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2018年5月27日日曜日

でかすぎ(´・ω・`)

左から「J-20」、「J-31」、「タイフーン」、「MiG-29」、「F-16」 
(全長:20.3m、16.8m、15.9m、17.3m、15.0m)

 前に書いた「でかっ」って記事で、中国の自称ステルス戦闘機J-20がやたらでかいということを、他の機種のプラモと比較して紹介しました。上の写真は今月、新たに我が家で生産した「J-31」をさらに加えた物です。
 それにしても改めて見るとタイフーンのがMiG-29より短いんだね。前のJBpressの記事に「ミグみたいなちっさい飛行機をJ-20との大きさ比較に使うのは不適当だ」とか抜かす奴いたけど、タイフーンより長いし、あと世界のベストセラー機はさらにちっさいF-16であることを考慮すると、決して不適当とは思わないというか、基準のはっきりしない批判だなと思います。

 J-20については上の写真からも見てわかる通りに、世界の主要機種と比べてもその大きさはやはり群を抜いています。ただ、ベースというかコピー元のF-22の全長も19.6mと大きく、J-20がでかいというよりかはF-22がでかかったせいと考えるべきです。

J-20とJ-31の比較 

改めてJ-31 

 言っては何ですが作っててJ-31は割かし楽しかったです。如何にもというべきオーソドックスな形していて、バランスの良さを感じます。ちなみにウエポンラックは機体本体の腹の中に収納されており、このトランペッターのキットでは収納部も再現されてて、開いた状態にすることも可能です(J-20も同じ構造だが再現はされてない)。まぁ開いたまんまだと内臓飛び出ているような感じするので、私は接着剤で固めて閉じちゃいましたが。
 なおキットの良さで言えばJ-20に軍配を挙げます。作っている最中はその構造に終始驚かされましたが、出来上がってみると初めから真っ黒ボディで見栄えが良く、また尻尾の先のエンジンノズル用に銀色したデカール(シール)が付けられてて、これだけでも見栄えがかなり変わります。

 と、期待の新星J-31についてつらつら語ってきましたが、今日の主役はこいつじゃありません。


 上の写真は2週間前に作ったSu-34ことフルバックです。名称こそ違えど、ロシアが誇るSu-27ことフランカーの姉妹機の一つで、細部に違いこそあれど基本設計や大きさは同じで、シートが複座になってるところが異なっていますが、普通にこっちもフランカーと呼んでも差し支えないと思います。
 このフランカーについても以前、同時期に開発されたMiG-29とのあまりの待遇の差、具体的にはMiG-29がフランカーに比べダメな子扱いされた経緯を書いた上でこいつのことをでかいのに機敏に飛ぶことから「動けるジャイアン」と書き、ミグをいじめる悪者のように紹介しました。

 しかしあの記事書いた後、その最大の特徴ともいえるコックピット周辺の盛り上がったくびれなどが段々格好良く思えてき、なんかミグに浮気している気もしましたが結局こっちも買って作ってみました。結論から言うと、買ってよかったです。いろいろ気づけたし……。


 改めて、最初の比較写真にフランカーを追加したのがこちらの画像です。見て分かる通り、でかいでかい言ってきたJ-20よりもさらに二周りくらい行くでかさです。スペック表によるとこのSu-34の全長は23.4mで、大本のSu-27は21.9mなのでベースからはややでかくなったという計算になりますが、これは後部のスラスターの間にある謎の尻尾こと後方レーダーが延長したためで、機体本体自体はさほど変わってないと考えられます。
 なおコックピット周辺のくびれともども、この長く伸びた尻尾もフランカーシリーズの代表的特徴です。艦載機のSu-33ことシーフランカーは搭載スペースのためか、ハムスターみたくちっちゃくなってますが。

 MiG-29、Su-34、J-20の比較

手前が MiG-29、奥がSu-34 (なんか遠近おかしい)

上の構図を正面から撮ったもの 

 写真を見ればわかる通り、フランカーはめちゃくちゃでかいです。機体全体はもとよりノーズ、翼、武装のどれもが他の戦闘機を凌駕しており、でかすぎるせいかカメラのフレームにうまく収まらず、写真撮るのに結構苦労しました。

手前がF-16、奥がSu-34(これも遠近おかしい)

 仮に自分がF-16とかミグに乗ってフランカーと空で遭遇した場合、まず相手に強い恐怖を感じ、逃げ出したくなると思います。そう思うくらい機体のサイズでフランカーは他を大きく突き放しており、それでいて機動性に関してはミグ以上、っていうか現時点でも世界トップというくらい機敏に飛び回れると言われ、反則としか思えない機体です。

 先ほどにも挙げたコックピット周辺のくびれについてよくネット上でフランカーは「エロい」と表現されており、なんとなく言いたいこともわかるし自分もそれにつられてプラモ組んでみたところがあります。しかし写真で見るのと実際作るのでは違うというかやっとわかったというか、そのあまりのでかさから作る前に持っていたワクワク感というかカッコよさを追い求める心は組み上がった後には一気に吹っ飛び、「なんなのこのでかさ……(;´Д`)」という、恐怖心のような距離感を覚えました。
 敢えて女性に例えるとしたら、MiG-29は「如何にも普通っぽくありながらきちんと自立した個性もあるかわいらしい女の子」だと感じるのに対しフランカーの方は、「美人でグラマーなんだけど体のあちこちでかすぎて逆に引いてしまう金髪の欧米人」のようなイメージを持ちます。

 一応言っておくと、現代戦闘機のサイズとしてはやはりタイフーンとかMiG-29くらいのサイズが一番多く、これらを中型機として取り扱うのが適切だと私は考えます。その点からすればJ-20はやはり大きなサイズの機体だと言えますが、フランカーシリーズに関してはどれももはや規格外と言いたくなるサイズで、大型機に含むかどうかじゃなく別枠としてみるべきというか次元の違う存在のようにすら感じます。っていうかでかすぎてプラモの置き場所にも困るくらいだし。冷蔵庫の上ももう満杯だよ( ゚Д゚)

 作る前まではそのフォルムの美しさから浮気しかけましたが、やっぱり自分にとってのベスト戦闘機はMiG-29であることが再確認出来ました。やはり写真とかスペック表だけだと全然イメージできませんが、プラモで作ってみるとこの辺の大きさの感覚は非常につかみやすく、いろいろ作ってみてよかったと思います。

 前に書いたJBpressの記事にも今日写真に出したプラモとか出していますが、内心この記事は軍事評論記事において結構革命的だったんじゃないかと後から思えてきました。模型とはいえ、異なる戦闘機の機種を同じフレームに並べで表示(現実にはまず不可能)することでその違いを比較しやすく、また構図も自由に選べるだけに、実機の画像ではできない解説や紹介もできるようになると思えます。CGとかでもできなくはないですが、それよりもやはり模型の方がメリットが多いでしょう。
 なるべくミリタリーに興味を持っていない層向けとしてこうした試みというか暴挙をやらかしましたが、ライト層への解説という意味では模型の使用は悪くない手段だと思います。おかげというかアクセスは割と好調なようで、個人的にも自信を取り戻すいいきっかけになりました。

 ある程度現代で主要な機種は今回のSu-34の生産でカバーできたため、プラモづくりは新たな連休が来るまでは一旦ストップする予定です。まだ情熱が残っていたら、今度作るとしたら単発クローズデルタという割と変わった造形しているJ-10辺りを考えてますが。

2018年5月26日土曜日

彼が心理学部を志望した理由

 先日の日本帰国中、何度かこのブログでも紹介している世話している中国人と会ってきました。彼は二年半の日本での語学留学を経て、今年四月から関西の某私大の心理系学部への進学を果たしており、関西によることもあって現状確認も兼ね、あと集合場所近くに住んでいる後輩とも会うため大阪へ行ってきました。

 私と中国人と後輩の三人で一緒に夕食を食べましたが、中国人と後輩が会うのはこれが初めてでした。初対面ということもあって後輩は中国人にいろいろ質問しており、「一体なんで心理学部を選んだの?」と志望理由も尋ねたのですが、

「これまで何人も女性から振られて、傷ついた自分の心を癒したかったから( ・ω・) 」
「自分の心を癒すためかよっΣ(゚д゚;)」
「ついでにほかの人の心も癒そうと思っています( ・ω・) 」
「ほかの人はついでかよっΣ(゚д゚;)」

 という、衝撃的な志望理由が明かされました。っていうか俺も知らんかったし。
 ただ心理系学部の学生とはこれまで何人も会ってきましたが、大抵は「人間の心理メカニズムに興味があるため」とか、「相手の心理を読んでより理解できるようになるため」などと如何にも教科書っぽい志望理由しか聞いたことがなく、まさか「自らを癒すため」、しかもその原因が「女に振られ続けてきたから」という志望理由は私にとっても結構衝撃でした。

 基本、志望理由とか動機の類はストレートであればあるほど私は評価します。仕事を選ぶ理由も金のためとか楽な仕事だからとか、そういった理由をオープンに語る人ほど信用できるし頼りがいもあり、逆にまどろっこしい理由を挙げる人に限ってあまり期待できないという傾向があるとすら考えています。まぁ実際に志望理由を「生活する金のため」と書いたら私の場合は落とされましたが。

 そういう意味で上記の中国人の回答は面白いと思うし、見所あるなとすら思っています。後輩もこの一言を評価しており、「それ絶対、就職の面接とかでアピールした方がいい。マジ面白い(゜∀゜)」と勧めていました。
 なおこの会合の後、中国人はそのままアルバイト先へ直行し、私はというと後輩の案内する銭湯でひとっ風呂浴びてから漫画喫茶で一泊しました。その後輩からは別れ際、「花園さん、荷物それだけっすか?」と、ナップザック一つで約一週間の日本滞在にやってきた私の姿を指摘してきました。後輩曰く、「東京出張でもあり得ない軽装ですよそれ」だそうです。

2018年5月25日金曜日

眠たくならない車を作るには

 前にネットで、大学の授業中に居眠りする学生が多いので室内の空気を測定すると、ちょうどいい感じにCO2が居眠りを誘うくらいの濃度になっていることが分かり、授業中の換気の必要性に触れた話を見かけました。私自身もすごく納得するというか、閉じた空間に集団が入るとその吐息からCO2濃度が上がって眠たくなるのはどこでもよくあり、冬場は多少寒くてもたまに空気を入れ替えないとオフィスとかでも眠くなり効率が落ちる要因になると思います。
 ただこうした現象は学校やオフィス以上に、一番短だと言える現場はやはり車の中だと思います。エアコンなどで換気は行われているものの、それでもCO2が溜まってしまうがゆえに運転中などはどうしても眠気を誘われることになってしまいがちです。ある意味、「運転してても眠たくならない車」を作れたら、それだけでもアピールポイントになるのではないかと思え、先日うちの名古屋に左遷され会社員生活を終えた親父とともにどんなプランがあるか話し合いました。

1、酸素インフレーターを搭載
 最も現実的な方法としてはやはりこれで、酸素を発生もしくは合成する装置を車載装置として取り付け、社内の空気のO2濃度を高めるというやり方です。現在でも携帯用酸素など眠気防止用として売られており、適度な濃度の酸素の吸入は脳を覚醒させる上では非常に効果的であるということは、元ガス屋の立場からも断言できます。どうでもいいですが高圧ガス主任者一級の資格持ってるけどどう使えばいいかいまだにわかりません。

2、運転中にドキッとさせる
 うとうとしている時になにかドキッとすれば意外と一瞬で覚醒するのではと考え、そこに一体どんな方法があるのかとしばし考えたところ、「ドアミラーやバックミラーに、たまに幽霊とか妖怪が映り込むってのはどうだろうか?」と私が提案しました。具体的には血まみれの女性とか口だけのよくわからない化物とか、そういうのが一定時間ごとにヒュっとミラーに映るような仕組みです。まぁ驚かし過ぎて、事故誘発させるかもしれませんが。

3、窓を開ける
 っていうか普通に窓開けて換気すればいいんじゃねっていう結論です。これを言ったら元も子もないのですが。

 ちなみに2番絡みの話ですが、日本滞在中に「コープスパーティ ブラッドドライブ」というゲームを空き時間に少し遊びました。これより前の「コープスパーティ ブラッドカバーリピティッドフィアー」というゲームは既に遊んでおり、その続編に阿当たる「ブックオブシャドウズ」とともに「ブラッドドライブ」が以前安売りされていたので買っておいたのですが、いかんせん技術力のない開発メーカーなだけにローディングは多いわバグは多いわで、内心あまり評価していません。声優にミンゴスとはらみーが出てるから買ったようなもんです。

 そんな「ブラッドドライブ」ですが、序盤に死体がゴロゴロ転がっている異世界の小学校校舎で、顔面をかんなにかけたような女子高生に追っかけられるのですが、捕まれば即ゲームオーバーかなと思ってバッドエンド(ゲーム内では「Wrong End」、または「どすこいエンド」)を埋めるためにわざと逃げずに女子高生の前立ったところ、一発ではゲームオーバーにはならず右手でゴツンと殴られました。
 多分そのまま殴られ続けたらゲームオーバーになったのでしょうが、結構鈍い音ともに予想外に殴られたため、「なんやこいつ、殴りよったで(# ゚Д゚)ムッカー」と変にむかっ腹が立ちました。このゲームやっててもちっとも怖くないのはきっと、こういうところにあるんだと思います。っていうかゲーム起動直後に「トロフィーを準備中」とかいう謎のテキスト出すのはまずやめてもらいたいものです。

2018年5月23日水曜日

プラモ記事の裏側

中国の最新ステルス機の形状、プラモで検証してみた(JBpress)

 これまでJBpress向け記事の取材で風呂入ったりザリガニ食ったりしましたが、今回のこの記事ほどやらかしたという思いのする記事はありません。具体的に言うと、自分の作ったプラモをどう載せるかというコンセプトで記事を書き始めた自分の発想の仕方はいろいろおかしいです。
 内容は読んでもらえばわかりますが、中国の戦闘機開発の歴史とステルス機の特徴について、以前にもこのブログで写真をアップしたJ-20のプラモと、こちらまだ出していないJ-31のプラモの写真を載せながら解説しています。下の写真は掲載版には使わなかった写真です。



 これはカメラを固定した定点撮影で、二機の比較としてはいい構図なのですが、いかんせん他にもグラフや写真をたくさん掲載しているため使えませんでした。まぁ見ての通り、相変わらずJ-20がでかいことが分かります。

 なお今回使った写真は記事執筆前に、「こんな記事書いていい?」と編集部に相談したところ、背景は白地だと構造が分かりやすいというアドバイスを受け、それに従う形で撮影しています。元々、自宅の壁の一部は漆喰が塗られているため最初から白地であったというのは良かったのですが、プラモを載せる台はベージュしかなく、何か白い敷物敷けば何とかなると思ってあれこれ探したところ見つからなかったため、自分の肌着をテーブルの上に敷いて撮影したのが上の写真です。
 一応言っときますが、着ていた肌着をいきなり脱ぎだして敷いたわけではなく、ちゃんと洗濯して畳んどいた奴を使い、滑らかな平面を出すためにわざわざアイロンまでかけました。ぶっちゃけアイロンかけている最中、「俺は今、何をやっているんだろうか」と自問自答しましたが。

 写真の秘密もばらしたので、引き続きこの記事に至った経緯について書いてきます。まず2週間前に中国のおもちゃ市場について書いた記事もアップされてますが、当初はプラモの写真を中国のおもちゃの例としてこの記事に使う予定でした。しかし記事にプラモを絡めようにも中国プラモ市場に関する現地報道や分析はほぼなかったほか、日本のプラモメーカーも中国市場単体の業績は公開しておらず、書きようがなかったため一旦は見送りました。
 その後、「戦闘機のプラモなんだし戦闘機ネタでいいか」と開き直り、編集部も承諾してくれたので一気に書くこととしましたが、よくこんな提案を編集部も受け入れてくれたものだと感謝しきりです。

 ただ書くことが決まってリサーチはそんなに苦労することなく済んだものの、ややスランプ気味だったのか執筆面では苦労しました。そもそも前回のおもちゃ市場の記事は、恐らく自分にとっては初めて、掲載当日のランキングでトップテン入りしなかった記事となるなど、5月上旬はこのところの疲労のせいか文章が悪くなっていたように思います。
 そのため、今回の記事も一旦書き上げて編集部に出しはしたのですが、翌日に改めて読んでみるとひどい体裁で、内容も理解し辛い上に自分で書いててポイントが分からないという駄文であったことに気が付きました。結局、またもう一日フルに使ってほぼ全編にわたって書き直すこととなったものの、苦労しただけ幾分マシになり、またそれ以降からこのブログの文章もよくなり始め、やはり当時はスランプにあったと改めて自覚させられました。
 そうした苦労が実ってか、今回の記事では現在のところランキングは1位です。正直うれしいよりも今回に限ってはホッとします。

 続いて記事内容に関してですが、割と徹頭徹尾シンプルに、且つ中立的に書くことを意識してまとめてあります。ふざけた部分はJ-20を見てサイコガンダムを連想したって言ってるところくらいでしょう。
 Yahooのコメントを見ていると「こんな当たり前/みんな知ってる情報ばかり書きやがって」と書いている人がいますが、正直に言えば、こうしたコメントを見るにつけまだまだ自分の需要があるなと思え安心すらします。というのも、軍事や歴史の記事は専門的に書かれることが多く、造詣の深いもの以外だと理解し辛い傾向があり、今回の私の記事はその点を逆に突くことを意識していたからです。

 前にも似たようなことを書いていますが、この手のジャンルの記事は「素人が口出しするな」と言わんばかりに専門用語を羅列したり、一部の主張を強く取り上げたりするなど初心者お断りな内容が非常に多いです。しかし初心者からすると間口で門前払いされては理解のしようがなく、興味があっても知ることが出来ない状態にあり、だからこそ素人目線で分かりやすい軍事関連記事も需要があるはずだと考えて今回の記事の構成を練っています。
 具体的にはRCS(レーダー反射断面積)等という専門用語は一切使わず、中国の戦闘機はどう開発されてきたのかと、現在運用されている戦闘機はどんな種類なのか。そして最後に戦闘機の形状をプラモを見せながら素人っぽく感想を述べるという構造にしてあり、ある意味「サイコガンダムみたい」と書いたのも印象を誘導させる思惑があります。

 ヤフコメを見ていると一部の人たちはきちんと理解しているようでしたが、日本の防空を考える上でこの記事の中で重要な情報は、「中国の艦載機はJ-15ことシーフランカー」、そして「2000年以降に中国は次々と、パクリとはいえ新規戦闘機を開発、就航、運用させている」という情報でしょう。けどこれらの点は見る人が見ればわかることなので敢えて詳しくは指摘したり語ったりはせず、まずは興味と印象を残させるような文章を意識して書いています。
 コメントを見ている限りだと、割とこの目論見は当たったかなと思います。

 最後に、改めて今回戦闘機プラモの写真撮ってて感じたこととしては、やはり実機と比べるとどんな角度からも写真が撮れるため、構造解説記事とかで映える画像が作れるなと感じました。特に複数機種の戦闘機の大きさを比べる場合、そもそも実機では並べて撮影すること自体がほぼ不可能であることを考えると、プラモを使って見せるのはなかなかに効果的です。
 前にJ-20の写真をこのブログに載せた際も、知人を中心に「わかりやすい」、「見やすい」などと評価してくれる意見が多く来ましたが、ミリタリー記事にプラモ使うというのは一見暴挙に見えつつも、単純にわかりやすい記事を書くという観点では間違った選択ではないと実感します。

  おまけ
 今回、「J-20がでかいだなんて、フランカーのがもっとずっとでかいじゃねぇか!」という批判が来るだろうと、でもって真正面から殴られる覚悟で記事を出したのですが、意外にもこうした批判は全く来ませんでした。J-20がでかいことを強調するためにあえてフランカーの大きさには目を瞑ったのですが、この辺についてはまた今度解説します。

2018年5月22日火曜日

LCCの乗客レベル

 また昨日まで約一週間ほど日本に入国して関西、東海地域を回っていました。ちなみに1日目は普通に高槻の漫画喫茶で一晩明かしましたが、なんか漫画喫茶の方がよく寝れるような気がします。あと読もうと思っていた「兎―野生の闘牌」が間に抜けてる巻があって結局また読めませんでした。

 話は本題に入りますが今回個人的に印象に残ったのはケイスケホンダ的に、使用した春秋航空の乗客でした。春秋航空と言えば格安航空会社ことLCCとして、ごく初期から日本で実際に運営されている中国上海市を本拠とする航空会社です。特にこだわりなく、料金が比較的安く(極端にではなく)且つ往復でなるべく同じ航空会社にしようと思ったことからこの春秋航空を選びましたが、結論から言えば今後利用することは多分ないと思います。このように考えるようになったのも、航空会社のサービスはともかく乗客のレベルが極端に低いと感じたからです。

 往路便、復路便ともにあまりいい思い出がないのですが、やはりLCCということもあって乗客は比較的若い中国人客が主でした。これまで私は日本と中国の往復において東方航空とデルタ航空をややメインに、あと安い時にはANAやJAL、そして去年は同じくLCCのピーチエアラインを利用してきましたが、これら比べると春秋航空の乗客の質は目を覆うくらいひどいものでした。
 なおピーチもLCCということもあって乗客は若い中国人ばかりでしたが、使用した便は深夜1時半出発の便であったことから乗客は基本くたくたで、離陸と同時に合宿みたくみんなして一斉に寝るため搭乗中に不快感を覚えることはありませんでした。

 話は戻りますが春秋航空の乗客がどれだけひどかったのか具体例を挙げると、

・無意味に机や椅子を音を鳴らして叩き出す
・離陸・降下中にも関わらず立ち上がる
・大声でしゃべりだす
・意味もなく通路をうろつく
・食べカスを通路に吐き出す
・搭乗の際に大きな荷物を抱え既に着席している乗客にガンガンぶつけてくる

 ざっと挙げればこんなもんです。同じ中国の航空会社である東方航空や中国国際航空(エアチャイナ)の乗客と比べてもその質の差は歴然で、これまで中国便で感じなかった不快感を今回激しく感じて、多少値段が高くなってもこういった飛行機には乗りたくないと感じたほどでした。
 何故これほど差が出たのかというとはっきり言えば料金価格の差で、価格が安いことから所得が低く、あと地方の田舎出身の若い中国人が多く登場したからではないかと思います。といっても食べカス吐いたのは年配のおっさんだったが。

 中国の事情を知っている人には早いですが、その都市部と田舎の人としての差は非常に大きく、上海市などの大都市の住民は非常に洗練されているのに対して田舎出身者はあらゆる面で問題のある行動をとることが多いです。なおツッコミの激しい後輩によると、中国国内でも大都市同士をつなぐ便は多くないが、地方都市とつながっている便だとやはり問題のある乗客が増えるそうです。
 こうした事情は中国人当人ですらよく自覚しており、特に上海市の住民などは田舎出身者だとわかると露骨に態度を悪くするなど差別感をはっきり出すほどで、凄い人になると、「中国人の九割はこの世にいなくていい人たちなの」と日本人ですらドン引きする発言する人すらいました。

 しかし現実にこういった粗暴な中国の田舎出身者を見てしまうと、恐らく私に限らずともいくらかの差別感情を日本人も持つと思いますし、現実に今日本で中国人旅行者をよく思わない人たちはこういった人たちを見ているのではないかと思います。先にも書いた通りに大都市の中国人はマナー面でも非常に洗練されてきているので、個人的には「中国人」とひとくくりで見ない方がベターだと考えますが。

 それにしても今回はLCCの価格に対するそのデメリットを初めてはっきりと認識しました。以前ほど金に困ってないし、あと日中往復便の数はこの一、二年くらいでまたさらに増えてどこの航空会社でも安くなってきているので、今後はもっとしっかりした航空会社を選ぼうと思います。
 なお個人的におすすめなのは、多少高くなりますがデルタ航空です。JALとかANAよりずっとサービスいいし、機体設備もグッドです。地味に東京―上海便だと滞在時間が長く取れる離発着時間ってのも見逃せません。

2018年5月19日土曜日

Vivaldi最強伝説!

