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2015年10月2日金曜日

大衆の捉え方

 連休二日目で部屋の掃除以外特にやることなくまたたらったらとパズドラやりつつ過ごしておりましたが、左肩と右わき腹をやや痛めている状態なのでなんか中途半端にやる気出ません。明日くらいは少し気合入れ直して外出るようにしよう。
 そんなわけで本題ですが来週に会う予定の知り合いに対する講義内容として取っておきましたが、ちょうどこの記事が2500本目の記事になるので折角だから出し惜しみせずにここで私の大衆に対する見方というか視点というものを紹介しようと思います。と言っても興味を持つ人間がどれだけいることやら。

 私の大学での専門は社会学なのですがよく人からは、「社会学って何をする学問なの?」という質問を非常に多く受けます。実際これは社会学をやっている人間たちですらよくわかっておらず、敢えて言うなら「入りやすく極め辛い学問」であって、これが社会学だといったらなんでも社会学になってしまうほど専門性が低い学問です。取り扱う分野も経済学から法学、政治学、心理学、文学と文系自然科学の分野すべてを内包しており、私なんかはそういうオールマイティさにあこがれて社会学を選んでほかの専門領域も法学を除けば大体手を出しましたが、それでも未だに社会学ってなんやねんと思うことの方が多いです。

 そんなよくわからない社会学ですが、一般的に言うなら心理学に近い学問というのが正解な気がします。社会学も心理学も人間の心理行動を第一に着目して観察する学問ですが、異なっている点としては心理学が個人の心理により強く着目するのに対して社会学は集団の心理により深く着目し、また大きな前提として「集団の心理は個人の心理とは乖離する」と考え、個人の考えが合わさることで集団の考えとなるのではなく、個人の考えとは切り離されて集団の考えは形作られると考えます。
 こうした立場でものを考えるよう教育を受けてきた身であることから、私自身も個人の心理とかそういうのには全く興味がなくむしろ集団の心理の方が見ていて楽しいです。その上で述べると何か他人を分析する際はその他人が取る行動に対して「動機」から攻めるようにしており、どうしてそのような行動を取ろうとするのかその背景にある動機をまず推測して、「動機―行動」のつながりを解き明かそうとします。私見ですが心理学の場合だと、動機よりもその人の生い立ちや経験といった背景をより重視して分析の対象としてみているように見えます。

 そういうわけのわからない社会学の価値観は置いといて、このブログではよく日本人論を載せることが多いですが、こうした記事を書くに当たってやっぱり重要になるのは大衆の捉え方です。一言で大衆と言っても定義の仕方は様々ですが、大衆を分析するに当たってまず第一に考えなければならない点として挙がってくるのは「自分は大衆に含まれるか否か」です。
 自分と、これから分析する大衆は同じ構成員なのかどうか。地味にこれを考えるのは重要で、自分は大衆とは異なる異分子と前提して一歩離れた距離から観察するのか、それとも自分は大衆の中の一要素と前提して内部から観察するのか。一見すると前者の方が観察者として理想的な立場に見えますが、全否定するつもりはないものの、一歩距離を置いてしまうと自分を特別な位置に置いてしまうためか初めから持っていた仮説を当てはめようとするようになり、実際いくつかの社会学の論文を見ていると最初に作った仮説を無理やり結論として当てはめようする者が少なくありません。

 では大衆の中から観察するのがベストなのか。これにもメリットとデメリットはあり、メリットは最初から持っていた既存の考えを当て込み辛くなること、デメリットは逆に大衆の中でそうだと考えられている意見をそのまま結論にもって来ようとすることです。ちょうどさっきの逆みたいな感じです。

 それでは私はどっちの立場を取っているのかというと、基本的には自分は大衆の一部だという前提で物を考えています。ただちょっと他の人と比べ特別なのは、自分は大衆の一部ではあるものの、影響力の度合いはほぼ全くないものの、その大衆の思考を変え得る変数であるという前提を常に持っています。つまり私の行動や活動次第では大衆は考え方や行動を変えることもあり得るとして、では何にすれば大衆は変わるのか、逆に何があるせいで大衆は変わらないのかという点を重点的に考えて傾向なり法則を見出そうとしています。
 なかなか我ながら変なことを言いますが、大衆は常に変化を続けておりその変化点をどのように掴むのかが重要であるように思え、これらを掴むことによって大衆というものを把握できるのではと私は考えています。逆を言えば大衆というのは決まった形を保持しているわけでなく、徐々に変化を続けておりその変化を追うことによって現在の状態を見れると思うわけです。

