すでに各所で報じられていますが、本日小沢一郎民主党幹事長の政治団体「陸山会」と鹿島建設の事務所などが、かねてより以前に購入した四億円の土地購入資金の入手経路に関する疑惑から東京地検特捜部の家宅捜索を受けました。私は小沢氏の疑惑についてある意味発端となった去年の西松建設による政治献金疑惑はそれほど問題性はないと見ていましたが、今回のこの土地購入資金の疑惑は前回に書いた「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」の記事で書いたように私は小沢氏は政党助成金の流用を行ったと見ており、仮にそうであれば悪質性は非常に高く、今後検察に逮捕されることとなっても仕方がないと考えております。
さてこの以前の記事にて私は文芸春秋一月号の記事を引用しましたが、昨年末の天皇の特例会見問題で私は小沢氏は菊の尻尾を踏んだと評しましたが、やはりというか右翼系雑誌の文芸春秋は今月二月号においてこれでもかと言わんばかりに小沢氏への批判記事を並び立ててきました。中にはやや感情的なだけとも見れる内容も含まれているのですが、ちょうど今回の家宅捜索に関係する記事として田村建雄氏の、「消えた五箱のダンボール」という記事は非常に面白く、折角ですのでこの場にて引用、並びに紹介をしておこうと思います。
まずこの記事全体の内容ですが、ほとんどの部分は今回の小沢氏の疑惑で検察にもマークされており、すでに何度も事情聴取を受けている石川知裕民主党衆議院議員の元秘書である金沢敬氏(実名、顔写真もあり)のインタビューで作られています。この金沢氏はこのところあちこちでこの小沢氏、並びに石川氏の疑惑について証言しており、私の友人によると今日の夕方のニュースでも早速登場して語っていたそうです。
簡単にこの金沢氏のことを説明すると、この人は北海道で不動産業を営む会社社長で、自身も国会議員になりたいと思っていたことから伝手の出来た年下の石川議員の秘書となり、主に北海道で彼の活動を手伝っていたそうです。
そんな金沢氏がどのようにして今回の疑惑に関わったのかというと、去年三月に西松建設絡みの違法献金疑惑で小沢氏の周辺に捜査が及んだ際、石川氏の東京の事務所にも検察が捜査資料の押収にやってきました。その際に金沢氏は検察がやってくる前に、石川氏らとともに検察に見つかったらまずい資料をあらかじめ移動して隠す作業を手伝ったそうです。
本当に知らないのか、それとも敢えてぼかしているのかまではわかりませんが、インタビュー記事において最も重要な資料とされるものを隠した際に、以下のような会話をしたと証言しております。
「ダンボールの中には鹿島の資料も入っているし、西松建設なんか問題じゃないよな」
「西松なんて一番金額がちっちゃいんですよね」
この会話の前には見つかったらまずい名刺を抜き取る作業の場面も書かれているのですが、西松建設関係の「ナ行」とともに鹿島建設の「カ行」の名刺を中心に四、五十枚取り除いたと金沢氏は述懐しております。
こうしたことのあった後、金沢氏は結局選挙での民主党の公認が得られないことがわかり、自分が石川議員にいい金づるとして利用されているのがわかったとして袂をわかったそうなのですが、このインタビューには自分も証拠隠滅に関わったという負い目と公共の利益の観点から実名での報道に応じたとしています。
言ってることは全くわからないでもないですが、それでも私の目からするとこの金沢氏の証言は選挙での公認が得られなかった意趣返しために行っているように見えますし、またそうであれば実際にはなかったことも言って石川氏、小沢氏を敢えて不利な立場に追い込もうとする可能性も捨て切れません。ですのでこれらの証言をまるごと鵜呑みにするのは危険なのですが、西松建設絡みの捜査の時点で証言通りこれだけばたばたとしていたとなると、どうも検察は去年三月の段階で今回の鹿島建設と合わせて捜査を行っていたのではないかという気がしてきました。
またまた仮定の話ですが、もし本当にここまでの視野を初めから持って検察があの時に捜査をしていたのであれば、当時は私も国策捜査だと検察を強く批判しましたが、その認識を改めてなかなかしっかり仕事をしているのではないかと見直そうと思います。
その逆に、西松建設の件で無理やり捜査していく途中でこの鹿島の問題に気がついて今回の捜査に至ったのであれば、どうして前捜査の段階でそこまで掘れなかったのか、一度にまとめて調べることはできなかったのかとまたまた批判することになります。
どちらにしろ、さすがの小沢氏も今回はタダじゃ済まないでしょう。この一連の捜査を鳩山首相が裏で支持しているのであれば、いろんな意味で楽しいのですが。
最後に、引用ばかりして私も負い目を感じるので、この記事で興味をもたれた方は是非今月の文芸春秋を購入して元の記事を読んでくださいo(_ _)o
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年1月13日水曜日
2010年1月12日火曜日
世代別ストライキ案について
昨日昔からの友人と会ってきましたが、その友人と現代における若者の苦境について簡単に意見を交わしてきました。これはその友人に限らずうちの親父にもよく言っていることなのですが、どうして我々二十代のいわゆるロストジェネレーションは上の世代に反抗しないのか、返って不思議だとその時も話題に出てきました。
すでにいくつかの統計で出ていますが、同じ年収でも現在の三十代の平均年収は十年前の三十代と比較すると数百万円(二百万円だったかな?)も下回るそうです。また現代の若者の勤労時間の増大も計り知れず、私も直接話を聞く範囲でもどうしてそれでやっていけるのか不思議に思えるくらい働かされているのも数多く、これでどうしてうつ病にならないのかと思ってしまうほどです。
もちろん我々若者の側も上の世代に文句言われても仕方のないところも多少はあるかと思いますが、私はそれでも現代の若者は過去かつてないほど虐げられている世代なのではないかという気がします。にもかかわらず、私も含めてですが若者がこれという運動なり抗議なりを直接の行動で示さないというのが不思議に感じるわけです。まぁそれが今の若者が「覇気がない」、「無気力だ」と言われる所以だと言われたら、言い返す言葉もないのですが。
ではどうして我々若者は行動を起こさないのか、一つの原因としてその友人との会話で挙がってきたのは確たるリーダーがいないからではという意見でした。こうした若者の貧困や失業問題について強く主張しているのとなると、実際に比較的年齢が低い世代では雨宮処凛氏くらいしか出てこず、後はもう五十代や六十代の大学教授や評論家となってしまいます。
なにかこう若者をまとめ上げる確たるリーダーがいないため、行動一つ起こすにしても個人がバラバラにやっていて全然見えてこないのではと私と友人は話し合ったわけですが、実際にこういっている自分こそ集団行動がありえないほど苦手で、こういった「集団より個人を好む」という我々の世代の性格も影響しているのかもしれません。では仮にリーダを祭り上げるとしたら誰がいいとなり、
「リーダー言うたらTOKIOの城島やん」
「城島ももうええ年やで」
「ええやん、奈良代表やんけ」
「奈良かー。ほなしゃあないな」
というわけのわからない会話をしました。
そうしたことは置いといて、同じ会話にて具体的に行動するとしたらということで私が出したのが、表題にある「世代別ストライキ」です。
