ページ

2008年1月24日木曜日

英語における「自由」

 前回に続いて言葉の話です。なんでこんなのばっかやってるんだろう……。

 さてこの前は宣教師が「愛」という言葉の意味を変えたと書きましたが、今日は「自由」という言葉について考えてみます。早速この自由という言葉を自分の持っている電子辞書で英訳を見てみましたが、主なもので三つ、「free」、「independent」、「liberal」の三系統に大別されます。これをみて、結構不思議に思いませんか? 日本語の自由という言葉を英語圏、というより欧米では三種類も分けています。

 私は昨日も書いたように別に言語学をやっているわけじゃないので詳しくはわかりませんが、イメージ的には「free」は「自由に選択できる状態」、「independent」は「何にも依存していない状態」、「liberal」は「何の束縛もない状態」という風に感じています。

 自分から見て欧米人はやはり、自由に対する意識は高いと思います。これは以前に友人から聞いた話ですが、日本はアメリカのマッカーサーから自由をただでもらった国だから、革命を起こしたフランスや、学生運動で独裁を倒した韓国と比べて自由を守るという意識が希薄なんじゃないかと言われましたが、まさにそのとおりだと思います。ですから逆に、欧米の概念を理解する際、自由には数種類の意味が付与されているという事を念頭におかないと、連中の思想や価値観を読み違えるのではないかとも思います。

 私がわずかに知っている欧米の自由の概念ですが、大きく大別すると二種類あり、「積極的自由論」と「消極的自由論」と分かれているようです。前者は、人間は自らの理性に従って生きる事が正しいのだから、自由な理性を阻む社会上のあらゆる束縛や概念から逃れていなければならないという考え方で、後者は人間を束縛するものがまずあり、それから初めて対極概念として自由が生まれるという考え方です。
 この話を聞いて私が思い出したのはフランスの教育制度です。フランスでは以前、宗教的な影響を与えてはいけないということで、教師も生徒も含めて学校にイスラム教の女性が被るスカーフを被ってはならないという法律が出てあれこれもめましたが、これはさきほどの「積極的自由論」に従った、教育段階で概念の押し付けをやってはならないという考え方からきたのではないかと思いました。

 結論から言えば、概念を徹底的に排除する事は出来ないと思うし、果たしてそれが本当に人間が正しく生きる方法とは思えないので、日本人らしく私は「消極的自由論」を推します。
 なお、今回の話のネタは間宮陽介氏の本、「ケインズとハイエク」からもってきています。興味があれば一読をするのもいいかもしれません。あまりにも難しくて私は途中で投げましたが……この間宮さんは遠目に見かけたこともあるのにな。

2008年1月23日水曜日

愛という言葉について

 いきなり臭いタイトルですが、自分はこの「愛」という言葉にある由来があるのではないかと思っていました。自分は高校時代は完璧な古語マニアで、あれこれ自分でも漢文やら古語を見ていましたが、どうも見ていると古語の中の「愛」というのは「愛い」(うい)という形で、現代の「可愛い」という意味で使われている事に気がつきました。で、現代の「愛」の意味に近いのはどちらかと言うと「恋」の漢字で、まぁわかるでしょうけど、現代では「恋愛」といってセットで使われますがその感情の比重は昔と逆転し、「恋」はどちらかというと若い時分の幼い感情みたいな意味で、「愛」は大人な成熟した感情みたいな感じで使われています。

 一体、いつ頃にこのような変化が起こったのだろうか、ある日突然考えた(昔あったな、こんな歌詞)。そこで、ある一つの仮説が出てきました。もしかしら、キリスト教が変えたのかもしれないと。

 言わずもがなにキリスト教は室町時代後半にやってきて、結構当時の文献とかでもこのキリスト教の「愛」という概念がよく出てきます。自分が考えるに恐らく、キリスト教の宣教師達は男女間が惹かれあう感情とは別な意味の、いわゆる隣人愛を説くために、この「愛」という文字を使って布教活動をしたのではないでしょうか。このあたりから「愛」の比重が高まり、いつのまにか「恋」を追い抜いてしまったのではないかと思います。

 とまぁこんな風に想像してたら、さっきウィキペディアを見たらどうもそれに近いことかいてあって、ますます自信がついて調子乗って今日のネタにしました。ちなみに、直江兼続はとリビアの泉でもやってましたが、領民を愛するという意味で、「愛」の文字をかたどった兜を被ってたようです。

 ちなみに、外来語と日本語の関係は結構複雑で、いくつかの概念についてはきちんと西洋の概念を日本語化できていない例もあります。今度はその代表格とも言うべき、「自由」をちょっと解説します。

