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2008年6月2日月曜日

東シナ海ガス田問題における日中の駆け引き

 今日のネタは久々にレア度の高い内容です。レア度と言えば、今ゲームでモンスターハンターやってて、やっと飛竜のリオレウスを倒せてレア度の高いアイテムを奪い取りました。

 そんなどうでもいいことはさておき、この東シナ海ガスでン問題とくればまず一般で言われている内容はというと、
「日中の国境線にまたがる海底ガス田に対して、中国は国際的に認知されている日中の国境線とは別に自らが定義した中国側に有利な国境線の範囲内にあるとして、このガス田の所有権は中国にあると主張している。そして実力行使とばかりにこのガス田の上に開発プラントを作り、現在すでにそのプラントは稼動し、採掘を始めている。なお、自らが定義した国境線とは名ばかりに、実際にそのプラントはこれまでの日中国境線ギリギリの中国側の領海に建てられたことから、実際には多少遠慮しているようである」

 といった所でしょうかね。短く現状を説明したらこうなるかな。
 さてそんな具合で日本のメディア、というより大新聞で唯一中国にやさしくない産経新聞系列などはこの中国の行為を「国際ルールから逸脱した行為」、「日本の資源を盗み取っている」などと報道されており、中には日本側も対抗して、向こうのプラントの真正面に別にプラントを建ててやれという声もあります。
 確かに、状況が状況ならこういった意見に私も賛同していたと思います。しかし2004年の段階で、このガス田問題についてある情報を入手して以降、他とは違った意見を私は持っております。

 まずその情報の内容ですが、ある中国の専門家からこのガス田について、
「実は東シナ海のガス田というのは言われるほど埋蔵量は多くないらしい。日本の高い技術を以ってしてもよくてコストと利益がトントンくらい。まして技術力のない中国ではコストの方が上回る」
 という内容でした。私が確認する限り、この情報はあまり世の中に出回っていない気がします。それゆえ、情報管理の初歩ともいえる「別情報源からの確認」がなかなか行えないでいたのですが、ある日思わぬところから情報を入手できました。この情報の出所は「国家の品格」で有名な藤原正彦氏が、確か雑誌のインタビューで語っていた内容でしたが、
「すでに日本政府は日本の石油会社にこのガス田を調査させており、埋蔵量は多くないということがわかっている。だからあんなもの、中国に勝手に掘らせればいいんだ」
 と、述べていました。先ほどの専門家の方も、「石油会社が調査した」と述べており、見事に情報が一致して、またどこかは忘れましたが、この二つとは別の情報源からも確認が取れ、現段階で私はこの情報を信じています。

 信じる理由はなにも情報源が分かれているだけでなく、そうと取れる状況もあるからです。というのも最初の専門家の方が、
「……なので、日本側がこのガス田を開発することはまずないのだが、日本の政府(当時は小泉時代)はこのガス田問題をエサに使い、中国側が勝手に開発しているという報道を流して中国への反感を高めることによって、政権への支持率や愛国心の高揚を図っている。もっとも、中国側も同じだが」
 と、言っておりました。実際、当時(2004年)はこの状況どおりだったと私は思ってます。

 ではなぜ中国はコストの方が大きいのに、ガス田を採掘しているのでしょうか。その答えは簡単で、それだけ今の中国はエネルギーが不足しているからです。それこそ天然ガスのように貯蔵の効くエネルギーはのどから手が出るほどほしく、採掘する費用の方が大きくとも採掘せざるを得ないというようです。
 そこで、少しでもその費用を節約するために、日本側の技術協力も中国はのどから手が出るほど欲しいらしいのです。ですから中国としては如何にして日本をこの採掘に引きずり込むかを考え、強引に採掘に着手して、日本側が対応せざるを得ないようにという狙いを持ってプラントを建てたというのが実情のようです。

 こう考えてみると、状況と一致する事実がたくさん出てきます。まず一つに、このガス田問題について中国政府側が何かしら言及する際、必ず「日本側との共同採掘」という提案が出てきます。冷静に考えてください、「お前の物は俺の物」的なジャイアニズム思考の中国側から「共同採掘」なんて言葉が出てくるなんて、何か裏があるに決まってます。案の定というか、この前の胡錦濤ことチンタオさんの来日時もこの共同採掘について言及されています。あの小泉時代ですら毎回毎回言っておりましたから、相当日本を採掘へ誘い込みたいのは明白です。これは私は断言できます。