具体的に今の我々の世代で何が問題なのかというと、どこの企業でも同年代の社員数が非常に少ない一方で上の世代は大量におり、部下はいないのに上司がたくさんいるという首根っこが掴まれた状態なのが問題だと常々私は思っていました。何気にタイミングよくいい図があるので、下記のリンク先が非常に参考になるかと思います。
・JR西日本の年齢構成(アルファルファモザイク)
また非正社員の問題も同じ構造で、基本的に雑務から営業の前線など、下働きと言われるような仕事をずっとやらされる一方で上の世代がたくさんいるせいで出世もできないという悪循環がこうした年齢構造から生まれているのではないかと思います。言ってしまえば、いつも上の世代にとやかく言われるが俺達若者が下支えしなかったらお前らなんにもできなくなるんだぞ、って言うのを実は前から見せ付けてやりたいと思っていました。
では具体的にどうすればいいのかというと、そこで私が考えたのが世代別ストライキこと、全業種において40歳以下の社員、パート職員、バイトが一斉に仕事を休んでみてはどうかと思ったわけです。いわば若者のうちしか出来ないストライキですが、ロストジェネレーション世代が如何に社会の底辺を支えて、また裏返して言うならどれだけその貢献を上の世代に奪われているのかをはっきりと世に知らしめるにはいい案なのではないかと考えたわけです。
もちろんそんなのうまくいくわけではないと思いますが、なにかものを考えるきっかけになればと思って一応このブログでも書いておくことにしました。
すでにいくつかの統計で出ていますが、同じ年収でも現在の三十代の平均年収は十年前の三十代と比較すると数百万円(二百万円だったかな?)も下回るそうです。また現代の若者の勤労時間の増大も計り知れず、私も直接話を聞く範囲でもどうしてそれでやっていけるのか不思議に思えるくらい働かされているのも数多く、これでどうしてうつ病にならないのかと思ってしまうほどです。
もちろん我々若者の側も上の世代に文句言われても仕方のないところも多少はあるかと思いますが、私はそれでも現代の若者は過去かつてないほど虐げられている世代なのではないかという気がします。にもかかわらず、私も含めてですが若者がこれという運動なり抗議なりを直接の行動で示さないというのが不思議に感じるわけです。まぁそれが今の若者が「覇気がない」、「無気力だ」と言われる所以だと言われたら、言い返す言葉もないのですが。
ではどうして我々若者は行動を起こさないのか、一つの原因としてその友人との会話で挙がってきたのは確たるリーダーがいないからではという意見でした。こうした若者の貧困や失業問題について強く主張しているのとなると、実際に比較的年齢が低い世代では雨宮処凛氏くらいしか出てこず、後はもう五十代や六十代の大学教授や評論家となってしまいます。
なにかこう若者をまとめ上げる確たるリーダーがいないため、行動一つ起こすにしても個人がバラバラにやっていて全然見えてこないのではと私と友人は話し合ったわけですが、実際にこういっている自分こそ集団行動がありえないほど苦手で、こういった「集団より個人を好む」という我々の世代の性格も影響しているのかもしれません。では仮にリーダを祭り上げるとしたら誰がいいとなり、
「リーダー言うたらTOKIOの城島やん」
「城島ももうええ年やで」
「ええやん、奈良代表やんけ」
「奈良かー。ほなしゃあないな」
というわけのわからない会話をしました。
そうしたことは置いといて、同じ会話にて具体的に行動するとしたらということで私が出したのが、表題にある「世代別ストライキ」です。
具体的に今の我々の世代で何が問題なのかというと、どこの企業でも同年代の社員数が非常に少ない一方で上の世代は大量におり、部下はいないのに上司がたくさんいるという首根っこが掴まれた状態なのが問題だと常々私は思っていました。何気にタイミングよくいい図があるので、下記のリンク先が非常に参考になるかと思います。
・JR西日本の年齢構成(アルファルファモザイク)
また非正社員の問題も同じ構造で、基本的に雑務から営業の前線など、下働きと言われるような仕事をずっとやらされる一方で上の世代がたくさんいるせいで出世もできないという悪循環がこうした年齢構造から生まれているのではないかと思います。言ってしまえば、いつも上の世代にとやかく言われるが俺達若者が下支えしなかったらお前らなんにもできなくなるんだぞ、って言うのを実は前から見せ付けてやりたいと思っていました。
では具体的にどうすればいいのかというと、そこで私が考えたのが世代別ストライキこと、全業種において40歳以下の社員、パート職員、バイトが一斉に仕事を休んでみてはどうかと思ったわけです。いわば若者のうちしか出来ないストライキですが、ロストジェネレーション世代が如何に社会の底辺を支えて、また裏返して言うならどれだけその貢献を上の世代に奪われているのかをはっきりと世に知らしめるにはいい案なのではないかと考えたわけです。
もちろんそんなのうまくいくわけではないと思いますが、なにかものを考えるきっかけになればと思って一応このブログでも書いておくことにしました。
都会と田舎の時間速度の違い
実に三ヶ月ぶりに「時間の概念」のカテゴリー記事です。始めたはいいけど北京留学記の記事の連載と掛け持ちだとやっぱり大変で、ひとまず留学記を終えてから再開しようかと思っていたら最後の記事からもう三ヶ月も経ってしまいました。いくらなんでも、いい加減な計画だったと反省しきりです。
ただ元々このカテゴリーの記事は内容的にあまり連関は少なくなく、今日のこの記事から読んでもあまり影響はないかと思います。ただこれまでの記事は単体でも我ながらよく出来ていると思うので、興味があれば上記のリンクから読み返していただけると幸いです。
それでは本題に入りますが、よく「田舎に帰ると時間がゆっくりと流れる」という呟きを日常で聞くことはないでしょうか。私自身もお袋の実家の鹿児島県に帰るとやはり同じように感じ、同じ一時間でも関東での生活と比べると随分と長く感じてしまいますし、実際に周りに聞いても同じような返事が返ってきます。
では都会での生活より田舎での生活の方が時間が長く感じると仮定した上で一体どうしてそのような時間間隔に差が生まれるのか、もったいぶらずに考えられるその要因を明かすと、私はまず雑音の量や大きさが大きく影響しているかと思います。
雑音、というよりも最近の日本語だと「ノイズ」と表現することが増えていますが、これがどうして時間間隔に影響を及ぼすのかという、ひとつこの様な状況を連想してみてください。ある場所で友人が帰ってくるまで30分ほど待たなければならないとして、車や人が激しく往来する雑踏の中で待つのと、人どころか獣も通らないような山道で一人ぽつんと待ち続けるのとでは一体どちらの方がその30分間という絶対時間を長く感じるでしょうか。あくまで私の感覚ですが、私は後者の方が圧倒的に長く感じるかと思います。
またここまで極端な例をとらなくとも、外から雑音が入ってくる部屋と完全に防音が保たれる部屋とで同じ十分間椅子に座っているのを比べれば、感覚的には何も音が聞こえない部屋で座っている方が長く感じるのではないかと思います。出来ればこういう実験を100人単位くらいでやってみたいところですが、どこかやってないかな。
この様にいろいろ比較してみると、雑音があるかないかで同じ一分や一時間に感じる長さの間隔が変わってくるのではないかという気がしてきます。またこれまた私の体験談ですが、同じ勉強をするにしても静かな図書室でやるのと音楽を聞きながらやるのとではなんとなく勉強した時間が違ってくるような気もします。
私が思うにこれらの感覚の差異は、一つのものに集中するか複数のものに集中するか、ということから来るのではないかと思います。