 もうさっきから読者置いてけぼりで好き勝手書いていますが、こうした視点の工夫によって恐らく自分の見方なり視点はほかの人と異なってて、それがこのブログの読者にも評価されているのではないかと思います。私自身は日本人ではありますがもう価値観や概念で言えば確実に一般の日本人とは大きな隔たりがあるものの、それでも日本人という枠の中で大衆を考えてるのが不思議と言えば不思議です。

2015年10月1日木曜日

遵法に対する日本人と中国人の違い

 昨日書いた「遵法意識のない日本人」という記事で私は日本人は法律や規則といったルールを守る意識はほとんどなく、実際には周囲に行動を合わせることを第一の行動原理としているため結果的に実生活ではルールを守った行動を取っていると主張しました。その上で、案外日本人と中国人で遵法意識についてはそれほど差はないのではないかという仮説を立てましたが、今日はその理由を説明します。

 まず一般的に、日本人と中国人のどちらがルールを守るかと言ったらそりゃ間違いなく日本人に決まっています。中国国内でもこういうルールを守るというかマナーについてはしょっちゅう議論になるほど普段の中国人は悪く、私も以前い観光地で「禁煙」と書かれた貼り紙の前でおっさんが堂々と煙草を吸い始め、それを係員が注意した所「なんで吸ったらダメなんだ!」と逆切れするのを見てああ中国だなと感じたことがありました。
 最近であれば爆買い中国人が日本のあちこちでも見られるかと思いますが彼らのマナーの悪さについては見ていて辟易する日本人も多いでしょうし、実際に小売店各社もあれこれ対策を取っているとも聞きます。これだけ見るととてもとても日本人と中国人で遵法意識に差があるようには見えず、中国人は本当に決まりを守らない人間にしか見えないでしょう。

 にも拘らず何故私は今回このような主張をするのか。結論を端的に述べると、この差は遵法意識の差ではなく集団主義と個人主義の差であると思うからです。

 前回記事で私は日本人はルールを守る意識は薄いが周囲に合わせようとする集団主義的意識が極端に強いため、結果的に集団でルールを守る側が多数派を握れば全体が自然とルールを守るようになると分析しました。ただその一方、多数派がひっくり返れば一瞬で態度もひっくり変わるため、外国人から反復常ならないとか何考えてるのかよくわからないと思われ、また戦前から戦後の転換に絶望した人を生みだしたりするわけですが。
 これに対して中国人はというと、言ってしまえば完全な個人主義です。周囲が何しようが何を言おうが全く意に介せず、「ワシがこうしたいねんからこうするねん!」とばかりに自分がしたいことばかりを全く我慢せずに実行します。っていうかさっきのセリフは敢えて関西弁で書きましたが日本人の中で個人主義的意識が強いのは間違いなく関西というか大阪人で、その辺が中国人と馬が合うポイントでしょう。

 まず前提として日本人も中国人もルールを守ろうという意識は非常に希薄です。ただ日本人は周囲に合わせようとするため結果的にルールを守る行動を採ろうとするのに対し、中国人はさっきの煙草の例のように周囲なんてお構いなく自分の本音を通すというか、もちろん度を越した行為はさすがに控えますが、やりたいことを本能のまま忠実に実行します。なので日本人には通じる「他の人はこうですよ」なんていう注意は中国人には届くわけがなく、何かしら罰金なり追放なりといった強制的な処置をちらつかせる以外にルールの遵守を求めることは難しいでしょう。
 その上で述べると、マナーの悪い中国人を見ていて日本人がイラつくのは、中国人がマナーやルールを破るからではなく、周囲に行動を合わせないからという理由の方が大きいのではないかと私は見ています。遵法意識の差からではなく、集団主義と個人主義の意識の違いからくるズレの方が多分琴線に触れているのではないかと言いたいわけです。