 かつて、「Opera最強伝説」という言葉がありました……。

 現在でこそどのブラウザにも当たり前についている機能に「タブブラウザ」がありますが、この機能は北欧初のウェブブラウザことOperaにて初めて実装されたものでした。私は学生時代、「他の人間と同じものを使うなんてありえない」などと盗んだバイクで走りだしそうな自分だったこともあって、なんか特徴的なブラウザを使いたいと思って探した際に見つけ、その機能と凄まじい速さに驚嘆しました。
 それ以降、私はOperaのヘビーユーザーとなり、自宅にきた友人にマウスジェスチャーでタブを閉じては開いて切り替える動作を見せては驚かせたりして、いい時代をOperaとともに過ごしました。ちなみに新聞社にいた頃も、会社のパソコンに勝手にインストールして、ITメディア出身の同僚に、「なんでOpera入ってんの?」と無駄にビビらせてました。

 しかしそんな蜜月時代もあっという間でした。Operaのバージョンが10.00になったあたりから不具合が続出し始め、また単純な機能にすら不安を覚えるようになり、大体このころから最新版ではなく9.0番台を使っていました。しかしOSの切り替えなどで古いバージョンもとうとう使えなくなり、仕方なく最新版をインストールしたら以前よりもさらにもっと激しく悪くなっており、完全に表示することが出来ないサイトすら出ました。
 確かこのブログソフトのBlogger自体も、編集画面が開けなかったです。最低限の能力すら持たない、はっきり言って欠陥品もいいところでした。仕方なく、それ以降はFireFoxを使うようになり、現在はVPNの関係からChromeを使っています。

 上記のOperaの不具合ですが、どうも創立者がまさに問題が起こり始めた10.00のあたりで退社していたことが原因だったようです。実際、10.00以前と以後で全く違うブラウザと言ってもいいくらい内容が変わっていました。
 そしてその創立者ですが、有志と組んで新たなブラウザを作っているとのうわさをある日聞きました。そしてそのブラウザの名は、Vivaldiです。

 私は上記のうわさを聞いた際に開発中のバージョンをダウンロードして使ってみましたが、中国だと検閲回避のためにVPNを、そしてVPNをつかうためにはChromeを使う必要があるため、ちょっと見ただけで本格的に使うことはありませんでした。とはいえ、やはり懐かしさを覚えるブラウザであったのは印象に残っています。

 何故こんな話をするのかというと、実は会社のパソコンでも作業用にFireFoxを入れていたのですが、どうもOSをアップデートしてから中国のアクセス制限が原因でしょうが不具合が起こり始め、まともに使えないのでエクスプローラーで代用していたのですが、やはり使い勝手が悪く、何か代替先はないかと考えた際に上記のVivaldiを思い出しました。既に正式版が出ていたので早速ダウンロードして使いましたが、明らかに早いです
 日本で使った時はそれほど感じなかったものの、アクセス制限で日本語サイトの表示が遅い中国だとその速さは歴然で、また画面も相変わらずシンプルですこぶる見やすく、設定もシンプルで調整しやすいです。そして何より、マウスジェスチャーも使え、懐かしさがこみ上げてきます。

 恐らくこのまま会社のパソコンではVivaldiを使い続けると思います。そして再び、「Vivaldi最強伝説」が始まると確信しています。っていうかVPNの障害なければ自宅でも使いたい……。

2018年5月17日木曜日

本願寺の東西分裂の背景

 また電子書籍で先月ドラマ化したからでしょうが「はんなりギロリの頼子さん(半ギロ)」の1巻が無料配信しており読んでみましたが、「ああ、京都人あるあるやな」と思い、多分この本読んでる人の大半は京都の人だろうとニュータイプ的な直感を感じました。内容的には京都に住みながらスライダーの練習したこともあるのでそこそこ馴染みのあるものが多かったのですが、「京都の人はみんな、増えすぎたり飼えなくなった金魚や亀を東本願寺のお堀に逃がしたことがある」というエピソードはこれまで知らず、新鮮に読めました。
 なお京都人は上記行為について「捨てた」とは絶対言わないとのことで、まぁそうだろうなと納得します。

 さて京都の人にすれば当たり前ですが、本願寺と言ったら現代の阪神タイガースファンに相当するような、戦国時代における一向一揆の総本山なアレです。その本願寺ですが先ほど「東本願寺」と言いましたが、光ある所に影があるように東があるからには西もあり、実際に「西本願寺」は存在します。っていうか東本願寺のすぐ隣です。
 すぐ隣にあるのだしどっちも同じ本願寺だから東西両本社体制なのかなと覚える方もいるかもしれませんが、どちらも仏教の浄土真宗系であることには間違いないものの、宗派はそれぞれ東が「真宗大谷派(東本願寺派)」、西が「本願寺派(西本願寺派)」とはっきり分かれており、激しい対立こそしていないものの歴史的にライバル関係にあることには間違いありません。そんな二派ですが、どちらも日本の宗教団体としてはトップ2の規模を誇るというのだからなかなか興味深いです。
 なおどっちの方が規模というか檀家数が多いのかはわからないので、もし知っている方いたら教えてください。

 一体何故同じ本願寺なのにこのように東西で分かれているのかというと、そのルーツは安土桃山時代にまで遡ります。説明するまでもなく本願寺は当時の本拠地であった現在の大阪市にあった石山本願寺に立て籠って織田信長と対立し、「信長を最も苦しめた」勢力であることには誰も疑問を挟まず、この手の歴史議論にしては珍しくあらゆる方面で意見が完全一致しています。
 最終的に天皇家を仲介とした信長との和睦に応じた時の宗主・顕如は石山本願寺を退去しますが、顕如の長男である教如はこの和睦に反対し、付き従う強硬派の面々とともに石山本願寺に残り続けました。

 なおこの教如の行動は彼の独断専行との見方が強いですが、信長が和睦の約束を違えて退去した本願寺勢力に攻撃を加える可能性を考慮し、あらかじめ顕如と示し合わせた上でのポーズだけの抵抗だったとする意見もあります。もし約束を違えば再び籠って戦い、約束を守るようであれば退去した勢力が宗門を繋ぐという、いわば関ヶ原における真田家みたいな両面作戦と言ったところです。
 現実に教如は威勢よく立て籠もったものの、きちんと和睦の約束を果たすのを確認できたからか半年したらすぐに出ていきました。一応、パパの顕如から教如はその後、蟄居を命じられてますが。

 その後、本能寺の変を経て天下人が秀吉の時代になり、秀吉から現在の西本願寺の地(京都市堀川六条)を本拠地として寄進されてこの地を本拠とします。京都に移ってからしばらくしてビッグダディの顕如が入滅するとその後継者には先ほど立て籠もった長男の教如が指名されて彼が宗主の座を継ぎましたが、これに異を唱える声が内部から上がりました。
 その声を挙げたのも三男の准如と初めから素直に石山本願寺から退去することを選んだ穏健派たちで、彼らの訴えを聞いた秀吉の裁断もあって教如もすぐ宗主の座を准如に譲り、自らは一兵卒みたいな感じで布教活動を続けました。しかし宗主の座を降りた教如の周りには彼とともに石山本願寺退去に抵抗した強硬派が集まっており、既にこの時点で本願寺は分裂状態にあったと言われています。

 そのような火種を抱えていたところ、権力者の代替わりによる転機が起こります。関ヶ原の戦いから2年後の1602年、徳川幕府は隠遁した教如に対して京都烏丸六条の地を寄進します。何故徳川幕府がこうした行為に出たのかというと、かねてから家康に接近していた教如のロビー活動が実ったとか、准如が関ヶ原の折に西軍側についたことを徳川家が良しとしなかったなどいろいろ挙げられていますが、最大の理由は恐らく、半分裂状態の本願寺を完全に分裂させてその勢力を削ぐという狙いがあったという説を私は支持します。家康自身も三河一向一揆に苦しめられた経験があり、本願寺勢力の恐ろしさをよく知っている人物であるということが、この説を支持する大きな理由です。

 その後、東西両本願寺が並存する体制が確立され、宗派もはっきりと分かれたことで現在に至ります。なお仏教系の大学としてそれぞれ著名な大谷大学は東本願寺の学寮、龍谷大学は西本願寺の学寮がそれぞれ母体としています。なもんだから早慶戦みたいに両大学の野球の試合は「東西戦」とか「本願寺対決」などと言わないのかなとか気になりますが、この二つの大学出身の知り合いがいないのでよくわかりません。

2018年5月15日火曜日

スルガ銀のシェアハウス問題に関する発表の疑問点

「シェアハウス関連融資問題」について(スルガ銀行)

 かねてから取り上げてきたスルガ銀行のシェアハウス問題ですが、金融庁の調査が入ってもダンマリ決め込んでたのに、今日になってようやく簡単な報告というかプレスリリースを出してきました。でもって結論から言えば、いくつか疑問を感じる報告書です。
 以前ならともかく、このところこういう報告書見るのに長けてきました。

1、行員の不正関与
 今回発表された報告書は二つ、スルガ銀行自身がまとめた報告書と、弁護士によって構成される調査委員会の報告書なのですが、前者では行員の不正関与について「可能性がある」と濁しているのに対して後者では「後述の1人については資産報告書が偽造されていたことを確実に知っていた」とはっきり指摘しています。何故同時期の発表でありながら内容が異なっているのか、第一、スルガ銀の報告書では行員へのアンケートで不正の認識を尋ねたと聞いていますが、不正調査のプロに前教えてもらいましたが、「不正している人間はやっているかと聞いたら絶対否定する」とのことで、そんなアンケートなんて取るだけ無意味です。むしろ見るべきは、「周りで不正をやっている疑いのある人間はいたか?」でしょう。
 もっとも、この件から見えることは一つあります。こうした表現を取るということはやはり不正はスルガ銀全体、恐らく幹部も含めて実行していた可能性が高いということです。自分は不正調査のプロではありませんが、文章表現のプロだと自称しており、そんな自分に言わせれば不自然な表現には不自然な背景が必ず存在します

 ほんと関係ない話ですが、ジャッキー・チェンのなんかの映画でヤクザの治療に失敗した医者が他のヤクザに襲われるや拳法で次々と薙ぎ倒し、「医術は三流だが拳法は一流なんだぞ!」と吠えるシーンを何故か思い出しました。

2、問題規模
 スルガ銀の報告書には、「 2018年3月末時点で、シェアハウス案件について当社から融資を受けておられるお客さま1,258名、融資残高は203,587百万円となっております。」と書かれてありますが、肝心の「かぼちゃの馬車」の運営会社ことスマートデイズ社関連の融資額は書かれていません。ご丁寧に、「これは、スマートデイズ社に関わるものに限られません。」とまで書いていますが、だったら言えよ。
 この件で私が最も知りたいのは、スルガ銀の内と外でこれから何人殺すのか、何億すっ飛ばすのかという二点こと今回の問題規模です。まさか現時点で上記数字を把握していないなんて言うわけはなく、何故今回このようにして隠したのか、何か意図があると疑います。

 私の勝手な推測を述べると、シェアハウス以外のリテール事業でも似たようなことをたくさんやっているからこういう表現になったのではと思います。知ってる人には早いですがスルガ銀行は個人融資ことリテール事業で収益を伸ばしてきた銀行で、今回の問題に飽き足らず報告書でも「それでもリテール事業は縮小しないよ(`・ω・´)ゞ」と書かれてあります。まぁ別にいいけどさ。
 ただ、以前から何度も書いているようにこうした金融不正事件は何か一つの不正が明るみになる時点で他にもたくさん爆弾を抱えているという事例が多いというか、むしろそっちの方がデフォルトです。ましてやスルガ銀はリテール事業でのし上がってきた銀行で、尚且つ以前にも書いたようにロードバイクローンの試算例は一目で異常だと感じる内容で、ああいったものを顧客に見せているとしたら相当程度消費者をだましてきているのではと疑わざるを得ません。

 だからこそ問題規模について先ほどのように「シェアハウス案件」に限って金額を出してきたのでは、この問題をシェアハウス問題だけに減点するつもりなのではと、穿ちすぎかもしれませんがこんな考えがよぎりました。

3、スマートデイズ社への批判が皆無
 これが一番気になった点ですが、報告書全体を読んで問題の持ちかけ側ことスマートデイズ社への批判こと恨み節が一つも見当たりませんでした。私はてっきり、スルガ銀はスマートデイズ社に騙された被害者ぶって批判をかわすのかなと予想してましたが、あまりそう言った論調はありません。
 もしかしたら自行が不正融資に関与していることを真摯に反省しているから何も文句を言わなかったのかもしれませんが、それにしても今後の対応などでスマートデイズからの一部債権回収などにも触れないのはやや不思議です。むしろ今回の報告書を見て、スマートデイズ社を庇うかのような印象すら私は覚えました。

 仮に庇うとしたら何故庇うのか。自行も不正に関与しているからなのか。スマートデイズ社関係者に弱味を握られているのか。他にも同じような取引相手がまだ存在するからなのか。などと勝手な憶測を巡らせています。

 この記事は割と突っ込んだ内容になっていますが、まぁ公のメディアでもない個人ブログだし、憶測であると断っているので自分的にはありです。むしろこうした状況分析や予測においては、どれだけあり得ないと思うような想定も選択肢に入れられるかがその実力を左右するところだと考えているので、そう思う根拠と可能性があるのならどんどん思考を巡らすべきでしょう。

2018年5月13日日曜日

先天的能力と後天的能力

 ストライクフランカーことSu-34を今日は朝から作っていましたが、これめちゃくちゃでかいです。フランカーシリーズはくびれたノーズがエロいと評判だし実際見栄えいいから作ってみようと思いましたが、このあり得ないでかさはかえって興醒めで、やっぱりMig-29が一番だと思いなおしました。

 話は本題に入りますがこのところ一人でいて思うこととして、自分は普段の生業においてやや先天的能力に頼りすぎて生きて来たなと思うと同時に、後天的能力をあまり使わない、もとい育てるためにあんま努力してこなかったなと反省し始めてます。

 また大分昔の話ですがある日友人に、「どうして花園君は他の人がまずしないであろう話題を突然取り上げるなど、発想力がいいの?何かやってきた?」と聞かれ、「正直なところ先天的な部分が大きいと思う」と答えたら「言うねぇ」と返されました。
 気取って言ってるつもりはなく、このブログで取り上げる話題や披露する考え方などに至る発想に関して私自身はやはり先天的な能力に由来すると思います。こう考えるのも割と子供の頃から突飛な発想をしていたり、自分で考えを組み立てる癖が教えられるわけでもなく持っていたからです。同様に集団の違いや時系列での変化等に気付く観察力も、これもまた鍛えたつもりはなく、始めからかなり高い水準で持ってて現在も活用していることから、先天的なものでしょう。

 逆と言っては少し違うかもしれませんが、学生時代までこれは自分が鍛えた代物だと思っていたのは知識量でした。大体小学校中学年の頃から「どんな些細なことでも自分と無関係だとは考えず、できる限り覚えよう」という志しを持ってから幅広いジャンルに対して知識量を蓄え、現時点で自分が目指していた水準より遥かに高いレベルまで至りましたが、この知識量に関して子供の頃からの積み重ねだと信じていました。
 しかし、結果から言うとこの知識量もとい記憶力に関しても先天的なものだったと今は判断しています。というのも以前書いたように自分はてんかんを持っており、てんかんキャリアの中には実際このように何年前の内容でも昨日のようにすぐ詳細に思い出して話し出す人間は結構いるそうで、私の場合も記憶力がいいというよりかは関連するキーワードは記憶を呼び起こすのに長けており、恐らくこれはてんかん、神経伝達の電圧が極端に高いという症状がなせる技だと思っています。鍛えたからこうなったというものではないでしょう。

 このように、普段の活動において私が武器として長所として活用する能力のほとんどが先天的なものに由来し、いったい自分は何に努力してきたんだと我ながら呆れてきたのですが、そこではっと思い出したというか一応これは後天的獲得能力だなと言えるものとして文章力を思いつきました。
 本格的に文章を書くようになったのは中学生くらいからで、もうそのころには200ページ超の小説とか普通に書いていました。ただその後、段々と文字数を如何に少なくして内容を抉り出すべきではないかと思い始めてからこうした論評、コラム、記事などを得意とするようになってきて、多分現在なら数百枚の小説とかかえって書けないかもしれません。

 その後高校時代は一環として何かしら文章を書き綴っており、大学時代はいろいろ考えがあって敢えて書かなくなり、卒業間際になってこのブログを書き始め、上海で新聞社入って現在に至ります。各段階でそれなりにレベルアップがあって時系列ごとに自分の文章はきれいになりつつ癖を持つようになり、一応今でも素人よりは立派に見える文章を書けると自負しています。
 ちなみに一番得意とするのは、難しい内容をわかりやすく説明するような文章です。この方面だったらそこそこ自慢出来るような気がします。

 以上まで長々と自分語りをしてきましたがここで何を言いたいのかというと、能力の種類によってその上昇カーブは先天的か後天的か決まるのではと私は思います。具体的には、「勘の良さ」に分類されるようなものはほぼ先天的素質で決まり、練習したところで得られる修正は限られてくるでしょう。
 その逆の後天的努力による影響が強い能力に関しては、私の場合は文章力ですが、これ以外あんまり浮かばないのでどういう類がこれに属すかは正直ピンときません。そりゃ体力関連であれば、間違いなくこっちでしょうが。

 オチがまた弱いですが、自分の何が先天的な能力なのかを見定めるのは意外と重要な気がします。多かれ少なかれ誰もがそういった先天的素質に頼る面があり、何故頼るのか、ほかに後天的努力で補っているところはないのかを自己分析すると意外と見えてくるものがあります。

2018年5月12日土曜日

仕事で伸びる人、伸びない人の特徴と

 なんか時間余ってきたから久々に「ウォーシップガンナー2」というゲームを引っ張り出したら一発で時間がなくなりました。もう既に数百時間遊んでいると思いますが、未だに魚雷撃つのが楽しくて仕方ありません。今回は戦闘機の系譜を大体覚えたので空母をガンガン使って攻略するつもりです。

 話は本題に入りますが去年に日本へ一時帰国した際に名古屋に左遷されたうちの親父に、「そういえば昔、仕事で能力伸びない人間の特徴として、コピー取らせた時に書類の中身を見るか見ないかで判定してたよな」と言うことを思い出して話しました。ちなみにこの話をされたのは確か私が高校生くらいの頃です。
 親父曰く、「これコピー取って」と言って部下に書類を渡す際、コピーを取るついでに書類の中身を確認するかどうかチェックしてたそうです。ちゃんと見てたら及第点、見ないで言われたままコピーするだけだったら落第と、意外と細かいチェックの仕方すんなと当時内心思いました。

 ただこの話の起点というか、働いてて伸びる人間と伸びない人間の特徴というか傾向はあるのかという点で去年少し話を煮詰めました。その人が仕事ができるかできないかという議論は日本だと入社時、つまり就活時点の特徴や経歴ばかりが取り上げられて入社後の行動や発言についてはあまり取り上げられない気がするのですが、むしろ普通に考えれば本命はこちらで、入社後にどういったタイプがその後仕事ができる人間になりやすいのか、またはその逆はなんなのかいくつか話しました。

 出てきた話題はいくつかあるものの、一つのテーマで語るとしたら「やる気」に関する内容が話しやすいのでこのまま書きますが、私の持論でもありますが周りにやる気を見せる人間ほど脆くて折れやすく、逆にややシニカルな印象を覚えるくらいに距離感を保とうとする人ほど後々その実力を発揮する傾向がある気がします。少なくとも、海外駐在員に関してはこの傾向がはっきり出ます。

 具体的な話を述べると、「かねてから中国で働きたいと思っていたんです!」等と言ってこっちへ来る人間ほど途中リタイアこと任期途中の帰国に至るケースが多いです。同様に、現地に溶け込もうとローカルなお店や路地裏とかを着任からすぐ積極的に回ろうとする人も同じです。
 その逆に、着任当初は「中国なって絶対来たくなかった」、「嫌っつったのに無理やり派遣された」等と言ってた人ほど、後々物凄い業績を上げたり、地元の中国人も出入りしないようなあり得ないくらいローカルな場所とかうろついたりして、帰任前には「日本に帰りたくない(´;ω;`)ウッ…」などとマジで言い出したりします。

