・中国当局、ゲーム機の禁止政策を見直し=報道(ロイター)
なんか気になるというかちょっと一家言あるニュースが昨日出てたので、今日は上のリンク先にあるニュースを軸に中国のゲーム機事情について解説します。
まず上のニュースの内容ですが簡単に言ってしまうと、2000年から禁止してたゲーム専用機の国内流通を解禁するのではないかという内容です。このニュースに対して私が何を言いたいのかというと、「俺の立場は!?」っていう一言です。というのも私は去年の7月にこの「解禁するのでは?」という記事を書いており、多分日本語媒体ではどこよりも早く報じたつもりです。さらに当時気が進まなかったけどなんか会社が情報提供している関係から電通に対しても記事の内容を細かく説明までさせられました。それが今更こう大きく報じられてもなぁって感じです。
そんな個人的な愚痴は置いといて中国の事情について説明すると、2000年以前は全く規制がなく日本国内同様にどのゲーム機も流通しておりました。私の友人の上海人などは「プレステかサターンのどちらを買おうか悩んだけど、鉄拳があったからプレステにした」と話しており、日本同様に90年代中盤には次世代機競争があったと証言しております。さらにここ最近で一番ビビった事件として、たまたま知り合った20代前半の中国人の女の子が、「魂斗羅?もちろん知ってるよ、上上下下左右左右でしょコナミコマンドは」とまで言ってのけて、意外に日本のゲームが中国にも深く浸透していたのだと思い知らされました。っていうか今の日本の20代の女の子は魂斗羅なんて知らないだろうけど。
それほどまでに浸透していた日本のゲーム機ですが、2000年に法令で禁止されてからは表だって国内流通することはなくなりました。一体何故中国政府が禁止措置を取ったのかというと表向きは青少年の精神教育に悪影響が及ぼすと言っておりますが、実態としては国内のソフトウェア産業ことゲームメーカーの技術力が非常に弱く、彼らを育成するために外国製ゲーム機をすべて排除したのです。
ここら辺は電通に対して説明する際にもかなり細かく解説させられたのですが、仮に当時出たばかりのプレイステーション2やXボックスの流通を国内で認めてしまうと、技術力で中国に勝る日米のゲームメーカーが作ったソフトが大量に出回って中国のゲームメーカーは一切育つことなく淘汰されるのではないかと中国当局は懸念したそうです。そこで文字通り締めだすというか、外国のゲームを入ってこないようにしてその間に国内メーカーを保護しようとしたわけです。
この辺の発想ですが、偏見かもしれませんが非常に理系的な発想だと思えます。最近は文系卒が増えていますが今の中国当局幹部連中はほぼみんな理系出身で、具体的にどうやって技術力を向上させるとか保護できるか、そういった意見が日本の政治家に比べて非常に鋭いことが多く、このゲームの措置一つとってもそれがうかがえます。
それはともかくとしてそうやって中国はゲーム機の国内流通は禁止したわけですが、中国で製造して第三国へ輸出する分には昔からOKで、聞くところによると任天堂のWiiとかXボックスは台湾のホンハイことフォックスコンがシンセン市でみんな作っているそうです。あと名目上は国内流通を禁止しているものの、並行輸入こと個人業者などが輸入して販売していることに対しては黙認しており、実際に中国でもPS3とか入手しようと思ったら簡単に買えますし、PS3で遊んでいる中国人もたくさんいてこの前なんか「ガンダムエクストリームバーサスでネット対戦しようよ」とか私も誘われました。
そんな中国がどうしてまたこのタイミングで解禁しようとしているのかですが、私が読んだ現地報道によると中国のゲームメーカーが力をつけてきたからだと分析しておりました。中国のゲームメーカーが作るゲームというのは基本的にパソコン上で遊ぶゲームが主なのですが、10年以上前と比べれば大分技術力を付けてきて今だったら黒船を迎え撃つことも出来るし、むしろPS3やXボックス360が国内で流通することによってゲーム市場が拡大すれば売り上げ増など恩恵が得られる可能性が高いと当局は踏んでるそうです。これはつまり、保護政策によって力をつけてきたので今こそ打って出るべき的な守りから攻めへの発想の転換です。
こういってはなんですがその見方は正しいと私も思います。実際に中国製ゲームで遊ぶことはありませんがパッケージデザインやゲーム画面などを見ている限りだと日本のゲームにも負けていませんし、国内にいる中国人好みのゲームを作るという点において優位があることを考えると十分に市場が成り立つように思えます。私としてはあと一言言うと、解禁してくれれば日本製ゲームが中国にも流通して相互理解が進むのではとも思え、まぁ固いこと言わないで早く解禁しておくれってところです。
最後に私が去年の7月に書いた記事執筆時のはみ出し話をすると、上司に指示されたので日本のゲーム大手のソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)と任天堂にこうした報道にどう思うのか電話をかけて尋ねてみました。まずSCEは広東省に法人を再設立させたということを知っていたから具体的にいつ設立してやっぱり解禁を期待しての動きかとアジア部門に電話を掛けたところ、「担当者がいなくてわかりません」と言われ、いやいや自分とこの部署が海外法人設立した日くらいわかるでしょ、調べなおしてまた電話頂戴と言って切ったらしばらくして、「やっぱりわかりません」と言われてなんなんだこの部署はと呆れました。
次に任天堂。自分も京都で4年間過ごしてるんだからはっきり言って嫌な予感はしてましたが、広報部につないでって言ってつないでもらって中国のこの報道についてどう思うかと単刀直入に聞いたところ、「すいません担当の者がいないのでまたあとで電話をかけ直します」と返してきたので私の電話番号を伝えたところ、未だに返答の電話がありません。まだ待ってるつもりなんだけど任天堂さんはいつ電話くれるのかな、早くしないと自分も会社からいなくなっちゃうってのに。
今日は別に酒飲んでるわけじゃないのにやけに跳ね飛んだ文章になってます。晩飯後にドーナツを4個を一気に食べたのが良くなかったのかもしれないなぁ( ´ー`)
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2013年1月29日火曜日
2013年1月28日月曜日
日系企業の中国拠点リスト販売、始めました
前々からちょくちょく紹介しておりますが、こちらが予想する以上にアクセス数が伸びてないので、ちょっとこちらのブログでもでっかく宣伝させてもらいます。
・中国景気観測局
多分このブログを始めてから初めてフォントサイズもおっきくしましたが、上記ページは私と友人が新婚夫婦のケーキカットよろしく初の共同作業によって作ったサイトです。一体どんなサイトかというと、中国の経済解説、それも数字データに集中した経済レポートを公開しているサイトです。
前から見ている人には早いですが、このブログで取り上げる範囲は果てしなく広いです。プライベートでも「花園さんって守備範囲広いっすね」と常々言われてますが、何にでも興味を持つせいか政治から経済、社会ネタ、果てには思想哲学関係など好き勝手な主張をこのブログで展開しています。ただそのせいか、一応大まかなカテゴリーは設けておりますが何か具体的なテーマに絞って記事が読みたい人の需要にはいまいち応えられてないんじゃという風には前からも自覚しておりました。そこで上記の「中国景気観測局」を作ったわけで、ここではブログではないことから図表データも載せやすく、いろいろデータを作っては中国経済に関するレポートを今後も増やしていこうと考えているわけです。