 念のため付け加えておくと、上記までの内容を見るとさも集団主義が個人主義に比べ優れているように見えますが私としてはそんな考えは毛頭なく、レベルというか強さ的にはどっちもどっちという風に考えています。集団主義はきちんと管理などが機能している間は確かに強いですが管理がおかしくなっている場合、たとえばこの前書いた労働法の問題やブラック企業、しごき体質の運動部など、集団がおかしな方向に向いた場合に全く修正が効かないままおかしい方向へ進み続けるという大きなデメリットがあります。個人主義な中国人の場合はブラックな企業に入った場合、「アホか!」つってすぐに辞めてしまうので会社が成り立たずすぐ潰れるでしょうし、あと個人主義故に周りを気にせず自分の追い求める方向を追い求め続けるのでたまにすごい芸術家や科学者が出たりもする土壌があります。

 最後に私の思い出話をすると、確かあれは小学三年生の頃でしたが何か粗相をしでかして担任の先生に怒られた際、「友達もやっていたから」という言い訳をしたところ、「他の人がやっていたら悪いと思うことをやってもいいの?」と言い返されました。この時そういわれて、「そや、なんでやったらあかん思うとるのにほかの奴がやってたからやってええことになるんや」と妙な感じで悟ってしまい、少なくともほかの日本人よりは個人主義でありなおかつ遵法意識も強い性格を形成していく大きなきっかけとなりました。
 もちろん私だって信号を無視することもあれば細かい法規を無視するなどといったことはしますが、それでも周囲からはよく固すぎると言われるくらいやや厳格な生活を続けています。昨日例にとった就活でも、二月の期末試験を終えない間に活動をするのは学生としてどんなものかという妙なマイルールを課して期末試験が終わるまでは一切活動らしい活動をしなかったところ、面接では「君は就活の開始が遅かったんだね」と皮肉を言われるだけで誰からも評価されませんでした。

 はっきり言ってこんな性格じゃなければもっと器用に世渡り出来て今よりずっと楽でマシな生活が出来ただろうという確信がありますが、あの小学生の頃に諭してくれた先生には今でも感謝しており、あのおかげで自分は魂を得るに至ったと考えています。

遵法意識のない日本人

 明日から中国では国慶節連休に入る上、途中から日本にも一時帰国するのでかなり長いお休みになります。もっともちょっと状況がテンパり気味なので、ゆったりと休暇を楽しむ気分にはなれないでしょうが。明日暇だし蘇州のイオンでも行こうかな。

<就活>長期化、学業に支障…解禁破り続出、見直し論(毎日新聞)

 そういうわけで記事リンクを貼った上での本題ですが、さすがに大分年齢重ねて就活と聞いてもそれほど共感を感じなくはなっているものの、今年就活に直面した学生はいろんな意味で大変だったようです。何故大変になったのかというと就活にかまけて大学での学業がおろそかになるという懸念から政府、そして経団連が加盟企業に対して就活の開始時期を従来より遅らせ4回生の8月から行うよう指示したものの、次々と横紙破りをする企業が現れ企業側も学生の側も対応を巡って現場では大混乱となっているとのことです。
 まぁ始まる前からある程度予想はついていましたが8月から採用活動を開始するよう通達されていたものの優秀な学生を取ろうとこれより早く開始する企業が後を絶たず、また学生の側もそうした横紙破り企業があることを前提に早くから活動していた人間が順調に内定を取り、結果、正直に8月から活動を開始した企業と学生が揃って割を食う羽目になりました。もっとも、中には3月から活動を開始したものの未だに内定が取れず活動を続けている学生もいて就活の長期化を招いていると記事中で指摘していますが、こういう事例に関しては以前からもあるのでわざわざ記事に書くほどでもないようなと思えるあたりが所詮は毎日の記事です。

 この就活についてもっとしつこく書いてもいいですがそっちに関してはほかに専門家もたくさんいるので今回はスルーするとして、ここで私が提起したい点は横紙破りをする企業が後を絶たなかったというところで、結論から述べると日本人というのは案外中国人と同じで、法律の遵法意識が薄い、っていうかほとんどないように実は前から思っています。