 上記の例外としては初めから旅行好きな人は最初から中国への赴任を希望しながらもすんなりと現地に溶け込みます。あとこれは既に実証もされている傾向として、信仰を持っている人も同様です。

 恐らく、就活ではやる気アピールが激しい人ほど評価される傾向があると思いますが、私は内心こうした見方に疑問を感じています。金属は硬ければ硬いほど折れやすく、逆に軟鋼な粘りがあるように、やる気がある、見せる人ほど心が折れる時は一瞬で折れることが多い気がします。逆というかやる気があるのかないのかわからない人ほど意外と仕事に粘り強くついていくというか、少々の困難でもへこたれないというか逃げない人がこれまで見てきた中で多かったです。
 まぁ最初からやる気が全く見えない人は長続きしないってのは間違いないですが。

 仮定のまま進めると、このようなことが起こる背景は何なのか。既に答えは行っていますが私はそれは「距離感」の置き方にあるとみており、前のめり過ぎる人はそのまま前に倒れてしまうのに対し、それほどやる気を強く見せない人はその辺の適切な距離感のバランスが保てるからだと思います。さらに言えばリスク意識もはっきりしているのかもしれません。

 さて明日はストライクフランカーでも作ってよ。

2018年5月11日金曜日

物欲の科学

 電子書籍で「へうげもの」の1から3巻が無料配信していたので購入(つっても0円)して久々に読み返してみましたが、改めて面白い作品だと思え非常に楽しめました。作者の独特な感性と歴史漫画でありながら現代アートに通じるようなデフォルメされた描き方もさることながら、主人公の古田織部(佐介)の物欲全開な活躍というキャラクターには心動かされます。
 そんなこの作品を見ていて、よく人間の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲と言われますが、実際にはこれに「物欲」も入って四大欲求とするのが適切ではないかと思えてきました。ネットで見るとさらに名誉欲を加えた五代欲求を挙げる人もいますが、この名誉欲はちょっと外れるのではないかと思え私は支持しません。

 少しまじめな話をすると、科学技術の発達していない未開の部族間でも定期的に宝物を交換し合う行為は割とどこでも見受けられ、この「交換」という行為はある意味で物欲というものが人間の生理的欲求に根差していると伺える根拠となるように思えます。同様に教育を受ける前の子供たちを見ても他人が持っているものを欲しがったりする行動が見受けられ、この点もこうした考えを支持するように見えます。

 では食欲に対する食べ物の臭いに相当する、物欲を刺激するものとは何なのか。これなんて先ほどの子供の行動を観察すると見えやすいですが、まず「他人が持っているもの」は理由なく物欲を刺激されるポイントと言っていいでしょう。ましてやそれが「自分が持っていないもの」であればなおさらです。
 ここでのポイントとして「比較」という現象が働いているのが分かります。例えば同じ種類の物でも、他人の持っている物より自分が持っている物のランクやグレードが高ければ安心しますが、その逆だと不安というか落ち着かなくなり、単純に言って奪いたくなるわけです。少し話の発展が早いですが、ある意味でこれが「嫉妬」の原点かもなとも思え、物欲こそが嫉妬を生む張本人とも思えます。

 話を少し戻すと、物欲においては比較という仲介行為が凄い役割を果たしており、これは逆に言えば唯一無二の比較しづらいものだとあまり物欲は刺激されないということとなり、その点で言えば収集を競い合う「同好の士」という存在もまた物欲を刺激する要素となりうるでしょう。
 ただ、中には一人孤独にある特定種類の物品収集に精を出す人もいますが、こういう人も考えると次の要素に当たる「コレクション」というか、「完全網羅性」こと全種類を揃えたくなるコンプリート欲求も見えてきます。現在の私を例にとると、時間があるので軍事研究を兼ねて戦闘機のプラモを作り始めたところ、姉妹機がめっちゃ多いフランカーを全種類揃えたくなってきていますが、まさにこう言うコンプリートを自然と目指すのも何かの欲求と見るべきでしょう。

 このほか検討を深めればもっといろいろ見えてくるでしょうが、先に話をまとめると意外とこうした物欲に関する研究とか議論はあまり見ないなと思います。私自身以上の考えは今日帰りに歩きながら、あと途中で醤油ラーメン食いながら考えた内容で、多分似たような意見を言う人はいるでしょうが私のようなまとめ方をしている人は絶対いないでしょう。それにしても明後日の方向見ながらラーメン食べてる自分を店員はどう見てたんだろう。
 こうした物欲に対する考え方は使い方によってはマーケティングにもすごい活用できると思うし、また「へうげもの」のように人心掌握のツールとしても活用できるはずですが、あまりそうした使い方を提唱する人は見ません。そもそも体系的にまとめようとしている人もいませんし、なんていうかもったいない気がします。

 最後にこちらはまだあまり自分の中で検証をしきっていませんが、先ほどの「物欲からくる嫉妬」について、男性は形の無い物、女性は形の有る物に覚えやすい傾向があるのではないかと思います。この男女差はどっから来るのか、また暇になったら考えます。

2018年5月9日水曜日

書評「宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査第一課元刑事の23年」

 先月、もしかしたら途中で販売中止になるかもと思って文藝春秋の五月号を購入しましたが、正直言って失敗しました。文藝春秋は最近あまりにもつまらな過ぎるから見出しを見て買うかどうかをこのところしており、四月号に至ってはめぼしい記事もなかったことから購入していませんでした。今回の五月号は例の森友問題で自殺した職員の遺族手記について、遺族自体が掲載されるとは聞いてもいないし手記も書いていないと主張したことと、「文書改竄で佐川からのメモが……」と宣伝していたから一応買いましたが、後者に至っては何の根拠もない伝聞による憶測という、よくこんなの宣伝文句にしたなと呆れるレベルの内容でした。
 六月号は明日から発売でしょうが、もう見出しを見ることなんてせず、買うこともないでしょう。この雑誌にはもはや何の魅力もありません。

 と、言いながらも、五月号に関して一つだけ収穫がありました。元警視庁捜査第一課刑事の原一雄氏のインタビュー記事が載っており、先日出版された原氏の著書「宿命」について触れられていたからです。この本の概要は何なのかというと、あのオウム事件に追われる最中に起こった國松元警察庁長官狙撃事件の犯人について実名入りで全部書かれています。

 この事件は発生当初からオウムによる捜査攪乱を目的とした犯行とみられ、オウム真理教に帰依していた元警官も犯行を自供してはいたものの、決定的な証拠がなかったことから立件には至らず、最終的に時効を迎え迷宮入りしています。なお時効に至ったその日の会見で捜査を担当した警視庁は、「それでもオウムが犯人と思われる」という異例の発言を行い、後にオウムの継承団体に当たるアレフから名誉棄損で裁判を起こされ100万円の賠償支払判決が下されています。

 通常、一般人ならまだしも警察関係者を狙った事件というのは警察そのものから物凄い恨みを買うこととなり、全力で捜査されてお縄に至ることが非常に多いのですが、この事件に関してはとうとう解決には至りませんでした。もっとも事件発生当初からこの事件は不可解な点が多く、雨天の中で20~30メートル先から日本では入手の難しいコルトパイソンという拳銃で狙撃されるなど、高い狙撃能力を持つ犯人による犯行でありながら、現場には捜査かく乱のための朝鮮人民軍バッジが置かれ、また犯行声明も出されることもありませんでした。
 なおこの事件の余波というか、「高い狙撃能力を持つ」という理由からオウムの逃亡犯であった平田信が早くから嫌疑者として指名されていました。後に2011年の大晦日に出頭してきた平田は出頭理由についていくつか挙げながら、この狙撃事件が「時効を迎え自分が犯人にされてしまうことがなくなったから」と、この事件の濡れ衣を着せられる恐れが逃走を続けた理由でもあることを明かしています。

 そんなこの事件を長年追い続けていたのが、「宿命」の作者の原一雄氏です。読み終えた感想を述べると、犯人はこの本に書かれている生涯で二度も無期懲役を受け現在も収監されている現金輸送車強盗犯の中村泰以外には考えられないというのが偽らざる本音です。
 犯行当日の中村の行動、隠蔽工作、そして動機などについては本の中で詳しく書かれているため敢えてここでは書きませんが、何故中村が犯人だと思うのかというと、本人自身が「私が犯人です」と既に自供している上に銃の入手経路や高い狙撃能力を有し、また秘密の暴露に当たる決定的情報を証言しているからです。

 この東大卒のテロリストである中村の生い立ちや思想に関する記述だけでも十分面白いのですが、それ以上にこの本を読んで衝撃だったのが、公安と捜査一課(刑事部)の関係性というか絡みです。この本を読んだ限りだと率直に言って両者の関係はあまりよくなく、公安の立てた筋道と異なる捜査によって、想定と異なる犯人を原氏ら刑事部が見つけてしまったことから、この狙撃事件は立件なく時効を迎えることとなったのが真実だと考えられます。
 もっとも途中から公安とも共同で捜査することとなった原氏によると、当初は中村犯人説に疑念を持っていたものの、捜査情報を提供するやすぐに公安も中村犯人説に動き、また時効を迎えた際には検察からも直々にそれまでの捜査を労われ、中村立件に至れなかった点を詫びられたと書かれてあります。

 はっきり書けば自分の思想はテロリストに極端に近く、警察関係者にもいい思い出より悪い思い出の方が多いためあまり警察を信用しておらず、っていうか素直に言うと嫌いです。叔父は神戸の公安所属で、規律に厳しいかと思いきやむしろ一般人よりむちゃくちゃなことばっかやる人でかわいがってもらっていましたが。
 ただ単純に嫌ってるということもあってか、あまり警察の組織や問題性についてはこれまで気にすることなく研究することもなかったのですが、公安と刑事部でこうも仲が悪いということはこれまで知りませんでした。そしてその捜査手法や特徴も異なっており、特に公安について原氏は、中村の協力者探しに当たって公安の人物割出し能力は抜きんでていたと称賛しています。逆を言えば、その高い割出し能力が刑事部には普段使われていないということになり、縦割り行政の弊害を覚えます。

 最後になりますが、単独ソースからの情報にもかかわらず中村が犯人だと信じ切るのはやや危険かと思うものの、この本は非常にお勧めできる内容です。先日後輩に日テレ記者である清水潔氏のノンフィクション本を紹介しましたが、今回もこの本を読んでやはりノンフィクションはやめられないというか面白いと改めて感じさせられた一冊でした。

2018年5月8日火曜日

その辺のぺがさす

 今日ふと何故日本人は自国を過信するようになってきたのかと考えた際、「犯人はプロジェクトXだ」と思い至りました(0.8秒)。せっかちな性格もあって、何かの問いに対しては先に結論出してからそこまでの過程を後から考えることが多いので、決して上の思考過程は誇張ではありません。

 では順を追って何故このような結論に至ったのか説明すると、そもそもまず日本人が自国を過信しているかという点については私の目から見た印象ですが、恐らく間違っていないかと思います。未だに大半の日本人は時刻が技術大国だと思っているようですが、既に工業方面でも技術の衰退はかなり進んできている上、学術分野の論文出願数や特許取得数、そして新規技術への対応の点に至っては世界的にもはや遅れている部類に入りつつあると言わざるを得ません。
 そもそも何故このとっかかりを得たのかというとMRJのテコ入れに開発している三菱航空の増資を三菱重工が行うつもりという報道を見たからです。MRJも発表当初は優れている点が盛んに喧伝されましたが、延期に延期を重ねたせいで設計が古くなり、もはや優位点はあまり見つからないのにいまだ完成もしていないというデススパイラルに入っています。

 話は戻りますがこうした主に技術方面の過信について何が発端なのかと考えた際、民族的なプライドなども浮かんできましたがそれ以上に地味に大きな影響元として、「日本礼賛番組」の存在があるのではと思えてきました。
 ネットなどで見ている限りだと最近は減ってきているようですが(それでも一部で話題になっている辺りはあるのだろうが)、2010年代前半はこの手の番組の多さに私自身辟易しました。ちょうど中国から日本に戻って一時滞在していた時期ということもあるでしょうが、チャンネルをいくら回しても「にほんはスゴイ!」的な番組ばかりで、しかもその異様さを誰も指摘していないという状況が私には不思議に思えて仕方なく、その辺は当時のブログにも書き残しています。

 もっともこうした違和感は徐々にとはいえやはり広がっていったのかそれからしばらくして私だけでなく、「礼賛ぶりがかえっておかしい」と指摘したり、単純に番組がつまらないという声も増えて言ったように思え、そうした流れもあってかどうもこの手の番組はまだ勘違いしているところを除いては大分なくなったようです。なおこの手の番組を私自身は全否定するつもりもなくたまに見る分なら面白いと思いますが、2010年代前半は明らかに異常なくらいにこの手の番組が氾濫していたように思えます。そして何故この手の番組が氾濫したのかというと、想像ですが背景には2010年前後にあった主にフジテレビを中心とする異常な韓流推しの反動があったためではと推測しています。

 話は戻りますがこうした日本礼賛番組が、すべてとまではいかずとも日本人の過信を助長させたとするならば、さらにその源流はどこかと考えたところ出てきたのが「プロジェクトX」でした。番組内容については著名であるためいちいち説明しませんが、この番組自体はよくできているし評価に値しますが、もし「かつての日本の栄光」に浸ることに対して強めのカタルシスを日本人に与えてしまったとするならば、長期的に見て悪影響を及ぼした可能性もある気がします。
 特にこの番組について、この番組放送以降にもしかしたら起こっていたのかもと思う変化として、過去の日本の技術礼賛によって過去に取りつかれ、未来を見なくなってしまったのではと思う節があります。そう思う根拠として、ここ数年の日本の報道などを見ていると、新技術に関する解説や評論、礼賛や応援がなんか減ってきているように私には感じるからです。具体的に言えばなんで5Gの解説があんま出てないんだとか、自動運転についてもリスク面の話ばかり出るし、そして何よりさっきのMRJの優位性もかなり専門的な記事を追わないと出てきません。まぁ最後のは最初にも書いた通り既に優位性を失っているだけかもしれませんが。

 思い起こすとまだ私が子供だった頃は新技術について、「これからの未来は明るい!」的なノリでもっといろいろ紹介されていたような気がします。特にゲーム関連について言えばプログラムやメモリの発展過渡期だったこともあって機能や画像表現の進歩についていちいち特集されていました。また携帯電話をとってもその通信機能やアプリ機能など、今よりワクワク感に溢れた特集が組まれて紹介されてたように思います。
 ただ単に技術の発展過渡期だったとすることもできますが、ここ中国にいると新しい技術やサービスについてよく取り上げられており、これらと比べるとなんか日本は新技術について及び腰というか、むしろ排他的な姿勢にすら感じるところがあります。一方で日本の技術は世界最先端だと完全に信じ切っており、何故そうした発想に至るのかというとやはりプロジェクトXのせいというか、過去の栄光にすっかりとらわれて現実や未来が見えなくなっているのではと、かなりきつい言い方ですがそんな風に覚えます。

 その上で私個人の提言として、過去の技術なんて現代では全くお金にならないのだし、もっと新技術に目を向け社会全体で研究開発熱を盛り上げて行くべきであり、日本の技術は最先端だとか一旦そういうのは置いといて、今よりもっといい技術をもっと貪欲に追い続ける姿勢こそが大事だと思います。
 それこそ飛行機一つとっても、この際だから脳波で動かすサイコミュ連動型作るとか、ビームライフルの標準搭載を目指すとか、他の国には絶対真似できない三身合体を実現させるとか、あり得ない空想をもっと本気で目指すべきでしょう。もっと夢を語るんなら、ギュネイ・ガスを超える強化人間とかもアリですが。

 なお見出しの「その辺のぺがさす」は「草原のペガサス」の空耳版です。一度これ知ってから猛攻としか聞こえません。

2018年5月7日月曜日

垣根を超える大スター

 先日友人に、「前に君が話してくれたゼミの先生の話を、大谷選手を見ていてこの頃よく思い出す」と話しました。その友人の話というのも、王、長嶋という往年の読売巨人軍の大スターについてかれのゼミ教授が、「自分にとって昭和といえば彼らだと言いたくなるような、時代そのものと言っていいスターだった」と述べ、その影響力は現在では比較にならないほど大きかったというような内容でした。
 もっともこの話について友人は、「俺そんなこと言ったっけ(;゚Д゚)」と言って覚えていませんでしたが、「でも花園君がそういうのなら、きっと言ったのだろう(;・∀・)」と続け、自分のシャレにならない記憶力についてよく理解してくれている友人だなとしみじみ思いました。ちなみにこの話があったのは恐らく2008年か2009年のどちらか、場所はガスト店内です。

 話は戻りますが、私は先ほどの友人のゼミ教授が言っていた、王、長嶋が当時どれだけ偉大であったのかという話について聞いた当初はそれほどピンときませんでした。両選手が偉大な記録を残し、現役当時は超が付くほどの大スターだということはもちろん知っていますが、その時代を生きた人間が当時どのようなインパクトを彼らから受けていたのか、その点についてあまり実感がわかなかったのが本音です。
 しかし、今現在になってなんとなくわかってきたと思えるのが、このところのエンゼルス・大谷選手の活躍ぶりです。今朝も安定した投球内容で無事にメジャー三勝目を上げましたが、特にこれという接点もなく日ハムでもエンゼルスでもファンじゃないのに、彼個人の活躍を聞くだけで非常にうれしくなってきます。なにもメジャーに行ってからこうなったわけじゃなく日ハムにいたころも彼が活躍したと聞けば目を細めていましたが、やはりメジャー進出以降はさらにハイレベルなステージでの活躍ということもあって、以前以上に注目するようになってきました。

 日本に限らず米国にとっても近代プロ野球としては例外と言っていい投打の二刀流で、しかもその両方で大谷選手は高い成績をキープしており、今間違いなく野球の歴史が変わる瞬間に立ち会えていると感じうれしく思います。また日本のファンはもとより米国でも最大級の注目ぶりで、所属チームのエンゼルスファンだけでなく相手チームなどからも垣根を越えてそのパフォーマンスが称賛される様は、「これがスターなのか」と覚えさせられ、きっと王、長嶋も今の大谷選手の如く、チームを超え、また熱烈なプロ野球ファンでない一般層からも高い注目と人気を集めていたのではないかと思え、ここに至って友人のゼミ教授の言っていた感覚が初めて理解できるようになりました。

 要するに大スターというのは、あらゆる垣根を越えてその活躍が支持されるからスターなのでしょう。近年の日本プロ野球でもスター選手と呼ばれる存在はたくさんいますが、やはりその支持は各チームのファンやプロ野球ファンに限定され、普段野球を見ない一般層ともなると名前も知られていない可能性も高いです。それと比べると大谷選手はこのところ毎日スポーツ記事でトップ級に取り扱われるだけでなく、彼に関する特集も日を追うごとに増えており、敢えて比較するならそれこそ王、長嶋、そしてイチロー以来の大スターと呼べる逸材でしょう。
 その上で、やはりこうした大スターが存在することは歓迎すべき事態というか、一体感を覚える上では非常に大事だと思います。同じ野球ファン同士だけでなく大谷選手については野球を全く見ない女性とも話題に上がり、やはりお互いに楽しく会話できます。最近だと山口メンバーについても楽しく会話できましたが。

 逆を言えば、こうした性別や世代、国籍と言った垣根を越えて話題に上がる大スターが大谷選手以前はやや少なかったのかもとも思えてきます。俳優にしろ歌手にしろアイドルにしろ芸人にしろ、誰もが応援して誰もが知っていて、誰でも話題に挙げられる存在が、私にとってすれば近年になればなるほど減っていったように思え、芸能界からスポーツ界まで比較的話題のレンジが広いと自負する自分ですら話題を共有できない相手と話すことが増えてきているように思います。
 この辺については最初の友人が割と得意としていることですが、今の時代は趣味が個性化分裂化したことで、単純に共有体験というものが減ってきている時代です。そうした時代だからこそ誰もが共感できる大谷選手の存在は大事だと思え、ともかく怪我無く無事にシーズンを通して戦ってもらいたいものです。

2018年5月6日日曜日

電子書籍に関する現況 後編

「所有できない電子書籍」問題 サービス閉鎖後、購入者はどうなる?(ねとらぼ)

 ちょうどこの記事を準備していたら上のニュースが出ましたが、電子書籍を購入する上での最大のハードルと言ったらやはりこれこと、サービス停止後への不安でしょう。使い始めた人間についてはもはやこの先一蓮托生みたいな諦観が生まれますが、まだ始めていない人間からしたら運営会社が倒産したりしたらどうなるのか、購入した本が読めなくなるのではという不安を持つのも無理ないでしょう。
 実際、この問題については既にサービスを停止した業者が出ておりその顛末についても上の記事には書かれてありますが、サービス受益者からして一番望ましいのはサービスの引継ぎ、つまりサービスを停止するA社からそのサービスを引き継ぐB社が配信などを継続する形だと思います。実際やるとなったらそこそこ大変ですが。

 ただこうした対策よりも、もっと抜本的な対策となるのがプラットフォームや、データの規格化です。要するに配信する電子書籍データの規格を日本国内で統一することで、サービス停止にあっても規格に対応したビューアーを使えばその後も閲覧を継続できるという形に持っていくことです。この場合、配信する書籍データはすべて共通で、サービス運営主というか配信業者は実質完全な小売業者となり、競争上の観点からもこうした形態の方が望ましいと思います。
 少し懸念となるのは、書籍データが共通化するため違法配信などが起こりかねないという問題がありますが、現在行われている配信サービスのように各データの閲覧権限を購入アカウント等でビューアーと連動させ、アカウントが一致しない消費者には閲覧できないような処理を施すような対策で大体クリアできるのではないかと思います。この方法だったら不特定多数に閲覧させる人間もアカウントから追え、バンすることで犯罪行為も止められますし。

