから、「谷君、また一緒にやろうよ(´・ω・)」と辞職しても誰かが復職の世話してくれるので、なんだかんだ言いつつ野に埋もれることはありませんでした。
もっともそうした復職も、野に放っておけば西郷隆盛のように反乱を起こすかもしれないという懸念から、政権内に取り込んでおくという思惑も強かったそうです。それで反抗心が異常に強かったそうです。
なお明治天皇からは「西南戦争の英雄」と高く評価され、谷の復職についても明治天皇の意向が強かったそうです。それだけに農商務大臣を辞めた際は「復職してくれるならどのポストでもいい、教育とか好きだったから教育大臣とかどう?」(過去に学習院院長もしている)などと、優先的にポストが提示されています。ただこの時は、議会の中で暴走を食い止めるべく貴族院議員を選んでいます。
その後、貴族院議員の重鎮として名を馳せますが、ここでもほかの華族を率いて政府の方針に反発しまくり、あまりにも反発しまくることから当初は谷と行動を共にしたメンバーも、後期には彼と距離を置くようになっています。この時に限らず、「悪い奴じゃないんだけど」といろいろ世話して食える人は周りにいたものの、伊藤博文や山縣有朋らのように独自の派閥を形成するほど谷の周りでは徒党が形成されなかったように見えます。
以上のように自分の見立てでは、主張や反発が激しいながら行動や発言に一貫性がまるでなく、政権にとってすればなんにでも反対してくる厄介な奴でしかなかったんだろうなという評価です。天皇家への忠誠心があったからこそ周りも大分理解してくれていますが、恐らくこれがなければ厄介な人物として暗殺されていたのではと思う節があります。
概して大局観が一切なく、目先の問題にとらわれて過激な反対運動を展開する人間だったとしか自分には見えません。もっとも西南戦争で見せた軍事指揮や、議論においては理路整然と話すなど能力が高かったのも間違いないですが、その能力を大局観なく奮うもんだからいろいろ迷惑な人間だったようにも見えます。何か処理しなければならない課題が目の前にあれば活躍したでしょうが、なんにでも反対するもんだから反対派のシンボルに担ぎ上げられることも少なくなく、伊藤や山縣と比べるとその評価が低くなるのも自然な結果かなと思います。
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