雑音が聞こえない環境で勉強をする場合、その本人が横着しないことを前提にすればその意識は勉強科目へ集中して注がれます。それに対して音楽を聴いたり、雑音の入る環境ではよっぽど周りを気にせずに出来る人以外は勉強科目とともに耳に入ってくる情報こと雑音、なんだったら車の音とか人の咳の音とかに意識が分散してしまいます。
もしそういった周囲の雑音が時間感覚に影響するとこれまた仮定すると、私の解釈では意識の集中対象の数がそれら時間間隔に影響を与えているのではないかと考えます。例えば意識が向かう対象が少なければ時間はゆっくりと感じられ、逆にたくさん雑音があったり道路を走ったりする車に注意しなければならないなど、意識する対象が多い環境では時間が早く流れるように感じる……といった具合で。
都会と田舎の時間間隔の違いは、恐らくここにあるのではないかと思います。もちろん大分以前の「社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編」にて私は、「物事が変化するのを見て初めて時間の流れを感じる」という一つの定義を出しましたが、建築物や人の流れの変化の量も都会と田舎では雲泥の差があり、そうしたものもそれぞれの時間間隔に影響を与えているというのも非常に大きいでしょうが。
ただこの記事ではそうした変化量の度合いは小さく扱い、都会と田舎を引き合いに出して敢えて雑音というものを大きく取り上げました。今の私はいちおう都市部に居住していますが、やはりこういったところで生活していると一切無音になる時間が非常に少なく感じます。逆に以前に京都に住んでいた頃は一つ辻を曲がると昼間でもどこも驚くくらいに閑静になり、下宿にいた頃も夜なんか街灯が少なくて真っ暗な上に無音なもんだから、恐いくらいに夜の時間が長く感じることが出来ました。私の友人などは逆にその夜が長いのが辛かったらしく、夜な夜な町内を徘徊して立ち読みの常習犯としてその名を轟かせていましたが……。
最後に次回への引きとして、この記事で私は、「一つのものに集中するか複数のものに集中するか」が時間間隔を左右するとして、集中の対象が少なければ時間は長く感じるのではと書きましたが、恐らくこれを読んで、「でも時間を忘れるくらいに何か一つに集中するとも言わない?(・д・)」、という風に思った型もいるのではないかと思います。事実私もそう思いますし、集中対象が一つでも時間を短く感じることも少なくないと思います。
ではそうしたことは何故起こるのか、次回はその集中対象と集中度の関連について算数的な話を書こうと思います。
ただ元々このカテゴリーの記事は内容的にあまり連関は少なくなく、今日のこの記事から読んでもあまり影響はないかと思います。ただこれまでの記事は単体でも我ながらよく出来ていると思うので、興味があれば上記のリンクから読み返していただけると幸いです。
それでは本題に入りますが、よく「田舎に帰ると時間がゆっくりと流れる」という呟きを日常で聞くことはないでしょうか。私自身もお袋の実家の鹿児島県に帰るとやはり同じように感じ、同じ一時間でも関東での生活と比べると随分と長く感じてしまいますし、実際に周りに聞いても同じような返事が返ってきます。
では都会での生活より田舎での生活の方が時間が長く感じると仮定した上で一体どうしてそのような時間間隔に差が生まれるのか、もったいぶらずに考えられるその要因を明かすと、私はまず雑音の量や大きさが大きく影響しているかと思います。
雑音、というよりも最近の日本語だと「ノイズ」と表現することが増えていますが、これがどうして時間間隔に影響を及ぼすのかという、ひとつこの様な状況を連想してみてください。ある場所で友人が帰ってくるまで30分ほど待たなければならないとして、車や人が激しく往来する雑踏の中で待つのと、人どころか獣も通らないような山道で一人ぽつんと待ち続けるのとでは一体どちらの方がその30分間という絶対時間を長く感じるでしょうか。あくまで私の感覚ですが、私は後者の方が圧倒的に長く感じるかと思います。
またここまで極端な例をとらなくとも、外から雑音が入ってくる部屋と完全に防音が保たれる部屋とで同じ十分間椅子に座っているのを比べれば、感覚的には何も音が聞こえない部屋で座っている方が長く感じるのではないかと思います。出来ればこういう実験を100人単位くらいでやってみたいところですが、どこかやってないかな。
この様にいろいろ比較してみると、雑音があるかないかで同じ一分や一時間に感じる長さの間隔が変わってくるのではないかという気がしてきます。またこれまた私の体験談ですが、同じ勉強をするにしても静かな図書室でやるのと音楽を聞きながらやるのとではなんとなく勉強した時間が違ってくるような気もします。
私が思うにこれらの感覚の差異は、一つのものに集中するか複数のものに集中するか、ということから来るのではないかと思います。
雑音が聞こえない環境で勉強をする場合、その本人が横着しないことを前提にすればその意識は勉強科目へ集中して注がれます。それに対して音楽を聴いたり、雑音の入る環境ではよっぽど周りを気にせずに出来る人以外は勉強科目とともに耳に入ってくる情報こと雑音、なんだったら車の音とか人の咳の音とかに意識が分散してしまいます。
もしそういった周囲の雑音が時間感覚に影響するとこれまた仮定すると、私の解釈では意識の集中対象の数がそれら時間間隔に影響を与えているのではないかと考えます。例えば意識が向かう対象が少なければ時間はゆっくりと感じられ、逆にたくさん雑音があったり道路を走ったりする車に注意しなければならないなど、意識する対象が多い環境では時間が早く流れるように感じる……といった具合で。
都会と田舎の時間間隔の違いは、恐らくここにあるのではないかと思います。もちろん大分以前の「社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編」にて私は、「物事が変化するのを見て初めて時間の流れを感じる」という一つの定義を出しましたが、建築物や人の流れの変化の量も都会と田舎では雲泥の差があり、そうしたものもそれぞれの時間間隔に影響を与えているというのも非常に大きいでしょうが。
ただこの記事ではそうした変化量の度合いは小さく扱い、都会と田舎を引き合いに出して敢えて雑音というものを大きく取り上げました。今の私はいちおう都市部に居住していますが、やはりこういったところで生活していると一切無音になる時間が非常に少なく感じます。逆に以前に京都に住んでいた頃は一つ辻を曲がると昼間でもどこも驚くくらいに閑静になり、下宿にいた頃も夜なんか街灯が少なくて真っ暗な上に無音なもんだから、恐いくらいに夜の時間が長く感じることが出来ました。私の友人などは逆にその夜が長いのが辛かったらしく、夜な夜な町内を徘徊して立ち読みの常習犯としてその名を轟かせていましたが……。
最後に次回への引きとして、この記事で私は、「一つのものに集中するか複数のものに集中するか」が時間間隔を左右するとして、集中の対象が少なければ時間は長く感じるのではと書きましたが、恐らくこれを読んで、「でも時間を忘れるくらいに何か一つに集中するとも言わない?(・д・)」、という風に思った型もいるのではないかと思います。事実私もそう思いますし、集中対象が一つでも時間を短く感じることも少なくないと思います。
ではそうしたことは何故起こるのか、次回はその集中対象と集中度の関連について算数的な話を書こうと思います。
2010年1月11日月曜日
このブログを二年間やってきて