 このように、電子書籍業界で今何が求められているかと言ったらやはりこのプラットフォームや規格の統一化だと思います。しかしこの方面の議論は全く起こらず、かつて日本は業界を跨ぐ規格化が強かったと言われましたが、そんなの嘘ちゃうかと疑いたくなるくらい電子書籍配信業者は統一化に消極的です。そしてその結果生まれる問題というのが、不便な電子書籍ビューアーというソフトウェアの問題でしょう。
 このブログでも散々愚痴っていますがAmazonのKindleビューアーはお世辞にも使いやすいとは言えず、むしろなんでこの問題に気が付かないと思うくらい問題が多いです。しかも改善が施されるのも遅く、あと突然停止するバグもよくあります。さらに細かいところを挙げるとビューアーのスキン変更すらできないって90年代かよって言いたくなります。

 これらは殿様商売のAmazonだからなのかな、だからと言って先ほどの配信サービス停止が怖いので寄らば大樹の陰とKindleを使ってきましたが、つい最近に「Kindleなんてだっせーよ、他の業者の方が絶対いい」という話をネットで目にし、先月からDMMのDMMブックスを使い始めました。
 まず何に驚いたのかというと販売割引が非常に広範かつ多く、またAmazonに負けず新刊書籍の配信が早いことから、費用対効果の面で今後はこちらをメインにして使っていこうと考えています。そして何より私にとってメリットが大きいのは、中国でのデータダウンロードの速度や効率がAmazonよりDMMの方が安定しており、この一点をとってもこちらを取る理由になります。

 しかし、ことビューアーに関してはDMMもひどいレベルです。コミックスは基本作品ごとにまとめられるのはいいですが、各巻の表示がタブレット版だと昇順か降順を選べるというのにPC版だと降順一択。また各画面切り替えボタンの反応や更新が悪く、必然的に何度も同じボタンを押したりすることとなる上、所有書籍一覧画面一つとってもあんま意味ないのに「購入済み」、「ダウンロード済み」に分かれててこのビューアー設計した奴は馬鹿じゃないかと本気で思うレベルでクソです。
 そのほか書影ダウンロード中に何らかの要因で中断した場合、データがあってもバグが起こって開けなくなる再現度100%のバグもすでに発見しています。あと細かいところを挙げるとビューアーのスキン変更すらできないって90年代かよって言いたくなります。大事なことなので二度言いました。

 サービスやってる連中からしたら何も気にならないかもしれませんが、これらビューアーのレベルの低さは確実に消費者離れにつながるレベルでひどいものです。仮にデータ規格の統一化が図られればビューアーも各業者ごとに紐づけられなくなり消費者は自由に好きなビューアーを選べるようになり、サービスの質も上がるのではないかと思います。もっともこうしたデータ規格の統一は恐らく今の日本の出版社には期待できる余地もないため、各業者に改善を促していくほかないでしょう。
 つくづくこういう様を見ていて思いますが、日本人は本当にお金を稼ぐ気があるのか、商売しようという気はあるのかと疑問に感じます。他のサービスや製品についてもそうですが、驚くくらい消費者目線に立たず、全業種にわたって殿様商売を演じている節があります。

2018年5月4日金曜日

電子書籍に関する現況 前編


 上記画像は先日ネットの海をさまよっている最中に見つけたものですが、もし意地悪く相手の力量を試そうとするなら、「この表はあまり参考にはならないが、参考にならないと言える点を画像内から指摘せよ」と聞いたりするでしょう。もったいぶらずに言えばそのポイントというのも一番上の冒頭にある「初版発行部数」という言葉で、要するにこのランキングは実体書籍の流通数しかカウントされず、電子書籍の配信数はカウントされていないため、実際の総合売上げというか人気を正確に反映したデータとはならないということです。

電子コミックスの売り上げ、紙コミックスを初めて上回る(IT media)

 上記の記事の通り既にコミックスの販売部数は電子書籍版が実体書籍版を上回っており、電子書籍の部数というか配信数を無視した売上げ統計なぞ無意味に等しいです。敢えて例えるなら東日本だけの調査統計を日本全国の統計とは言えないといったところでしょうか。

 ここで話は変わりますが、他の人は何故か誰も指摘してませんが去年の年末あたりから集英社も新刊コミックスの電子書籍版発売日が実体書籍と同じ日になりました。他の出版社はとっくのとうに発売日を共通にしていましたが集英社だけが何故か電子版の発売日を遅らせており、三年くらい前は三ヶ月遅れ、二年くらい前から一ヶ月遅れと徐々に縮小していましたが、ようやくやっと他の出版社に追いつくというか合わせてくるようになりました。
 集英社が何故電子版の発売日を遅らせて来たのかというと、それはやはり印刷会社への配慮であると思われます。業界の話を聞いていると出版社はどこも印刷会社に頭が上がらなかったとのことですがそれももう過去の話で、今回の集英社の動きを見ているとリコーともども電子化の発達によって苦境に追いやられている印刷会社が増す松発言力を失ってきたのではと伺えます。

 以上を踏まえた上で予言すると、多分来年あたりから電子書籍版を実体書籍版に先駆けて先行配信する出版社も出てくるのではないかと思います。こう思う根拠としては単純に、こうした方がより高い売上げが見込めるからです。

 通常、新刊コミックスはゲームほどではありませんが発売したてが一番売れます。しかし発売したてのコミックスほど中古価値も高いというか、購入して読んですぐ古本屋に売り、古本で買って読むという消費者も少なくありません。
 しかし仮にコミックスを最も早く読む手段が電子書籍版しかないとしたら、今話題の漫画村などの海賊版サイトがないことを前提にすると、読者は電子書籍版しかすぐ手に入れる手段がなくなりこの形式での購入を選ばざるを得ません。言うまでもなく電子書籍だと古本市場には流通しないため、発売日直後の古本も出回らなくなるため、きちんと購入して読む層は増えるのではないかと考えられます。

 何もかつての集英社みたく一ヶ月とかずらす必要はなく、一週間、なんなら三日くらい早く電子書籍版を売るだけで、上記効果が得られるのではと私は思います。もっともこれやったら苦しむのは古本屋だけでなく、印刷会社と小売店こと通常の本屋もですけど。それでも利益の増大につながる手段というのであれば、迷わず選択するのが経営者だと私には思るのですがね。

 ただこう語る一方、電子書籍での配信にも欠点というか問題が山積みなのも否定できません。具体的にはフォーマットの共通化に関する内容ですが、この辺最近になっていろいろ気づくきっかけが得られたこともあるので続きは次回に解説します。

2018年5月3日木曜日

日本の華族史👪

 近代日本市でエアポケットのようになっている時代とくれば言わずもがなの大正時代ですが、この時代を含めてほとんど解説とか紹介されてないなと思うものとして、近代日本の貴族階級に当たる華族についてです。ウルトラマンのカラータイマーがやばいくらい鳴り出すくらい体力的に厳しいので華族それ自体についての成り立ちやら説明は省きますが、正直に言って私自身も華族がどういう生活をしたり、貴族院議員がどういうことをやっていたとかについて全く知識がありません。傲慢な言い方となりますが、私が知らないということは他の人もほぼ大半が知らないと思え、一体何故これほどまでに華族に関する分野が開拓されてないのか不思議で仕方ありません。

 そもそも華族が文物で出てくると言ったら決まって推理物のお話で、暇を持て余した華族の御曹司かそこの女中某が探偵役になるものばっかです。あとはお転婆な華族の娘がドタバタをおこすとかで、フォースに目覚める華族が出てくるような激しいアクションものは多分ないでしょう。
 唯一というか、私が華族の生活様式についてなるほどと読んでて感じたのは武者小路実篤の「友情」という小説です。一部で「劣化版こころ」と言われる話ですが、実篤自身が華族出身なだけあり華族の若者が当時どういう生活して、どういう交流をしていたのかを見る上では内心これが一番わかりやすいんじゃないかという気すらします。ただこうした小説もさることながら、きちんとした歴史本とかでももっと華族について紹介とかしてもらいたいものです。

 ついでに書くと没落華族についてももはや現代の文物で触れられることはほぼありません。また農村の元地主とか名主の家で遺産相続をめぐる殺人事件が起きて、下半身だけ浮かんでくるとかそういう話ももう野生の馬みたく絶滅したと言えるでしょう。地味に「スケキヨ流死体発見方」はパロディとして現代も生き残っており、多分死に方としては日本で一番有名な死に方なんじゃないかとも考えており、広辞苑とかにも「スケキヨ:下半身を天に向けた死に方、又はそのような死体発見状況」と書いておいてもいいと思います。

2018年5月1日火曜日

文書改竄者への処罰はどうなったのか

 なんか最近はTOKIOの山口メンバーの報道ばかりで、森友学園の決裁文書改竄問題に絡んだ関係者の調査並びに処罰が完全に忘れられているような気がします。先日のセクハラ騒動といい財務省自体が自浄能力というかこの件について調査する気は全く感じられず、官邸に至ってはむしろ調査を妨害しかねない有様ですが、この件に関しては真面目になぁなぁにしてはならず、たとえ魔女狩りのようだと言われても疑わしい人間を全部ひっくるめて追放するくらいの厳しく断固たる措置を取らねば絶対に将来の禍根になると断言します。

 どう思われようが勝手ですが、この決裁文書の改竄に携わった、具体的には事実を知っていたのに報告しなかった、改竄を実行した、改竄を実行した人間については理由の如何を問わず直ちに財務省から退職、追放させる処置が必要だと私は考えます。それだけ文書、それも国家文書というものの重要性は高く、組織の金に手を付けたとかそういうレベルの犯罪ではありません。
 然るにこの件について、「文書全体の内容は改変していない」という官邸のごまかしによってみる限り処分がなぁなぁになっているところがあり、恐らく特捜が動かない限りはこの件で誰も処分されずに終わってしまうでしょう。そもそも、文書全体の内容は変わってないと言いますが、最重要人物の名前とその交渉過程がごっそりなくなっているのだから、変わってないという人間の見識をむしろ私は疑います。

 中には改竄実行者について、「上司の指示でやむを得なかったのでは」という人がいるかもしれませんが、じゃあ上司がやれと言ったら人殺すのかといったところです。どんなカスでも決裁文書の記述を後から変えてはならないなんて言うことは誰でもわかるレベルの話であり、上司が指示したとからといってそれを実行に移すというのはいくら何でも無防備すぎる愚挙としか言いようがありません。やむを得ず指示に従わざるを得なかったとしても、本心での行動ではないという証拠として内外部への通報や、立件調査資料の提出など逃げ道を用意していなかったというのであれば、いくらか厳しいかとも思いますがやはりその内容の重大さから考えて追放されるのもまた「仕方のないこと」だと私は考えます。
 まぁ上司の指示でやむなくっていう人に関しては、関連団体への就職斡旋くらいはしてあげるべきだとは思います。ですが何度も言う通り、改竄に関わった時点でその組織には絶対に居残り続けてはならず、周りもそれを認めてはならないでしょう。

 なお現在の私の仕事も「疑われた」時点で終わってしまうというか下手すりゃ犯罪として立件される可能性もあるので、自分の身をそういった災いから避けるために業務中に何に携わったのか一時間単位で全部記録しています。私から見て日本人は全体としてこういう向こうの方から降りかかってくるリスクへの警戒が弱いように思え、自分さえ何もしていなければ災いは来ないと勘違いしている節がある気がします。だが言わせてもらうと、こちらが挑発とか不審な行動を一切何もしなくても、時として災いは降りかかってくるのが現実です。

 繰り返しになりますが国家記録文書というのは絶対神聖不可侵のものであり、それに改変を加えるような行為は言語道断且つ厳罰も仕方のない行為だと私は考えます。もし仮にこのまま上記の「全体の~」とかいうごまかしによって処分が果たされなければ、将来的に悪しき前例となって便乗する人間も出てきかねません。財務省に限らず一部自治体でもこうした改竄行為が既に発覚していますが、やはりそれらにかかわった人間も全員追放すべきで、こうした行為が絶対悪であるということをはっきりと示さないと将来恐ろしいことにつながっていくと、今この場で予言しておきます。

この三連休……

 中国では土曜日が振替出勤日だった一方、今日までの日月火は三連休のお休みでした。このところ仕事が忙しかったからいっぱい寝たりゲームしようと思ってましたが、なんかそういうイベントがなく終わってしまった気がしてなりません。

 日曜というか土曜の晩は目覚ましも切っていっぱい寝ようと思っていたら、多分疲れからの不眠症なのかほとんど寝付けず、おまけに起きて洗濯とかしてたら頭痛くなって寝こんで、気が付いたら夕方になって約束していた友人とのディナーにすぐ出かけました。ディナー自体は楽しかったけどさ。
 昨日月曜は午前中に記事準備のためにずっと調べ物して、お昼に取材を兼ねて約15㎞暗い距離のある上海市内のショッピングモールへ出かけて、ラーメン食って、写真撮って帰ってきたら、最近分かってきたけどエクササイズ頭痛とかいう自転車乗りに起こる頭痛を発症してバタンキューとなり、夕方五時に起きて頑張って記事書いて、夜11時にようやく脱稿、疲れすぎて意味わかんなくなって何故か夜中にコンビニへクリームパン買いに行きました。

 でもって今日火曜は、予報では100%雨、っていうか昨日も一昨日も90%雨だったのに全く降らず、微妙に外出しづらく昨日書いた記事の修正を行いつつお昼に昼食のため外食し、その足で昨日のエクササイズ頭痛を避ける実験を兼ねてまた往復30㎞くらいの道のりをサイクリングしてプラモ屋へ行き、1/144ラファールとか買って、家帰ってシャワー浴びてラファール作って遊んでました。で、気が付いたら今この状態です。

 なんかこう、自分は働き過ぎじゃないかと思えてなりません。ラファール作っといてなんだけど、もっとしっかり休めばいいのにと思います。っていうか自転車乗りすぎ。あと結局雨降んなかったし、ゲリラ豪雨だったのか中心部では降ったらしいけど。

忠だけを求める主君

 何故かは不明ですが使用しているブログソフトのBloggerの管理画面の表示言語が今日から突然英語になりました。横文字苦手やというのに。なのに何故か「リンク」だけは日本語のままなのが笑えます。
 あと昨夜は次のJBpress用の経済記事を準備していていろいろおかしくなりました。っていうかあの内容をリサーチから執筆まで1日でこさえるってのはおかしすぎる。普通に朝から晩まで家にこもって調べ続け書き続け、終わった時には夜の11時回っていてさまようよろいみたく何故かコンビニ行ってクリームパン買ってました。

 話は本題に入りますが三国志における関羽、特にその「千里行」は非常に有名です。これは進退窮まりやむなく下った曹操の元から、居場所が分かった旧主の劉備の元へ駆けつけるために曹操の許を離れ、計五つの関所を破り千里の道を進んで劉備に馳せ参じたエピソードです。このエピソードは中国に留まらず日本でも大いに喧伝され、理想の忠義の姿として紹介され続けました。
 しかし、依然読んだある評論でこのことについて、「関羽は彼自身が高潔だったということより、主である劉備が礼を尽くしたからこそその忠義を見せたのだ」という意見を述べている人がいました。これはどういうことかというと、関羽も千里行でその忠義を見せたが、何故そうしたのかという主の劉備も関羽を信頼し、手厚く取り立てたからこそであり、部下に対して大した愛情を見せずに「お前らも関羽を見習え」なんていう輩はけしからん的な内容がその評論で述べられていました。

 言うこと全くその通りで、部下に対してなすべきこと、やるべきこと、果たすべきことをせずにやれ忠義を見せろ、無給で働けなどというのはただ服従を敷いているだけに過ぎません。報いがあるからこそ部下も忠義を見せるのであって、「御恩と奉公」じゃありませんが一方通行な忠義を要求するのはほぼ例外なくクズでしょう。
 なお某居酒屋チェーンを見ているとこのエピソードをよく思い出すことが多いです。

 ただ和民に限らずとも日本の指導者、経営者、管理職を見ていると、自分たちは一切の報いを提供せずに忠義を要求する、いうなれば服従を要求する人間は少なくない気がします。何故そうなるのかというと最大の要因はこうした人間らにクズが多いということ以前に、大半の日本人が抵抗せずに我慢し続けてしまう、おかしいと思う扱いされてもおかしくないと自己納得しようとするからだと思います。
 逆におかしいと思うこと、間違っていると思うことに対し決してこのブログだけじゃなくリアルな現実でも堂々と言ってやたら抵抗するからこそ、自分は日本社会からはじかれる要因になっていると断言できます。別に今信仰を持っているわけじゃないけど、プロテスタント系の学校に通って居心地良いと感じたのはこういう点かもしれません。

 少々話がずれましたが、忠とは御恩をはじめとする報いがあって初めて成立する行為です。そうした報いなき従属はただの服従に過ぎず、私みたいに抵抗を見せることはせずとも、忠がないとかそういうことは考える必要はありません。

2018年4月29日日曜日

異色学部の出身者たち

エンジニア・投資家・サッカー選手という3つの顔を持つ男の『超戦略的生存戦略』(SiliconValleyWorkers)

 同志社大学神学部卒で元外交官且つ「ラスプーチン」だった佐藤優氏のファンだということを察して、友人が上記記事を紹介してくれました。この記事で紹介されているのは同志社大学神学部卒で、サッカーの元学生日本代表である酒井潤氏ですが、こうした記事で紹介されるだけあってなかなか面白い価値観を持った人だと私も感じます。
 特に「米国で働こうというのなら取得できるビザの種類をきちんと調べておいた方がいい」というアドバイスに関しては、重要そうでありながら意外と誰も指摘しない点だと思え、唸らされました。

 そうした酒井氏自身のバックグラウンドも十分面白いですが、友人とともに話題になったのは同志社神学部教授の酒井氏へのアドバイスです。酒井氏自身はスポーツ推薦で入学して且つ信仰も持っていないというそうなのですが、怪我でサッカーを断念した酒井氏(本人はあまり気にしてなかったようだが)に対し、「今後はITと英語ができれば食っていけるよ」と、神学部らしくないやけに現実的なアドバイスをしてきたそうです。間違ってはいないですが、割とストレートなこと言うなと対談でもやや盛り上がっています。

 これに限らずと言っては何ですが佐藤優氏に関しても神学部受験時のエピソードで、当時はまだ裏口入学があった関係から面接試験もあり、その際に何故この学部を志望したのかと聞かれて当時ガチガチの左翼思想だった佐藤氏が、「無神論を研究したいからです」と思わず本音を言って「正直すぎてしまった(;´・ω・)」とか思ってたら、「他の学校に受かったとしても、ぜひうちの学部に来てくださいね( ・∀・)」と帰り際に言われたそうです。あとでその時の面接官だった教授に話を聞くと、「君みたいに最初反発してる奴ほど、信仰にハマるとこれがまたすごいんだよ( ・´ー・`)」と、また割とリアルな価値観を見せつけられたそうです。

 話は本題に戻りますが、こうした神学部や哲学部、あと理系なら天文学部とか現実から結構遠い学問系出身の人間について、大半は理屈っぽかったり愚痴が多かったりして社会人としてはやや扱いづらいなと思う人が多いものの、この手の出身者のごく一部はとんでもなく優秀な人が多いのではとこのところよく思います。現実離れした学問を専攻しただけあって考え方が深く、また他の人にはない視点を突然持ち出してくることがあり、 ハマれば化けるタイプを何度か私も見てきました。そういう意味では専攻までとはいかずとも、小中学生くらいの子供にこの手の天文や哲学をしっかりと学ばせておくのはメリットが多いと断言できます。私はあんまやらず、何故かセンターで地学を受験したのでその際に一気にケプラーの法則とか学びなおしましたが。

 最後にこれは私が直接聞いたわけでは、上記の同志社大学のある授業にてある講師が、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしていったような宗教だ」と普通に発言したそうです。こういう発言をしても誰も咎めない環境を始め、アナーキーすぎる学校だなと常々思います。

2018年4月27日金曜日

ランサーエボリューションWRX STi

 先日何気なく零戦のアンサイクロペディア記事を読んでいたら、「ちなみにこの機体を開発したのはランエボを作った会社で、製造し、エンジンを供給していたのは、STIの会社である」という記述が書かれてあり、言われてみると確かにそうだと妙に納得しました。言うまでもなく、ランエボの会社というのは三菱(自動車)で、STiというのは旧富士重工こと最近データ改ざんで揺れているスバルです。それにしても社名変えた直後にバレるっていうのも門出が悪い、

 上の一文を見てパッと閃いたのがこの記事の見出しですが、昔は仲良く零戦を作っていた両社であるものの1990年代は自動車ラリーのWRCでしのぎを削り合ったライバル関係にあり、それぞれランエボとインプレッサ(現在のWRX)という当時の4WDラリー車としては破格のマシンを作っていました。だったらせっかくだし、両社でコラボしてまた新しい車を作るとしたらきっと「ランサーエボリューションWRX STi」になるなというわけです。

 ただ、自分で言っててなんですがあながちむちゃくちゃな組み合わせでもないなという気もします。というのも両車種ともに「最強の4WD車」というコンセプトこそ共通しているものの、そのアプローチの仕方は真逆と言っていいほど違っているからです。
 三菱のランエボは「4WDに最適な駆動システムとは何か?」が追及され、その結果出来上がったのは四本それぞれのタイヤにかかる荷重によってパワー伝導率を変えるよう制御するシステムを乗せた車となり、「走るスパコン」とまで一時期言われました。一方、スバルのWRXは「4WDに最適なシャシーとは何か?」が追及されており、4WDが最も発揮できる車体構造が徹底的に煮詰められた車です。いわば三菱はソフトウェア、スバルはハードウェアに重きを置いてレース車の開発に取り組んでいました。

 だったら駆動システムは三菱、シャシーはスバルでがっちゃんこさせたら面白いというか、普通に見てみたい車が出来上がりそうな気がします。問題はエンジンでどっちのを載せるか悩むところですが、やっぱレアリティで言えばスバルのボクサーエンジンに軍配が上がるのでこっちにして、代わりにターボユニットは三菱重工が国内大手なんだし三菱にしてしまいましょう。
 っていうか本当にコンセプトカーでもいいから、両社でコラボして1台作ってもらいたいものです。きっとスバルとトヨタのコラボよりもずっといい車が出来上がるはずです。でもってこの車でWRCにも復帰してもらい、他のメーカーを総薙ぎしてもらえば痛快この上ないでしょう。

  おまけ
 現実にはスバルはトヨタと、三菱は日産との提携関係にあり、むしろ実現しやすいのは「スカイラインエボリューション GT-R V spec Ⅲ」の方かもしれません。