2008年1月22日火曜日

日本語の「懐かしい」の価値

 今日からブログの自己紹介欄を、「専門は国際政治」から「専門は国際政治と中国語」に変えました。別に外語大は出ていないけどね。
 そんなわけで中国語ネタも一発かましておこうかと思い、この「懐かしい」を取り上げます。

 実はこれは自分のエピソードですが、中国語で「あ、この番組懐かしいっ」って言おうとした時、言葉が出てきませんでした。普通、懐かしいってよく使う言葉なんだからなんで自分って知らないんだろうと思いつつ、辞書で「懐かしい」をひいたところ、「懐念(フォワイニエン)」という文字が出てきました。他の候補はないかとみましたが、どうもこれだけのようです。最初これを見たとき、ちょっと自分はおかしいなと思いました。何故かと言うと、非常に堅い表現で、実生活上でこの言葉を中国人から聞いた事がなかったからです。そこで、日本語の出来る中国人の友人に改めて聞いてみたところ、面白い回答が帰ってきました。
「日本語の懐かしいにあたるのはあえて言うなら懐念だけど、実際はないと思う。日本語はとにもかくにも感情に関する言葉が多すぎる」
 と、いうように、厳密にいえば中国語で「懐かしい」にあたる単語はないそうです。
 考えてみると、英語にもないような気がします。強いてあげるなら、「remindable」といって、「思い出させる、想起させる」という言葉しかなく、どうも日本語の「懐かしい」にマッチする言葉は見当たりません。

 この「懐かしい」は恐らく、「懐く」という「心引かれる、おもしろい」というような意味の古語からきていると思います。そうするとかなり前から日本人が使っている言葉になるのですが、この「懐かしい」という言葉を改めて考えてみると、日本人はやけに「懐かしい」ものが大好きな気もしないでもありません。
 最近ヒットした「ALWAIYS 三丁目の夕日」とか、今度やる「母べえ」(間に「げえ」は入らないのかな)もこの部類ですし、アニメ作品にも多数懐かしさを呼び起こす映画が大ヒットしています。代表的のは、クレヨンしんちゃんの映画版「モーレツ大人帝国の逆襲」でしょう。「MEMORYS」もこれに当るかな。

 どうも、自分はこの「懐かしい」という表現は日本人の感性を代表するのではないかとも思っています。まぁ自分がそう思うのは、未来がお先真っ暗な時代に生きているせいかもしれませんけど。書き終わってからなんだけど、あまり中国語は関係ないね。

楠正成の評価の転換

 楠正成と言うと、戦前は尽忠報国の士として道徳(当時は修身だっけ?)の教科書でも何度も取り上げられた武将です。しかし戦後になると、非常に不幸な事にその扱いが変わってしまいました。これは非常に惜しい事だと思いますので、簡単に彼の事を解説します。

 まず、楠正成は河内出身の悪党、まぁ大阪のヤンキーみたいな輩だったらしいですが、後醍醐天皇に付き従い、鎌幕府倉崩壊期から建武期に至る中世時代に大活躍した武将です。彼の戦術を一言で言うと、非常にトリッキーなゲリラ戦をよくすることです。関西地方の千早城や笠置山城の篭城戦においてはお湯を敵にかけ回ったり、あぶないと思うやすぐに逃げるなど、チェ・ゲパラみたいな戦い方をしていました。
 その後、鎌倉幕府が倒れて建武期に入り、最終的には足利尊氏との湊川の戦で敗死しますが、楠正成について敵方の尊氏も常に尊敬の念を持っていたというようです。
 実はこの戦い、確か新田義貞は二万くらいの兵隊を指揮したらしいですが、正成はわずか八百ほどの兵しか指揮していなかったらしいです。何故こんなにも差があるのかと言うと、当時はまだ身分の差が強く、悪党出身の正成にはそれほど兵が分配されなかった、もしくは旗下に集まらなかったらしいです。逆を言えば、この時正成が数万の兵隊を率いていたらどうなっていたか、なかなか面白いです。

 とまぁこんな出自ですから、自分でもさっき大阪のヤンキーみたいなといっておきながらなんですが、結構ダーティなイメージが強い人です。しかし実際は非常に礼儀正しく、先ほどの湊川の戦でも、敗北する事がわかっていながら後醍醐天皇の忠誠のために出陣したというほど勇ましい人物のようだったらしいです。そして軍人かと思いきや、政治や戦略面についても非常に明るかったというエピソードも数多くあります。その中で紹介したいのは、足利尊氏が反旗を翻したものの京都から追い払われ、さてこれからどう追撃するかという後醍醐天皇側の軍議の最中に正成は、
「まず新田義貞の首を取り、その首を持って尊氏に和議を申し込まねばなりません」
 と、味方である新田義貞も同席している前でこんな事をいきなり言い出したらしいです。義貞もこんなこといわれりゃびびるよなぁ。
 正成は尊氏の反乱は個人の野心というよりも、自分と同じく不満をもった武士たちに無理やり担ぎ出されただけに過ぎなく、天皇への忠誠は今だ強いと見ていたそうです。実際に尊氏の行動を見ていると、最初に反乱を起こした際は弟の直義が勝手におっぱじめたが、本人は最初は黙って黙認しており、後醍醐天皇が負けた後に吉野へ逃亡した際は追撃を出していないので、この読みは私も正しいと思います。