まず最初にちょっと違和感を覚えた時事通信社のニュースがあったので、それについて一言書いておきます。
・小沢氏側に23億円移動=新生、自由党解散時に-多額の公金流入(時事通信)
この記事の何が問題なのかと言うと、書いてある内容というのが私が「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」で紹介した文芸春秋一月号に書かれている松田賢弥氏の記事そのまんまだということです。特に自分でこれという取材をした、新たな事実がわかったという痕跡もなく、一ヶ月前にすでに同内容を報じている松田氏の文芸春秋の記事を伏せてこの様な記事をさも自分達が得たニュースかのように見せるこの書き方には、あなた方に記者としてプライドはないのかと強く言いたいです。
これまた私が前回に書いた「菅直人氏の財務相就任について」の記事にて突っ込んだ「藤井財務相続投」と伝えた誤報といい、時事通信社の政治部は一体どうしているのか疑わしいものです。
そうしたことは置いといて、そろそろ本題に入ります。
この陽月秘話は2007年の12月からスタートしており、先月までで実質二年間、ほぼ毎日一本記事を書きながら続けて来れました。当初は二、三日に一本くらいでいいものかと思っていましたが元から文章を打つことにそれほど苦労を感じないので、気がついたら習慣の様になってこのペースを維持して来れました。
ただこの一日一本のペースにはちょっと迷いもあり、毎日一本ずつ書くことでリアルタイムで時事解説などを行える一方で、ネットでの簡単な調査をやった上での世相分析のような記事が書き辛くなっております。現在でも休日とかにそういったものをいくつか取り扱っておりますが、それでもこう細かく記事をアップするよりも内容のしっかりした記事を隔日で出す方がいいのではないかとも以前から感じており、それを考える上で更新回数についてどう思うのかというアンケートを本店に作った所、現在まで4票すべてが「普通」と書かれて、なんかどうしようもないなと感じてしまいました。まぁこのアンケートは「多すぎる」、「普通」、「少なすぎる」の三択で聞き方が悪かった気がしますが。
アクセス数については現在の所、本店の方では30人強、出張所の方では50人前後の方に毎日アクセスしてもらえて書いている側として非常にありがたいのですが、なんていうか本店が出張所に追い抜かれるとは最初は想像もしておりませんでした。恐らく原因はグーグルなどの検索サイトの検索で、自分でもいろいろなトピックスで検索を掛けているのですが、このところは同じ話題でも本店より出張所が引っかかりやすくなっており、リピーターはともかく新規アクセス者の差がこの差を生んだものかと見ております。
本音を言えばこれだけ毎日書いているんだし、内容もそこそこ面白いのではと自負する記事もいくつかあるのでもう少し伸びてくれないものかといつも思うのですが、そこらへんはやっぱり思うようには行かないものです。とはいえこれだけ堅い内容でだらだらとした文章でも、リピーターが何人かついてもらえるかだけでも本当にありがたく思えます。
そうした中、去年一年で一つの手ごたえを掴んだと言うか、ちゃんと書き続けていればそれなりに評価してもらえるのだというような確信を得ることは出来ました。その理由というのも過去の記事でも書いていますがどこかのサイトで紹介してもらったのか、「日本の法人税は本当に高いのか」の記事が書いてから約一年も経っているにもかかわらず去年の十月にやけにヒットし、下記の掲示板にて議論の対象となったからです。
・はてなブックマーク
・コッソリアンケートβ
書いた本人に言わせると、この記事は「新聞赤旗」さんの記事の引用でそれにプラスαこと経団連の悪口かいただけで、こんなのでアクセスを増やすというのには内心悪いような気がしたのですが、この記事でこれだけアクセスが増えるのであれば、もっといい分析の行えている記事も時間が経つことによって評価されるのではないかと前向きに思えるようになりました。
おかげさまでこの記事は「ガジェット通信」さんにも取り上げてもらえましたが、まぁまた本音を書くとこんなのよりももっと他の記事を取り上げてくれよという気持ちもありましたが……。
こんな具合で手ごたえを得る一方、当初は連動して運営するつもりだったホームページサイトの「陽月旦」を放置することになってしまったのは我ながら残念です。言い訳をするとデータ管理が非常に面倒で、総理や総裁など役職が変わる度にいちいち人物項の記載を直さなければならず、また私自身がhtmlに慣れていないのもあってなかなか集中して作れなかったのが失敗要因です。もう少しマクロを勉強したらどうにかなるかもしれないけど、再開はまだまだ未定です。
あとこれも企画倒れになるかもしれませんが、そろそろ隠れた本願であった小説をこれまた専門のブログを新たに作って書いていこうかなとも計画中です。元々私はこういう政治、社会問題の分析よりも小説が書きたいとずっと考えており、こっちの更新を減らして小説の連載もやっていくべきかと現在悩んでおります。ただ私は日本語のリズムは縦書きでなければ表現しきれないとも考えており、htmlの制約からくる横書きでまともな小説が書けるのか、そうした問題も未だ抱えております。
ひとまず実験的に何か短編でも書いてアップしてみようかと思いますが、この三連休はちょっと調子が悪くてブログ自体の文章も張りがないので、それもいつになることやらと先が思いやられる始末です。
・小沢氏側に23億円移動=新生、自由党解散時に-多額の公金流入(時事通信)
この記事の何が問題なのかと言うと、書いてある内容というのが私が「小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について」で紹介した文芸春秋一月号に書かれている松田賢弥氏の記事そのまんまだということです。特に自分でこれという取材をした、新たな事実がわかったという痕跡もなく、一ヶ月前にすでに同内容を報じている松田氏の文芸春秋の記事を伏せてこの様な記事をさも自分達が得たニュースかのように見せるこの書き方には、あなた方に記者としてプライドはないのかと強く言いたいです。
これまた私が前回に書いた「菅直人氏の財務相就任について」の記事にて突っ込んだ「藤井財務相続投」と伝えた誤報といい、時事通信社の政治部は一体どうしているのか疑わしいものです。
そうしたことは置いといて、そろそろ本題に入ります。
この陽月秘話は2007年の12月からスタートしており、先月までで実質二年間、ほぼ毎日一本記事を書きながら続けて来れました。当初は二、三日に一本くらいでいいものかと思っていましたが元から文章を打つことにそれほど苦労を感じないので、気がついたら習慣の様になってこのペースを維持して来れました。
ただこの一日一本のペースにはちょっと迷いもあり、毎日一本ずつ書くことでリアルタイムで時事解説などを行える一方で、ネットでの簡単な調査をやった上での世相分析のような記事が書き辛くなっております。現在でも休日とかにそういったものをいくつか取り扱っておりますが、それでもこう細かく記事をアップするよりも内容のしっかりした記事を隔日で出す方がいいのではないかとも以前から感じており、それを考える上で更新回数についてどう思うのかというアンケートを本店に作った所、現在まで4票すべてが「普通」と書かれて、なんかどうしようもないなと感じてしまいました。まぁこのアンケートは「多すぎる」、「普通」、「少なすぎる」の三択で聞き方が悪かった気がしますが。