そんな中国景気観測局ですが現時点で何が一番すごいかっていうと、中国に進出している日系企業の電話番号、住所を網羅した拠点データを売っているって点です。載せている企業数(日本での登記ベース)は1417社、中国拠点数は6871拠点と、かなり果てしないデータとなっており、製作に関わった自分が言うのもなんですがいい仕上がりとなっております。価格は税別で1万円となっており、1本売れるごとに自分にも歩合でお小遣いが入ってくるシステムとなっているので、浅ましいことは自覚しておりますが興味のある方は下記連絡先、私宛でもいいので是非連絡ください。また興味のない方でも、周りにいる買ってくれそうな人に紹介していただけたらありがたい限りです。
それにしても、こうやってネットで情報を売ることが出来るようになったというのは凄い時代だなと思うのと同時に、自分もそういう一人になったのだなとしみじみ感じます。
中国拠点リストに関する連絡先:neida1919@gmail.com
・中国景気観測局
多分このブログを始めてから初めてフォントサイズもおっきくしましたが、上記ページは私と友人が新婚夫婦のケーキカットよろしく初の共同作業によって作ったサイトです。一体どんなサイトかというと、中国の経済解説、それも数字データに集中した経済レポートを公開しているサイトです。
前から見ている人には早いですが、このブログで取り上げる範囲は果てしなく広いです。プライベートでも「花園さんって守備範囲広いっすね」と常々言われてますが、何にでも興味を持つせいか政治から経済、社会ネタ、果てには思想哲学関係など好き勝手な主張をこのブログで展開しています。ただそのせいか、一応大まかなカテゴリーは設けておりますが何か具体的なテーマに絞って記事が読みたい人の需要にはいまいち応えられてないんじゃという風には前からも自覚しておりました。そこで上記の「中国景気観測局」を作ったわけで、ここではブログではないことから図表データも載せやすく、いろいろデータを作っては中国経済に関するレポートを今後も増やしていこうと考えているわけです。
そんな中国景気観測局ですが現時点で何が一番すごいかっていうと、中国に進出している日系企業の電話番号、住所を網羅した拠点データを売っているって点です。載せている企業数(日本での登記ベース)は1417社、中国拠点数は6871拠点と、かなり果てしないデータとなっており、製作に関わった自分が言うのもなんですがいい仕上がりとなっております。価格は税別で1万円となっており、1本売れるごとに自分にも歩合でお小遣いが入ってくるシステムとなっているので、浅ましいことは自覚しておりますが興味のある方は下記連絡先、私宛でもいいので是非連絡ください。また興味のない方でも、周りにいる買ってくれそうな人に紹介していただけたらありがたい限りです。
それにしても、こうやってネットで情報を売ることが出来るようになったというのは凄い時代だなと思うのと同時に、自分もそういう一人になったのだなとしみじみ感じます。
中国拠点リストに関する連絡先:neida1919@gmail.com
2013年1月27日日曜日
続、教員の早期退職問題について
先日書いた「教員の早期退職問題について」の記事で少し気になるコメントがあったので、今日は一つこの問題で追加記事を書くことにします。それにしても前の記事書いた金曜日は酔っぱらった状態で夜遅く家に帰ってきて、なにかちゃっちゃと書けるネタないかなと思って適当に書いた記事だったのにやけにコメント伸びたな。
話は本題に入りますが、その気になるコメントというのは「教員を含む公務員の退職金は平均で2700万円程度で、今回の給与改定に伴い減少する額は150万円程度で、減少した後も民間と比べて約15%高い」という内容です。このコメントの中で気になったのはそのまんま2700万円という金額なのですが、この金額が民間と比べて15%高いという記述が果たして本当なのかと強く疑いました。なので今日は面倒くさい仕事が片付いた週末ということもありちょこちょこ調べてみましたが、ほかの報道などを見る限りだとどうやらこの数字の根拠となっているのは下記の人事院の調査結果からのようです。
・民間の企業年金及び退職金の実態調査の結果並びに当該調査の結果に係る本院の見解について(人事院)
人事院というのは読んで字の如く公務員の人事や給与を決める機関なのですが、はっきり言って私はここの連中は信用しておらず胡散臭い組織だと考えています。そう考えるきっかけとなったのはまさに今回の給与改定で、民主党政権時に政府が人事院が勧告した数字以上に公務員給与切り下げを断行しようとした際、実際にはそんな条文などないにもかかわらず「人事院の勧告に政府が従わないのは憲法違反だ」と恥ずかしげもなく堂々と言ってのけて、なんなんだこいつらと怒りを通り越して呆れたことがあったからです。この時は最終的に政府が押し切って微減ではあるもの切り下げが断行されたのですが、今回こうしてその議論のベースとなる人事院が調査した民間平均の金額を調べてみたところ強く疑問を感じる金額であり、はっきり言ってしまえば自分たち公務員が多く受け取るために統計を操作しているのではないのかという印象を受けました。
順を追って説明しますが公務員給与というのは民間企業の平均給与を調査・算定した上でその金額に合わすような制度となっております。ただこれまでも調査対象となる民間企業は上場企業など大企業が多く、いわばてっぺんの上澄み部分だけを取って実際の民間平均以上に高い給与を公務員は受け取っていたという批判がありました。
今回私がやり玉に挙げている退職金も基本的にこの人事院が自分で調査して決めているのですが、昨年にこいつらが発表した退職金の民間平均額は2547万円で、公務員の2950万円より低いとしてます。そこで歩み寄るために今回引き下げるという話なのですが、そもそも民間平均が2547万円に達するのか、自分の感覚からして正直言って信じられない金額です。
あくまで私の感覚ですが、周囲から見聞きしている範囲だと大体1000万円前後のような気がします。もっとも私の会社に至っては単位時間当たりで最低賃金をブッチしている上に退職金制度自体ありませんがそれは置いといて(置いときたくないが)、肌感覚から言ってこの数字は実態から乖離し過ぎている気がしてなりません。そこでほかの機関が調査したデータはないのかと調べてみたところ、5年前になりますが東京都産業労働局が同じような調査を実施しておりました。
・公務員退職金水準引き下げ案再浮上、民間データの怪しさ
民間企業の退職金水準2547万7千円、これはどこの企業の平均なのか?(日本生活設計)
日本生活設計さんが上記ページで東京都産業労働局と人事院の調査データをきれいに比較しているのですが、東京都産業労働局が出した中小企業が出した退職金額の平均額を抜粋すると以下の通りです。
<大卒者の企業従業員数別平均退職金額>
100人から299人:1401万円
50人から99人:1117万円
10人から49人:1265万円