エディット機能のあるゲーム


 上の画像は最近ネットで見つけたものですが、恐らくファミコンの「バトルシティ」というゲームでしょう。このゲームは戦車動かして敵戦車を殲滅したり、本陣を陥落させたりすること目的としたゲームで、用意されているステージだけでなく上記画像のように素材を使って独自のステージを作るエディット機能がありました。
 なお私は友人とこのゲームでよく遊んでおり、後年にPS2で「THE戦車」というゲームが出た際は魂を揺さぶられながら「バトルシティ」を思い出し、買ってみたところクソゲー過ぎて戦車自体が嫌いになりました。

 話は戻りますがファミコン時代はこの「バトルシティ」に限らず「エキサイトバイク」などのように、セーブ機能がないにもかかわらずエディット機能を備えたゲームが数多くありました。スーパーファミコン時代もいくらかあったものの、大体プレステの時代辺りからこうしたエディット機能はどんどん少なくなり、なんていうか「やらされている感」の強いゲームが増えていった気がします。最たる例としては、シナリオ進行が一つしかない一本道RPGとかですが。

 やはりゲームというのは遊んでなんぼというか、一定の枠やルールの中であれこれ弄繰り回せるというのも遊びの一つの醍醐味だと思います。実際に上記のエディット機能のあるゲームも、セーブできないから一期一会だというのに夢中でみんなで作ってはそのステージで遊んだりしてました。またエディット機能は往々にして極端なステージを作ったりでき、平地が全くないバイクのレースコース作ったりとか、ああいうむちゃくちゃが試せるというのが個人的には良かったです。しかし最近のゲームだとそうした外枠ががっちり固められていることはおろか、こうしなさいああしなさいと説教臭く指示されるというか攻略法がワンパターンに決められていることも多く、やはり往年の時代を振り返ると物足りないものです。

 唯一、こういったエディット機能が現代のゲームでも残されている点を挙げるとすると、そりゃやっぱりキャラエディットでしょう。見た目や能力を思い通りに弄って作る機能ですが、この方面に関しても正直不満を感じることが多いです。
 外見のエディットに関しては眉毛や輪郭、目の虹彩まで非常に細かく設定できるゲームがこのところ多く、好きな人はいいかもしれませんが、私にとっては設定項目が多すぎて作ってても疲れるしイメージ通りにはなかなか作れず、もっとシンプルにしてほしいとすらよく思います。ついでに書くと、戦国無双のキャラエディットは細かすぎるのも難点だし、声もなんか棒読みなパターンしか用意されておらず不満が募りました。

 逆にそういったキャラエディットで過去楽しかったと思うのは、「パチンコパラダイス」の13と14です。髪型から体系、歩き方、服装に至るまで自由に且つシンプルに選べ、自分はよく海水パンツ一丁に辮髪にして、スケート靴を履かせて街を練り歩き、気が向いたら二輪バイクを乗り回して、早くこのシリーズ復刻してほしいと今でも願ってます。

2018年4月25日水曜日

心の隙間を埋める家具

 知る人ぞ知るカルト映画の「ファイトクラブ」の冒頭で、エドワード・ノートン演じるエリートサラリーマン(自動車の不具合箇所についてリコール費用と事故被害者への賠償のどっちが高いかを判断する仕事)の主人公が、「僕も周りの人たちのように家の中を流行りの北欧家具で埋めてみたが、特に大きな満足感は得られなかった」と言うシーンがあります。このセリフの「北欧家具」都は恐らくIKEAの家具のことでしょうが、確かに中国でも数年前からIKEAの家具で家の中を埋め尽くすというのが憧れというかトレンドのようになっている節があります。

 ただ上記の主人公(役名は実際にない)はこうした流行の家具を買い漁っても満足感を得られず、人生にやる気というか面白味を感じない生活が続くこととなります。その後については出張先でブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンという破天荒な男と出会い、お金を賭けたりすることもなくただ週末に地下室に集まり合い、男同士で殴り合いをするという「ファイトクラブ」を創設することとなるのですが、そうした映画のシナリオは置いといてこのところ家具による満足度で先度のセリフがよくよぎります。

 知ってる人には早いですが私は2010年くらいからほぼ2年ペースで引っ越しを繰り返しており、リアルに3年以上同じ部屋に住んだことがありません。それだけ引っ越しが頻繁なこともあってか家具を買ったところでいちいち引っ越しの度に持って行けず、結局引っ越し前の部屋に置いて大家に挙げてしまうことが多いため、「あまり高額、というか家具そのもの自体あまり買わない方がいい」という境地に至るようになりました。
 ただ現在いる部屋は住み始めて既に2年を経過しており、このペースだと実に久しぶりに3年超の滞在が達成出来そうな予感です。仕事も今のところ転職するような予定は全くないためこのまま現状が維持が続きそうで、そうした背景もあってか以前と比べてやや高い家具とかも去年あたりから揃えるようになってきました。

 具体的に挙げるとパソコン用のデスクと椅子、あと折り畳み式のチェアですが、デスクと椅子については安い値段のをそれぞれ持っていたにもかかわらずわざわざ高いものに買い替え(つってもどちらも単体で5000円行かない)、サイズ的に引っ越した場合は持っていくことはほぼ不可能なのに買ってしまってます。このほか中国だと割と安く買えるもんだから無駄にクッションとか首に巻く枕などもやたらめったら買っており、最近はリアルに置き場所とかどうしようと思うくらい家具が増えてきました。ついでに書くと趣味の茶碗やマグカップも増殖中です。

 しかし、と言っては何ですが、こうした家具が揃えば揃うほどなんか前より部屋にいて落ち着かなくなっていることに最近気が付きました。元々、あまり家具とかおかずがらんとした部屋が好きだったということが大きいでしょうが、なんとなく部屋の隙間が埋まるたびに、笑うせぇるすまんじゃありませんが自分の心の隙間も埋まっていくというか余裕がなくなってきているように思え、上記のファイトクラブのセリフを思い出すに至ったわけです。

 単純に自分だけの価値観かもしれませんが、なんとなく家具については「ああここにあれがあればいいのに」と軽く不足感を覚えるくらいの方がいいのかもしれません。何でもそろっているとかえって手狭感を覚えてしまい、またビビッドな色など目立つ外見の家具は何度も見るうちに違和感を感じるようになるのでむしろ飽きないような保守的なデザインを選ぶのも吉でしょう。そう考えると、学生時代の「なんやこれ?何もあらへん?」とリアルに言われたくらいがらんどうだった自分の部屋は案外ありだったかもしれず、友人も「自分の部屋より花園君の部屋のが落ち着くんやけど」と言ってました。

 なお、もし日本に帰ってまた引っ越すなら、椅子を完全に排除した部屋を設計しようかと考えてます。パソコンデスクも座卓にし、座った状態で目線より上にはエアコン以外置かず、収納も風呂敷かぶせるだけなくらいに変な工夫して、がらんどうの空間を意図的に作れないかと今考えてます。何気にテレビもパソコンで見れるようにすればもういらんかもな。

 と、ここまで家具はイランと書いておきながら、部屋のインテリア道具としての戦闘機プラモはこのところどんどん増殖しています。枕元にはタイフーンあるし、冷蔵庫の上にはJ-20がおるしで、こっちもリアルに置き場所に困りはじめてきました。
 ちなみに私の感覚で言えば、車でも飛行機でもプラモ1体だけ部屋にインテリアとして置いておくのはクールです。けど2体、3体と増えてくると、なんかいろいろおかしくなってきます。で以って戦闘機は冷蔵庫の上が置き場所として地味にいいです。

2018年4月24日火曜日

日本人アクション俳優はいるのか?

終業・始業間の休息に数値目標 過労死防止大綱見直し案(朝日新聞)

 上の記事の見出しを今日最初に見た時、「休息に数値目標」を何故か「体臭に数値目標」と見えてしまい、「何考えてんだこいつら、頭おかしくね」と思いましたが頭がおかしかったのは自分の方でした。っていうかまた働き過ぎなのかも。

 話は本題に入りますが、今現在で最も人気で知名度のあるアクション俳優と言ったら恐らくハリウッドのトム・クルーズ氏が来るのではないかと思います。もともとバイクや車の運転がプロ並みということもあって激しいスタントシーンもノースタントで自ら演じてしまうほか、自身がプロデュースするミッションインポッシブルシリーズなどのアクション超大作での活躍もあり、活動中のアクション俳優としてはその露出は群を抜いているでしょう。

 そんなトム・クルーズ氏について私自身も高く評価しているものの、ことアクション俳優の枠で言えば今一番好きなのは、ミッションインポッシブルシリーズにもレギュラー出演している上に、主役作品こそないものの数多くのマーブル映画に跨って出演しているジェレミー・レナー氏だったりします。さすがにトム(もう全名称書くのがめんどいので省略します)ほど激しいスタントシーンは連発しないものの、レナーの場合は一つ一つの動作が非常にメリハリがあってきれいで、アベンジャーズシリーズで演じるホークアイの弓を引く動きはもとより、ミッションインポッシブルシリーズでの無駄が一切なく拳銃を奪ってすぐ構えなおすところなどは見ていて惚れ惚れします。出世作となった「ハートロッカー」はあんま好きじゃないですが、レナーの演技というか動作に関してはどの作品でも一見の価値があると太鼓判押します。

 この二人に限らず、現在米国ではマーブルのヒーロー映画が全盛ということもあって見事と思えるアクション俳優が次から次へと登場しています。新スパイダーマンを演じるトム・ホランド氏もバレエダンサー出身とあってジャンプ一回転着地なんて普通にこなしますし、他の若手もCGに頼らずとも見事なキレのいい動きを見せてくれます。
 また往年のアクション俳優陣も最近はセルフパロディを見せつつも未だに活躍しており、シルベスタ・スタローン制作の「エクスペンダブルズ」シリーズに至っては「博物館って、俺たちのことかよ」とブルース・ウィリス氏を前にアーノルド・シュワルツネッガー氏が言ったりしながら、きちんとアクションシーンはこなしてます。もっともこのシリーズの名言は3での、刑務所を脱獄してきたウェズリー・スナイプス氏演じるキャラが刑務所に入った理由について「知りたいか?脱税だよ」と、リアルに脱税による収監から出所したばかりのスナイプスが言っているシーンでしょうが。

 と、ハリウッドのアクション俳優についてつらつら話してきましたがここでふと疑問というか最近、日本人俳優でアクション俳優と呼べる人間はいるのかってなると、正直私の中では誰も浮かんできませんでした。少し前ならケイン・コスギ氏、あと一応「キルビル」に出演した栗山千明氏が出てきましたが、ここ数年でそのアクションぶりが見事と思えたり、また「アクションに強い俳優」として認知されているような人は、ただ私が不勉強なだけかもしれませんが浮かんできませんでした。
 そもそも今の日本では「どんなキャラにも器用に演じられる」ようなカメレオン俳優が評価される傾向にあり、アクが強く一つのキャラクターが強くなりがちなアクション俳優はあまり評価されない気がします。さらに言えば、アクションメインの映画自体が日本ではあまり制作されていないように思え、アクション俳優自体がそもそも需要がないとすら思えてきます。

 そんな状況を反映してか、はっきり言って日本映画のアクションシーンは見ていて惨澹たる出来です。多分アクションシーンを演じられる俳優があまりいないせいなのかCGでごまかそうとする傾向があり、しかも伝統的に日本は予算以前のレベルでCGの見せ方が下手で、変に色の濃い背景を前に俳優が大げさな演技をするシーンを見せられ興醒めした経験があるのは私だけではないでしょう。
 単純に、役作りとして体をしっかり鍛えてくる俳優について言えば今の大河で主演している鈴木亮平氏を筆頭にそこそこいますが、動作もついたアクションもしっかりこなせる俳優となると本気で今の私には浮かんできません。っていうかむしろなぜいない。

 理由については思いつくのを勝手に挙げてくと、まずは上にも挙げている通りにアクション俳優をあまり評価しない日本の映像市場状況、次にルックス重視でアクション能力を度外視する俳優事情、終いにはアクションを撮れる人間がいなくなってきていることかなとか考えています。まぁアクション以前に、日本の映像作品はアニメを含め全体的にテンポの悪い撮り方してる気がするけど。

 最後に、唯一ここ数年でそのアクションに私が目を見張った日本映画を挙げると、何気に「リアル鬼ごっこ2」が挙がってきます。この作品はタイトルの通りに鬼からひたすら逃げまくる映画ですが、第一作目の撮影では初日終わった後、俳優全員が筋肉痛に襲われたという曰くつきな映画なだけあって、ガチで全力疾走しているのが映像からもはっきりわかります。
 表情一つとってもみんな本気で走っているのがよくわかり、その甲斐あって映像もスピード感があって見栄えのいい仕上がりになっています。2を見てから1も見ましたが、谷村美月氏は好きだけど、やっぱ2の方が見ていて面白かったです。

 なおこのリアル鬼ごっこシリーズですが、3は脚本も映像もクソ過ぎると感じたためにほぼ同時公開だった4と5は見ていません。そして2015年公開の園子温監督による「リアル鬼ごっこ」については見てみましたが、はっきり言って「自分にはこの作品は無理だ」と感じました。多分見る人によっては面白いと思うのかもしれませんけど、自分は見ていて苦しかったというのが偽らざる感想です。

2018年4月23日月曜日

こわくなーい

 おなかをすかせた状態で書くことないのでまたゲームの話ですが、今「アイドルデスゲームTV」というクソゲーと並行して「コープスパーティ」を遊んでます。前者については「日本ふんどし協会 ベストフンドシスト賞2015」というよくわからない受賞歴がある声優の、西明日香氏の京都弁の見事さに感服しており、後者については安売りしてたから買って、遊んではいるけどなんて言うかなぁという気持ちを覚えています。

 この「コープスパーティ」というのはいくつかシリーズが出ており、私が遊んでいるのは「ブックオブシャドウ」のPSP版で、PSP系列で言えば2作目に当たります。ジャンルはアドベンチャーに当たりそこら中に腐った死体が落ちている小学校校舎を探索するゲームなのですが、なんていうか全然怖くありません。多分描写としては結構激しいと思え、中には素手て生きたまま女子高生の内臓を解体するシーンもあるのですが、「ふーん」としか思えません。
 サウンドに関してはダミーヘッドマイクという、人間の頭を模した特別なマイクで収録しているだけあってささやく声なんかはほんとそんな風に聞こえるので「おおっ」とか思えますが、なんていうか昔と比べてグロ耐性が上がってきているのかあまりホラー作品を見ていても心が動くというか動揺することがありません。わざわざ真夜中にやってるというのに。

 年齢のせいか、怖さの定義も変わってきているような気がします。マイナスドライバーで目玉をぐりぐりくりぬくシーンとかよりも、作成した思っていた書類が実はやっていなかったとか、部屋に呼び出されたら無言で多くの人間が待っていたとか、なんていうかそういうシーンの方が恐怖を感じるようになってきています。
 その上でいうと、今の自分の怖さの定義というのは、想定からの乖離、若しくは想定外の事態に突然放り込まれるようなものじゃないかとこのところ考えています。ある意味、「コープスパーティ」も日常から突然お化けと死体が徘徊する学校に放り込まれるので想定外の事態かもしれませんが、それ以上に想像の付かないような、今ここでたとえを挙げると突然部屋にくまモンの着ぐるみを着た人がお玉片手に殴り込みをかけてくるとか、そういうのが恐怖なのかなぁという気がします。死体とか人体損壊のグロさというのは、フィクションに関してはある程度見慣れてしまうというか。

 人気漫画の「進撃の巨人」の作者が作中の巨人の表情について、「漫画喫茶のバイト中に見た、酔っぱらって何するか全く読めないオッサンの表情が元になってる」と言及していますが、この意見には私もなるほどと思いました。実際、次の行動が読めない酔っぱらいは私も確かに怖さを覚えるのですが、表情や発言内容から読み取れない、何するかわからない相手ほど怖いものはありません。さっきのコープスパーティも、お化けはこちらに危害を加えてくるのが分かってるだけに怖さを覚えないのかもしれません。

 ちなみに自分が一番、次に何するかわからないと思った相手はプロレスに参戦していた辺りの和泉元彌氏です。

2018年4月22日日曜日

てんかんとデジャブ

 今月初めに極端に体調が悪くなったのですがその原因ははっきりしていて、仕事中に「ああ、ここだったのか」と感じたからです。なにが「ここだったのか」というと、大体去年の夏頃に見たデジャブというかイメージが今月初めの勤務中の自分の姿だったということです。
 いきなり訳の分からないことを言い出していますが、こういった予知夢めいた未来のイメージを白昼夢のように見ることは自分にとってはよくあり、去年の夏に今回のイメージというかデジャブを見た時には、「とりあえず来年の春までは今の職場にいるということか。勤続2年は達成できそうだ」なんていう感想を覚えたこともあり、割としっかり覚えていたイメージでした。

 またこの時見たイメージは特徴があり、というのも今年2月から職場での自分の座席が変わって窓際、それもかなり隅っこで割と個室っぽい空間となりました。この座席ですが窓からその風景を一望出来て、この外の風景がデジャブにもはっきり出ていたので記憶面でもあまり離れなかったのだと思います。
 その上で、こうしたデジャブを見る、そして思い出すとほぼ確実に軽いてんかん発作が起こります。むしろ私にとっててんかん発作はデジャブとほぼセットであり、最初に発作を意識した小学四年生時においてすらも「(発作によって)急に気持ち悪くなって吐き気を催すと、なんか懐かしいような気持ちがする」と自分の口で言っています。

 一応書いておきますがてんかん発作と言っても自分のは軽度なもので、最後に気絶にまで至ったのは6年前で、法律上でも過去3年間に気絶を伴わなければ申告義務も発生しません。っていうかここ数年は軽度の発作もほとんどなかったのですが、今年2月から4月にかけては激務もあってかこの時のデジャブを含め何度か吐きそうになりました。

既視感(Wikipedia)

 今まで知りませんでしたがデジャブは側頭葉てんかんと関係が深いことは前から見られていたものの、都合よく再現実験ができないこともあって詳しい研究はまだ進んでいないようです。そういう背景もあって自分の体験を書き残そうと今書いているのですが、私の場合はデジャブを感じる→ああそろそろ来る→てんかん発作(吐き気、頭痛)という流れがほぼ確立されています。そのためデジャブというか、「あれ、この状況前にも見たような……」という考えがよぎるとぞくぞくするというか、意識的にそれ以上あまり深く考えないようにしたり他の方に意識を向けたりすることもあります。

 また思い出す方向とは逆に、先ほども書いたように白昼夢のように妙な自分の未来っぽいイメージが浮かぶ時も大体同じ流れです。この状態でも、「ああ、発作来たな」と内心思うのですが、割とこういう時は流れに任せるというか、発作の感覚をむしろ進んで受け入れることが多いです。なんでそんなことするのかっていうと、はっきり言えば発作起きている時の自分は当社比120%みたいな感じで勘が冴え渡り、予測や分析をさせたらほぼピタリと的中させられるくらい頭が回るようになるからです。このブログに関しても、てんかん発作真っただ中の間は書くの休んだりしますが、治まった直後なんかは自分が見てもいい視点で記事が書かれてあったりします。
 そういうこともあってかこういう発作の時に、自分が未来を見ているという感覚は普通に持っています。先ほどにも書いたように、今回のデジャブのイメージを持った時も「来年春まで残留はほぼ確定」と確信しましたし、現実に周りから「今回の職場は珍しく花園さんにとっては長続きしますね」と驚かれるくらいもっています。逆を言えば、自分の賞味期限は約二年ってことになるのですが。

 この記事で何が言いたいのかというと、デジャブはてんかんと非常に密接な関係があると言いたいわけで、頻繁にデジャブを見たりする人に関しては自分同様にてんかんの可能性も疑った方がいいと思います。特にデジャブを見た直後に頭痛、吐き気を覚えるのであれば、ほぼ確実だと思え、平常時の診断ではなかなか出ないのでそのような状態の時に診断を受けるべきです。
 なお自分も最初気絶した際は原因不明、二回目の際にスキャン受けながらデジャブ見た時にはっきりと診断データが出て、晴れててんかんキャリアとなりました。

 もう一つ言いたいことを挙げると、てんかん発作時に見るイメージは未来透視というよりかは未来の可能性の中でも割とあり得そうな、確率の高いイメージ、若しくはこうあってほしい願望的なイメージが出やすいのではないかとも思います。私が見るイメージは確率で言えばまさに将来その通りの状況が出るなど高い実現率に達していると思いますが、中には結局実現せずに終わったイメージもあり、数ある可能性の一つだとは思うものの必ずしもそうなるとは限らないイメージだと考えています。
 こうした点を踏まえると、未来予知をする巫女とか予言者などは多分この手のてんかん発作を利用してイメージを見ていたのではと私には思えます。やろうと思えば多分私にもできるんじゃないか、具体的にはてんかんを引き起こしやすそうな環境や状態(三半規管を揺さぶるなど)に追い込んで発作を起こし、あとはひたすら見ようと思うイメージの関連物を頭の中でぐるぐる回せば一つや二つのイメージは作り出せる気がします。もっともすっげー吐きそうになるので実際にはやりませんが。

 逆に今個人的に気になっている点として、他の人はどういう状況でどんなデジャブを見るのか。自分とどう違うのかに興味があります。自分の場合は先ほど書いたように「デジャブだ」と思う総毛立つのですが、他のみんなはどないなんやろう(´・ω・`)

2018年4月21日土曜日

財務省次官セクハラ発言議論に対する所感

 なんか自分が語ると立場的にもいろいろまずいかと思ってこの件に関しては黙ってましたが、コメントでリクエスト来てしまったのであくまで個人の立場として思うことを書いていきます。最初に書いておくと、この問題は多面的に捉えられる問題であるだけに見方によって判断が大きく変わるため、具体的にどの見地で立つかによって評価なども変わってくる問題だと思います。なので自分としては主張に立脚する立場、論点を明確にしたうえでポイントごとに書いていくことにします。