アクセス数については現在の所、本店の方では30人強、出張所の方では50人前後の方に毎日アクセスしてもらえて書いている側として非常にありがたいのですが、なんていうか本店が出張所に追い抜かれるとは最初は想像もしておりませんでした。恐らく原因はグーグルなどの検索サイトの検索で、自分でもいろいろなトピックスで検索を掛けているのですが、このところは同じ話題でも本店より出張所が引っかかりやすくなっており、リピーターはともかく新規アクセス者の差がこの差を生んだものかと見ております。
本音を言えばこれだけ毎日書いているんだし、内容もそこそこ面白いのではと自負する記事もいくつかあるのでもう少し伸びてくれないものかといつも思うのですが、そこらへんはやっぱり思うようには行かないものです。とはいえこれだけ堅い内容でだらだらとした文章でも、リピーターが何人かついてもらえるかだけでも本当にありがたく思えます。
そうした中、去年一年で一つの手ごたえを掴んだと言うか、ちゃんと書き続けていればそれなりに評価してもらえるのだというような確信を得ることは出来ました。その理由というのも過去の記事でも書いていますがどこかのサイトで紹介してもらったのか、「日本の法人税は本当に高いのか」の記事が書いてから約一年も経っているにもかかわらず去年の十月にやけにヒットし、下記の掲示板にて議論の対象となったからです。
・はてなブックマーク
・コッソリアンケートβ
書いた本人に言わせると、この記事は「新聞赤旗」さんの記事の引用でそれにプラスαこと経団連の悪口かいただけで、こんなのでアクセスを増やすというのには内心悪いような気がしたのですが、この記事でこれだけアクセスが増えるのであれば、もっといい分析の行えている記事も時間が経つことによって評価されるのではないかと前向きに思えるようになりました。
おかげさまでこの記事は「ガジェット通信」さんにも取り上げてもらえましたが、まぁまた本音を書くとこんなのよりももっと他の記事を取り上げてくれよという気持ちもありましたが……。
こんな具合で手ごたえを得る一方、当初は連動して運営するつもりだったホームページサイトの「陽月旦」を放置することになってしまったのは我ながら残念です。言い訳をするとデータ管理が非常に面倒で、総理や総裁など役職が変わる度にいちいち人物項の記載を直さなければならず、また私自身がhtmlに慣れていないのもあってなかなか集中して作れなかったのが失敗要因です。もう少しマクロを勉強したらどうにかなるかもしれないけど、再開はまだまだ未定です。
あとこれも企画倒れになるかもしれませんが、そろそろ隠れた本願であった小説をこれまた専門のブログを新たに作って書いていこうかなとも計画中です。元々私はこういう政治、社会問題の分析よりも小説が書きたいとずっと考えており、こっちの更新を減らして小説の連載もやっていくべきかと現在悩んでおります。ただ私は日本語のリズムは縦書きでなければ表現しきれないとも考えており、htmlの制約からくる横書きでまともな小説が書けるのか、そうした問題も未だ抱えております。
ひとまず実験的に何か短編でも書いてアップしてみようかと思いますが、この三連休はちょっと調子が悪くてブログ自体の文章も張りがないので、それもいつになることやらと先が思いやられる始末です。
2010年1月10日日曜日
組織の腐敗とは
以前に組織論と称して、集団を大中小それぞれに区分した上でどのような構成が最も効率的に活動できるのか等をいろいろ考えていたことがありました。別に社会学の定義を出さなくとも、大体5人以上の構成員を持った集団ができるとその5人の思考や人格とは別に集団という独立した擬似人格というものが生まれ、そういったものを社会学や集団心理学は取り扱うのである意味専門にあったことを構想していたと思えます。
もちろん集団を如何に機能的にするかはその集団がどのような目的を持っていてどのような状況にいるかによって変わるので一概に言い切れるものはないのですが、唯一と言っていいくらい言い切れる法則として、比較的大規模な組織は基本的に腐敗していくものだと考えました。
たとえ組織の結成当初はどれだけ崇高な志を持って結成されていたとしても、またその精神を綱領なり憲法にて書いておいたとしても、組織ごとに速度に差はあってもいつかは腐敗して汚職や不正行為といったような本来の目的とはかけ離れた行動を取るようになると言えると思います。日本政府の官僚組織を引き合いに出すまでもなくソ連や中国共産党、日本の仏教は奈良時代や平安時代に結構好き勝手やったやんちゃな時期を終えているのか現代では大分大人しくなりましたが。
ではこの組織の腐敗化を根絶できないにしても、いかにすればその腐敗するのを抑えて高いモラルを保てるのか、いわば組織に対する防腐剤のような手段はないのかですが、いろいろあるでしょうが敢えて最も効率のいいものを私が挙げるとしたら、換骨奪胎こと組織の外見を維持して中身を挿げ替える手段が唯一の方法ではないかと思います。言うなれば、名前だけ残して古い組織を潰し、新しい組織に変えてしまうというやり方です。
そのように中身がすげ変わった代表的な組織をいくつか歴史上の中で取り上げると、まずは日本の鎌倉幕府でしょう。当初は源頼朝の専制色の強かった武士団でしたが、頼朝の死後に彼の子である頼家と実朝が早くに亡くなると有力御家人の合議制へと変わり、さらには北条義時と政子の活動によって三代目執権の北条泰時の題に至って再び執権による専制色の強い組織へと舞い戻っております。
はっきり言って鎌倉幕府は設立してまもなく起こった天皇家の巻き返しこと承久の乱の際は非常にピンチでしたが、最初の合議制の移行が比較的うまくいったために乗り切れた感があります。
この様な組織の中身が入れ替わると言う事例は何も昔に限らず現代でも起きており、また一例を出すと元松下電器こと現パナソニックなんかその例だと思います。
松下は失われた十年末期に深刻な経営不振に陥り、その際に社長に就任した中村邦夫氏(現会長)がドラスティックな改革を行い、見事経営を立て直しました。なおその際の社内改革は苛烈を極め、当時から中村氏は「幸之助精神の破壊者」と呼ばれていました。そして実際に人伝に聞くと現在のパナソニックはすっかり以前とは社風が変わり、松下幸之助の会社であった松下電器は中村邦夫のパナソニックに名前だけでなく組織全体が変わったと評されております。それがいいかどうかは別として。
もちろん集団を如何に機能的にするかはその集団がどのような目的を持っていてどのような状況にいるかによって変わるので一概に言い切れるものはないのですが、唯一と言っていいくらい言い切れる法則として、比較的大規模な組織は基本的に腐敗していくものだと考えました。
たとえ組織の結成当初はどれだけ崇高な志を持って結成されていたとしても、またその精神を綱領なり憲法にて書いておいたとしても、組織ごとに速度に差はあってもいつかは腐敗して汚職や不正行為といったような本来の目的とはかけ離れた行動を取るようになると言えると思います。日本政府の官僚組織を引き合いに出すまでもなくソ連や中国共産党、日本の仏教は奈良時代や平安時代に結構好き勝手やったやんちゃな時期を終えているのか現代では大分大人しくなりましたが。
ではこの組織の腐敗化を根絶できないにしても、いかにすればその腐敗するのを抑えて高いモラルを保てるのか、いわば組織に対する防腐剤のような手段はないのかですが、いろいろあるでしょうが敢えて最も効率のいいものを私が挙げるとしたら、換骨奪胎こと組織の外見を維持して中身を挿げ替える手段が唯一の方法ではないかと思います。言うなれば、名前だけ残して古い組織を潰し、新しい組織に変えてしまうというやり方です。