見てもらえばわかる通りにどれも1000万円強です。従業員数1000人以上の大企業だったらもうちょっと行くでしょうが、日本の従業員数の大半は中小企業に属していると考えると、全体平均では人事院の調査結果のように2000万円を突破することは考え辛いです。また上記の東京都産業労働局のデータは東京都内限定であることを考慮すると、より零細企業の多い地方を含めた全国平均だとさらに下がる可能性が高いです。
日本生活設計さんもこうしたデータを元に人事院にツッコミ入れておりますが、私個人としても同じテーマの調査で1000万円超も数字が乖離するなんて有り得ないように思えます。となるとどちらかが統計を歪に操作していることとなるわけですが、先ほども言ったように私の肌感覚からすると今の日本の退職金額は1000万円前後で、そうした見方からすると東京都産業労働局の方が信頼性を感じます。
久々に長々書いてきましたが、結論を言いますと「公務員の退職金額は民間より15%高い」という意見に対して私は「15%どころではなく2倍超なのでは」と言いたいわけです。もちろん、公務員とはいっても教員の退職金額が約2700万円かどうかはわかりませんが、仮に2000万円を超えるというのであれば民間に比べ非常に優遇された金額であると断言できます。
だからといって退職金額が減額される前に早期退職する教員に対して、前の記事にも書きましたが批判する気は私にはありません。多くもらえるのだったらそっちの方向に動くのが人間の常ですし、それぞれに生活があるのだからとやかく言うべきではない、そして何よりこれは友人の口癖ですが私は他人の生活にそこまで興味がありません。それでも二言だけ申すと、退職される教員の方はこの金額が非常に優遇された金額であることだけは意識してほしいのと、公務員の退職金額はもっと下げた方がいいのではという提言です。民間に合わすというのであれば、現行の2分の1でもいいのではないかと思います。
最後にこれは前の記事のコメント欄にも書きましたが、この問題で真に批判すべき対象は中途半端な時期に給与改定を行った行政側であるはずだと思うのに、何故だか振り回された当事者である教員へ批判が集中し過ぎているように見えます。何故教員に批判が集中するのか、はっきり言いますがこれはメディアの報道の仕方が原因だと思います。ネットニュースとNHKしか見ていませんがどちらも早期退職する教員がさも無責任な人間のように報じている上、行政への批判がなんかやけに緩い気がします。
そもそも何故直前ともいえるこの時期に急にこの問題への報道が増えたのか、細かいことですがこれも疑問です。言いたいことを言ってしまうと、何か意図があってどこかがこのニュースを報じるように仕向けたのではと作為的なものがある気がします。具体的にどこがどんな意図で流そうとしたのかまではまだ目測がついていませんが、非常にきな臭いニュースだなとよく感じます。
話は本題に入りますが、その気になるコメントというのは「教員を含む公務員の退職金は平均で2700万円程度で、今回の給与改定に伴い減少する額は150万円程度で、減少した後も民間と比べて約15%高い」という内容です。このコメントの中で気になったのはそのまんま2700万円という金額なのですが、この金額が民間と比べて15%高いという記述が果たして本当なのかと強く疑いました。なので今日は面倒くさい仕事が片付いた週末ということもありちょこちょこ調べてみましたが、ほかの報道などを見る限りだとどうやらこの数字の根拠となっているのは下記の人事院の調査結果からのようです。
・民間の企業年金及び退職金の実態調査の結果並びに当該調査の結果に係る本院の見解について(人事院)
人事院というのは読んで字の如く公務員の人事や給与を決める機関なのですが、はっきり言って私はここの連中は信用しておらず胡散臭い組織だと考えています。そう考えるきっかけとなったのはまさに今回の給与改定で、民主党政権時に政府が人事院が勧告した数字以上に公務員給与切り下げを断行しようとした際、実際にはそんな条文などないにもかかわらず「人事院の勧告に政府が従わないのは憲法違反だ」と恥ずかしげもなく堂々と言ってのけて、なんなんだこいつらと怒りを通り越して呆れたことがあったからです。この時は最終的に政府が押し切って微減ではあるもの切り下げが断行されたのですが、今回こうしてその議論のベースとなる人事院が調査した民間平均の金額を調べてみたところ強く疑問を感じる金額であり、はっきり言ってしまえば自分たち公務員が多く受け取るために統計を操作しているのではないのかという印象を受けました。
順を追って説明しますが公務員給与というのは民間企業の平均給与を調査・算定した上でその金額に合わすような制度となっております。ただこれまでも調査対象となる民間企業は上場企業など大企業が多く、いわばてっぺんの上澄み部分だけを取って実際の民間平均以上に高い給与を公務員は受け取っていたという批判がありました。
今回私がやり玉に挙げている退職金も基本的にこの人事院が自分で調査して決めているのですが、昨年にこいつらが発表した退職金の民間平均額は2547万円で、公務員の2950万円より低いとしてます。そこで歩み寄るために今回引き下げるという話なのですが、そもそも民間平均が2547万円に達するのか、自分の感覚からして正直言って信じられない金額です。
あくまで私の感覚ですが、周囲から見聞きしている範囲だと大体1000万円前後のような気がします。もっとも私の会社に至っては単位時間当たりで最低賃金をブッチしている上に退職金制度自体ありませんがそれは置いといて(置いときたくないが)、肌感覚から言ってこの数字は実態から乖離し過ぎている気がしてなりません。そこでほかの機関が調査したデータはないのかと調べてみたところ、5年前になりますが東京都産業労働局が同じような調査を実施しておりました。
・公務員退職金水準引き下げ案再浮上、民間データの怪しさ
民間企業の退職金水準2547万7千円、これはどこの企業の平均なのか?(日本生活設計)
日本生活設計さんが上記ページで東京都産業労働局と人事院の調査データをきれいに比較しているのですが、東京都産業労働局が出した中小企業が出した退職金額の平均額を抜粋すると以下の通りです。
<大卒者の企業従業員数別平均退職金額>
100人から299人:1401万円
50人から99人:1117万円
10人から49人:1265万円
見てもらえばわかる通りにどれも1000万円強です。従業員数1000人以上の大企業だったらもうちょっと行くでしょうが、日本の従業員数の大半は中小企業に属していると考えると、全体平均では人事院の調査結果のように2000万円を突破することは考え辛いです。また上記の東京都産業労働局のデータは東京都内限定であることを考慮すると、より零細企業の多い地方を含めた全国平均だとさらに下がる可能性が高いです。
日本生活設計さんもこうしたデータを元に人事院にツッコミ入れておりますが、私個人としても同じテーマの調査で1000万円超も数字が乖離するなんて有り得ないように思えます。となるとどちらかが統計を歪に操作していることとなるわけですが、先ほども言ったように私の肌感覚からすると今の日本の退職金額は1000万円前後で、そうした見方からすると東京都産業労働局の方が信頼性を感じます。