1、殴られる覚悟
 私の持論の一つに、「殴られる覚悟がある奴だけが人を殴っていい」というのがあります。これが何を言い表すのかというと、「相手に殴り返されても何も文句を言わない、批判しないというのであれば殴ってもいい」という意味ですが、本意としてはむしろ逆の言い方で、「自分は殴ってもいいが殴る相手が殴り返すことを認めない、というのを認めない」という概念です。具体的に言えば、部活の顧問と生徒の関係のように、殴り返せない立場だとわかっている相手に暴力をふるうのは認めないという考え方ですが、逆に殴り返される、逆襲に遭う覚悟を持っているなら程度を知った暴力はアリではとも考えてます。

 この価値観に立脚して今回の問題を語ると、福田事務次官が自身、若しくは身内にセクハラ発言や行為がなされても気にしないような人間であるのであれば、価値観にズレがあると考え、いくらかしょうがないし許してもいいのではと思っています。さすがにオッサン相手に「おっぱい触らせて」なんて言う発言は不毛この上ありませんが、仮に彼の家族や親戚に女性がいるとして、その人に誰かが「おっぱい触らせて」と言ったり触っても怒らないというような人であれば、いくらか問題があるとは感じるもののこうしたセクハラ発言について世間の認識とズレがあるという彼の主張に私は理解できます。
 ただし、これが逆なら話は違います。逆であるということは「自分はセクハラしてもいいが他人はしてはダメ」というクズの理論になり、強い立場を利用した弱い者いじめ以外の何物でもなくなり全力で叩き潰すべき人間の価値観と言えるでしょう。まぁこの手の「殴られる覚悟のない」クズであることはほぼ間違いないでしょうし、刑法的には自分の行為が犯罪だとわかってやっている「確信犯」と言えるでしょう。

 もし仮に私が何やってもいいってんなら、この点を敢えて突くために財務省の省庁前で目につく女性職員に対して「おっぱい触っていい?」と聞いて、イエスかノーの集計を取って報じます。セクハラだと言われれば「お前らの親玉が言ってることなのに、他の人は言っちゃ駄目だというのか!」と反論して、警察呼ばれたら「事務次官なら捕まえないのか?」と言おうかなと考えてます。まぁさすがにイエスと回答した人のを触っちゃったら紛れもない公然猥褻になるので、集計取るだけにしますが。

2、セクハラ発言録音データのリーク
 今回の問題で大きな議論となっている点として、テレビ朝日の女性記者がセクハラ発言を録音したデータを自社ではなく週刊新潮に渡して記事化したことについて賛否両論が出ていますが、私個人としては女性記者の行動は正しいと考えています。
 というのも女性記者は最初自分の上司にセクハラ発言を報道するべきか取り合ったものの「我慢しなさい」で却下されたと聞きます。いわば、ネタに対する報道化の優先権はテレビ朝日が持っていたにもかかわらずテレビ朝日はそれを使わなかっただけで、そのネタを他に報じるメディアがあるというのならばそこへ渡すのも至極当然でしょう。第一、記者が取ってくるネタというのは基本会社のものではなく記者自身のものだと私は考えます。

 むしろこの件で一番批判されるべきは、福田事務次官というよりテレビ朝日ではないかとすら思います。テレビ朝日は自社社員が受けているセクハラを黙認したにもかかわらず、ことが明るみになってからは他のメディア同様に財務省を批判しており、さらには女性記者が名乗り出ると今度は女性記者が新潮にネタを渡した行動について「遺憾だ」と変な批判の仕方をするなど、自分たちが適切に対応せず報じないと決めたにもかかわらずなんだその言い草はと見ていて感じます。
 そもそも、こんなおいしいネタを何故使おうとしなかったのか?はっきり言えば財務省は福田事務次官を怒らせては取材に支障が出るとビビった、または忖度したから以外ないでしょう。メディアとして、っていうかおいしいネタの料理の仕方的にもテレビ朝日はセンスがないと私には感じます。

3、オフレコ発言の報道可否
 今回の問題でこちらも議論となっているのは、オフレコでの発言を隠れて録音して報じたという点です。これについて否定派の意見をみていると主なものは、「オフレコでの取材は大事」、「取材者と記者の信頼は必要」、「オフレコでしか言えないこともある」などといった所じゃないかと思います。

沖縄防衛局長「犯す前に言いますか」と発言 辺野古巡り(朝日新聞)

 実は今回の報道を見て一番最初に思い出したのは上の記事でした。これは私が香港でモンハンP2Gで遊んでた2011年に出た記事ですが、概要を書くと当時の沖縄防衛局長が非公式且つオフレコでの記者懇談会(つっても居酒屋)で「(女性を)これから犯す前に犯しますよと言いますか」という発言をして更迭された事件です。
 防衛局長が言わんとしたことは、「攻撃は予告なしに来る」という趣旨のたとえだと思え、言わんとしてること自体は表現が下品であるものの私には理解できます。ただこの事件の面白いところh、多くのメディアの記者が同時に発言を聞いていたにもかかわらず(朝日新聞は同席しておらず)最初はどこも報じず、地元の琉球新報のみが報じて、それを見た他のメディアもあとからこぞって報じたという点です。

 この事件は女性蔑視発言やオフレコ内容の報道など、今回の事件と共通する点が多いように感じるのですが現時点で比較しているのは多分私だけじゃないかと思いますが(西山事件との比較は見たが)、やはりこの事件の時と今回の事件の世間の反応を見ていると本来あるべきではないずれがあるように感じます。具体的なずれの内容については触れませんが、何故そのずれが生まれるのかと言えば報じたのが女性記者本人だったからではないかと内心考えています。

 話は戻りますが、オフレコでの発言、しかも隠れ録音内容を報じることの是非について私の意見を言えば、「これの何が問題だ?」ってところです。そもそも、相手が記者であればオフレコだろうが盗み聞きだろうがその発言がニュースネタとして価値を持つ限りは報じられてしまうのが当然で、また記者としてもそれがニュース価値のあるネタであれば「今夜のおかずはイカリング」というどうでもいい発言であっても報じるのが私に言わせれば責務です。
 一例を挙げると、以前私が報じた上海大江戸温泉の記事で日本の大江戸温泉側が私の質問内容を「否定」ではなく「回答を拒否」したことを敢えて強調して記事に書きましたが、これは「回答拒否」自体がニュースであると私が考えたからです。そして今回の件でも、「おっぱい触っていい?」という発言はニュースネタとして十分価値があるように思え、実際にこれだけ大きな話題になっているんだから報じない方がおかしいというかテレビ朝日はセンスがないとしか言いようがありません。

 そして記者との信頼関係についてですが、私に言わせれば記者を信用する奴はタダの馬鹿だと思います。よくサイコパスは会社経営者とかジャーナリストに多いという人いますが、記者に関しては私もそう思え、「友人を突然ドブに蹴落として大笑いする奴ほど職業適性あるよ」と周りにも言っています。実際に多くの記者は人を躊躇なく裏切るし、同僚ですら騙し討ちし、部下にも平気で暴行するような人間ばかりというか、そういう人間じゃないと心身持ちません。そして何よりも、相手が一番嫌がる内容を暴露することこそが一番の仕事であり、一般市民ならまだしも官僚でありながら記者と信頼関係を構築するなんてアホ以外の何物でもありません。記者からしたらそんな奴いいカモで、利用するだけ利用したら情報リークして消えてもらうだけです。
 実際私も教えられましたが、記者と取材相手に友好関係などはなく、緊張感を持った敵同士の対立関係しかありません。記者としてはネタになるニュースをどう引き出すか、取材相手としては自分(自社)にとって有利な情報を如何に発信し、不利な情報を如何に隠すかというやり取りこそが「取材」であり、そこにあるのは相手をどう利用し倒すかという勝負だけです。

 もっともこう言いながらも、「協力による見返り」が期待できる相手にはそりゃ記者も便宜図ります。また何でもかんでも暴露すればいいというわけではなく、記事にしても意味ないニュース価値のない、相手にとっては暴露されたくはない情報に関しては聞かなかった振りくらいはします。これを「信頼関係」というなら言うで構いませんが、今回のセクハラ発言の件に関しては報じれば辞任に追い込めるネタなので、「利用しつくしてのポイ」なので余計な同情はいらんでしょう。

 さっきちょっと書きそびれましたけど、盗み聞き、盗み見による報道はこの世界では当然です。見られるってんなら携帯だろうが引き出しの中なんてためらいなく盗み見ますし、飲食店で何かしら面白そうな話題を誰か話していたら私だってそ知らぬふりして盗み聞いて、ネタになるなら記事化します。こうした行為からすれば隠し録音なんて、まだ面と向かって話を聞いてるんだからかわいい方じゃないかとすら思います。

 そもそも、といったらなんですが、今回のセクハラ発言は政治的内容ではないというのが私にとってはポイントです。政治的内容を含む発言であれば将来の見返りというか一部の人間の言う「信頼関係」が働いてオフレコにと言われたら確かに取り扱い上で打算が動くものの、問題となった発言はそういった類ではなくただのセクハラ発言です。そんな低レベルな発言内容に「信頼のために報じない」なんてのは私の中ではありません。ましてや、これだけのニュース価値を持つのであればなおさらです。
 中には今回の報道をハニートラップだという人もいますが、それもだからなんだってところです。特に社会報道で顕著ですが取材では如何に「相手を怒らせるか」が重要で、取材相手を挑発するだけ挑発し、怒らせて殴らせればしめたもので、「記者にも暴行」という見出しが翌日書けます。ハニートラップも同様で、記者だとわかっている相手という見え見えの罠に引っかかる奴の方が馬鹿なだけでしょう。まぁ今回の件はハニートラップ以前でしょうが。

 総じていえば、「信頼感」なんていうのは報道の世界、いやむしろ一般社会においてもまやかしでしかありません。基本的には利用価値があるかないかという打算以外なく、それすらも理解できてないというのは「利用される側」だからではないかというのが私の偽らざる心境です。

  おまけ、
 つい最近に人気声優の日笠陽子氏がラジオの番組で、カレーうどんをホースで食わされたという事実を知ってすごいカルチャーショックを受けました。声優、しかも女性で人気も高いのに、芸人以上に芸人らしいことやっててなんなのこの人と変な感銘を受けました。

2018年4月20日金曜日

発送電分離のスケジュールについて

  東日本大震災直後に一次大きな議論となっていた発送電分離案について今どうなっているのかとさらっと検索かけたところ、以下の記事がヒットしました。

発送電分離で激変する電力事業の“経営”、求められる視点とは(スマートジャパン)

 自分もチェックしそびれていましたが一応法整備などは済んでおり、2020年から実施される予定だったようです。忘れていたこともさることながら、この方面の情報を見逃していたのは個人的に反省点です。
 なお上記の記事ではNECが早くも送電事業参入に意欲を見せているとのことですが、不謹慎なことを言えば2020年までNECが生き残っているのかの方が正直不安です。

 当時の記事にも書いていますが、発送電分離について私としては大賛成です。元々、中国では既に発送電分離が実現していて生活面で見慣れていることもありますが、市場に緊張感を持たせてサービスの質を高める上では発電と送電を分けることはプラスでしょう。本音を言えば大量に税金を使ってでもこの際、東西で異なる商用電源周波数も統一させるべきだとも思うのですが、今の日本では体力的にも難しいでしょう。
 それにしても処理しなくてもいいどうでもいい問題は率先してやるが、難題はともかく先送りにするというのを日本は国ぐるみでやってくるのがいろいろと……。

 ついでにもう一つ、最近日本で生活していないので実態いまいちつかめないのですがあの後結局普及したのかよくわからないものとして、スマートメーターがあります。現在、中国では決して誇張ではなく電気やガス代といった公共料金は携帯電話で支払うのが割と前から主流となっており、そういうのを見ていてもスマホとスマートメーターは相性がいいと思うし何より検針員の人件費を丸ごと浮かせられるのであれば全力で普及すべきだと考えています。
 検針員に関してはついこの前にも、驚異の3995万円という請求が起きる事件もあったそうです。っていうかこの検針した新人、仕事なめすぎだろ。

 さっきから日本にいないと言い訳はしてはいますが、外から見る限りではこのスマートメーターはあまり普及していないのが実態なのではないかと思います。また東芝も自信満々で買ったスマートメーター世界大手のランティス・ギアを結局売却してますし、こちらは掛け声倒れで終わったような気がします。
 先ほど中国では公共料金の支払いは全部スマホでやると書きましたが、なんとなく社会全体でのスマホの活用で日本は青写真を描けていないというか、描ける人間が中枢にいないようにも感じます。中には「そうしたことは中国だからできる」という人もいるかもしれませんが、中国の方が人口も国土も大きい上に厄介な人間も多いことを考えると、必ずしもそうとは言えないんじゃないかなと言う気がします。

2018年4月19日木曜日

スルガ銀行の不遜すぎる態度について

アイドルマスター「隣に…」 全員分(ニコニコ動画)

 この記事書こうと思っていた矢先に上記の動画を見てしまい作業が遅延しました。それにしても「キツ過ぎる坂道」と言われるこの曲ですが、こんな半端なく難しそうな曲を仕事とはいえ歌わされる声優はたまったもんじゃないでしょう。ただ同じ曲をいろんな人間が歌うのを見るって案外面白いものです。

金融庁、スルガ銀行に立ち入り検査 シェアハウス破綻で=関係筋(ダイヤモンド/ロイター)

 であるからして本題ですが、以前にスマートデイズの「かぼちゃの馬車」こと女性向けシェアハウス投資実質詐欺問題についてスルガ銀行を足利銀行に重ねつつ取り上げましたが、金融庁も事態を重く見ているのかスルガ銀行への検査を強めているとの報道が出ています。こうした国の指導、是正措置自体は適切な対応だと思うのですが、私が疑問に思うのは当事者であるスルガ銀行の態度で、見出しにも掲げた通りに不遜もいいところだと考えています。

お知らせ(スルガ銀行)

 何故このように感じたのかというと、上記の一般向け情報公開(プレスリリース)で金融庁の検査やスマートデイズ関連報道について何一つ触れていないからです。

 普通、と言っては何ですが、不正や疑惑絡みの報道があった会社ならば、「報道されている内容は当社とは一切関係がありません」、「決定した事実はありません」などと無関係を主張したり、捜査関連などでは「捜査を受けているのは事実で、全面的に協力しています」、「続報があり次第発表いたします」などといったプレスリリースを出すものだと私は考えており、実際にその手の報道が出てくれば関連する企業のサイトいってプレスリリースをよく眺めたりしています。メディアの報道より面白いこと多いし。
 なのですが、今回のこの一件についてスルガ銀行はリリースなどでは一切触れておらず、事件規模の大きさと関連度合いから考えて、当事者意識がないのかと正直疑うレベルです。それどころか、

【重要】取引規定の変更について(スルガ銀行)

 上記リリースは取引規定の変更を発表したものですが、一部金融商品について以下のように規定を変更すると書かれてあります。

『収入を証明する書類の提出等
1.借主は、銀行が定期的にまたは必要と判断し、提出の依頼をしたときには、銀行が適当と認める借主の収入等を証明する書類(銀行が必要と判断するときは、配偶者の収入等を証明する書類を含みます。以下、収入証明書類といいます。)を速やかに銀行が指定する方法により銀行に提出するものとします。また、銀行から借主の収入等に関する照会があったときは、借主は、これに回答するものとします。

2.第1項の収入等に関する調査の結果により、または借主がこれらの調査に応じないときには、銀行は、利用限度額を減額あるいは新たな貸付を中止することがあります。銀行が、利用限度額を減額、あるいは新たな貸越を中止したときでも、銀行は、極度額の変更ならびに新たな貸越の中止に関する通知・案内等は原則として行なわず、借主は、別途、所定の方法により随時、借主の極度額等の確認を行なうこととします。

3.銀行は、第1項により提出された収入証明書類について、原則として返却いたしません。』

 対象となる商品は自動貸越サービス、パッと見る限りだとキャッシングのようですが、下線部の内容を読んで強い疑問を覚えました。というのも、問題となっている「かぼちゃの馬車」事件では収入・資産証明書類の改竄が行われ、ずさんな審査で貸付が行われていたと報じられており、現時点でこの件に関してはほぼ事実だったろうと考えられます。上記の規定変更対象商品に「かぼちゃの馬車」に絡む貸付が含まれるかはともかく、自分たちの審査が杜撰であるくせに後から審査し直して内容が駄目だったら取引を中止すると言っているようにしか見えず、一読して「お前ら今の自分らの立場わかってんのか?」という感想を覚えました。
 っていうか、このタイミングでこんな内容出すって本気?

中古マンション投資でも不正続発 スルガ銀融資に絡み(朝日新聞)

 以前に書いた記事でも、「(かぼちゃの馬車の)問題が出てくる辺り、闇はもっと深いだろうから他にも何かやってるだろう」と私は主張しましたが、やや自慢めいた言い方に聞こえるかもしれませんがやはりそのようだとうかがわせる報道も出てきました。そしてこの報道に対しても、スルガ銀行は何もリリースを出していません。

 自分の経験から言えば、金融業は内部で不正が起こりやすい業種なだけにリスクに対する規定が細かく、外部への報道発表など割としっかりしているところが多いのですが、スルガ銀行に関しては上記にもある通り当事者意識が欠けているように思えるところがあり、はっきり言えば不謹慎とも感じる面が多いです。まだまだ探れば出てくるかもしれません。

2018年4月18日水曜日

頭の回転を高めるというか特徴

「頭の回転が速い人」になるための3つの方法(東洋経済)

 無駄に残業したのにあまり疲労感を感じないやや危険な状態なのでてってて書きますが、上の記事を読んだうえで頭の回転を高めるというか回転が速い人の特徴として、どれだけ長く長考できるかではないかと考えています。

 長考とは文字通りに、何かについてどれだけ時間をかけて考え続けられるかです。ある意味将棋や碁などに通じるかもしれませんが、一つの事柄に対してどれだけパターンを想定した上でどのパターンが選択肢としてベストなのかを延々と時間が許す限り比較するとして、5分で終わる人と3時間も考え続けられる人では後者の方が頭の回転が速いと断言します。基本的にパターンをどれだけ考え、用意できるかは即座の対応や反応に直結し、尚且つ将来予測においても強いのは言うまでもないでしょう。
 そのパターンをどれだけ作れるか。結局これはどれだけ長考できるかにかかってきて、何分で何パターン作れるかという実時間での速さはあまり影響しないと思います。長考できるというのはそれだけ集中力を保てるともいえ、これまで私が見てきた限りではこうしたタイプほど頭の回転が速い人が多かったです。

 その上でもう一つ、頭の回転が速い人の特徴を述べると、思考中に言語化の過程をすっ飛ばせる、それも意識的にやれる人が当てはまります。理屈や予想を組み立てる過程でいちいち文字や言葉、イメージを介さずに原因と結果のパターンだけを取り出してこれるというような人ですが、一歩間違えればシャーマンのように突然意見を出してきたりします。
 まぁ私に言わせれば、世の中の事象は原因→結果ではなくむしろ、結果→原因のように、結果に対してあとから理由が付けられるという事象の方が実は多いに過ぎないので、過程のない結論というのは決して間違ってはいないとは思いますが。

2018年4月17日火曜日

ブラック企業大賞について

 結論から書くと、ブラック企業大賞の集計及び発表は全くその意味を持たないと思うので早くにやめるべきではないかと私は思います。

ブラック企業大賞

 ブラック企業た問題となり始めた数年前より毎年ネット上で、その年で最も過剰労働やパワハラの激しい会社を決めるのがこのブラック企業大賞ですが、その存在意義に関しては疑問を通り越してもはや言いようのないしょうもなさを覚えています。問題点は複数あり、列挙すると以下の通りです。

1、問題となる労働行為が受賞年に発生したとは限らない
2、何を持って大賞となるのか違法の軽重基準がない
3、どの年もメディアに大きく報道された企業が受賞している

 一つ一つ解説するとまず1について言うと、違法な労働はどこも長年にわたり続いてきていたというケースが多く、それが槍玉に挙げられるのは発覚したせいだからです。逆を言えば発覚年にブラック企業大賞に選ばれ、過去の自殺やパワハラなど違法な行為について実現期間と受賞期間が食い違っていることが多く、極端な話10年くらい前の話でも急に話題になれば受賞する可能性があるでしょう。
 これによって想定されるケースとして、過去に一度受賞していながらその後も改善されない企業はその後も受賞するのかという懸念があり、多分一回取り上げられた企業は改善の有無にかかわらずその後は取り上げられないでしょう。果たしてそれでいいのか、公共への周知の面や社会牽制の観点からすると疑問です。

 次に2については説明するまでもありません。違法な労働行為は会社ごとに千差万別で、何をもって一番ひどいかは決めるのは困難でしょう。それでもいくつか評価基準、被害者数、期間、社内か社外か、問題行為に差別があるのかなど分野ごとに大まかでもいいから基準なりポイントでもあればいいのですが見る限りそんなものはなく、独自の分析や考察なんかも見えず、なんとなく敢えて言えば雰囲気で受賞企業を選んでいるようにしか見えません。

 その雰囲気こそが3で、以前電通が受賞したように結局は報道の大きさで受賞企業が決まって閉まっているとしか思えないところがあります。だから私はむしろ、「ブラック企業報道大賞」とこの際名前を変えた方がいいように思え、その年に一番報道されたブラック企業を選ぶ賞であれば基準も明確だし、その表彰の無意味さもはっきりするだけに良いのではないかと思います。
 言わなくてもいいことですが、本来こうした槍玉に挙げる表彰というのは先にも書いたように公共への周知と社会牽制という意味で考えるべきです。しかしすでに社会で大きく報道されている企業をいちいち「ここはブラック企業だ!」と発表しても果たしてその効果があるのかといえばほとんどなく、なんとなくですが年を追うごとにこのブラック企業大賞も社会の関心が薄れてきているような気がします。

 むしろそれだったら、ほとんど誰も知らないけどこんなひどい会社があったなどとマイナーなブラック企業を取り上げる方が価値があるように思え、また一度受賞、認定された企業は文字通りブラック企業リストみたいなもので常に公開し、労働環境の改善や是正があるまで批判し続けるというスタンスの方が社会牽制上で意味がある気がします。なんなら、その企業と取引のある会社もばーって載せてもいいんだし。