 このように非常にバランスが取れ、名実共に名将に相応しいのですが、やはり戦前の教育に用いられた背景から、戦後の現代に至るまであまり教育現場では扱われていないような気がします。しょうがないといえばしょうがないのですが、これに付随して、どうも私から見てこの時期の歴史的検証は少ない気がします。太平記などを読めばわかりますが、この時代はこの時代で結構面白いのですが、どうもあまり取り上げられないというか、もったいないというか。この正成以外にも、北畠顕家や赤松則祐など、面白い武将がたくさんいるのに……。

織田信長の歴史的評価の転換

 たしかカントあたりでしたと思いますが、理性や伝統などよりも歴史がもっとも正しい判断を下すというような事をいったのは。私などは歴史といわず、「時代」といって、要するに時代に迎合するのがもっとも正しい生き方みたいなことを周りに話し、「自分はジェダイの騎士になるんだ」などと、話をとんでもない方向へとよく持っていきます。
 しかし歴史学を専門にやっている人ならわかるでしょうが、歴史的評価というのもしばしば時代によって変わる事があります。ちょっと歴史の投稿が少ないので、補充分とばかりにこの手のシリーズをちょっと書いときます。

 日本において歴史的評価の転換が起こったのはいうまでもなく戦後の転換期です。それまでは皇国史観とも言うべき、天皇を中心とした歴史的分析が主だったのが戦後、それぞれの時代ごとに評価が行われるようになりました。その中で最もとはいえませんが、案外大きく評価が変わったのが織田信長だと私は思っています。
 現代でこそ時代の変革者、天下統一の礎を築いた武将として評価の高い信長ですが、私が聞く限り戦前はどうもそうじゃなかったようです。天下統一を成し遂げたのはやはり秀吉で、信長はその秀吉を雇っていた軍閥の主みたいな評価だったと、時々聞きます。それで信長の評価はと言うと、実は当時に天皇を保護した尊王の武将として評価されていたようです。

 少なくとも尊王の武将と言う事実には間違いはありません。応仁の乱以後、天皇家もえらく貧乏な生活を余儀なくされて、なんでも路上で自分で読んだ和歌を部下に売らせて生計を立てていたくらいらしいです。その後信長が京都に入場した後は天皇家を非常に援助し、それが評価されて皇族にしか拝領が許されなかった香木の「蘭奢待」(漢字あっているかな?)も信長に下賜されています。
 そのような意味合いから先ほどの評価につながったのだと思いますが、現代の目からすると非常に面白い評価だと思います。なお、実際には信長は天皇家を取り潰す……までも行かなくとも、京都から居城の安土へと連れて来て、どうにかするつもりだったらしいです。自分も安土城跡へ行き、天皇を引き込む屋敷跡を見てきました。
 そういう風な意味合いで見ると、この戦前の評価は非常に皮肉な評価だと思います。次回は最も評価が変わった楠正成をやります。

2008年1月21日月曜日

若い人に知ってもらいたい「西山事件」

 去年の11月くらいに少し報じられましたが、この毎日新聞社を倒産寸前にまで追い込んだこの「西山事件」は、自分と同年代の20代くらいの若者には知ってもらいたい事件です。
 詳しい内容は「http://ja.wikipedia.org/wiki/西山事件」で見てくれればいいですが、この事件がきっかけで日本のマスコミはその報道姿勢が大きく変わったとも言います。

 簡単に内容を説明すると、佐藤内閣の終盤、沖縄返還時にアメリカ軍基地として使っていた用地も一部返還される事になりました。そしてその返還の際には元のさら地に復元して返還するとのことで、その費用はアメリカが負うと公式に発表されたにも関わらず、実際は迂回献金のように日本側がその費用を肩代わりしていたのです。なお、この事実は去年の11月、アメリカ公文書館にてその際の外交文書が公開されて名実共に実証され、アメリカ側も認めている事実ですが、日本の政府、外務省は未だに認めていません。当時の外務省責任者まで認めているのにね。

 この肩代わりについては前々から噂されていたのですが、毎日新聞の記者がこの事実を示す外交文書を入手して報道したのですが、その報道の過程で情報提供者がわかってしまった……というよりは、ばれてしまったといいますかね、その情報提供者の外務省職員が解職に追い込まれたり、プライバシーやらなんやらがあれこれ公開されてしまい、総スカンを食らった毎日新聞も困ってしまったというのがこの事件の顛末です。
 ウィキペディアでもかかれているように、この事件はアメリカの「ディープスロート事件」とよく比較されます。まぁ詳しい解説は向こうにやってもらいます。