久々に長々書いてきましたが、結論を言いますと「公務員の退職金額は民間より15%高い」という意見に対して私は「15%どころではなく2倍超なのでは」と言いたいわけです。もちろん、公務員とはいっても教員の退職金額が約2700万円かどうかはわかりませんが、仮に2000万円を超えるというのであれば民間に比べ非常に優遇された金額であると断言できます。
だからといって退職金額が減額される前に早期退職する教員に対して、前の記事にも書きましたが批判する気は私にはありません。多くもらえるのだったらそっちの方向に動くのが人間の常ですし、それぞれに生活があるのだからとやかく言うべきではない、そして何よりこれは友人の口癖ですが私は他人の生活にそこまで興味がありません。それでも二言だけ申すと、退職される教員の方はこの金額が非常に優遇された金額であることだけは意識してほしいのと、公務員の退職金額はもっと下げた方がいいのではという提言です。民間に合わすというのであれば、現行の2分の1でもいいのではないかと思います。
最後にこれは前の記事のコメント欄にも書きましたが、この問題で真に批判すべき対象は中途半端な時期に給与改定を行った行政側であるはずだと思うのに、何故だか振り回された当事者である教員へ批判が集中し過ぎているように見えます。何故教員に批判が集中するのか、はっきり言いますがこれはメディアの報道の仕方が原因だと思います。ネットニュースとNHKしか見ていませんがどちらも早期退職する教員がさも無責任な人間のように報じている上、行政への批判がなんかやけに緩い気がします。
そもそも何故直前ともいえるこの時期に急にこの問題への報道が増えたのか、細かいことですがこれも疑問です。言いたいことを言ってしまうと、何か意図があってどこかがこのニュースを報じるように仕向けたのではと作為的なものがある気がします。具体的にどこがどんな意図で流そうとしたのかまではまだ目測がついていませんが、非常にきな臭いニュースだなとよく感じます。
2013年1月26日土曜日
書評「永遠の0」
・永遠の0(Wikipedia)
以前に知り合いに借りて読んだので(忙しい合間を縫って一週間で)、今日は小説「永遠の0」の書評を書こうかと思います。ちなみにひとつ前の書評は「積み木くずし 最終章」ですが、あれはドラマ放送時にえらくアクセス数を稼いでくれたので、今回も映画が公開される今年12月頃にヒット数を稼いでくれないかと早くも期待感で胸がいっぱいです。
この作品のあらすじを簡単に書くと、司法試験浪人でうだつの上がらない生活をしていた主人公はある日、ジャーナリストの姉から太平洋戦争中に特攻隊となって60年前に戦死した祖父、宮部久蔵について調査するよう依頼(ほぼ命令)されます。戦友会を通して知り合った祖父の戦友達は一様に、宮部久蔵は坂井三郎を始めとした歴史に残る名パイロットにも劣らない零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦の凄腕パイロットだったと証言するも、戦闘では積極的に戦うことはせず「臆病者」と呼ばれるほどに慎重かつ用意周到な性格で、宮部久蔵本人も戦争では絶対に死にたくないという自信の心情を周囲に隠すことはなかったと話します。一体何故死にたくないと広言していたにもかかわらず特攻隊となったのか、当時の戦況と共に主人公たちは20代で散った祖父の短い生涯を追っていくという内容です。
まず予備知識としてゼロ戦について触れておくと、これは日本軍が太平洋戦争中において幾度かの改良を経ながら一貫して使い続けた戦闘機なのですが、開戦初期は破格の性能であまりにも強かったことから米英軍は、「ゼロ戦と単独で遭遇した場合は直ちに離脱せよ」と、敵前逃亡するよう命令を出すほどでした。どうしてゼロ戦が他国の戦闘機より強かったのかというと非常に単純で、装甲が極端に薄い代わりに航続距離、旋回性能が高いという、防御を捨てて攻撃に特化した機体だったからです。その為にちょっとでも被弾したらすぐに撃墜されるのでパイロットの消耗が激しく、またこうしたゼロ戦の構造を分析した米英軍がゼロ戦が飛行出来ない高々空から急降下して攻撃するという一撃離脱戦法を編み出したことによって、戦争後期になっていくにしたがって徐々に活躍が失われていくこととなりました。
話は戻って「永遠の0」ですが、表現に関して気になった点を挙げると全編を通して戦友たちの語りが中心となっており、作者は元々放送作家ということからこういうインタビュー形式の文章になったのかなという気がします。一方、ちょっと専門的なことを言わせてもらえば語り以外の叙述ではほとんどが短文で区切られてて複文が少なく、やや表現力が甘いようにも感じるのですが、語りの部分を敢えて際立たせるために確信犯でこういう書き方をしているというのならば逆に大した表現方法だと唸らされます。
そして肝心の内容に関してですが、太平洋戦争の戦史に詳しくない主人公の視点が常に維持され、読者に対しても順番にかつ丁寧に当時の状況を説明しており物語の運び方は私からも太鼓判を押します。また宮部久蔵の顛末も最後の最後で大どんでん返しが待っており、ラストの方は「おいおいここでこういう展開かよ」と驚かされる結末となっており、一言で言って非常に面白い作品でした。
あと個人的に強く感じたとして、この作品の初版は2006年の発行ですが特攻隊の記述に関してまさに2000年代の作品であるというように思えます。というのも特攻隊の隊員たちは志願という形式で募集がされたことにはなっているものの、実態的には軍隊内で強制的に指名されて無理矢理実行されたということは1990年代の時点からも指摘されていたものの、2000年代に入ってからそうした強制があったという当時の証言が多く世に出るようになってきました。また特攻隊にされたパイロットたちもこうした作戦に意味があるのか、自分たちの様な熟練パイロットを捨て石にする作戦は破綻しているという証言も発見されるようになり、決してお国のためになどと狂信的な思想で実行していったわけじゃなく、本人たちも疑問と忌避感を持ちながら実行していたということが明らかとなってきました。
作品中でもこうした点をよく指摘しており、現在イスラム系テロリストらが実行している自爆テロとは一線を画す行為だったのだと強調されています。私個人の主観ではありますが、1990年代は戦時中の日本の教育や思想が歪んでいて自分の命よりも国のためという奉公意識が強かったから特攻は実行されたのだ、当時の人と現代人とでは思想が全然異なるという意見があったように思えるのですが、実際には現代人と当時の軍人に大きな思想の違いはなく、みんな死にたくないと思いながら死を強制されていたというのが真実のように思え、こうした見方が歴史家の間でも徐々に強まっているように見えます。この作品はその点を重要なテーマとしており、現代の思想も一つの価値観であって絶対的に正しいというものとは言い切れないものの、時代が異なろうとも人はそれほど大きくは異ならないというのを訴えたいのだと思います。
書評は以上の通りなのですが、私が読んだ文庫版の解説には一昨年に亡くなられた児玉清が寄せており、非常に表現しづらいのですがいろんな思いが頭の中を過ぎました。読んでる人には早いのですが死の直前に文芸春秋に寄せたこの人の寄稿文を読んでただけに、どういう思いで国家を見つめていたのだろうかとしばし考えました。