 日本人はルールや規則を守る方か否かと問われるなら、恐らく大半の日本人は「比較的守る方だと思う」と答えることでしょう。しかし私の目からすると行動では確かに守っていることが多いものの、ルールを守ろう意識は実際にはほとんどなく、はっきり言えば惰性で守っているに過ぎないのではと見ています。
 今回の就活の例で言えば横紙破りをする企業が多数いたという点が一見するとポイントのように見えますが、真のポイントはそうした横紙破り企業に対して世間が何も批判しようとしない点です。罰則こそないもののみんなで守ろうといったルールを無視してほかの企業を出しぬく、ギャンブル漫画「カイジ」の世界では日常的に行われていることですがそんな「カイジ」の世界においても、「汚ねぇ、汚すぎるぞっ!」と敗者側が非難をしますが、少なくとも今年の就活に関してはそういった出し抜いた企業に対する非難はほとんどなく、正直にルールを守った会社で採用が上手くいってないことに対して、「正直だったのに可哀相だね」と軽く同情するに止まっています。

 一体何故出し抜いた企業は非難されないのか。そもそもの開始時期設定自体に問題があったのだとか色々言い訳は立ちますが、私が思うに出し抜いた企業が多かったから非難されないのだという気がします。
 たまにはここで筆を止めてもいいかなと思いますがもうちょっと詳しく説明すると、たとえば百人中一人がルールを破った場合、恐らく日本人はその一人を徹底的にこき下ろした上で村八分のような処置を取ることでしょう。しかしこのルールを破る人間が一人ではなく二十人だったら、恐らく守った八十人は破った二十人を非難はするものの村八分のような扱いまで取ることはないでしょう。さらに破った人間が五十人だった場合、諍いは起こるかもしれませんが守った側もこのくらいの人数になると「ずるい」と悔しげに文句を言うにとどまることでしょう。そして破った人間が八十人だったら、ルールをきちんと守った人たちは破った人たちから「馬鹿正直な連中だ」と文字通り馬鹿にされ、その二十人も恐らく非難すらせず、中にはどうして自分はルールを破らなかったのか後悔する人間も出てくるでしょう。

 ここまで言えばわかるでしょうが、日本人はそこに存在するルールを守るか守らないか以上に、自分の行動や判断が多数派になるかならないかの方をより重要視する傾向があります。何もこれは日本人特有というわけではなく外国人にももちろんみられますが、ただ私の目から見て外国人と比べれば日本人は特にこういった集団主義的傾向が極端に強いという風に感じます。
 このような集団主義的傾向が日本人においては強いためか、普段の行動原理は「他の人間と同じ行動をとる」ということが第一義として存在しており、「ルールや規則を守る」という考えは文字通り二の次でしかありません。なもんだからルールや法律を守らない人間が集団のうち過半数を越えた場合、強力な罰則や執行機関が存在しなければ、その時点でそのルールはルールとしての価値を完全に喪失することとなるわけです。極論を述べると、百人のうち九十九人がルールを破る中、「ルールはやっぱり守らなきゃだめだ」と主張するような最後の一人はもはや日本人ではないでしょう。

原発事故で日本社会が失ったこと(2)・・・遵法精神(武田邦彦氏のHP)

 この記事を書くに当たって「遵法精神」というキーワードで検索したところ引っかかったのが上記の武田邦彦氏のホームページでしたが、武田氏は放射線の被爆限度量が震災以前と以後で変わったことを例にとって日本人は原発事故によって遵法精神を失ってしまったと書かれていますが、私の意見は異なっており、そもそも日本人には遵法精神なぞ初めからなかったのだと思います。この限度量が変わったことについても、黒が白に変わっただけというか多数派がつく数字が必要に応じて変わっただけでしょう。

 このまま一気に書いてしまうつもりでしたが、途中で書いた「日本人というのは案外中国人と同じで法律の遵法意識が薄い」という点についてはまた明日にでも書きます。疲労してテンション低い中、今日はなかなか頑張って記事書けたな。

2015年9月29日火曜日

一日署長をやった山口組の組長

 あんま今日は記事書く気が起きないのでトリビア的なことを書いておしまいにします。

 既に逝去していますが私の親戚に依然兵庫県警の関係者がいたのですが、もし今も存命だったら、「山口組の組長が一日署長したのってマジ?」って聞いてみたかったなぁとこの頃よく思います。件の山口組組長ですが、これは実質的に現在の山口組を一代で作り上げた三代目の田岡一雄のことで、以前に日本のヤクザ関連について調べていた時にこ今回のトリビアを知りました。

