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2008年1月22日火曜日

楠正成の評価の転換

 楠正成と言うと、戦前は尽忠報国の士として道徳(当時は修身だっけ?)の教科書でも何度も取り上げられた武将です。しかし戦後になると、非常に不幸な事にその扱いが変わってしまいました。これは非常に惜しい事だと思いますので、簡単に彼の事を解説します。

 まず、楠正成は河内出身の悪党、まぁ大阪のヤンキーみたいな輩だったらしいですが、後醍醐天皇に付き従い、鎌幕府倉崩壊期から建武期に至る中世時代に大活躍した武将です。彼の戦術を一言で言うと、非常にトリッキーなゲリラ戦をよくすることです。関西地方の千早城や笠置山城の篭城戦においてはお湯を敵にかけ回ったり、あぶないと思うやすぐに逃げるなど、チェ・ゲパラみたいな戦い方をしていました。
 その後、鎌倉幕府が倒れて建武期に入り、最終的には足利尊氏との湊川の戦で敗死しますが、楠正成について敵方の尊氏も常に尊敬の念を持っていたというようです。
 実はこの戦い、確か新田義貞は二万くらいの兵隊を指揮したらしいですが、正成はわずか八百ほどの兵しか指揮していなかったらしいです。何故こんなにも差があるのかと言うと、当時はまだ身分の差が強く、悪党出身の正成にはそれほど兵が分配されなかった、もしくは旗下に集まらなかったらしいです。逆を言えば、この時正成が数万の兵隊を率いていたらどうなっていたか、なかなか面白いです。

 とまぁこんな出自ですから、自分でもさっき大阪のヤンキーみたいなといっておきながらなんですが、結構ダーティなイメージが強い人です。しかし実際は非常に礼儀正しく、先ほどの湊川の戦でも、敗北する事がわかっていながら後醍醐天皇の忠誠のために出陣したというほど勇ましい人物のようだったらしいです。そして軍人かと思いきや、政治や戦略面についても非常に明るかったというエピソードも数多くあります。その中で紹介したいのは、足利尊氏が反旗を翻したものの京都から追い払われ、さてこれからどう追撃するかという後醍醐天皇側の軍議の最中に正成は、
「まず新田義貞の首を取り、その首を持って尊氏に和議を申し込まねばなりません」
 と、味方である新田義貞も同席している前でこんな事をいきなり言い出したらしいです。義貞もこんなこといわれりゃびびるよなぁ。
 正成は尊氏の反乱は個人の野心というよりも、自分と同じく不満をもった武士たちに無理やり担ぎ出されただけに過ぎなく、天皇への忠誠は今だ強いと見ていたそうです。実際に尊氏の行動を見ていると、最初に反乱を起こした際は弟の直義が勝手におっぱじめたが、本人は最初は黙って黙認しており、後醍醐天皇が負けた後に吉野へ逃亡した際は追撃を出していないので、この読みは私も正しいと思います。

 このように非常にバランスが取れ、名実共に名将に相応しいのですが、やはり戦前の教育に用いられた背景から、戦後の現代に至るまであまり教育現場では扱われていないような気がします。しょうがないといえばしょうがないのですが、これに付随して、どうも私から見てこの時期の歴史的検証は少ない気がします。太平記などを読めばわかりますが、この時代はこの時代で結構面白いのですが、どうもあまり取り上げられないというか、もったいないというか。この正成以外にも、北畠顕家や赤松則祐など、面白い武将がたくさんいるのに……。

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