以前に知り合いに借りて読んだので(忙しい合間を縫って一週間で)、今日は小説「永遠の0」の書評を書こうかと思います。ちなみにひとつ前の書評は「積み木くずし 最終章」ですが、あれはドラマ放送時にえらくアクセス数を稼いでくれたので、今回も映画が公開される今年12月頃にヒット数を稼いでくれないかと早くも期待感で胸がいっぱいです。
この作品のあらすじを簡単に書くと、司法試験浪人でうだつの上がらない生活をしていた主人公はある日、ジャーナリストの姉から太平洋戦争中に特攻隊となって60年前に戦死した祖父、宮部久蔵について調査するよう依頼(ほぼ命令)されます。戦友会を通して知り合った祖父の戦友達は一様に、宮部久蔵は坂井三郎を始めとした歴史に残る名パイロットにも劣らない零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦の凄腕パイロットだったと証言するも、戦闘では積極的に戦うことはせず「臆病者」と呼ばれるほどに慎重かつ用意周到な性格で、宮部久蔵本人も戦争では絶対に死にたくないという自信の心情を周囲に隠すことはなかったと話します。一体何故死にたくないと広言していたにもかかわらず特攻隊となったのか、当時の戦況と共に主人公たちは20代で散った祖父の短い生涯を追っていくという内容です。
まず予備知識としてゼロ戦について触れておくと、これは日本軍が太平洋戦争中において幾度かの改良を経ながら一貫して使い続けた戦闘機なのですが、開戦初期は破格の性能であまりにも強かったことから米英軍は、「ゼロ戦と単独で遭遇した場合は直ちに離脱せよ」と、敵前逃亡するよう命令を出すほどでした。どうしてゼロ戦が他国の戦闘機より強かったのかというと非常に単純で、装甲が極端に薄い代わりに航続距離、旋回性能が高いという、防御を捨てて攻撃に特化した機体だったからです。その為にちょっとでも被弾したらすぐに撃墜されるのでパイロットの消耗が激しく、またこうしたゼロ戦の構造を分析した米英軍がゼロ戦が飛行出来ない高々空から急降下して攻撃するという一撃離脱戦法を編み出したことによって、戦争後期になっていくにしたがって徐々に活躍が失われていくこととなりました。
話は戻って「永遠の0」ですが、表現に関して気になった点を挙げると全編を通して戦友たちの語りが中心となっており、作者は元々放送作家ということからこういうインタビュー形式の文章になったのかなという気がします。一方、ちょっと専門的なことを言わせてもらえば語り以外の叙述ではほとんどが短文で区切られてて複文が少なく、やや表現力が甘いようにも感じるのですが、語りの部分を敢えて際立たせるために確信犯でこういう書き方をしているというのならば逆に大した表現方法だと唸らされます。
そして肝心の内容に関してですが、太平洋戦争の戦史に詳しくない主人公の視点が常に維持され、読者に対しても順番にかつ丁寧に当時の状況を説明しており物語の運び方は私からも太鼓判を押します。また宮部久蔵の顛末も最後の最後で大どんでん返しが待っており、ラストの方は「おいおいここでこういう展開かよ」と驚かされる結末となっており、一言で言って非常に面白い作品でした。
あと個人的に強く感じたとして、この作品の初版は2006年の発行ですが特攻隊の記述に関してまさに2000年代の作品であるというように思えます。というのも特攻隊の隊員たちは志願という形式で募集がされたことにはなっているものの、実態的には軍隊内で強制的に指名されて無理矢理実行されたということは1990年代の時点からも指摘されていたものの、2000年代に入ってからそうした強制があったという当時の証言が多く世に出るようになってきました。また特攻隊にされたパイロットたちもこうした作戦に意味があるのか、自分たちの様な熟練パイロットを捨て石にする作戦は破綻しているという証言も発見されるようになり、決してお国のためになどと狂信的な思想で実行していったわけじゃなく、本人たちも疑問と忌避感を持ちながら実行していたということが明らかとなってきました。
作品中でもこうした点をよく指摘しており、現在イスラム系テロリストらが実行している自爆テロとは一線を画す行為だったのだと強調されています。私個人の主観ではありますが、1990年代は戦時中の日本の教育や思想が歪んでいて自分の命よりも国のためという奉公意識が強かったから特攻は実行されたのだ、当時の人と現代人とでは思想が全然異なるという意見があったように思えるのですが、実際には現代人と当時の軍人に大きな思想の違いはなく、みんな死にたくないと思いながら死を強制されていたというのが真実のように思え、こうした見方が歴史家の間でも徐々に強まっているように見えます。この作品はその点を重要なテーマとしており、現代の思想も一つの価値観であって絶対的に正しいというものとは言い切れないものの、時代が異なろうとも人はそれほど大きくは異ならないというのを訴えたいのだと思います。
書評は以上の通りなのですが、私が読んだ文庫版の解説には一昨年に亡くなられた児玉清が寄せており、非常に表現しづらいのですがいろんな思いが頭の中を過ぎました。読んでる人には早いのですが死の直前に文芸春秋に寄せたこの人の寄稿文を読んでただけに、どういう思いで国家を見つめていたのだろうかとしばし考えました。
教員の早期退職問題について
各報道によると日本全国各地の学校でこのところ、教職員が4月を待たずに早期退職するというケースが頻発している層で。一体何故3学期終了を待たずに早期退職するのかというと、公務員給与体系の改正に伴い4月まで残って退職した場合、現在早期退職する場合と比べて退職金が総額で150万円前後減少するということが原因だそうです。この教職員の早期退職について文科相も発言をしたようですが、私の意見を述べると人生なんて人それぞれなのだし早期退職する人を責めるべきではないと思え、またこの件がニュースになること自体に違和感を覚えます。
まず150万円という金額ですが、これははっきり言ってでかいです。自分なんか今、年収が為替変動の直撃を受ける立場で去年なんかリアルに150万円切ってたけど、100万円余分に使えるか否かはその後の方針策定に当たって大きく影響します。しかも今回早期退職する教職員はその後は基本的に収入がなくなるわけですし、多くもらえるというのであればそちらを取りたいというのも理解できますし、それが普通だと思えます。
今回の問題に対する意見ではクラス担任を受け持つ教師も早期退職を行うということからか、卒業を待たずに生徒を放り出して無責任だというような批判もありますが、早期退職する教師一人一人にも人生があるわけですし、結構大きな金額を犠牲にしてまで仕事を奉仕しろというのはちょっと酷なように思えます。それだけに、無責任だと批判する声が多く感じる風潮は私個人としては如何なものかと思うのと同時に、他人の人生にそこまで口出しするべきではないという主張をさせていただきます。
あともう一点このニュースを見ていて思うのは、教師が大量に早期退職することで引継ぎなどに問題があるなどという意見に対して、何故これが論点になるのかがわかりません。既に実施している自治体もありますが早期退職自体は認めた上で2月、3月の2ヶ月間を臨時採用すれば引継ぎにしろ通常業務にしろ何も問題がないように思え、上記の点と合わせてこの問題がニュースとなるほど大騒ぎする問題なのかに対し疑問を感じます。そもそもの話、いくつか同じような意見も見受けますが現場を無駄に混乱させるような日程で給与改正を実行しようとした行政側を攻めるべきではないのかとも思えます。