 次期は定かではありませんが田岡が一日署長をしたのは消防局ですが神戸市水上署とのことで、港湾関連の役務を取り仕切っていて結構関係がずぶずぶだったこともあってやったそうです。ただ当時にあっても田岡は前科者であっただけにいろいろと言われたことから、この一件以降はお役所も人選には気を払うようになったと聞きます。

 なお田岡について少し触れておくと、彼はヤクザ組織として山口組を大きくしたというよりは山口組を一大興行組織にしたという人物で、吉本興業なんかは創業時からこの山口組の力をバックに大きくのし上がったと一部の記事にはっきりと書かれていますし、これは実際に事実だと私も考えています。美空ひばりに至っては現代において完全に山口組がタニマチだったということが伝えられるようになり、やっぱりというか取り上げるメディアも前と比べて減ったなぁという印象を覚えます。

2015年9月28日月曜日

ジャパニーズホラー映画の時代

 この前書いた「サイコスリラー映画の時代」でも少し触れたので、折角だから今日は一時期はやったジャパニーズホラー映画について思うところを書いていきます。

 ここで語っていくジャパニーズホラー映画というのは90年代に日本で製作され、2000年前後にアメリカでリメイクされ人気を博した作品を指しています。これらの映画は主にアメリカでジャパニーズホラーというジャンル名で定着して一時代を築きましたが、ほとんどの原作が1993年に創刊された「角川ホラー文庫」であったことから「角川ホラー」というジャンル名で呼んでもありでしょう。
 90年代の日本映画を語る上でこの角川ホラー文庫は外せないほど影響力は強く、私の記憶する限りだと「パラサイト・イヴ」の映画化を嚆矢に続々とメディアミックスがなされ、もはや日本の代表的な妖怪に仲間入りしている貞子で有名な「リングシリーズ」が映画でもドラマでも大ヒットしたことからこの文庫からはその後も人気作が続々と生まれました。個人的な主観で述べるなら一番のヒット作は間違いなく先程挙げた「リングシリーズ」でしょうが、このジャンルの最盛期となると「呪怨」の映画化がなされた頃くらいじゃないかという気がします。

 一体何故90年代の日本で角川ホラー系が流行ったのかというと、勝手な理屈を述べていけば一つには日本では元々怪談話などホラージャンルを好む下地があったということ、二つには新進の作家を上手く取り込み良質な作品を多数世に出したこと、三つに90年代は音楽にしろヒットがヒットを生むというほど世の中流行りものに弱かったこともあって一度売れると続々売れるという好循環がきれいに働いたためではないかと考えています。特にリングシリーズは通っていた学校でも大いに流行って周りの級友らも普段は本を読まないくせに「リング」と「らせん」をよく読んでました。

 こうした日本初のホラー映画はアメリカでも受け入れられ、もう何度も挙がっているリングシリーズはハリウッドでリメイクされた作品が大ヒットしたためホラー映画のパロディ作品として有名な「最終絶叫計画」の確か4辺りでもパロディ元として使われています。ちなみに使われ方としてはブラウン管テレビに貞子が映った所、モニターにハエが止まったのでスリッパで画面叩いたら貞子が痛がって、仕返しに向こうもスリッパでこっちを叩き返してくるという風でした。
 そのリングシリーズと共に日本でも米国でもヒットしたのが「呪怨」のシリーズで、こちらは日本版もアメリカ版も清水崇氏が映画監督を務め、日本人監督としては初めて全米興行収入ナンバーワンを獲得するなど見事な実績をあげられました。この二本のシリーズによってアメリカ国内においてもジャパニーズホラーというジャンルが定着したといっても過言じゃない気がします。

 しかしそんなジャパニーズホラーですが、大体2000年を過ぎた当たりから日本国内でのブームに陰りが見えてきます。角川ホラー文庫が原作である作品でも映画化したらパッとせず、前は映画化→テレビドラマ化のコンボもしょっちゅう炸裂しましたがほとんど当たらないのでリングをまた焼き直すとかいう繰り返しが始まります。
 一体何故ブームが盛り下がったのかというと、単純に良質な作品が減った上に粗製乱造がされてしまったせいだと考えています。そこまで胸張れるほど作品見ているわけじゃないですが映画版の脚本を原作から大きく改変する作品が当時多く、それも大体が女性キャラをむやみやたらに増やすというキャスティングありきな改変ばっかで、そこらへんが原作の再現を期待するファンを遠のかせてしまったんじゃないかと思います。