 前回の投稿でチンタオさんが日本との関係修繕を本気で考えていると書きましたが、その背景の一つにこのガス田問題があると私はにらんでいます。まぁそれ以前に一つ前の江沢民氏がめちゃくちゃ日本が嫌いだった反動もあるのでこれだけに限るわけじゃないんですがね。
 そんなわけでこのガス田問題について私の結論は、
「中国が採掘するのを放っておけ、そして絶対に共同採掘の話に乗るな」
 といったところです。

 しかし唯一の懸念として、採掘を黙って見過ごすことによって結果的にあの付近の海域の領土を中国側が握るということを黙認、とまでは行かなくとも相手にそう思わせてしまう可能性があります。なにせあの付近は尖閣諸島問題でももめてるくらいなので、中国側の採掘を非難し続ける事は、領土を主張することにつながるので一貫して続けるべきだと思います。というより、続けなきゃいけないと言うべきですかね。はー、長かった。

2008年6月1日日曜日

四川大地震と自衛隊派遣誤報について

 前々から書こうとしていた内容でしたが、情報が整理される段階をまっていたので、やや遅れた感じでの今日の投稿です。

 さてその四川大地震ですが、大きな被害となっているようです。ただ日本の側とすれば、今回災害救助隊が派遣され、そして現地の中国人に高く評価されたのは前向きに見るべきでしょう。というのも、今回の券でどうやら中国のトップ、胡錦濤(フーチンタオ)ことチンタオさんが日本との関係修繕に大分本気であるということがわかりました。

 これまで日本は中国に対して相当な額のODA、政府開発援助を行ってきました。このODAから支出された予算を使い、中国では各地の地下鉄や鉄道が整備されたという歴史があるのですが、これまで中国国内にはそういった事実は一切報道されてきませんでした。その理由というのも言うまでもなく、中国が日本の援助で作ったというより、自力で作ったと言った方がカッコがつくからと、他でも言われているように日本をヒール役にすえておき、いざというときの国民のガス抜きに使うためです。
 ですから当初私は、今回日本の災害救助隊が派遣されたとしても、あまり活動は報道されないのではないかと危惧していました。ところが実際は大々的に報道され、向こうの各新聞のアンケートでも好感を持つようになったという結果が大勢を占めるようになりました。

 よく、中国人は人の恩がわからない民族だなどと誹謗する人もいますが、これまで日本に対してODAの額に比べて反感を抱き続けてきた理由は他でもなく、現地で悪く報道しかされなかったという理由以外ありません。逆を言えば、今回こういった報道を許したことから、前々から謀りかねていたのですが、少なくとも現段階で、中国政府はにほんのとの関係修復を真剣に考えていると思ってもいいと思います。まぁ、思い当たる節もありますし……。

 逆に、今回のこの過程でお粗末だったのはタイトルにもある自衛隊派遣についてです。
 当初、中国政府から要請があったと官房長官までもが発表したにもかかわらず、実際には中国の少佐クラスの一官僚が、「自衛隊が来てくれたらうれしいなぁ」と言ったのを過剰に外務省が反応してしまったというオチのようです。そんなんだから自衛隊派遣提案が報道された当初、日本のメディアも日本政府発表を鵜呑みにしてしまい、中国側の秦剛報道官が、「日本から自衛隊派遣の提案があった」と発表した際に、「中国側は自分たちから自衛隊を要請したことを隠して発表した」、というように、夕方のニュース番組等で報道してしまいましたが、結果を見ると中国政府の発表の方が正しかったようです。しょうがないとはいえ、マスコミももうちょい気をつけろよなぁ。