最後に教員の臨時採用について触れたのでこの際書いてしまいますが、真に議論すべきはこの早期退職ではなく臨時採用という一時雇用の身分で採用される教師が増えていることのような気がします。簡単に背景を説明すると今どの自治体も赤字で新規雇用を絞った上で、いつでもクビが切れるように正式採用にはせず臨時採用でしか教員を雇用しないと聞きます。この煽りを受けるのはもちろん若年世代で、昇給も強く望めない中で教育にモチベーションを持てというのも無理な話でしょう。もっとも、雇用の保証に関しては日本全体で強すぎると思うのであまりなくてもいいとは思いますが。
ただ教育の充実化を図る上で、優秀で多くの仕事をこなす教師にはそれなりの待遇を用意しなければ成り立たないでしょう。更にもう一歩踏み込むと、先日の大阪市立桜宮高校の教師、あと大津のいじめ事件の学校の教師のように問題のある教師が何故その時まで現場に居続けたのか、これも日本社会全体に言えますが「淘汰」というものがあまりにもなさすぎるし、淘汰がないからこそ若い世代が割を食って社会全体でおかしくなっているのではないかと感じる次第です。
まず150万円という金額ですが、これははっきり言ってでかいです。自分なんか今、年収が為替変動の直撃を受ける立場で去年なんかリアルに150万円切ってたけど、100万円余分に使えるか否かはその後の方針策定に当たって大きく影響します。しかも今回早期退職する教職員はその後は基本的に収入がなくなるわけですし、多くもらえるというのであればそちらを取りたいというのも理解できますし、それが普通だと思えます。
今回の問題に対する意見ではクラス担任を受け持つ教師も早期退職を行うということからか、卒業を待たずに生徒を放り出して無責任だというような批判もありますが、早期退職する教師一人一人にも人生があるわけですし、結構大きな金額を犠牲にしてまで仕事を奉仕しろというのはちょっと酷なように思えます。それだけに、無責任だと批判する声が多く感じる風潮は私個人としては如何なものかと思うのと同時に、他人の人生にそこまで口出しするべきではないという主張をさせていただきます。
あともう一点このニュースを見ていて思うのは、教師が大量に早期退職することで引継ぎなどに問題があるなどという意見に対して、何故これが論点になるのかがわかりません。既に実施している自治体もありますが早期退職自体は認めた上で2月、3月の2ヶ月間を臨時採用すれば引継ぎにしろ通常業務にしろ何も問題がないように思え、上記の点と合わせてこの問題がニュースとなるほど大騒ぎする問題なのかに対し疑問を感じます。そもそもの話、いくつか同じような意見も見受けますが現場を無駄に混乱させるような日程で給与改正を実行しようとした行政側を攻めるべきではないのかとも思えます。
最後に教員の臨時採用について触れたのでこの際書いてしまいますが、真に議論すべきはこの早期退職ではなく臨時採用という一時雇用の身分で採用される教師が増えていることのような気がします。簡単に背景を説明すると今どの自治体も赤字で新規雇用を絞った上で、いつでもクビが切れるように正式採用にはせず臨時採用でしか教員を雇用しないと聞きます。この煽りを受けるのはもちろん若年世代で、昇給も強く望めない中で教育にモチベーションを持てというのも無理な話でしょう。もっとも、雇用の保証に関しては日本全体で強すぎると思うのであまりなくてもいいとは思いますが。
ただ教育の充実化を図る上で、優秀で多くの仕事をこなす教師にはそれなりの待遇を用意しなければ成り立たないでしょう。更にもう一歩踏み込むと、先日の大阪市立桜宮高校の教師、あと大津のいじめ事件の学校の教師のように問題のある教師が何故その時まで現場に居続けたのか、これも日本社会全体に言えますが「淘汰」というものがあまりにもなさすぎるし、淘汰がないからこそ若い世代が割を食って社会全体でおかしくなっているのではないかと感じる次第です。
2013年1月23日水曜日
続、大阪市立桜宮高校の事件について
このところ本業が忙しく、ようやく今日ひと段落してまたブログ復帰です。どうでもいいけど先週は知り合いに借りた「永遠の0」を一週間弱で読まないといけなかったのが地味に忙しかった。
前にも一回さらりと書いたし部外者があまり口出すべき内容ではないと思ってこの件にはもう触れないでおこうと考えていましたが、なんかちょっとメディアの報道でこの点誰か突っ込まないのと思うところが多いので、また桜宮高校について差し出がましいとわかっていながらも意見を書こうかと思います。
前回記事でも書いたように、といっても前は学校名を敢えて書きませんでしたが、この学校のスポーツ科に通うバスケ部の男子生徒が顧問教師からの体罰を苦に自殺しました。この自殺を巡って体罰と教育について非常に多くの議論が交わされるようになりましたが、私としては体罰云々以前に学校からの聞き取り調査にこの顧問教師が明らかな嘘をついていた一点をとっても教育者としてふさわしくないと主張しました。
私が見る限り産経新聞だけが唯一言いたいことを言ってくれたのですが、どうしてこの顧問教師自身の謝罪文などが未だに出てこないのが不思議でしょうがありません。また発覚当初ならともかく懲戒免職なり明確な処分もまだ出ておらず、それでいてスポーツ課の入試をどうするとか議論になるのは順番が違うような気がします。重ねて言いますが、この顧問教師は謹慎中だそうですが一日も早く懲戒免職した上で教員免許を剥奪してから今後の検討をするべきです。
それで入試の件に移りますが、既に奉じられているようにスポーツ科は普通科に統合で結局やるようです。順を追って私の意見を解説すると、まずスポーツ科はやはり廃止にし、このまま潰した方がいい気がします。というのも仮にこのバスケ部だけの問題であればこの顧問教師一人がおかしかったで済みますが、この学校はバスケ部以外にもバレー部の顧問が体罰を行っていたことが発覚しており、しかもその問題で謹慎を受け田にもかかわらずバレー部顧問はまた体罰を行っていたと聞きます。それ以外にも結構怪しい話がちらほら聞こえ、顧問教師個人ではなく学校それ自体の体質にやはり問題があるように感じるからです。
そして今回この記事を書こうと思ったきっかけにもなった、下記のニュースの件も見逃せません。
・尾木ママ怒り心頭「誰がこんなことやらせたの!」 桜宮高生徒が記者会見
・「ええ加減にせぇ はしもと、殺すぞ」「部落民がいきんな」 桜宮高校生徒がツイッターで暴言(J-Castニュース)
上のニュースにある、生徒が入試中止に反対を主張した記者会見は私も見ていて強い違和感を覚えました。仮に生徒全員、または生徒を代表する生徒会長の様な人間が行うならともかく、運動部の主将8人だけというのはこの学校の生徒の総意とはとても思えませんし、また記事にも書かれている通りに誰かの入れ知恵でやらされているのではないかという疑念も覚えます。その上で言えば、人が一人死んでいるにもかかわらず具体的な対策案を出さずまた新たに生徒を募集しようとすることに何とも思わないのか、また同じことが起きた場合にどう責任を取るのかとも聞いてみたいです。
下のニュースについては細かく語る必要もありませんが、これ以外にも問題と思える発言をする生徒がおり、それこそ試合に勝てば人間性はどうでもいいという、教育の前提がひっくり返る勝利至上主義が学校全体にはびこっているのではとも思わせられます。