 自分がこの事件を知ったのは文芸春秋で山崎豊子が「運命の人」という、この事件を元にした小説を連載していたのを見たことからです。調べてみると、山崎豊子は毎日新聞に勤務していた時期があったようなので、だから書いたのかもしれません。

キャノン、御手洗会長の報道について

 なかなか表に出てこない情報なので、ここで広報を兼ねて今回は解説します。

 ここ最近のNHKの報道によると、国の公社の建設工事に際し、現経団連会長でありキャノンの御手洗富士夫会長が講じの責任者に、随意契約で鹿島建設に落札させるように迫ったとのことです。この情報を最初に入手したのは確か12月の前半でしたが、今日の夕方七時のニュースでも再びNHKが報じました。この間、ほかの民法各社はきれいにスルーをしています。

 さてこの御手洗富士夫、以前にキャノンの社員とも会って話を聞きましたが、「見ると聞くとじゃ大違い」との評価でした。先に言っておくと、この会長は私の中で今一番社会から排除させたい人間NO.1です。
 その理由はと言うと、なによりもその言行不一致にあります。今、ウィキペディアで見てもみたけど、えらく点線の多い記事で、多分あれこれ修正合戦やっているのかもしれない。まぁ彼についてはその他のホームページでもあれこれ特集が組まれているから、ほかで概略を見たほうがいいかもしれない。
 それでその言行不一致ですが、外には「キャノンやトヨタは終身雇用を守っている」とか、「社員は家族だ、アメリカの企業と日本企業は違うんだ」などといっていますが、彼が会長に就任してから独身社員寮とか廃止しています。そして何より非難すべきなのは、意外と立派な日本語化した「偽装請負」をやっていた事です。
 偽装請負の中身についてはほかで見てください。まぁ派遣以下で労働者を買い叩いているということです。その会長の発言と違い、私に言わせればキャノンはアメリカの企業以上にアメリカナイズされた企業でしょう。彼はアメリカに駐在経験があり、その時にロックフェラー財閥とかに日本企業を骨抜きにしろとの指令を受けたとの、冗談とも取れない噂すらあります。確かに、現状で公開株式の過半数は外国人投資家の手にあるので、本当っぽいけど。

 そこで本題に戻り、今回報道された内容です。現在キャノンは報道各社に対して、ものすごい宣伝費を払っており、キャノンを批判しようものならば一気にその広告費がひきあがる事が予想され、NHKのみが今回の越権行為ともいう汚職事件を報道しています。よくNHKはあちこちで、特に最近はカッパクリエイトの話で叩かれていますが、やはり一番しっかりしたマスコミというのならここでしょう。今回も花まる級の報道です。

 ここで少し脱線しますが、これも以前から書かなければいけないと考えていた内容なのでついでにやっときます。
 実はこれ以前にキャノンを批判した会社がありました。朝日新聞です。2006年7月にキャノン、松下の偽装請負の実態を真っ先に報道したのはこの朝日新聞でした。その後しばらく私はテレビや雑誌、他の新聞などを気合をいれてチェックしていましたが、どこもこの報道に続きませんでした。NHKが「ワーキングプア」の報道を始めてからは流石に社会で一般化したのもあり、他のメディアも現在のように扱うようにはなりましたが。
 この朝日新聞の報道は、非常に誉められる報道でした。しかしその代償は大きく、その後キャノン、松下は仕返しとばかりに朝日新聞から一切の広告を引き上げ、しばらく経営で苦しんだそうです。こうなる事は予想できたにも関わらず、自腹を切るようなこの報道は天晴れとしか言いようがないでしょう。

 ちなみにこの話には続きがあり、当時、かなり2ちゃんねるにどっぷりはまっていた後輩が、その影響から朝日新聞を批判しだしたので、「お前はこの偽装請負の報道を知っているか?」と聞いたら案の定、知りませんでした。
 続いて叱るのも兼ねてこういいました。

「お前は朝日新聞が問題だというが、朝日の問題だといわれる部分にしか目をやらず、本来評価するべきところは全く見ていないんじゃないか。俺にはお前は朝日の悪いところを必死に探そうとしているようにしか見えない」

 これは同様に2ちゃんねるの言論についてもいえます。まぁ私も朝日は大嫌いですが、一面を持って全体を評価するような事をすれば、自らを貶めるだけなのでやりません。中にはいい報道もあるので、叩いてばかりじゃなくこの偽装請負の報道くらいは2ちゃんねるの人も朝日の記者を誉めてやって欲しいです。