 ではなぜ今回日本側がフライングとも取れる失敗を犯してしまったのでしょうか。まず一つ目の理由として最初の災害救助隊派遣が予想以上に向こうで受けたという背景があるでしょう。それだったら、人助けとして自衛隊とかも派遣しても問題ないのでは、そういう風に少なからず思っていた背景が大きいのではと私は予想します。
 二つ目の理由は単純に、外務省や政府が功を焦ったからでしょう。それこそ自衛隊を派遣して災害救助を行えば、昔の敵は今の友とばかりに日中の関係修復を内外にアピールでき、政府としても支持率アップにつながることが予想されます。特にこのところ福田政権はいいところが全くありませんし、ここでポイントを稼いでおきたかったのが本音でしょう。そして外務省としても、よく取りざたされるのはチャイナスクール(ここの自民党の領袖は加藤紘一)ですが、外交的な歴史の一ページに関わるというのは非常にうれしいことらしく、むしろ率先的にこのフライングに乗っかったと見るべきでしょう。それにしても、少佐クラスの人間の言うことを真に受けるとは……。

 現時点で日本側、中国側の双方が日本の「中国側から要請があった」という発表は誤報だったと示しており、その誤報が生まれた背景などもきちんと報道されていることからこの事実に間違いはないと考えています。確かに陰謀めいたように考えることもできますが、というよりむしろ陰謀があって誤報と発表するより他がなかったと信じたいくらいですが、今回は非常にお粗末な三文芝居を日本が一人で演じたようです。

  追伸
 フジテレビがやっている「ニュースJAPAN」にてこの前、社民党の福島瑞穂党首がこの中国への自衛隊派遣について記者会見で「反対です」と言った後、記者会見も終わってもうカメラが回っていないと勘違いしたのか周りの社民党の人達に、「まぁいいや、社民党そういう所で突っ張とかないと」と、もらしたのをしっかり写され、放映されてました。やるなぁフジテレビ。

2008年5月31日土曜日

経済学とはどんな学問か

 社会学にもメタ理論といい、社会学自体は一体どんな学問なのかということを追及する分野があります。そこで今日はこのメタ理論を経済学に適用して話を進めようと思います。

 まず経済学はいつ、どのように始まったのかという事が重要になってきます。そのいつ始まったか、つまり起源ですが、それは誰も疑うことなく経済学の祖、アダム・スミスが彼の著書「諸国民の富」を出版した時期でしょう。ではそのアダム・スミスとはどんな人物なのでしょうか。
 ここではいちいち細かく取り上げないのでできればウィキペディアを見てもらいたいのですが、恐らく経済学部の学生でもほとんど誰も知らないアダム・スミスの事実として、彼の前歴があります。彼が大学で何をやっていたのかというと、実は道徳学の教授をやっていました。

 実際、アダム・スミスは「諸国民の富」を発表する前に「道徳感情論」という、道徳学の本を先に出版しています。一説によるとアダム・スミスが「諸国民の富」を書いたのは、当該社会、彼にとってはイギリス社会にある富を如何に公平に分け隔てなく分配するかを考えたためと言われています。当時は今の格差社会も真っ青な貴族社会。一部の人間に富が集中し、集めた連中がそれを浪費してしまうことを憂えていたと言われています。

 よく一般で言われている内容を見ていると、どうも経済学というのはお金儲けの学問と捉われがちな気がします。しかし実際のその起源や成り立ちから考えると、私の中では社会システムを研究する学問だと思います。つまり、社会に蔓延する貨幣を中心におき、それを如何に効率よく使い、分配するかというシステムを考える学問という事です。同じように働く人には同じ分の報酬を与えたり、一箇所に富が集中しないように税金をそういった人に多くかけるといった税体系などのシステムを考える、という具合に。事実、これまでの経済学というのは実際そんな学問だった気がします。

 然るに、現在の経済学はというとこれまでの原理原則とは逆に、如何にして自分のところへ富を集中させるかということを考える学問に成り下がってしまいました。去年に死んでくれたフリードマンとその一派なんてその典型でしょう。これは前々から思っていたことですが、どうも最近の経済学は商学と比べて、何も代わりがないように思います。実際アメリカの大学で安売りされまくっているMBAというと、経済学の修士号のように思われていることが多いですが、実際には「経営学修士号」で、範囲で言ったら経済学と商学の中間、というより商学の範囲だと思います。