 最後に、これは別記事にしてもいいのですが、これまでのブラック企業の話題で語られるのは「社内に対する劣悪さ」だけでしたが、そろそろ「社外に対する劣悪さ」という観点でのブラック企業をもっと取り上げて、批判していくべきだと思います。真面目になんでこの手の議論が出てこないのかいつも不思議に思っていますが、やっぱ日本は目線が内側に行きやすいのかなと密かに見ています。

2018年4月16日月曜日

でかっ

 前の記事で「骨が腐るまで」という漫画について「死体とおっぱいがいっぱい漫画」だと紹介しましたが、読んでみた友人からは「死体はともかくおっぱいはいっぱいではない」という返事が返ってきました。私と彼の間では認識に隔たりがあるようですが、それはどのような隔たりなのか、現国の問題に使えそうな問いです。
 

 そんなわけで昨日は中国の「J-20」こと「殲20」というステルス戦闘機のプラモ作ってました。なんで急に作ったのかというと例の上海人に「次は殲20」作ってと、一昨日言われたからです。言われたその日にすぐプラモやに買いに行って、翌日には作ったので上海人は驚いてましたが、 やると決めた行動が早いのは自分の長所だと真面目に思います。
 またある意味今の自分は戦闘機プラモ作りブームの真っ最中で、自分の中でブームが終わる前にできる限り作っておくほうが後々の自分のためだという自覚もあります。非常にお手軽な軍事研究でもあるし、くれぐれも暇だったというわけではありません。




 作ってみて今回感じたのは見出しにも書いた通りに「でかっ」っていう点でした。ステルス戦闘機とは言いながらもサイズ的には爆撃機みたくでかく、これまでに作っていた他の戦闘機と比べても一際サイズが大きいです。
 このようなサイズになった理由としては噂で聞く限り、姿形がよく似ている米国のF-22ラプターの情報を盗んで設計したけど、細かい部分が再現しきれずどんどんでかくなっていったそうです。あと今回作っていて初めて気が付きましたが翼の数も異様に多く、前翼(カナード)、主翼、X字尾翼で計8枚にも上ります。前翼があるのであれば水平尾翼はステルス上でも不利なのでいらないのではと思うのですが、逆を言うとそれだけ流体力学面で中国は熟成されてないのかもしれません。

左からタイフーン、J-20、F-16、MiG-29

 サイズの比較としてこれまで作ったどれも同じ1/72モデルの機体を並べましたが、タイフーンですら作った時はでっかいなぁと思ったものの、それを遥かに超えるでかさです。
 なお日本において「72」という数字には特別な意味があるようです。

 ミグと並べたらその差は歴然

 なんとなくですが、このでかさとステルス性、そして異様に多い翼の枚数などから考えて、J-20は正式戦闘機というよりも実験機に近いものではないかという気がします。あくまで私個人の印象ですが。
 ちなみに昨日、6時間ぶっ通しで作ってて終わった時には腕がしびれていたかったです。メーカーはタミヤのコピー作って喧嘩してるトランペッターですが、表面の仕上げは非常にいいものの、図面がやや見づらいのと、一部の接合でやや疑問に感じる箇所があり、ハード一流、ソフト二流って感じします。まぁキット自体の質は悪くないので、実力あるメーカーであることには間違いありませんが。

2018年4月14日土曜日

中国人が花見を好む理由

  今1巻と2巻がKindleで無料だったので読んでみたらそこそこ面白く、下記の「骨が腐るまで」という漫画を一気に全巻買い集めました。軽く書評を書くと一見して映画の「ラストサマー」と同じ構成だと思いましたが、変に間延びせず話の展開がよく、7巻と少ない冊数でまとめられているので、総じて完成度の高い作品だと覚えます。
 なお友人に勧めた際、「死体とおっぱいがいっぱい漫画」と紹介したら、友人は何も答えてくれませんでした。何故彼は何も答えなかったのか、現国の問題にも使えそうな深い問いであるような気がしてなりません。



 話は本題に入ると既にピークは過ぎたと思いますが今年もやってきた花見シーズンにおいて、あちこちの花見の名所で中国人の姿が見られたのではないかと思います。単純に中国人は日本の花見文化を非常に気に入っており、この花見を体験するためだけに訪日旅行ツアーに申し込む人も少なくありません。
 こうした中国人の花見ブームについて日系メディアもその理由や背景についていろいろ報じており私も読んでいますが、決して的外れだとは思わないものの、私の考えている理由を挙げている人はまだ見当たりません。結論から書くとそれは、「中国には自然を愛でる文化が極端に少ない」殻ではないかと睨んでいます。

 中国で鑑賞する代表的な花と言えば梅の花で、梅を愛でる文化こそあるものの日本の花見のように定型化されたようなイベントはありません。また花に限らず自然を鑑賞し、愛でる文化やイベントごとが自分から見ても不思議なくらいに少なく、言い方を変えるとアウトドア文化が日本と比べると極端にありません。
 アウトドアスポーツについていうと、登るような山が少ないということから登山はほとんど行われません。当然、スキーなども中国ではごく一部を除いて行われません。また海水浴に至っては、中国は泳げない人の方が圧倒的多数です。

 自然を愛でる文化としては中国にも月見文化は存在しており、日本なんかより十五夜への熱意は高いように感じます。その一方で花や海、山、なんかこういった自然物と絡むイベントごとや鑑賞文化はあまり見られず、ましてや「自然を眺めながら野外で宴会」なんていうのはほぼ全くないから、だからこそ花見が新鮮にも映り興味を持ったのではないかと分析しています。詳しく検証したわけではありませんが。

 蛇足かもしれませんが、こうした中国人の行動思考の分析とか評論記事を見ていて、民俗学的アプローチがやや少ない気がします。自分の分析が民俗学的かどうかについてもはっきり言って疑問ですが、この手の分野ではプロである彼らの視点や言及が生かされないというのはどうなのかなという点でも疑問です。

歴史記事を書くポイント

 今週水曜にJBpressで出された私の記事は二次大戦中のフィンランドの話ですが、これはこのブログを長く見ている人ならお気づきかもしれませんが、2015年頃に書いたこのブログの記事の焼き直しです。というのも先月と今月は忙しくて本来なら記事出しは月一本の予定でしたが、取材なしで尚且つ原稿もある程度揃っていることから、ブログ過去記事の焼き直しでよければと穴埋めにどうかと提案したところ編集部も「是非」ということで今回使いました。

 この記事のヤフコメを見ていると恐らく私以上に冬戦争について詳しいと思われる方々がたくさんコメントをしており、それを見ていてだからこそ自分のような人間がこうして歴史記事書く余地があるなと内心感じました。というのも究極的に言えば、歴史マニアは歴史解説記事を書くに当たって致命的な欠陥を抱えていると私は考えており、あまりこの点は他では言及されてないのでこの際紹介します。

 結論から言うと、歴史マニアが何かしら解説をしようとすると非常にディープな点ばかり取り上げたり、専門用語を読み手が初めから知っているのを当たり前であるかのようにバンバン使い、あまり詳しくない人からすれば理解しづらい文章になりがちです。なんでこうなるのかっていうと単純に、あまり人のこと言えませんが自分が他の人にはない知識を持っていることを誇りたいからで、歴史マニア同士の会話なんか見ていても相手の持ってない隅を突くかのような知識の言い合いになりがちです。
 自分もこうした傾向を持っていることは重々承知しており、歴史記事を書く際は敢えて細かい用語や人物名、紛らわしそうな事件名などは細かく区別するように注意して書いています。

 基本的には「不要かと思うくらいしつこくいちいち説明し続ける」スタンスで歴史記事は書いていけばいいのですが、このやり方だと読み手には優しくなる一方、文章のテンポはほぼ完全にスポイルされます。どうでもいいですがスポイルという単語を見るとスポイトとの違いについて思いを馳せます。
 日本語のリズムは基本、五・七・五形態の中膨れ三拍子が一番心地良いと私は考えていますが、歴史記事だとこのリズムを維持するのは非常に困難です。説明文が続くとどうしてもくどい文章になりがちで、ましてや文字数の制限があれば紹介できる箇所もどんどん削られていくことになります。

 こうした問題への対処として、またいい歴史記事を書くポイントとしては第一に、「焦点を定める」という作業が最も効果的です。紹介、解説する箇所を絞り、余計な箇所には一切触れないということです。
 現実に去年書いた戦国初期の関東の記事ではこの手法を強く意識して書いており、近畿地方の政変や応仁の乱などについては一切触れず、尚且つ関東の情勢もそれぞれ主人公格の人物を定めてその人物を中心にして語るという方法を取りました。今回のフィンランドの記事もあくまで主役は戦争であり、その勃発理由と経過、そして戦後についてを中心に置き、前回の冬戦争についてはクリストファー・リーが義勇軍として参加していた事実などは省きました。シモ・ヘイヘについては外せませんでしたが。

 次回の継続戦争についてもう予言しますが、恐らく「リュティ大統領についての言及が少ない!」というコメントで荒れることでしょう。しかし言い訳とみられるでしょうがこっちとしては大まじめに言うと、もしソ連との講和に至る過程でリュティ大統領の行動を細かく取り上げていたら、文字数が食われるばかりか戦争内容よりもリュティ大統領が主役の記事になって焦点がぼやける可能性が高く、こればっかりに関しては「外すのが正解」だと私は考えます。その上で最初に戻ると、歴史解説は詳しければ詳しいほどいいというわけではなく、読み物としては歴史に詳しくない人間でも理解できるような内容に仕立て上げることこそが第一です。まぁアクセス稼げなければ意味ないですが。

 なお、逆と言っては何ですが政治や経済記事なんかに関しては最近私も敢えて小難しい専門用語使ったり、詳細な解説を省くことが増えています。理由は浅はかな人には絶対理解できない内容、もしくは誤解させ、狙い通りの批判させ、反論して一気に黙らせる方が楽になってきたからです。必ずしも何でもかんでもそうだとは言いませんが、歴史や経済に関する記事はやはりある程度は基礎知識を持って読んでもらいたいと思え、また書く側の負担もあるのである程度の切り捨てもやむを得ないスタンスを取るようになっています。
 もっとも、解説した用語や仕組みがどうしてもわからない、教えてほしいという声に関しては今後もできる限り対応するつもりです。私が敵視しているのは考えたり調べたりすればすぐわかることなのに、わざとかと思うくらい浅薄な知識にもかかわらず挑発的且つ感情的に批判してくる輩です。記事に関する疑問や、丁寧な姿勢での批判であればむしろ大歓迎で、強敵を常に求めています。

2018年4月12日木曜日

電波系のキャラは書けるのか?

 最近くそ真面目なことばかり書いておりふざけたことを書きたくなってきたので、電波系なキャラについて思うことを書こうと思います。

グランディアスⅢ(ゲームカタログ)

 つい最近知りましたが上記の「グランディアⅢ」というゲームはクソゲーだったようです。何故クソなのかというと出てくる登場キャラクターみんなが電波系というか、プレイヤー置いてけぼりな支離滅裂な言動ばかり繰り返す人間ばかりで、全く意味が分からないまま進行していくからだそうです。
 具体的にどれだけ電波なのかというという例として、以下のやり取りが上記ページで紹介されています。

  • (ヒロインが)寂しげな少女と出会った次のシーン、唐突に「あの子、手が冷たかった! 連れて帰れば良かった! あの子の手を温めてあげたい! どうすれば良いの!?」などと泣き出す。
  • しかもこの後、主人公の「飛ぼう…。飛べばきっと答えが見つかる!」という、電波を電波で返す香ばしい台詞が。

 このやり取りだけでも確かにやばそうなゲームだというのがなんとなくわかります。なお並み居る電波系の登場キャラの中でもとりわけその程度が激しく、周りをあらぬ方向へガンガン牽引するヒロインについては「電波塔」と表現されており、なかなか見事だと思うので自分もこれからこの「電波塔」という表現を取り入れていこうと思います。

 話は戻りますが、こうした「電波系」という表現は日本独特の表現で、その語源は深川通り魔殺人事件のヤク中の犯人が動機について、「電波を受けたから」と証言したことに始まると言われています。具体的に電波系がどういう性格かについては諸説ありますが基本的には、「支離滅裂、意味不明な言動を繰り返し、周囲の言葉をまるで理解しない精神異常者っぽいキャラ」と言えば大体当てはまるでしょう。
 それで今回、上記の「グランディアⅢ」の紹介を見ながら思ったこととして、「果たして俺にこういう電波系のキャラって書けるのだろうか?」ということでした。高校時代以降は全く小説書かないでいたら上海の中心でフィンランドについて紹介する日本人ライターになってしまいましたが、かつての小説を書いていた杵柄で述べると、気が狂ったキャラって案外書きづらいもんです。

 これは実際に下手な小説家の作品に出てくる気狂いキャラを見てもらえばわかりやすいですが、読者の共感を得られる狂人キャラっていうのはなかなか描きづらく、ただ暴れさせたり変なセリフを言わせてもなんとなく中二病っぽいキャラクターで終わってしまいがちで、書いてる作者はともかく、読んでる側からすると「作者はこれで狂ってるとか思ってんだろうな(笑)」みたいに思われてしまうことすらあります。現実に身の回りに頭のおかしい人なんてそうそうたくさんいるわけではなくモデル数は乏しく、かといって想像で書いてしまうと描写が過剰になったり過少になったりして、いまいちリアル感のないキャラが出来上がりがちです。作者本人が気違いなら書きやすいかもしれませんが、果たして気違い状態で小説が書けるかとなるとそれもまた微妙でしょう。
 なお私が本気で狂ってると思う人物像は、漫画家の岡本倫氏ただ一人です。作品のストーリー展開からセリフ回し、作者のプライベートの発言など、装っているのではなく完全に真性で他の人と違うと思ってます。

 なおオウムの麻原彰晃が拘禁症状で発狂しているという意見に対して、「ウンコ食ってないらしいからまだ狂ってるとは言わない」とする意見が結構よくみられます。ウンコを食うか否かがなんか狂ってるかどうかの一つの基準になっているのかもしれませんが、なんとなくそんな気はします。

 話は戻りますが気違いキャラ、それも電波系を描くのはモデルの圧倒的少なさ、尚且つ読者になめられないような水準で描写するとなったら私個人にとっては非常に難しい作業になると考えています。まさかウンコ食う描写入れるわけにもいかないし。
 そう考えると先ほどの「グランディアⅢ」は「こいつら、全員悪人」ならぬ「こいつら、全員電波系」ともいうべきカオスな世界を作っているとのことで、ある意味そりゃすげーなとキャラ作りの点で変に感心しました。

 その上で先の記事を見ていて、もしそういう電波系のキャラを作ろうというのなら、「否定→肯定→また否定……」のやり取りを見せるのが一番効果的かなという法則性を見出しました。具体的には、

  • (ヒロインが)先の少女に「真実が聞きたいんです」と自分から申し出ておきながら、兄が世界を混乱に陥れたことを聞かされると「やめて! もう聞きたくない!」と即逆ギレ。

 上の文章を読んでて、「ああこれなら電波系だと相手に一発で認識させられる」と思うと同時に、散々否定する説明しながら反論一つで、「そうだね、君の言う通りだ」とすぐ納得する反応を見せると、簡単に相手を狼狽させられるということを思い出しました。基本、人間というのは反論を呈す時には相手からさらに反論が来ることを戦々恐々と待ち受けており、一転しての肯定反応を見せられると「えっ!?なにそれ!?」と軽く電気がショートした感じで戸惑い始めます。それを見越して自分もたまに使うこともあり、実際にこれやるとかなり効果を発揮します。

 最後に小説のキャラクター作りについて持論を述べると、自己投影すると確かにリアル感のあるキャラは作れますが、底が見透かされやすいです。むしろ作者からして、「こんなやつおるかいな」という非現実っぽさを感じるキャラクターの方が程よい距離感になるというか、他者からの共感が得られやすいキャラになる気がします。総じていえば、作者の思い入れが強ければ強いほどキャラクターとしては面白みがなくなりやすく、創作するキャラクターともどれだけ適度な距離感を保てるかが魅力的なキャラづくりにおいて重要だと考えてます。まぁもう小説は書くことないだろうけど。

2018年4月11日水曜日

証人喚問に意味はあるのか?

 

 この前、MiG-29を作ったばっかですが、Su-27フランカーも作ろうか悩んでます。中国のJ-20とかの方が記事ネタにもなっていいんですが。

 話は本題に入りますが、例の加計学園問題について柳瀬唯夫・元首相秘書官の証人喚問が決まったそうです。恐らく台本が出来上がったからだと思え、また丸川珠代議員の忖度質問+「ありがとうございます」が聞けると思うとマルクス主義的(=無意味に、空虚な)なワクワク感を覚えずにはいられません。
 パトラッシュ的になんかもう眠いのでとっとと書き上げますが、前の記事でも少しふれましたがこのところの証人喚問を見ていて、果たしてそもそもこうした行為に意味があるのかと疑問に感じずにはいられません。かつてロッキード事件で喚問された児玉誉士夫などは田中角栄との関係について「刎頚之友」と言ったりするなどドラマはありましたが、このところ連続して行われている証人喚問はどれも、「都合の悪いことは言えません。前に言った通りです」しか聞けず、こんなん時間撮ってやることかと見ていて面白くありません。

 また豊洲移転問題について行われた東京都の百条委員会でも、他の証言者と明らかに内容が食い違っており、はっきり言って偽証しているとしか思えない浜渦氏についても結局不起訴となり、誰があの問題を起こしたのかは結局闇に消え、誰も責任を取らずに終わりました。

 今回の問題は前にも書いた通りに本格的に動くは6月以降だと思われますが、どうせ関係者を証人喚問してもまた忖度質問と証言拒否の連発で何も得るものはないでしょう。そう考えると証人喚問という制度自体、完全に役割のないものとしか思えず、実際にそうなっています。
 敢えて言うなら、もっと厳しいものにしなければ意味がありません。証言拒否は絶対に認めず、発言に偽証があれば一点につき懲役一年ずつ加算するなど、捜査権としてもっと厳格にする必要があると思います。一応、捜査権としては特捜以上に高度なものとして認められているのだし、めったなことでいちいち行われるものでもないことから、これくらい厳しくしてもいいと思えるし、またそうあるべきだと思います。

 昨日も書きましたが、疑惑の多さではもはやあの鈴木宗男氏を安倍総理は超えているように思え、それでも政権を保てるというのは野党の怠慢の賜物でしょう。恐らく今年中に安倍政権は退陣になると思いますが、第一次安倍政権も選挙直後の組閣を終えた直後にいきなり辞職となるなど、割と引き際がよろしくない傾向があるので、逮捕されずに済んだ人間もいたのかなという結末になる気がします。
 今予想すべきは次は誰かですが、順当なら岸田前外務大臣、次点で石破議員、思わぬ追い風があれば河野外務大臣とかかなと見ています。

2018年4月10日火曜日

加計学園の首相案件メモについて

 今日もたくさんニュースが出ましたが、個人的に一番衝撃を受けたのは以下のニュースです。

白鵬悲痛、尊敬する父の死「親を超える子はいない」(日刊スポーツ)

 かねてからこの偉大な横綱にして偉大な父親だと感じさせられていた白鵬関の父親が亡くなられたこのニュースが、決して冗談ではなく今日一番衝撃を受けました。白鵬関はモンゴルで看取ることはできなかったようですが、これほどの孝行息子を持ってジジド・ムンフバト氏はさぞ幸福だったでしょう。

 それで本題に移るともうあっちこっちで報道に火がついていますが、かねてから疑惑が追及されていながらこのところは森友学園の方に話題が取られていた加計学園の問題ですが、またも朝日の特大スクープによって再び帰ってきました。

愛媛県知事のひと刺しで安倍官邸に激震 始まりは週刊朝日特報(AELA dot.)
「首相案件」面会メモ 愛媛知事が認めた加計文書内容(朝日新聞)

 詳細については一般の報道に譲りますが愛媛知事も最後の最後で裏切ってきたというか、「正式文書ではないけど備忘録」と言って、この文書内容を事実上肯定してきました。この一言はアエラの言う通りに「ひと刺し」そのもので、恐らく年内でいろいろ終了でしょう。そして明日にはもう立候補者たちも動き出すことでしょう。
 それにしても「備忘録」とはいうものの、朝日が公開した備忘録全文(会員じゃないから冒頭だけしか見てないが)を見る限り、愛媛県は備忘録程度にもこれほど体裁の整った文書を作るのだなとなかなか感心します。会談時間が正確に記入されていることはもとより冒頭に至っては「報告・伺」と書いた上、「地域政策課」という作成部署名までしっかり入っています。自分なんかこんな体裁、会議議事録じゃないとまず使わいませんが、文書管理や保存はくっそいい加減なくせに作成だけはつくづく愛媛県は手が込んでいるようです。

 つうか今更裏切った分際に言うのもなんだが、隠蔽に加担していたことがある意味この文書によって証明されたことになるわけで、なるべくならあなたも自発的に早く辞めるべきだと知事には言いたいです。

 文書内容については他には通り一辺倒なことしか書けませんが敢えて一点だけ書くと、やはり獣医学部設置については不適格な申請理由、内容、準備から何度も審査に落ちていたものの、加計学園の鶴の一声で一気に設置認可が動き出したことがメモから推察されます。問題はそれが何故加計学園だったってことで、前にも書きましたが加計学園の系列大学の学部は全国どこでもほぼすべてFランクで、普通に考えれば大学法人として絶対に新設を認めてはならない運営者なはずです。それを考えると、認可の審査は歪この上なく、、普通に考えれば裏があると思わない方がおかしいでしょう。

 このほか敢えて違った目線で今回の報道について私の思ったことを書いてくと、恐らく朝日新聞は大分以前に当該文書を入手していたのではないかと思います。何故発表が今日になったのかというと、恐らくすでに認可を得て開学が決まっていた加計学園獣医学部に対し、最悪の混乱を避けるため無事に入学式を済ませた後にしようという配慮からだったのではないかと思います。だとすれば意外とやさしいとこあんじゃんってことになりますが、過程はどうあれ入学者のことを考えれば私もこの判断を支持します。
 もう一つ敢えてタイミングについて推論を述べると、他のメディアも同じ文書を手に入れていた、もしくは手に入れつつあったから先んじてこのタイミングになったのではないかとも見ています。第一報こそ朝日新聞でしたがメディアの反応を見ていると森友学園問題の改竄決裁書の時と比べると文書内容に触れる他のメディアの報道は早く、週刊文春に至っては、「明後日にはこの件でもっと詳しく報じる」と今日リリースを出してきました。まぁ文春はただの追っかけかもしれませんが。