そのように中身がすげ変わった代表的な組織をいくつか歴史上の中で取り上げると、まずは日本の鎌倉幕府でしょう。当初は源頼朝の専制色の強かった武士団でしたが、頼朝の死後に彼の子である頼家と実朝が早くに亡くなると有力御家人の合議制へと変わり、さらには北条義時と政子の活動によって三代目執権の北条泰時の題に至って再び執権による専制色の強い組織へと舞い戻っております。
はっきり言って鎌倉幕府は設立してまもなく起こった天皇家の巻き返しこと承久の乱の際は非常にピンチでしたが、最初の合議制の移行が比較的うまくいったために乗り切れた感があります。
この様な組織の中身が入れ替わると言う事例は何も昔に限らず現代でも起きており、また一例を出すと元松下電器こと現パナソニックなんかその例だと思います。
松下は失われた十年末期に深刻な経営不振に陥り、その際に社長に就任した中村邦夫氏(現会長)がドラスティックな改革を行い、見事経営を立て直しました。なおその際の社内改革は苛烈を極め、当時から中村氏は「幸之助精神の破壊者」と呼ばれていました。そして実際に人伝に聞くと現在のパナソニックはすっかり以前とは社風が変わり、松下幸之助の会社であった松下電器は中村邦夫のパナソニックに名前だけでなく組織全体が変わったと評されております。それがいいかどうかは別として。
2010年1月9日土曜日
天才を世に出す価値
相互リンク相手のサカタさんのブログ「毘沙門道」にて、「パプテマス・シロッコ」の記事がアップされたので、応援の意味を込めてちょっと関連する内容というか私の考えを書いてみようかと思います。
まず先にこのパプテマスシロッコというキャラクターの事を簡単に説明すると、この人は「機動戦士Zガンダム」に出てくる登場人物で、物語全般の黒幕に当たるような人物です。一貫して野心の強い人物として描かれており、特に作中の彼のセリフで、「常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ!!」というセリフは彼の役柄を強く反映しております。
さてこのシロッコのセリフですが、何を隠そう実は常日頃から私も口にしているセリフです。
こう書くと本当に見も蓋もないですが、あのシロッコのセリフを中学生の頃に聞いてなるほどと得心した私はそのまんま引用する形であちこちで口にしては周囲から多大な顰蹙を買っております。無論こんな事言えば顰蹙買うのはわかっているのですが、それでも私は言わなければならないと考えており、保身を気にせずまともに話が出来る相手には結構急なタイミングとかで言い出したりします。
では何故そこまでして私がこのセリフを言うのかですが、一番大きい理由としてはまず私自身が世の中を正の方向へ大きく牽引、発展させるためにはどうしても天才の力が必要だと強く認識しているからです。はっきり言って凡人が何百人いたところで画期的なアイデアが議論の上に生まれてくるわけでなく、天才のひらめきと言うか、突飛で常識破りな価値観や考え方というものがいつの時代にもどの場所にも私は必要だと考えております。トーマス・エジソンなんかもこういう風に考えていたらしく、彼の名言としてよく挙げられる、「天才とは99%の努力と1%のひらめきが必要」というセリフは実際には、「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄だ」という発言だったらしいそうです。
そうした取り方にとっては差別的ともとられかねない意見の次に、私は天才を世に出すということは非常に難しいと考えるがゆえに先程のセリフを敢えて発言する必要があると考えております。この、天才を世に出す難しさといっても、ピンと来る人はそれほどいないかと思われるので、ちょっとそのあたりについて詳しく解説します。
まず天才と一言で言っても、実に様々なタイプがあります。それこそ勉強もスポーツも出来る万能型や、ある野球のセンスはずば抜けているが言語センスもある意味でずば抜けている長嶋茂雄氏のような特化型、果てには欠損とも言えるほどに何かが出来ない一方で他の人が真似できないことをすることが出来る逆補償型などなど。それこそ一番最初の万能型であれば世の中に出てきてそこそこ用を成す、仕事を成すという事はそれほど難しくなさそうですが、後の二者となるとその特化している分野の世界に入ることが出来なければこれまたただの人で終わってしまいます。
またたとえその秀でた力を活用できる世界や現場にうまいこと入れたとしても、それ相応の地位や権限、またはチャンスがなければその力を十二分に活用することも適いません。
私が何故こんなことを言うのかというと、思うに世の中はそのような埋もれた天才と言うものが数多くいるからではないかと思うからです。元々そんな風に思うようになったのも中国史の史記を読んだことからで、歴史上数多の天才が現れるもののことごとく旧来の勢力、天才の立身出世を妬む者らによってその地位を引き摺り下ろされるものもいれば中には暗殺される者も多く、結果論からですがどうしてこんなまともな案を採用せずにあのような愚者の案を使ってしまうのかと何度となく考えさせられたからです。
この様な天才の活躍が阻まれるという逸話は中国史(明らかに中国は他国と比して多いけど)に限らず世界中どこの歴史でも見ることが出来、いくつか例を出すとカルタゴのハンニバルや菅原道真、真田幸村にメンデルなど、どれも悲劇の人物としてよく取り扱われます。また歴史の表舞台に名前の挙がってない無名の天才というのも、主に画家や作家といった芸術分野において数多くおります。しんがぎんなんかこの類かな。
こういった過去の歴史から私は、天才を生み出す難しさ以上に天才を世に出す難しさの方が上なのではと思うようになりました。特に私の得意とする政治、行政分野においては元々の門戸が狭いという事もあって、ほんとうにしょうもない人物の奸計によって立派な人物が退場を余儀なくされることなど日常茶飯事です。それゆえに志の高い人間、実力のある人間を本当の意味で応援する、言うなれば天才を下支えするという事がこの分野においては特に求められているかと思います。
そういった思いからか、こういうブログを運営するようになっていったのかもしれません。まぁウォッチャーの役割を果たす重要性もさることながら、プレイヤーになりたいという下心も全くないわけじゃありませんが。
まず先にこのパプテマスシロッコというキャラクターの事を簡単に説明すると、この人は「機動戦士Zガンダム」に出てくる登場人物で、物語全般の黒幕に当たるような人物です。一貫して野心の強い人物として描かれており、特に作中の彼のセリフで、「常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ!!」というセリフは彼の役柄を強く反映しております。
さてこのシロッコのセリフですが、何を隠そう実は常日頃から私も口にしているセリフです。
こう書くと本当に見も蓋もないですが、あのシロッコのセリフを中学生の頃に聞いてなるほどと得心した私はそのまんま引用する形であちこちで口にしては周囲から多大な顰蹙を買っております。無論こんな事言えば顰蹙買うのはわかっているのですが、それでも私は言わなければならないと考えており、保身を気にせずまともに話が出来る相手には結構急なタイミングとかで言い出したりします。