 誤解されがちですが、経済学というのは本来、平等主義の元に生まれてきた学問です。だからこそ社会主義やら共産主義についても研究がされたのですが、このところは本当にこの手の分野は金にならないこともあり疎かにされています。もし現在学んでいる方がこれを読んでいるのなら、こういった点に注意して今後は学んでください。

2008年5月29日木曜日

首相公選制の是非

 現在アメリカでは大統領選で非常に盛り上がっていますが、日本は韓国やアメリカのように、最高権力者である首相を先の二国と違って国民の直接投票では決めず、議会での最高勢力を誇る政党の中から代表を選ばせて決めています。この制度はいちいち名前を挙げるのも恥ずかしいくらい当たり前ですが「議院内閣制」といい、これは明治期にイギリスの政治制度を模倣したことから日本に定着しています。なお、タイでも同じそうです。

 目下の所この制度に不満を呈す人はいませんが、かつての90年代後半、政治汚職事件が続き政党政治に不満が持たれた頃はものすごい批判を受けまくっていました。その時代というのも小渕敬三元首相が首相に就任した際で、参議院では現在のように野党が多数派となって衆議院では小渕氏を指名したにもかかわらず、参議院では現在もなおがんばっている菅直人氏が指名され、ちょうど自民党も人気がなかった頃で、その晩のニュースステーションでの電話アンケートでは確か十倍ぐらい差が開いて菅直人氏がいいという結果になってました。
 そんなもんだから、当時各メディアもアメリカのように、「最高権力者くらいは直接投票で決めるべきだ」という論陣を張り、この首相公選制の必要性が叫ばれました。

 結論から言うと、私はこの首相公選制には反対です。というのも日本の首相、というより官邸はかねてより権力が弱いとされ(小泉時代にえらく強くなったが)、現在のように議会でねじれ現象が起こるととたんに足を取られて何も決定できなくなる可能性が高いからです。実際、アメリカや韓国はほとんどの時期を大統領の与党と対立する野党が議会で多数派を敷いているねじれ状態にもかかわらず何とかやっていっています。
 何だかんだいって、この議院内閣制というのは安定性という面には非常に力強さがあります。その分、急激な改革や決定ができなくなるマイナス面もあるのですが、現状はこのままのほうがいいと私は思います。それこそ首相公選制をやるというのならまず、首相の権力をまず拡充する必要があります。

 しかしだからといって国民の望まない最高権力者を抱えねばならないというのは非常に不幸なことです。かつての森政権時代なども先ほどの小渕政権の初期同様、首相公選制の必要性が叫ばれましたが、確かにあんなのがでてくると考えさせられます。
 そこで、これは人の受け売りですが中間を取るいい方法があります。あえて言うなら、「首相予告選挙制」とでも言うべきでしょうか。この方法とは実に簡単で、国民の意思を問う衆議院選挙の際に、議会で多数派を勝ち取った場合に誰を首相に指名するか、各党にあらかじめ予告させるのです。

 たとえば、現時点で衆議院選挙が起こった場合、自民党は選挙日前までに多数派を勝ち取った場合、現総裁の福田氏を指名すると宣言します。これに対して民主党は小沢氏を指名すると宣言し、他の泡沫野党は独自に候補を立ててもよいですし、民主党に協力するとして小沢氏に同意するのもありです。
 この方法で何がいいのかというと、その予告する首相候補がそのまま選挙の顔となるとともに、ねじれ現象を回避しながらも国民が間接的に首相を選べるという二点です。さらに政党に対してあまりに国民の不興を買うような候補を立てさせないとともに、国民もその当該政党は嫌いだがその首相候補は応援したいという場合に気兼ねなく投票ができるようになります。その逆も然りで、自民党は嫌いだが、小沢が首相になるのはもっと嫌だという場合にも存分にその意思を発揮することができます。

 実際には単独与党を作れない場合などもあり、必ず実行できるとは限らないのですが、マニフェストなんかよりこうした方がずっと顔の見える選挙、もとい政策方向の見える選挙となりそうなので、個人的に推進したいと思っています。