また繰り返しになりますがスポーツ教育というのは運動を通して人間性を育てるのが本意であって、人間性を捨ててまでも運動能力を鍛える形であってはならないのです。大学での運動部であれば年齢もそこそこ上がり本人の責任でもあるので多少は勝利至上主義に走っていいとは思いますが、高校の段階ではやはり人間性に重きを置いた部活動でなくてはなりません。聞けば桜宮高校はスポーツ科があるということで受験生を集めているらしく、より実績を高めて受験生を集めようとする風潮、勝利至上主義があったのではないかとも思えます。
そういったことを踏まえると、今回のこの事件は一人の顧問教師が引き起こしたのではなく桜宮高校という構造が起こした事件とも思え、さすがに教員全員を交代すべしという橋下市長の主張は極端すぎると思いますが、問題の禍根を立つという意味でスポーツ科は廃止し、今後一切募集するべきではないというのが私の意見です。
最後に蛇足ですが、スポーツ科が廃止されることについて桜宮高校の入学を希望していた中学生が不条理だ、ひどいなどと言っているとよく報じられていますが、子供相手にやや大人げない気がするものの、この程度の不条理で音を上げているようであれば先が知れません。それこそ今の時代、就業で言えば内定切りもあればリストラだってありますし、友人の言葉を借りればこの世の中は不条理が蔓延して不条理によって成り立っていると言っても過言ではありません。はっきり「たかだか」この程度の問題でと言わせてもらいますが、まだ受験校を選べるこの時期でこんなことを言っていてはならず、事情が変わったのだからとパッと切り替えて次善の策をすぐに実行しないのはただ弱いだけだと思います。
やや極端な話に持って行くという気もしますが、一番最初に上げた「永遠の0」という小説は特攻隊の話です。自分が今のモチベーションを持つようになったきっかけはこの特攻隊の手記と大坂の陣に臨む浪人の願掛けからですが、特攻隊の人はある日突然上官によって指名されて、ほかに選択肢のない中で死なざるを得ませんでした。たとえ現在がどれだけ苦しい環境であるとしても、ほかに選択肢があるというだけでも自分は恵まれていると強く感じます。
前にも一回さらりと書いたし部外者があまり口出すべき内容ではないと思ってこの件にはもう触れないでおこうと考えていましたが、なんかちょっとメディアの報道でこの点誰か突っ込まないのと思うところが多いので、また桜宮高校について差し出がましいとわかっていながらも意見を書こうかと思います。
前回記事でも書いたように、といっても前は学校名を敢えて書きませんでしたが、この学校のスポーツ科に通うバスケ部の男子生徒が顧問教師からの体罰を苦に自殺しました。この自殺を巡って体罰と教育について非常に多くの議論が交わされるようになりましたが、私としては体罰云々以前に学校からの聞き取り調査にこの顧問教師が明らかな嘘をついていた一点をとっても教育者としてふさわしくないと主張しました。
私が見る限り産経新聞だけが唯一言いたいことを言ってくれたのですが、どうしてこの顧問教師自身の謝罪文などが未だに出てこないのが不思議でしょうがありません。また発覚当初ならともかく懲戒免職なり明確な処分もまだ出ておらず、それでいてスポーツ課の入試をどうするとか議論になるのは順番が違うような気がします。重ねて言いますが、この顧問教師は謹慎中だそうですが一日も早く懲戒免職した上で教員免許を剥奪してから今後の検討をするべきです。
それで入試の件に移りますが、既に奉じられているようにスポーツ科は普通科に統合で結局やるようです。順を追って私の意見を解説すると、まずスポーツ科はやはり廃止にし、このまま潰した方がいい気がします。というのも仮にこのバスケ部だけの問題であればこの顧問教師一人がおかしかったで済みますが、この学校はバスケ部以外にもバレー部の顧問が体罰を行っていたことが発覚しており、しかもその問題で謹慎を受け田にもかかわらずバレー部顧問はまた体罰を行っていたと聞きます。それ以外にも結構怪しい話がちらほら聞こえ、顧問教師個人ではなく学校それ自体の体質にやはり問題があるように感じるからです。
そして今回この記事を書こうと思ったきっかけにもなった、下記のニュースの件も見逃せません。
・尾木ママ怒り心頭「誰がこんなことやらせたの!」 桜宮高生徒が記者会見
・「ええ加減にせぇ はしもと、殺すぞ」「部落民がいきんな」 桜宮高校生徒がツイッターで暴言(J-Castニュース)
上のニュースにある、生徒が入試中止に反対を主張した記者会見は私も見ていて強い違和感を覚えました。仮に生徒全員、または生徒を代表する生徒会長の様な人間が行うならともかく、運動部の主将8人だけというのはこの学校の生徒の総意とはとても思えませんし、また記事にも書かれている通りに誰かの入れ知恵でやらされているのではないかという疑念も覚えます。その上で言えば、人が一人死んでいるにもかかわらず具体的な対策案を出さずまた新たに生徒を募集しようとすることに何とも思わないのか、また同じことが起きた場合にどう責任を取るのかとも聞いてみたいです。
下のニュースについては細かく語る必要もありませんが、これ以外にも問題と思える発言をする生徒がおり、それこそ試合に勝てば人間性はどうでもいいという、教育の前提がひっくり返る勝利至上主義が学校全体にはびこっているのではとも思わせられます。
また繰り返しになりますがスポーツ教育というのは運動を通して人間性を育てるのが本意であって、人間性を捨ててまでも運動能力を鍛える形であってはならないのです。大学での運動部であれば年齢もそこそこ上がり本人の責任でもあるので多少は勝利至上主義に走っていいとは思いますが、高校の段階ではやはり人間性に重きを置いた部活動でなくてはなりません。聞けば桜宮高校はスポーツ科があるということで受験生を集めているらしく、より実績を高めて受験生を集めようとする風潮、勝利至上主義があったのではないかとも思えます。
そういったことを踏まえると、今回のこの事件は一人の顧問教師が引き起こしたのではなく桜宮高校という構造が起こした事件とも思え、さすがに教員全員を交代すべしという橋下市長の主張は極端すぎると思いますが、問題の禍根を立つという意味でスポーツ科は廃止し、今後一切募集するべきではないというのが私の意見です。
最後に蛇足ですが、スポーツ科が廃止されることについて桜宮高校の入学を希望していた中学生が不条理だ、ひどいなどと言っているとよく報じられていますが、子供相手にやや大人げない気がするものの、この程度の不条理で音を上げているようであれば先が知れません。それこそ今の時代、就業で言えば内定切りもあればリストラだってありますし、友人の言葉を借りればこの世の中は不条理が蔓延して不条理によって成り立っていると言っても過言ではありません。はっきり「たかだか」この程度の問題でと言わせてもらいますが、まだ受験校を選べるこの時期でこんなことを言っていてはならず、事情が変わったのだからとパッと切り替えて次善の策をすぐに実行しないのはただ弱いだけだと思います。