 また単純にホラー映画というのは案外撮影が難しい作品だったりします。先程挙げた清水崇監督が漫画家の押切蓮介氏との対談で話していますが、観客を怖がらせるために役者はややオーバーに驚いたり怖がったりする演技を要求されますが、これの撮り方がやたらハイテンションに驚いてるように見えギャグっぽく映ってしまうとのことで、「ギャグとホラーは紙一重」という押切氏の主張にその通りだと清水監督も頷いています。
 ここら辺のさじ加減が粗製乱造の作品では上手くできておらず、実際私が見た作品でもしょうもないCGに下手な役者が変な格好で慌てたりして見ているこっちは逆の意味でハラハラさせられることもありました。

 結局こうしたことが続いたせいか、現代においてはまだ頑張っている貞子シリーズとかを除いてホラー作品の製作はぐぐっと減ってきた気がします。原作の角川ホラー文庫自体も以前と比べて世間で話題になる作品も減ってるように感じるだけに、ブームはもう終わってしまったといっても過言じゃないでしょう。
 ちなみにブーム最盛期に「リング」が面白いと言っていた近所のおばさんに、「あの作家はもう後は続かない気がします」と不敵にも高校生の私は言ってのけていました。まぁリング三部作の「ループ」を読んでしまったらそう判断するしかないのですが。

 最後に私が見た強烈なジャパニーズホラーを挙げると、「ナインプラスワン」という作品があります。どういう映画かはレビューを書かれている方のサイトを下記リンクにつなげておきますが、この型のレビュー通りというか本当に救いようのないほどひどい作品で、後半なんか見ていて息切れしそうな位辛くなった作品でした。この感想を友人に述べたら、「そういわれると逆になんか見たくなってくる」と言われましたが。

9+1 ナインプラスワン(ホラーと共に・・・・)

2015年9月27日日曜日

安倍首相の携帯電話料金高過ぎ発言について

 今日昼過ぎに喫茶店いってはちみつカフェモカとチキンサンド頼んだら何故かハムサンドが出てきたので店員に、「これハムサンドちゃう?ってか少なくともチキン入ってないよね?」と聞いたら、「( ゚Д゚)<うちではこういう風に作るんだ」と妙な主張され、まぁ似たようなもんだし別にいいかと思って仕方なくそれ食ってたら後からマネージャーが私の席にやってきました。マネージャーが言うにはやっぱり出す料理を間違えたとのことで、改めてチキンサンドを無料で提供すると言われましたがもうハムサンドを半分食べてたので別にいいよと断ったものの、そういうわけにはいかないと押し切られて結局チキンサンドも作ってもらいました。結果、かなりボリュームのあるハムサンドとチキンサンドを一度に食べることとなり、血中糖分が急上昇したのか帰り道はやたら頭がボーっとしてふらふら自転車をこいでたので自分でも危ないと思いました。
 それにしても、なんか最近こういうトラブルに巻き込まれることが多いような?

 話は本題に入りますが、このところ経済ニュースでは安倍首相の携帯電話料金が高すぎるという発言が大きくな話題となっております。あまり長々書く必要もないので言いたいことだけ書くと、この安倍首相の発言に絡めて多くのメディアが現在の携帯電話料金についていろいろ書いておりますが、どの記事も「そんなことはない」というような通信キャリア側の発言や携帯電話料金の妙な国際比較ばかり報じていて、どちらかと言えば通信キャリア側を擁護するような記事が多い気がします。もちろんこういう報道姿勢が悪いわけではないのですが折角だから街頭インタビューとかでもいいから消費者の反応や意見を載せたりした方が体感的な感想がわかるのだしいいような気がするものの、その手の記事はほとんど見受けられませんでした。まぁ通信キャリアはどの媒体にとっても有力な広告主だしね。