2008年5月28日水曜日

ゲーム会社栄枯盛衰、主にテクモ

 以前友人らと休みの間にどんなゲームをやるかという話で盛り上がった際に、ある友人が、
「俺、自由度の高いゲームをしたいんだよね」
「自由度高いってんなら、昔の「くにおくん」でもやれば。それにしても、あのゲームは自由度高かったよな」
 と、いう話になり、そのまま昔のゲーム談義になりました。

 ちょうど私達の年代は家庭用ゲーム機が発達した時代でもあり、また凋落し始めた時代でもありました。90年代は各産業において不況が続いた時代でありながらゲーム業界だけは成長をし続けて羽振りがよかったのですが、98年にとうとうピークを迎え、それ以降は少子化が影響したのか現在までずっと下降線を辿っております。ちなみに、98年は「ファイナルファンタジー8」が発売した年で、奇しくもこのシリーズでも8がピークとなり、以降は売り上げが落ちていっています。

 それこそ、ファミコンからスーパーファミコン、そしてプレイステーションくらいまでは初期投資も少なく、また簡単に作れるということで参入会社がたくさんありましたが、その後段々と採算が取れなくなるとかつては人気シリーズを排出していたゲーム会社ですらどんどん潰れていきました。前述の「くにおくんシリーズ」も販売元のテクノスが潰れ、あんだけ私が小学生時代に運動会やら時代劇で遊び倒したゲームながら、今では記憶する者も少なくなっています。

 この「くにおくん」のように完全にシリーズが途絶えたものもありますが、中には会社は潰れたものの版権を別会社が引き継ぎ、続編が出されるということもありました。最近の例だと今度最新作が出る「ヘラクレスの栄光」を作っていたデータイーストの例があります。何気に、この会社のゲームは昔からよくやっており、「ヘラクレスの栄光」はもとより格闘ゲームの「水滸演武」なんて何時間遊んだんだろう。この会社は結構面白いゲームを作っていたのですが、末期になるとにっちもさっちも行かなくて、なんでもしいたけを栽培して売っていたというくらい切羽詰っていたらしいです。ゲーム会社がしいたけ作ってもなぁ。

 同じように版権が引き継がれる例だと、90年代中盤においてゲームの王様であった格闘ゲーム業界で、カプコンと雌雄を争ったSNKもあります。ここは「キングオブファイターシリーズ」、いわゆるKOFで一時代を築いたものの、格闘ゲームブームが去るとともに一気に経営が傾き、会社を買収したアルゼに版権も移りましたが、よくはわからないのですがなんかまたクーデターを起こして、版権を奪い返したとかなんたらとか。まぁ奪い返したところで、昔の威光に頼ってても先は暗いんじゃないかな。

 このSNKとは逆に、格闘ゲームブームが去っても命脈を保ったのは今も言ったカプコンです。ここは格闘ゲームのブームが終わる頃には結構経営状態が悪かったらしいのですが、乾坤一擲の思いで2Dゲームから3Dゲームへの転換をはかり、そうして生み出された「バイオハザードシリーズ」にて復活しました。ちなみに、カプコンと聞いて私達の年代は恐らく「ストリートファイターⅡ」か、「ロックマン」が出てくると思います。

 このカプコンに限らず、ファミコン時代から生き残ったゲーム会社というのは時代々々でうまくゲーム分野の転換を図っています。特に、私が肩入れしているのはテクモです。
 このテクモという会社には本当に小さい頃からお世話になっていると自負できます。それこそ、最初のゲーム「キャプテン翼」なんてシャレにならないくらい遊び倒しています。「キャプテン翼Ⅴ」に至っては、あえて敵のドリブルを石崎君の「顔面ブロック」で止めたりしてました。
 この会社もカプコン同様、プレイステーションなど当時に次世代機といわれたハードが出始めた頃に3Dへとうまく転換が図れ、現在では世界中で評価される3D格闘ゲーム「デッドオアアライブシリーズ」(ちなみに私はあやね使い)を筆頭に、和風ホラーの代表作である「零シリーズ」、あとトラップで敵を倒すという一風変わったシステムがよかった「影牢シリーズ」を出しました。私はこれらの大体は遊んでますね。