 その上で、タイミングを考えると朝日新聞はまだもう一つ、大きなネタを持っているのではないかという気もします。こう考える理由としてはやはりというか愛媛県知事の反応で、昨年における最初の疑惑報道と比べるとこの文書に対する反応や態度が違うように見え、そしてなにより報道のあったその日にすぐ会見して内容を認めた点からです。動画は見ていませんが写真から見ても激しく動揺しているように見え、言ってしまえばこの文書に関しても「眉唾だ」と言い切って知らないふりする道もなくはないと思えるのに何故かあっさり、それもできるだけギリギリ直撃を交わすかのように「備忘録」として認めたのかがやや不自然に感じるからです。
 例えば、もっとクリティカルな証拠が握られていると考えれば、こういう態度にもなるかなと、はっきり言って勘ですが直感的に感じました。まぁだからこそ官邸も今回は、「怪文書」とは言わないんだと思うけど。

ワーストレディ・安倍昭恵は稀代の悪女か(プレジデント)

 続いてこっちは森友問題ですが、まぁ見事な見出しのつけ方です。プレジデントも普段批判してばっかですがこちらの記事は見出しだけでなく中身も面白くて文句のつけようがない記事です。

 少し真面目な話に戻ると、かつてこれほどまでに疑惑案件に満ち溢れた首相は少なくとも私は見たことがありません。田中角栄なんかはもっとあったのかもしれませんが、90年代以降で言えば間違いなくく安倍首相がトップです。しかもどの疑惑も「そんなの嘘だ、根拠なんてない、文書なんてない」と言っては後から証拠がボロボロ出てくる有様で、必死で調査しているという言い訳がさもしいにもほどがあります。
 中でも自衛隊の日報問題は座視できない問題で、この件は文民統制を現場がないがしろにした以外の何物でもない案件でしょう。誇張ではなく、この日報隠蔽に関わった自衛隊関係者は理由の如何を問わず全員追放するくらいの断固たる措置が絶対に必要だと私には思えますが、今の安倍政権からはそうした処分に臨もうという姿勢は全く感じられません。まぁ、自分のことで手一杯過ぎるのでしょうが。

 ある意味、今の安倍首相の疑惑の多さは、かつて「疑惑の総合商社」と呼ばれた鈴木宗男氏を超えているとすら覚えます。そして先にも書いた通りに何一つ疑惑が無実だということを安倍政権は否定できず、むしろ決裁文書の改竄など疑惑を隠すために余計に新たな疑惑を自ら再生産しだす始末で、「信なくば立たず」と言いますが、歴史にはこちらも主旨には賛同するものの今回の件でその運用に疑問を持たざるを得ない機密情報保護法案と合わせて「安部隠蔽内閣」と総括されるやもしれません。

2018年4月8日日曜日

現実を歪める人の3タイプ

 昨日書いた「昨今の表現規制」にてコメントをもらったので、「監獄学園」の最終巻には大幅加筆すると本誌で予告されていたのに実際ほとんど加筆はありませんでしたが、先の記事に関して私は加筆をしようかと思います。
 つうか「監獄学園」の件はページ飛びもあるし真面目に詐欺もいいところな気がする。俺も金返してもらおうかな。

 早速書いていきますが私は先の記事にて「血液を赤く描いてはならない」とするゲームにおける表現規制を例に取り、現実には赤いのにそれを否定する行為はもはや現実を否定する行為に等しいしこうした表現規制はむしろおかしいという主張を行いました。その上で現実は直視するべきものであり、現実をありのままに描こうとすることを否定もしくは妨害する行為はあってはならないし、この面での表現の自由は何人たりとも犯してはならないし、自分もこの件に関しては全力で抵抗するということを書きました。
 この記事について知人から、実際にこうした表現規制を行う人間の特徴として以下のようなコメントを受けました。

「規制したがる人たちは、自分達はキレイな世界に生きていると思いたいから、実際には存在しているが、汚いものを私たちに見せて、私たちの世界観を壊してほしくないという考えで、そういう考えを持っている人たちのエゴなのではないでしょうか?」

 基本的にこの知人の意見に関しては私も同意するのですが敢えてもう少し掘り下げると、表現規制する人(=現実を歪める人)はその特徴で分けると3タイプに分類できるのではないかと考えています。というわけで早速、実質的に私と敵対する立場の「現実を歪める人」の3タイプを順に説明してきます。

タイプ1、過度に反応、忖度して表現規制を強化、増加する人たち
 このタイプは主にマイノリティらに関する表現規制を作る人で、古いものだと「ちびくろサンボ」を廃刊に追い込んだ連中や、最近だと何故か「お父さん」、「お母さん」という言葉を使ってはならないと言い出した千葉市が当てはまります。
 この手の連中は規制する言葉や表現が差別につながると主張して使用を禁じようとしますが、むしろ彼らがそう主張するから差別用語とかになっているとしか思えません。それどころかこうした主張を援用するならより多くの言葉や表現が規制されかねず、いわば限度のない議論へと発展しかねないリスクもはらんでいます。そもそも、こうした連中が規制する言葉や表現が差別的かと言われればそうとは思えないものばかりです。

 ある意味、最初に挙げた赤い血液を描いてはならないとする連中もこのタイプに属すでしょう。この手のタイプはその表現が差別的だとか問題があるかを真剣に考える前に、「とりあえず当たり障りないよう批判が来そうなものは全部排除」的に過度に反応して決めていることが多いように見えます。私に言わせれば、現実を否定すること以上の差別はないとは思うのですが。

タイプ2、現実を直視したくない、対策を取りたくない人たち
 表現というよりかはこちらは実務面に近い話となります。でもって、知人が指摘した特徴はこのタイプに属すでしょう。
 まず大前提として、現実というのは基本的に見るに堪えないもので、直視すればするほど苦痛を催す物象であります(例:「アイドルはおしっこをしないわけがない」)。また厳しい現実を突きつけられ、その状況から脱するためには現実に即した対策を取る必要がありますが、基本的にそうした対策というのも身を切らざるを得ないものばかり、というかものしかなく、対策の実施によって失うものも少なくありません(例:リストラ、口封じ)。

 そうした厳しい現実と迫られる対策から逃れるためにはどうすればいいかとなると、現実から目をそらし、夢想の世界へ逃げることこそが一番安直な道であることに間違いありません。私が見るに日本人はこの手の現実逃避が非常に得意で、高齢化問題を初め厳しい現実があっても目をそらし、やるべき必要な対策もはっきりわかっていながら実行するのは大変だからと、簡単即座にすぐできるやってもやらなくてもいいようなどうでもいい対策を打って、「対策打ったからこれでもう大丈夫!」と精神の安定を図ります。
 最も偉そうに言う私もそうした思考や行動がないわけではなく、また日本人でなくても人類すべてが「現実から目をそらす」という行為を多かれ少なかれやってしまうものだと思います。日本の場合、エリートまでもがそれやってしまうのは問題だとは思いますが。

 以上の2つのタイプはどちらもその言動によって現実をゆがめる可能性のある人の特徴を説明していますが、はっきり言えばこの2つは現実を歪めるのは消極的な動機からなのでまだ救いがあります。
 特にタイプ2は人類の現実に対する弱さ的なもので、旧日本軍指導者のような集団を束ねるエリートがやってしまうのは大問題ですが、近くにいたらはっきり言って迷惑であるものの個々人でこうした言動を取ってしまうのはある程度仕方のないところがあります。第一、冷たい性格した人の表現として「現実的(リアリスト)な性格」というのですから、現実を追えば必然的に孤高となるのでしょう。

 一方、以下のタイプ3については別問題です。

タイプ3、自己利益拡大のためにわかっていながらわざと現実を歪める
 具体例としては出所不明の新ルールを作って流布するマナー教室、同様に明らかに合理性のない説明で何かを貶める記事を流布するメディアです。マナー教室については先にも書いた「了解という言葉は不敬」だとか、「ハンコは斜めになるよう押印する」、「訪問先で出されたコーヒーを飲んではならない」などと、コミュニケーションを阻害するようなそれまでになかった新ルールを出す連中で、後者のメディアは最近だとオフィス北野社員を偽装した上でその発言を報じたフジテレビです。あれも恐らく劇団員だろうな。

 このタイプ3は完全に自己利益の拡大のために敢えて現実とは一致しない情報を流布したり、表現規制を作ったりすることで注目を浴びようとするタイプです。このタイプは紛れもない悪であり、その言動のみならず存在自体が社会にとって有害であり、たとえどのような手段を取ってでも排除すべき対象だと私はみなしています。彼らがいることでそれまで誰も気にしなかった行動や発言がある日突然人を不愉快にさせる者になったり、もしくは誤った情報で批判される必要のない無辜の人や団体を批判に晒したりと、現実を歪める行為の結果として歪な事態を招きます。

 ここだけの話、最近私が係っている中国関連報道などもいい例でしょう。仮に私がそれこそ中国について見下す、馬鹿にする、あげつらう記事をなるべく理不尽且つ不合理な理由をつけて量産していたら、今頃は「中国報道の第一人者」と言われるくらいに売れっ子ライターになっていたかもしれません。まぁでっかく出ると「派遣マージン率の第一人者」であるという自覚は内心あるけど。
 しかし言うまでもなく、私はそうした報道を行えば収入も社会地位的も向上することが分かっていながら、そうした行為に手を染めてきたことはありません。何故なら理由のない批判や現実に即していない報道は巡り巡って自分にとってマイナスとなることが分かっているから、などと大層な理由を付けずとも、普通にそんなことする奴は頭がおかしいでしょう。けど現実のところ、「中国は崩壊する」とノストラダムスのように毎年本出しているライターがいて、売れっ子となっているのは事実です。

 しかしそれこそ前述の通りに自らの精神安定のために現実を歪めて見ているだけに過ぎません。第一、敵を侮らせるほどの利敵行為はなく、現実から遠ざかれば遠ざかるほど単純に弱くなります。そうした概念もあってか、私がJBpressで書く記事は「如何に現実を見せるか」に重点を置いていつも書いています。

 多少脱線しましたが、自己利益のために現実を歪める、ましてや表現を規制するような輩はたとえどのような理由があろうとも私の敵以外ほかならず、決して同じ天は戴けないと考えています。そしてあくまで私の立場から言えば、こうした連中は本当にどうしようもなく足を引っ張る存在であり、なるべくなら社会から排除した上で見せしめもかねて徹底的に攻撃するべき対象でもあると主張させてもらいます。
 その上で、これも先に書きましたが現実を直視するということは基本、苦痛を伴います。見なければ済む現実であれば正直、見ないに越したことはありません。しかし「見なければならない現実」に関しては、たとえどれだけ苦痛を感じようとも見る必要があります。というのも、目をそらしても一瞬だけ苦痛から逃れるだけで、あとでもっと大きな苦痛に襲われることになるだけだからです。

 さらに書くと、現実というのは見ようと思ってもなかなか見れるものではなく、死ぬ気で追いかけて初めてその一端が見れるものだと私は思っています。自分はライターという立場……っていうか本業記者じゃないですが、芸術家などはやはりそうした現実をどれだけ直視したかが作品に現れるようにも感じ、自分も可能な限り自分が見た現実を文章に反映させようとする立場を取っています。

2018年4月7日土曜日

昨今の表現規制について

名越稔洋が選んだ修羅の道【若ゲのいたり】(電ファミニコゲーマー)

 上記リンク先は先日にも引用したページですが、同業者からも「なんだこのヤクザは!?」と言われたこともあるセガのゲームクリエイター、名越稔弘氏がヤクザが主役のゲームを出す際、倫理管理団体から難癖をつけられたエピソードが描かれています。その難癖というのもキャラクターが赤い血を吹いて倒れるのはNGだというもので、人間以外なら赤い血でも問題がないと言うので、「じゃあピ〇チュウだったらいいのかよ!」と凄んで無理矢理通したという過程が紹介されています。

 あまりこのブログで表に出すことはないですが、実は私自身も表現の自由に関しては非常にうるさいというか、「たとえすべてを敵に回してでも表現の自由は守る」という立場を取っています。たまにこのブログでも内容には言及せずどうでもいいような枝葉末節な表現に「不適切だ」という輩がいますが、割とコメントでは優しく返信しているものの内心では、「うるせぇだったら人のブログ読んでんじゃねぇよ!」と吠えてます。ブログなら何でも書いてもいいというわけではありませんが、公のメディアでもない私記に対し、しょうもない表現についてガタガタ言われるのは壁に頭突きするくらい実は腹立ってます。
 もう誰もが忘れていると思いますがこのブログの設立当初の大きなテーマはまさにこうした表現の自由で、90年代に巻き起こった「言葉狩り」、「ちびくろサンボ問題」などをよく取り上げていました。現在においても主にマナー会社が言葉狩りをやり始めており、「了解しました」は不敬な言葉だなどと誤説を流布している点など腹に据えかねています。何やってもいいってんなら金属バット持ってこういう言葉狩りに加担するマナー会社にたけし軍団のように襲撃をかけたいとすら本気で思っています。自由の身になったらいつかやろう。

 話は戻りますが、先ほどの「赤い血」という表現について実はつい最近も思うところがありました。というのも「ニューダンガンロンパV3」というゲームをこの前クリアしましたが、このゲームは閉鎖空間で高校生同士が殺し合いをやって、事件ごとに犯人と殺害過程を推理、追跡するゲームです。そんな内容なんだからもちろん死体はダース単位で出てきますが、血液は赤ではなくピンク、それも蛍光カラーのようなショッキングピンクで表現されています。
 恐らくゲームの倫理管理を担当するCEROの指示を受け、また対象年齢を広げるための措置だとは思うのですが、私としては逆にこれはこれで問題なように思えてなりません。何故かというと、先ほどの名越氏の漫画にも描かれているように人間に流れる血液の色は赤以外なく(ナメック星人は除く)、それを別の色で表現することは現実を否定していることではないかと思うからです。

 先ほどのダンガンロンパの例でいうと、作中でもそのピンク色した液体ははっきりと血痕だと明示されています。しかしピンク色した人間の血液なんて存在することなく、また流血という描写でありながら現実そのままに描かない理由というのはなんなのか。赤という色が刺激が強いというのであれば、赤い郵便ポストはどうなのかという話にもなります。

 これ以上ロジックをかき回してもしょうがないので言いたいことを言いますが、現実の通りに描くことがアウトだというのは、自分は絶対に認められません。現実をそのまま描いてはならないというのは現実逃避と変わらず、また現実を直視する姿勢をなくしては人間ははっきりダメになると私は直感的に思います。
 私自身の表現もよくきついと周りから言われますが、「でも現実を書いている。自分が殺したいと思う人間については、実行するとなると別だが、殺したいと書いて何が問題だ」と、自分の現実にある感情を描いていることを理由に主張を展開しています。

 こと、ゲームや漫画といったメディアに関しては確かに残虐表現への年齢に関するゾーニングは必要であると私も考えています。しかし「現実であるはずの表現を別のものに差し替える」というのは話は違い、それは絶対に認めてはならないと私は考えます。理由は何度も書いている通り、現実をそのまま描くことを否定しては逆に物事がいろいろおかしくなってしまうからで、ここは譲ってはならない点だと思えてなりません。
 第一、現実ではなくファンタジーだったらオーケーだというのもおかしいにもほどがあります。先ほどのピカチュウが赤い血を吹くという表現がオーケーなのに人間が赤い血を流してはダメだなんて、これだと逆の意味で倫理がおかしいでしょう。

 残虐表現とは離れますが、日常の光景に関する表現についても同様です。よく漫画とかの街中の光景で誰がどう見たって全国居酒屋チェーンとか某有名銀行の看板が書かれていながら、店名が微妙に弄られ変えられていることが多いですが、これもやっぱおかしいと私は思います。街の光景、それこそ多くの人間が連想できるほど日常的な物であれば、それをそのまま描いて何の問題があるのだと逆に問いたいです。
 もっとも、作中で激しくけなされたり非常に悪く描かれるというのであればさすがに別で、そういう場合は架空の表現を取るべきかとは思います。具体的にはスト2のボーナスゲームでボコボコに壊される車がトヨタとか日産のエンブレムついてたらさすがに関係者は気分悪いだろうし。

 一方的に書き殴りましたが私が言いたいことを述べると、現実をそのまま描くことを阻害することは現実否定もいいところで、そんなことはしてはならないということです。むしろ芸術的な立場で言えば私は現実を如何にそのありのままに描くかにこそ価値が宿るという立場を取る者で、妙な美辞麗句や見栄えだけのいい世界なんて求めていません。以上の主張は絶対的に正しいというつもりはありませんが、現実を直視する、厳しい現実から目を背けてはならないという私個人が立脚する立場から言えば現実を描く表現の阻害はたとえ相手が誰であろうとなんであろうと抵抗し、敵対することも厭わない立場となります。

2018年4月6日金曜日

フェイスブックの不都合な事実

 書いても書かなくてもいいのでしょうけどちょうど今、情報流出で叩かれている最中だし、この事実を知らない人も多いでしょうから親切心から書こうかと思います。

 事の起こりは数年前、日本にいる友人から妙なメールを受け取ったことからでした。そのメールの内容というのも、「Facebookから連絡あったけど、何故か返信ができなかったからこっちのメールアドレスにメール送ってみたんやけど」という物でした。しかしこのメールにはいろいろとおかしな点があり、というのも、当時私は既にフェイスブックを退会していたからです

 私は上の友人の勧めでフェイスブックを一回は初めて見たものの、中国からはVPN使わないとアクセスできないし、そもそもブログでいつも情報を発信してるし、何よりUIの悪さから使い勝手が悪くて一ヶ月くらいしてすぐに退会しました。それから数年経って上記の友人からの妙なメールを付け取ったのとほぼ同時期に、フェイスブックの運営側から「不正アクセスの恐れがあります」とかいうメールが届いていました。
 ちょうどそのころ、スカイプを始め複数のサービスで不正アクセスの検出が通知されており、私のIDとパスワードの組み合わせのどれかが流出していたようでした。ある組み合わせに関してはそのような不正検出通知が全くなかったことから流出したのはどれか一組、なおかつ私個人というよりも運営者側から流出した可能性が高かったのですが、何となくニコ動だったのではないかと密かに睨んでいます。まぁ証拠はないんですけど、ここだけなんか対応が奇妙だったし。

 話は戻りますが、その流出したIDとパスワードは退会していたフェイスブックでも使っていたものでした。まどろっこしいのでストレートに書くと、フェイスブックは退会した私のアカウントデータを削除せずに保存し続け、不正流出で私のIDとパスワードを得た犯罪者がアカウントを復帰させ、私の友人に妙な通知か連絡を行ったと考えられます。幸い、アクセス方法などから不正の可能性が高いと判断したフェイスブックによってすぐにアカウントは凍結させられ、あらかじめ登録しておいた私のメールアドレスへ検出を通知し、本人証明のために何か証明書データを送るようにと連絡してきたので大事とはなりませんでした。アカウントの凍結は友人が返信できなかったことからも証明できますが、逆を言えば凍結されていなかったらどうなっていたことやらってことです。
 その後私は、免許証の画像データで本人証明をフェイスブック運営に行い、「退会したのにデータを残してんじゃねぇ。完全に消しとくように」と連絡しましたが、果たしてきちんと実行されたのかは未知数です。その後はなんも関わりないし。
 なお私の場合、確かフェイスブックに登録していた友人のアカウントは3人か4人程度と非常に少なく、個人情報も驚くくらい入力しておかなかったので被害や影響もほとんどありませんでしたが、他の人だったらどうなのかなって内心思いました。

 何が言いたいのかというと、フェイスブックは退会しても運営側は入力済みの情報を保持し続けるということです。そしてそれらの情報は、不正アクセスされた際に流出する可能性もあるということです
 つまり一旦フェイスブックに関わってしまえば最後、本人がその関係を断つというか入力済みの情報をフェイスブックから削除しようにも削除されず、未来永劫不正流出のリスクが付きまとうという可能性があるというわけです。

 もちろん上記の私のケースに関しては、今現在はもしかしたら管理方法とかも変わっているのかもしれませんが、多分あの会社のことだから退会者のデータも保持し続けようとするんじゃないかと思います。そう思うと、なかなか業の深い会社です。現実に私は退会していたのに不正アクセスが行われたわけですし、真面目になんか補償とか受けてもいいような気すらします。

 最近忘れられる権利に関する議論も出てきていますが(一時期より下火だが)、こうしたアカウント関連情報に関しては退会時に必ず削除するような規定なりルールを設けるべきだと思います。なんか一連のフェイスブック騒動を見ていてもこうした点に言及されないので、私が書くことにしました。

2018年4月5日木曜日

本当に土俵から降りるべきなのは

八角理事長、女性へのお礼と謝罪を行う意向…尾車事業部長明かす(スポーツ報知)

 例の、先日の土俵で救護したら「女は土俵から降りろ」と言われた事件についてですが、まぁ激しく疑問を覚える事件内容です。人命救助よりも「女性は土俵に上がってはならない」という、実は伝統でもなんでもない妙な迷信を優先したというこの事実一つでも相撲協会は頭がおかしいと言い切れますが、私はこの事件を見て、見出しにも掲げた通りに本当に土俵から降りる、つまり相撲界から追放されるべきはアナウンスをしたという行事だと思います。

女相撲
女子相撲(Wikipedia)

 そもそも女は土俵に上がってはならないとか言いますが、実際には頻繁に上がっているし、相撲も取っています。女子相撲は正式なスポーツ競技として世界大会も開かれているし、女相撲に至っては江戸時代から行われており、こうした事実を勘案すると女性が土俵に上がってはならないという概念は伝統でもなんでもないし、もはや迷信以外の何物でもないと言い切れます。そもそも、人命救助においては伝統もクソもありません。

 それにしても女相撲の説明は今回初めて見ましたが、『しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる。』などと書かれてあり、結構昔の人もセンスあるなと思いました。