 日本にいないで言うのもなんですが、まぁぶっちゃけ日本の携帯電話通信料金は高過ぎる気が私もします。どのキャリアもMVNOがこのところ出てくるまでかなり高額な通信料金設定にしてましたし、またその料金プランも半端なく複雑で、スマホを無理やり持たせようとするためか通話とメールだけ出来ればいいようなシンプルプランが案外高い設定(端末代の割引などがなくなるようなのが多い)になってたりとユーザビリティが全く以って無視されています。
 特に一番不思議なのは携帯電話とWIFIの無線契約を一緒に契約すると安くなるとよく謳われていますが、なんかいろいろと検証するとそれほど割引が大きいわけでもなく、本気でこれキャンペーンのつもりなのかと疑問に感じることが多いです。ってかこの手の契約は複雑すぎて解読に時間かかるのが一番マイナス。

 またそうした通信料金の高さもさることながら、前にも「NTTドコモへの批判」という2013年に書いた記事でも触れていますが、例の「2年縛り」とも絡みますが2年ごとにキャリアを乗り換える人たちに比べ契約を切り替えない長期ユーザーの方が相対的に負担が大きいというのはどう考えてもおかしいでしょう。2年ごとに切り替えるユーザーは新規ユーザーとして様々なキャンペーンの恩恵を受けますが長期ユーザーにはそんなものは一切なく、私も過去に何度も大損していますが、浮気をせずにずっと支払い続けてきた自分の通信料金が「ドコモ田家」みたいなクソみたいなプロモーションに使われたかと思うと腹立って仕方ありません。

 総じて言えば、通信料金の高さもさることながらユーザーの側に立ったプラン設定や長期使用ユーザーに対する配慮が全くなされてないと現在のキャリアに対しては言えます。こんなことばっかやってるだけに今回安倍首相に釘さされて株価が大幅に下落しても同情の念はほとんど覚えませんし、まだ反論している辺りもっと痛めつけられた方がいいような気すらします。
 それにしても意外と安倍首相は市民の消費生活にドンピシャな価格を突いてきたもんだとこの件に関してはなかなか感心します。それと同時に、野党の連中がこの件についてほとんどコメントしないのが何でだろうと不思議に思えてきます。まぁ大体わかるけどね。

2015年9月26日土曜日

サイコスリラー映画の時代

 最近趣味の話を書いてないのでこの前友人に話した映画の話をします。

 サイコスリラー映画と見出しに書きましたがそもそもサイコスリラーという言葉は定義がはっきりしておらず、巷間でもサイコホラーとかサスペンスなど別の言葉とほぼ同意義に使われてるようにみえますが、敢えて私の方から定義づけするならば、「金目当てや怨恨ではなく殺人そのものを快楽目的に実行する殺人犯がテーマ」というのがジャンルとしての位置づけだと考えます。この手の犯人の特徴として欲求的に殺人を犯すことから何かしらマイルールめいたものがあり、特定の特徴を持った人間をターゲットにしたり、バラバラにしたりとか同じ凶器を使うとか殺害の仕方に共通点があったりして、犯人を追う側はこうした犯人のマイルールを読み解いて実行犯の特定や追跡を行っていくというのがこのジャンルの醍醐味と言えるでしょう。

 そんなサイコスリラー映画ですが、私見な意見を述べると1990年代において非常に流行って大量に生産されていたなと思えます。このブームの嚆矢となりかつ恐らく最高傑作となったのはハンニバルシリーズの映画第一作である「羊たちの沈黙」であるように思え、アンソニー・ホプキンス氏の怪演もさることながら見えない犯人の姿形特徴性格を殺害の手口などから徐々に類推していくプロファイリングの過程が大いに評価され、日本でも一時期やたらとこの「プロファイリング」という単語を使った書籍や作品が出されました。
 この「羊たちの沈黙」の何がすごいかっていうと、ある事件の異常殺人者の性格分析を、その犯人以上に明らかにぶっ飛んでるというか規格外な「人食いハンニバル」ことレクター博士が冷静に行っていくという過程だと思います。この「異常者をもっとおかしな異常者(しかも普段はめっちゃ知的で紳士的)が分析する」という手法は現代でも多くの作品に使われますが、この作品以上にぶっ飛んだ構図は多分ないでしょう。