 ついでに書くと、最初のあの「キャプテン翼」は原作もそうですけどゲーム内容も相当ぶっ飛んでおり、私なんてⅣで試合開始と共にセンターサークルからストラットにメガロゾーンシュートを打たせたら、GKを含めてブロックに来た選手四人をふっとばし、挙句にゴールネットも突き破りました。もはや少林サッカーだろこれ。
 V以降はやってないのですが、どうもこのゲームのDNAはテクモに残っていたのか、以前にみたゲームのレビューによると、「レッドカード」という、あからさまに何かやってくれそうなタイトルでまたサッカーゲームを出していたそうです。パッケージ裏のキャッチコピーからして、「神の手を超えろ」と、ここまでくるとまともなサッカーゲームはもう期待できません。事実、サッカーゲームの癖に各選手には必殺技ゲージがあり、たまると相手選手にソバットを食らわせたりできるそうです。よく、こんな会社が生き残ったなぁ。

2008年5月27日火曜日

武田邦彦氏のシンポジウム 追記

 武田氏のホームページでも前回私が行って来たシンポジウムの内容がアップされたので(http://takedanet.com/2008/05/post_917a.html)、その内容に合わせて私の感想も述べようと思います。実際、前回だけじゃ書き足りなかったし。

 まず武田氏が挙げている他のパネリストからの主要な反論(1)の、
「 環境白書には「極地」としている中に北極の海氷や南極の氷は入らない」
 これは環境省の役人の方が言っていた内容ですが、この人に言わせると武田氏が環境省を批判する際によく使う環境調査機関の報告書によると、その報告書内の極地を武田氏は南極と北極だけを定義していると述べていましたが、環境省の人は報告書の別のページに、緯度と経度で極地の定義がなされており、その範囲は北極や南極だけでなく、グリーンランドやシベリアの陸地における氷についてあれこれ書かれてあると主張していました。この件に関しては武田氏も今後続報を出すと言っております。

 次に(4)の「環境負荷はお金の額とは比例しない」の件ですが、その言わんとする内容は、武田氏は環境を考えて生活の消費を控えても、その分余ったお金は別のものに使われては結局環境への負荷は一緒だということを言っており、結局どれだけお金を使うかが環境の負荷の大きさも決める比例関係にあると自著で述べています。しかし、たとえば100万円ガソリン代に使うのと、100万円食料に使うのでは最終的に排出される二酸化炭素量は違う、というのがこの意見の中身です。これについては武田氏も強く反論はしていませんでした。

 そして今度は一般参加者からの質問ですが、まず(1)の、
「国民はリサイクルを始め政府の主導する環境対策を進めているのに、なぜ二酸化炭素は減るどころか、増えているのか?」
 ですが、これは1990年と現在を比べて環境対策技術は進歩して、国民の環境への意識が高まったと言われているが、実際の統計などを見ると増えているがこれは一体どうして、というような内容でした。
 言われて見ると確かにという話で、この質問についてはパネラーの方が答え、事業単位では減っているものの運輸部門と民生部門、つまり国民の生活レベルでの排出が増えたことによる結果らしいです。

 次に(2)の、
「二酸化炭素が蓄積している「層」が上空にあると政府は説明しているが、二酸化炭素が「層」をなすのか?」
 という質問ですが、これについては武田氏とパネラーそろって、「えっ?」ってな感じであまり話が進みませんでした。質問をした方は溶接を仕事としている方で、普段から炭酸ガスを扱い専門家を自称していることから、二酸化炭素が上空の対流圏まで登ると二酸化炭素同士で固まり、層を作って温暖化を助長するらしいのですが、武田氏はそんなことはないと言い、二酸化炭素は対流圏で他のガスと混合、霧散するので層にならないといいましが、質問者はそんなことあるはずがないが、今日はこれまでにしておくと言って席に着きました。

 実を言うと、私もいわゆるガスの専門家とまでは言えませんが、ガス関係に普段携わっているので、早速近くのその筋に詳しい人に今日聞いてみましたが、そんな話は聞いたことはないと、武田氏と同じ解答が聞きました。私自身、炭酸ガスが層化するなんて話や特性は今まで聞いたことがありません。因みにどうでもいいですが、溶接作業時には炭酸ガス、もしくはアルゴンガスなどの不活性ガスが必ず必要です。