やや極端な話に持って行くという気もしますが、一番最初に上げた「永遠の0」という小説は特攻隊の話です。自分が今のモチベーションを持つようになったきっかけはこの特攻隊の手記と大坂の陣に臨む浪人の願掛けからですが、特攻隊の人はある日突然上官によって指名されて、ほかに選択肢のない中で死なざるを得ませんでした。たとえ現在がどれだけ苦しい環境であるとしても、ほかに選択肢があるというだけでも自分は恵まれていると強く感じます。
2013年1月21日月曜日
自らを欺くなる時
自分でかくのも少し気が引けますが、自分はやや馬鹿正直と言ってもいい性格をしているかと思います。一昨日も利用したラーメン屋で会計を済ませた際に半熟卵のトッピング代(8元=112円)が含まれていなかったので店員に指摘して差額をわざわざ自分から支払いましたが、なんか店員の方が驚いた顔していました。恐らく友人なら向こうの落ち度なのだから気づいたとしても余分に支払う必要はないと言うでしょうが、私自身もそういう行動を取ったとしても何も咎められることはないと考えています。なんかこういう書き方をすると、さもその友人が悪人みたいに見えますが……。
なんでこんな性格するようになったのかというと、一つの原因は子供の頃に失敗しでかした際に嘘ついてごまかそうとして、余計に事態を悪化させることが多かったことがあります。実際にこれでかなり痛い目に遭っており、「たとえ立場を危うくさせることになっても、ミスった時は正直に言った方が最終的にはお徳だ」といつも肝に銘じています。
こうした経験のほかもう一つ理由を上げると、やはり嘘をついた時に自分自身に感じるあの違和感がどうにも慣れないというのがあります。これは直接的な嘘というより表面的な嘘を言う際、たとえば本当は好きでもない食べ物を「花園君もあれおいしいと思うでしょ」と言われて周囲に合わせて「うん、まぁね」などと言う時に腹の中で感じる、「本当は違うんだけどなぁ」っていうあの感覚です。更に話を深く落とすとこういう風に違和感を感じられる間ならばまだいいですが、「違和感を感じなくなる」ところまで行きたくないという拒否感をはっきり持っております。
諺にも「うそから出たまこと」という言葉がありますが、人間というのは基本的にそれほど思考が自立しているわけではなく、周囲や環境、果てには自分が出す言葉にまで影響され思考が変わっていくと聞きます。先程の例ですと元々おいしいと思っていなかった食べ物を周りに合わせておいしいものだと言い続けているうちに、本当にそれをおいしいと感じるようになっていくという具合です。
仮にこう言った思考の変化が意識的でかつポジティブなものだったらそれほど問題ではないですし、スポーツのメンタルトレーニングなどでは困難な練習を敢えてイージーなものだと自ら思い込むことに負担を下げたりすることもあるそうです。ただこれが無意識的にかつネガティブなものだとしたら、やはりそれは嘘を言う本人にとっていい結果を生むことはないでしょう。また嘘を多用することによって思想が変わるにとどまらず、思想自体なくなるということもあり得るのではないかとも考えています。
こう考えるのも、やっぱり嘘ついても平気な人に自立した思考が感じられないからです。自分もこれまでに息を吐くかのように嘘をつく人に何度か出くわしたことがありますが、そういう人たちは利己的な判断で嘘をついていると自分自身では考えているのかもしれませんが、その実本当は自分が今一体どんな内容の言葉を発しているのか、真実を言っているのか嘘をついているのかすらも理解できていないのではないかと思う時がありました。言ってしまえば、その場その場で思考が変わるので本音というものが何も存在しないような人間です。
嘘をつくというのは結局はこうなることだと思います。利己的な判断から適当にごまかす嘘を重ねるうちに最終的には自分自身の本音すら消し去ってしまう、自らをも欺く結果になるのだと思います。もっともこんなこと書いておきながら自分自身も、正直な方ではあるものの一つも嘘をつかない聖人というわけではありません。ただ曲げてはならない点、譲ってはならない点では、それこそリアルファイトに発展しそうな瀬戸際でも絶対に折れることはなく、見方によれば頑固に見えるでしょうが自分自身の価値観はまだほかの人よりは見えやすいと考えている次第です。
なんでこんな性格するようになったのかというと、一つの原因は子供の頃に失敗しでかした際に嘘ついてごまかそうとして、余計に事態を悪化させることが多かったことがあります。実際にこれでかなり痛い目に遭っており、「たとえ立場を危うくさせることになっても、ミスった時は正直に言った方が最終的にはお徳だ」といつも肝に銘じています。
こうした経験のほかもう一つ理由を上げると、やはり嘘をついた時に自分自身に感じるあの違和感がどうにも慣れないというのがあります。これは直接的な嘘というより表面的な嘘を言う際、たとえば本当は好きでもない食べ物を「花園君もあれおいしいと思うでしょ」と言われて周囲に合わせて「うん、まぁね」などと言う時に腹の中で感じる、「本当は違うんだけどなぁ」っていうあの感覚です。更に話を深く落とすとこういう風に違和感を感じられる間ならばまだいいですが、「違和感を感じなくなる」ところまで行きたくないという拒否感をはっきり持っております。
諺にも「うそから出たまこと」という言葉がありますが、人間というのは基本的にそれほど思考が自立しているわけではなく、周囲や環境、果てには自分が出す言葉にまで影響され思考が変わっていくと聞きます。先程の例ですと元々おいしいと思っていなかった食べ物を周りに合わせておいしいものだと言い続けているうちに、本当にそれをおいしいと感じるようになっていくという具合です。
仮にこう言った思考の変化が意識的でかつポジティブなものだったらそれほど問題ではないですし、スポーツのメンタルトレーニングなどでは困難な練習を敢えてイージーなものだと自ら思い込むことに負担を下げたりすることもあるそうです。ただこれが無意識的にかつネガティブなものだとしたら、やはりそれは嘘を言う本人にとっていい結果を生むことはないでしょう。また嘘を多用することによって思想が変わるにとどまらず、思想自体なくなるということもあり得るのではないかとも考えています。
こう考えるのも、やっぱり嘘ついても平気な人に自立した思考が感じられないからです。自分もこれまでに息を吐くかのように嘘をつく人に何度か出くわしたことがありますが、そういう人たちは利己的な判断で嘘をついていると自分自身では考えているのかもしれませんが、その実本当は自分が今一体どんな内容の言葉を発しているのか、真実を言っているのか嘘をついているのかすらも理解できていないのではないかと思う時がありました。言ってしまえば、その場その場で思考が変わるので本音というものが何も存在しないような人間です。
嘘をつくというのは結局はこうなることだと思います。利己的な判断から適当にごまかす嘘を重ねるうちに最終的には自分自身の本音すら消し去ってしまう、自らをも欺く結果になるのだと思います。もっともこんなこと書いておきながら自分自身も、正直な方ではあるものの一つも嘘をつかない聖人というわけではありません。ただ曲げてはならない点、譲ってはならない点では、それこそリアルファイトに発展しそうな瀬戸際でも絶対に折れることはなく、見方によれば頑固に見えるでしょうが自分自身の価値観はまだほかの人よりは見えやすいと考えている次第です。
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