 この「羊たちの沈黙」のヒットを受けてかそれまでのサスペンスの枠を越えた、異常殺人者をテーマにした作品はハリウッドを中心にたくさん作られ、私が小学校高学年から中学生時代までなんかしょっちゅうこういう映画を見ていた気がします。ただどれもがヒットしたかとなるとやや微妙で、ブーム以前のスプラッターホラーから脱却しきれず映像のグロテスクさだけしか能のない作品だったり、異常殺人者というよりただのびっくり犯人にしかなってない作品であったりするなど、特に日本製作の映画やドラマ、漫画でこういう傾向がありました。一例を挙げると漫画の「多重人格探偵サイコ」は私の目からして、ヒットはしたけれどもさっきも言ったびっくり犯人大集合だけだったような気がします。
 なんでそういう駄作が量産されたかというと犯人の異常性だけを際立たせようとして、その異常性をどう読み解くか、犯人の経歴や社会背景、現場の手掛かりなど頭を使って推理する部分がおざなりになってたからじゃないかと考えます。また推理する部分にスポットを当てるにしても、そもそもなんで犯人が異常者なのかというと、常人の認識を越えた狂気を孕んでいるから異常なのであってその異常性を常識的に分析しようとすること自体がやや無理があり、分析する側にも現実離れした一定の狂気が要求されるのにその辺が上手く描き切れてなかったからじゃないかと思います。

 そうした大量生産時代にあって一目置いた作品を上げるなら、こちらもヒットしたアメリカの映画の「セブン」を挙げます。あのブラッド・ピット氏もこの作品で一躍名を挙げましたが、俳優らの演技はさることながらキリスト教の七つの大罪に沿って殺人(何人かは殺されなかったが)が続けられ、最終的に犯人の目的が結局わからないまま終わってしまうとい衝撃的な結末は当時においてなかなかに新鮮で、でもってやっぱり公開した後から七つの大罪をやたら引用する日本の漫画作品が増えた気がします。
 監督のデヴィッド・フィンチャー氏の好みでしょうがこの「セブン」は割と淡々にストーリーが進んでいき、視聴者に「どや!」って言わんばかりに画面を注目させる演出が少なく、そうした撮り方がこのジャンルにうまく適合していたんではないかと個人的に思います。ちなみに映画の「アイアンマン」を見ていて、「なんかこのヒロインどっかで見たことあるような……」と思ってたらこの「セブン」でブラッド・ピット氏の妻役を演じてたグウィネス・パルトローでした。

 この「セブン」以降もサイコスリラー映画はしばらく続きましたが、2000年に近くなってくると流行のホラージャンルがまた変わり、いわゆる日本初の「ジャパニーズホラー」がハリウッドを席巻することとなります。ジャパニーズホラーの特徴を少しだけ述べると、被害者が何の落ち度も理由なく理不尽に殺されたり祟られたりするというのが何よりの特徴で、むしろ品行方正で幸せそうな家族が無慈悲に殺されることが多いという風に私は見ています。友人曰く、「日本人からしたらそういう理不尽は日常茶飯事だが、向こうの連中からしたら新鮮に見えるんじゃないのか?」とのことです。

 またハリウッドの中でもシリーズ化して長期間続いた「SAW」など、以前のサイコスリラーと比べてミステリー色を強めたホラー映画が段々と中心になっていきます。もっとも「SAW」は第三作目から、ミステリーというか「今週のびっくりドッキリメカ」を楽しむスプラッター作品になっていきましたが。

 最後に私が気に入っているサイコスリラー映画(だと思う)の作品を挙げるならば、「セブン」と同じ監督による2007年公開の「ゾディアック」になります。これは実際にアメリカで起きて、未解決のまま終わった劇場型犯罪の走りともいえる「ゾディアック事件」を元にしたほぼノンフィクションの作品で、主演のジェイク・ジレンホール氏やロバート・ダウニー・Jr氏らなど俳優がやたら豪華なのと、犯人候補がストーリの進行とともに次々と浮かんでは消えていく過程が見ていてとてもハラハラさせられます。特に犯人候補の自宅を主人公が訪問した際、地下室に案内されたところで一切の音がなくなるシーンはマジでドキドキした。
 簡単に「ゾディアック事件」についても少しだけ触れると、この事件では連続殺人の犯人が自ら新聞社に暗号文を書いた手紙を送りつけたりラジオの電話に登場したり、次の殺人を予告したしたりと大胆な行動がとられたものの結局犯人は捕まらず、現代においても迷宮入りし続けている事件です。聞くところによるとこのところ話題の酒鬼薔薇もこの事件を参考にして暗号文を送りつけたとのことです。