では何故そこまでして私がこのセリフを言うのかですが、一番大きい理由としてはまず私自身が世の中を正の方向へ大きく牽引、発展させるためにはどうしても天才の力が必要だと強く認識しているからです。はっきり言って凡人が何百人いたところで画期的なアイデアが議論の上に生まれてくるわけでなく、天才のひらめきと言うか、突飛で常識破りな価値観や考え方というものがいつの時代にもどの場所にも私は必要だと考えております。トーマス・エジソンなんかもこういう風に考えていたらしく、彼の名言としてよく挙げられる、「天才とは99%の努力と1%のひらめきが必要」というセリフは実際には、「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄だ」という発言だったらしいそうです。
そうした取り方にとっては差別的ともとられかねない意見の次に、私は天才を世に出すということは非常に難しいと考えるがゆえに先程のセリフを敢えて発言する必要があると考えております。この、天才を世に出す難しさといっても、ピンと来る人はそれほどいないかと思われるので、ちょっとそのあたりについて詳しく解説します。
まず天才と一言で言っても、実に様々なタイプがあります。それこそ勉強もスポーツも出来る万能型や、ある野球のセンスはずば抜けているが言語センスもある意味でずば抜けている長嶋茂雄氏のような特化型、果てには欠損とも言えるほどに何かが出来ない一方で他の人が真似できないことをすることが出来る逆補償型などなど。それこそ一番最初の万能型であれば世の中に出てきてそこそこ用を成す、仕事を成すという事はそれほど難しくなさそうですが、後の二者となるとその特化している分野の世界に入ることが出来なければこれまたただの人で終わってしまいます。
またたとえその秀でた力を活用できる世界や現場にうまいこと入れたとしても、それ相応の地位や権限、またはチャンスがなければその力を十二分に活用することも適いません。
私が何故こんなことを言うのかというと、思うに世の中はそのような埋もれた天才と言うものが数多くいるからではないかと思うからです。元々そんな風に思うようになったのも中国史の史記を読んだことからで、歴史上数多の天才が現れるもののことごとく旧来の勢力、天才の立身出世を妬む者らによってその地位を引き摺り下ろされるものもいれば中には暗殺される者も多く、結果論からですがどうしてこんなまともな案を採用せずにあのような愚者の案を使ってしまうのかと何度となく考えさせられたからです。
この様な天才の活躍が阻まれるという逸話は中国史(明らかに中国は他国と比して多いけど)に限らず世界中どこの歴史でも見ることが出来、いくつか例を出すとカルタゴのハンニバルや菅原道真、真田幸村にメンデルなど、どれも悲劇の人物としてよく取り扱われます。また歴史の表舞台に名前の挙がってない無名の天才というのも、主に画家や作家といった芸術分野において数多くおります。しんがぎんなんかこの類かな。
こういった過去の歴史から私は、天才を生み出す難しさ以上に天才を世に出す難しさの方が上なのではと思うようになりました。特に私の得意とする政治、行政分野においては元々の門戸が狭いという事もあって、ほんとうにしょうもない人物の奸計によって立派な人物が退場を余儀なくされることなど日常茶飯事です。それゆえに志の高い人間、実力のある人間を本当の意味で応援する、言うなれば天才を下支えするという事がこの分野においては特に求められているかと思います。
そういった思いからか、こういうブログを運営するようになっていったのかもしれません。まぁウォッチャーの役割を果たす重要性もさることながら、プレイヤーになりたいという下心も全くないわけじゃありませんが。
2010年1月8日金曜日
日本アニメキャラ傑作選~カテジナ・ルース~
「日本漫画キャラ傑作選」という題でこれまでにもいくつか記事は書いているのですが、アニメキャラの方では特に項目を設けていなかったのは今思うとすこし失敗だったような気がします。これだったら「日本アニメ、漫画キャラ傑作選」のがよかったかもしれません。
そういうわけで今日のこの記事はアニメにおけるキャラクター一人を取り扱う記事として一発目になるのですが、その一発目によりにもよってこのキャラクターを選ぶ辺り、なんか自分に対していろいろと考えさせられます。
そんな考えさせられるキャラクターこと「カテジナ・ルース」というキャラクターは、「機動戦士Vガンダム」に登場する女性キャラクターの一人です。このVガンダムは数あるガンダムシリーズの中でも際立って女性キャラクターが多く登場する作品なのですが、恐らく誰に聞いても一番印象に残ったのはとなるとこのカテジナの名前が出てくるかと思われます。
ではそんなカテジナ、っていうよりもカテジナさんは一体どういうキャラクターなのか、簡単に作品の中での立ち位置の変化を時系列で紹介します。
・年下の主人公のメールフレンドで、資産家の家の正義感の強いお嬢様として登場
↓↓↓
・戦災から脱出中に主人公のライバルキャラの不意打ちを受け、敵軍の捕虜となる
↓↓↓
・自分をさらったライバルキャラの秘書官となり、主人公と再会する
↓↓↓
・秘書官からいつの間にか敵軍のMSパイロットになる
↓↓↓
・一パイロットからいつの間にかエースとなって部隊を指揮し始める
↓↓↓
・まさかまさかでこの作品におけるラスボスとして主人公の前に立ち塞がる
なんていうか、こうして書き起こすと荒唐無稽もいいような流転ぶりな気もします。登場当初は戦争行為自体に批判的だったのが敵軍で活動するようになるあたりからはどんどんと好戦的になり、弱気になる主人公のライバルキャラに対して何度も叱咤激励をかけて操りだすなど、気が強いというか癇が強いという性格こそストーリー上一貫しているもののその激変振りには当時の視聴者も目を丸くしたかと思います。
特に後半に至っては敵軍の中でも圧倒的強さを誇るエースパイロットなり、さながら三国無双における呂布のような鬼人の如き活躍で物語開始当初より登場してきた主人公の仲間達を次々と殺害していき、それに合わせて本人の発言や行動もどんどんとねじがぶっ飛んだような、敵機の撃墜に高笑いをしたり、部下にありえない作戦を命じたりするようになるなど人格が破綻していくように描かれています。
そんなカテジナさんに対して主人公のウッソ・エヴィンは当初より片思いをしていただけあって戦場で何度も説得を試みるのですが、時とともに人格が破綻していくカテジナさんにはまさに馬の耳に念仏で、終いには何度も、「おかしいですよ、カテジナさん」と言うもんだから「おかしいですよ」が「カテジナさん」の枕詞としてガンダムファンの中で定着するとともに、作中のぶっ飛びぶりから「ガンダムシリーズ、最恐の女性キャラ」と君臨することとなりました。
実は私にとってこのVガンダムこそが初めて視聴したガンダム作品だったのですが、小学生だった私は作品中に出てくるMSをかっこいいとか思うよりもこのカテジナさんという強烈なキャラクターばかりが印象に残り、とにもかくにもいろんな意味でキレまくっているカテジナさんを見て、「大人の女の人ってこんなに恐いものなのか(゚Д゚;)」と子供心に思ったほどでした。
その後、成人した後に改めて私はこのVガンダムは見返して見たのですが、もしかしたら私がカテジナさんに感じた恐怖というのは彼女の中にある対象のない憎悪だったのではないかと最近思うようになりました。詳しくは作品を視聴してもらえばわかるかと思いますが、当初は主人公らと行動を共にしていたのに途中から敵軍で、しかもパイロットとして活動するなど一体何を目的として何のために戦っているのか見ていて全くわからず、それでもまだ途中までは敵軍の中にいる主人公のライバルキャラであるクロノクル・アシャーへの好意から戦っているようにも見えるのですが終盤に入るとそんなのお構いなしで、ウッソとクロノクルが戦い合う姿を見て自分を奪い合っているなどと一人恍惚にはいったりします。