 でもって最後の質問(3)、
「温暖化が環境破壊であることは間違いないのに、なぜそんなことを議論しているのか?」
 この質問の内容は特に解説するまでもないのでいちいちせずに私の感想を言いますが、非常にナンセンスな質問だと思います。というのも、武田氏がなぜ環境省やリサイクル業者を批判しているかというと、連中の行っていることは実際の環境の保護になっておらずむしろ助長しているばかりか、リサイクルや環境保護の名の下に利権団体のような所へ国民の税金がばら撒かれている現状があるからです。武田氏自身も実際は環境を憂えているように私には見えますが、それだからこそこのいい加減な現状を黙って見てられないのだと思いますし、私自身この武田氏の見方を指示します。少なくとも、現状のリサイクル業者の状況は詐欺に近いものがあるでしょう。

 今後も武田氏のホームページで細かい書く内容がアップされるというので、それに合わせて私も感想を書いていくつもりです。
 それにしても、これ書いている途中でYou Tubeがうまく動かないで、そっちの方にえらく時間取られたな。

日本の国語教育について

 この前かな、安倍前総理の怨念とも言うべき教育再生会議が最終答申を出したのは。ちょっと記憶が定かじゃないんですが、それくらい報道も少なかった気がします。まぁ実際、結局のところ何がしたかったのという具合で終わりましたし、答申も今後の教育会議につながる内容だったのかどうか、ヤンボコの義家氏はこれからどうなるのかさっぱりわかりません。

 そこで今日の本題の日本の国語教育についてですが、現在日本の読解力は有意に下がっていると断言できます。その根拠は毎年行われる国際学力テスト、通称PISAにおいて年々この読解力が下がっており、同時に国内の調査でもひと月あたりの読書数が下がってきています。
 私が思うに、日本の子供の学力が全体で低下しているのはこの国語教育が崩壊していることが原因だと思います。というのも、国語で伸びるのは理解力で、すべての学問の根幹ともなる部分です。この理解力が発達しなければ数学でも外国語でも、結局理解することができなくて一緒に成績が落ちていくのではないかと私は考えます。文系だからこんな事言うのかも知れないけど。

 では国語教育のどこが問題なのかというと、自分が見ていてまず一番おかしいと思うのはテスト問題です。たとえば、
「このとき、作者の心境はどんなものか。以下の中から選択して答えなさい」
 そんな作品ごとに作者は感想行っているわけでもないのに、この手の問題はごまんと巷に溢れています。しかも、こういった問題の大半が作者というより問題作成者の心境で、作品の中身より問題作成者の意図を読まねばならないというのが国語能力の発達を阻害している気がしてなりません。
 実際に、「蛍の墓」原作者である野坂昭如は、娘が学校の授業中に父の作品でこの手の問題が出されたから聞いてみたところ、「締め切りに追われて必死だった」と答えています。もちろん、そう答えたら間違っていると娘は先生に言われたそうです。

 多分この野坂昭如に限らず大抵の作家はこんなもんでしょう。こんなんで国語の力なんて伸びるわけありません。こんな感じで国語の成績というものは決まっていくもんだから、自然と生徒達もテクニックのような、模範的な解答しか出さなくなります。私なんて独特な解答にこだわったもんだから……。
 逆に、何が一番国語の能力を伸ばすのかといったら、なによりもまず作文を書かせることに限ります。日記でも小説でもいいから、原稿用紙百枚くらい文章を書かせたら人間一皮剥けます。私なんて中学生くらいの頃から何百枚も書いてましたし。また作文に限らず、長い文章を短く要約させるのも非常に効果があると思います。芥川龍之介の「河童」を原稿用紙一枚に要約、それができたら今度は二行に要約、というように。短いから簡単そうに見えますが、逆にこうされると、文字数がほしい、と大抵の人は思うようになります。そうして表現の方法を本人にあれこれ考えさせるのが一番いいと私は思います。

 このほか国語教育についてはまだまだ言いたいことはありますが、まずは書かせること、これに限ります。しかるに現在の日本では未だに読ませる教育しかしておらず、子供の能力が落ちていくのも自明でしょう。