小説の中では自分の父親が不倫をしていた事から対して一定の人間不信を持っていたというように幾ばくかの理由付けがなされていますが、それでもどうしてそこまではっきりとした目的や理由なく戦闘に執着できるのか、他人を憎悪できるのかがこのキャラには全く見えてきません。しかもその憎悪の対象というのも本当に見境がなく、何故そこまで怒れるのか、人を憎めるのか、カテジナさんの対象のない激しい憎悪こそが私に強い恐怖感をもたらせた要因だったのではないかとこの前から思うようになりました。
ただこの対象の存在しない憎悪ですが、これは決してカテジナさんだけのものではないとも思います。もちろん彼女の場合は際立ってはいますが、一程度の人間にはそれ相応に備わっている憎悪感じゃないかと思います。私自身、むしゃくしゃした際に誰彼かまわず八つ当たりをしたいと思うこともありますし、三年前から一昨年までに頻発した通り魔事件などはっきりとした対象なき殺人も現に起こっています。また突き詰めて言えば、関係ない人間を巻き込んでもかまわないという自爆テロといったテロリスト活動もこの類に属するでしょう。
このカテジナさんの声優をアニメで演じたのは現在ケロロ軍曹役で大活躍している渡辺久美子氏ですが、恐らく渡辺氏でなければこのカテジナさんは成立し得ないと思うくらいに見事なはまり役でした。ただ渡辺氏もウィキペディアによると、「あんな悪い女、見たことねぇ( ゚д゚)、ペッ」とカテジナさんのことを評しているそうです。
最近とみに思うのは、このカテジナさんのような邪悪の塊のようなキャラクターを見かけないことです。邪悪なキャラクターではありますが、者を考えるという意味では私にとって非常にいい影響、もとい女は恐いという事を教えてくれたキャラクターゆえに、こうして記事にしようと思ったわけです。
そういうわけで今日のこの記事はアニメにおけるキャラクター一人を取り扱う記事として一発目になるのですが、その一発目によりにもよってこのキャラクターを選ぶ辺り、なんか自分に対していろいろと考えさせられます。
そんな考えさせられるキャラクターこと「カテジナ・ルース」というキャラクターは、「機動戦士Vガンダム」に登場する女性キャラクターの一人です。このVガンダムは数あるガンダムシリーズの中でも際立って女性キャラクターが多く登場する作品なのですが、恐らく誰に聞いても一番印象に残ったのはとなるとこのカテジナの名前が出てくるかと思われます。
ではそんなカテジナ、っていうよりもカテジナさんは一体どういうキャラクターなのか、簡単に作品の中での立ち位置の変化を時系列で紹介します。
・年下の主人公のメールフレンドで、資産家の家の正義感の強いお嬢様として登場
↓↓↓
・戦災から脱出中に主人公のライバルキャラの不意打ちを受け、敵軍の捕虜となる
↓↓↓
・自分をさらったライバルキャラの秘書官となり、主人公と再会する
↓↓↓
・秘書官からいつの間にか敵軍のMSパイロットになる
↓↓↓
・一パイロットからいつの間にかエースとなって部隊を指揮し始める
↓↓↓
・まさかまさかでこの作品におけるラスボスとして主人公の前に立ち塞がる
なんていうか、こうして書き起こすと荒唐無稽もいいような流転ぶりな気もします。登場当初は戦争行為自体に批判的だったのが敵軍で活動するようになるあたりからはどんどんと好戦的になり、弱気になる主人公のライバルキャラに対して何度も叱咤激励をかけて操りだすなど、気が強いというか癇が強いという性格こそストーリー上一貫しているもののその激変振りには当時の視聴者も目を丸くしたかと思います。
特に後半に至っては敵軍の中でも圧倒的強さを誇るエースパイロットなり、さながら三国無双における呂布のような鬼人の如き活躍で物語開始当初より登場してきた主人公の仲間達を次々と殺害していき、それに合わせて本人の発言や行動もどんどんとねじがぶっ飛んだような、敵機の撃墜に高笑いをしたり、部下にありえない作戦を命じたりするようになるなど人格が破綻していくように描かれています。
そんなカテジナさんに対して主人公のウッソ・エヴィンは当初より片思いをしていただけあって戦場で何度も説得を試みるのですが、時とともに人格が破綻していくカテジナさんにはまさに馬の耳に念仏で、終いには何度も、「おかしいですよ、カテジナさん」と言うもんだから「おかしいですよ」が「カテジナさん」の枕詞としてガンダムファンの中で定着するとともに、作中のぶっ飛びぶりから「ガンダムシリーズ、最恐の女性キャラ」と君臨することとなりました。
実は私にとってこのVガンダムこそが初めて視聴したガンダム作品だったのですが、小学生だった私は作品中に出てくるMSをかっこいいとか思うよりもこのカテジナさんという強烈なキャラクターばかりが印象に残り、とにもかくにもいろんな意味でキレまくっているカテジナさんを見て、「大人の女の人ってこんなに恐いものなのか(゚Д゚;)」と子供心に思ったほどでした。
その後、成人した後に改めて私はこのVガンダムは見返して見たのですが、もしかしたら私がカテジナさんに感じた恐怖というのは彼女の中にある対象のない憎悪だったのではないかと最近思うようになりました。詳しくは作品を視聴してもらえばわかるかと思いますが、当初は主人公らと行動を共にしていたのに途中から敵軍で、しかもパイロットとして活動するなど一体何を目的として何のために戦っているのか見ていて全くわからず、それでもまだ途中までは敵軍の中にいる主人公のライバルキャラであるクロノクル・アシャーへの好意から戦っているようにも見えるのですが終盤に入るとそんなのお構いなしで、ウッソとクロノクルが戦い合う姿を見て自分を奪い合っているなどと一人恍惚にはいったりします。
小説の中では自分の父親が不倫をしていた事から対して一定の人間不信を持っていたというように幾ばくかの理由付けがなされていますが、それでもどうしてそこまではっきりとした目的や理由なく戦闘に執着できるのか、他人を憎悪できるのかがこのキャラには全く見えてきません。しかもその憎悪の対象というのも本当に見境がなく、何故そこまで怒れるのか、人を憎めるのか、カテジナさんの対象のない激しい憎悪こそが私に強い恐怖感をもたらせた要因だったのではないかとこの前から思うようになりました。
ただこの対象の存在しない憎悪ですが、これは決してカテジナさんだけのものではないとも思います。もちろん彼女の場合は際立ってはいますが、一程度の人間にはそれ相応に備わっている憎悪感じゃないかと思います。私自身、むしゃくしゃした際に誰彼かまわず八つ当たりをしたいと思うこともありますし、三年前から一昨年までに頻発した通り魔事件などはっきりとした対象なき殺人も現に起こっています。また突き詰めて言えば、関係ない人間を巻き込んでもかまわないという自爆テロといったテロリスト活動もこの類に属するでしょう。
このカテジナさんの声優をアニメで演じたのは現在ケロロ軍曹役で大活躍している渡辺久美子氏ですが、恐らく渡辺氏でなければこのカテジナさんは成立し得ないと思うくらいに見事なはまり役でした。ただ渡辺氏もウィキペディアによると、「あんな悪い女、見たことねぇ( ゚д゚)、ペッ」とカテジナさんのことを評しているそうです。
最近とみに思うのは、このカテジナさんのような邪悪の塊のようなキャラクターを見かけないことです。邪悪なキャラクターではありますが、者を考えるという意味では私にとって非常にいい影響、もとい女は恐いという事を教えてくれたキャラクターゆえに、こうして記事にしようと思ったわけです。
登録:
コメント (Atom)