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2009年10月18日日曜日

副島種臣とマリア・ルス号事件

副島種臣
マリア・ルス号事件(ウィキペディア)

 思うところがあるので、副島種臣について書いてみようと思います。
 副島種臣というのは詳しくはウィキペディアに書いてある通り幕末における佐賀藩の維新志士の一人で、同郷の大隈重信らとともに維新期を生き抜き明治政府成立後には外務卿、現在の外務大臣のような職で活躍した政治家です。その副島の外務卿時代に起きた事件というのが、卿のもう一つのトピックスであるマリア・ルス号事件です。

 このマリア・ルス号事件というのはもしかしたら知っている方も多いかもしれません。というのも私が小学生の頃には道徳の教科書にも取り上げられていた事件で、日本史の教科書にはあまり載っておりませんが内容を聞けば思い出される方もいるでしょう。
 この事件が起きたのは明治五年の六月、横浜港に停泊していたイギリス軍艦に清国人(今の中国人)が海を泳いで救助を求めてきた事から始まりました。その清国人は同じく横浜に停泊中のペルー船籍のマリア・ルス号から来たと話し、この船には彼らと同じ清国人231名が乗船しているが彼らは皆奴隷で運搬されていく途中であるとイギリス軍艦に助けを求めました。この突然の来訪に対してイギリス政府は現地の日本政府に連絡し、清国人の救助をするようにと要請しました。

 この要請を受けたのはまさに時の外務卿である副島だったのですが、マリア・ルス号側は彼ら清国人は奴隷ではなく移民だと主張して、神奈川県庁にて保護されていた逃げてきた清国人を引き渡すように要求してきました。
 この要求に対して恐らくはっきりと奴隷である事を証明する証拠がなかったという理由もあったでしょうが、当時の日本は江戸時代に結んだ不平等条約、この場合治外法権が列強諸国との間にまだ生きており、外国人に対し自国の法律で裁判を行う事が出来ずにいました。ただマリア・ルス号の船籍であるペルーとはこの時まだ二国間条約は結ばれていなかったので必ずしもこの治外法権の適用対象ではなかったのですが、それまで全く国際裁判というものを経験していないこともあって結局はこの引渡し要求に日本側も応じてしまいました。

 しかしこの日本側の処置に対して当時のイギリス公使のワトソンは納得せず、本人が行ったかどうかまでは分かりませんがマリア・ルス号に事実関係を確かめに行きました。するとそこでは日本側から引き渡された逃げてきた清国人が壮絶なリンチを受けており、ワトソンはすぐに副島に対して船長を再度審問するべきだと勧告しました。
 これを受けて当初は弱気だった副島も敢然と行動を行うようになり、直ちにマリア・ルス号の出航を停止させると清国人を解放するための法手続きに着手しました。もちろんこうした副島の動きにマリア・ルス号側黙っておらず、彼ら清国人はあくまで移民契約を受けた者たちだと主張するも、日本側はその移民契約は実質奴隷契約であり人道上放置する事は出来ないとして日本国内の裁判で互いに争いました。

 その裁判の途中、マリア・ルス号側のイギリス人弁護士がこんな主張をしてきました。

「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」(ウィキペディアの記述を引用)

 これは当時の日本で行われていた遊女契約、要は若い女性の身売りは人身売買であり、そのような現実を放置している日本が奴隷契約にあれこれ言うのはおかしいと主張してきたわけです。言われてみると確かにその通りなのですが、これに対して日本側はすぐに動き、実質的にはその後もあまり変わらなかったと思いますが「芸娼妓解放令」という建前ではこれを禁止する法律を出してマリア・ルス号側の主張の突き崩しにはかりました。

 最終的には日本国内の裁判という事もあり、マリア・ルス号に乗船していた清国人は皆解放されて帰国を果たす事が出来ました。しかしこれに船籍のペルー側は納得せず翌年には損害賠償を日本政府に請求してきましたが、ロシア帝国を仲立ちとした国際仲裁裁判にて当時のロシア皇帝アレクサンドル2世は日本側の取った行動は国際法上妥当なものとしてペルー側の主張を退けました。
 この事件は日本が初めて直面した国際裁判であり、この時に取った日本の人道的処置は当時の列強諸国からも高い評価を受けて後の不平等条約改正につながったとまで言われており、私としても百年以上前の先人の人道的判断とその処置は全く汚点の付け所のない、素晴らしい功績だったと胸を張って言うことが出来ます。

 実はこのマリア・ルス号事件は前々から取り上げようと考えていた事件で、まずもって現在の中国人でこの事件のことを知っている人間はいないであろうことから、昔の日本と中国を結ぶエピソードとして両国の相手感情を少しでも良くする為に広く日本人、中国人に知らしめる必要があると考えていました。
 そんな風に考えていた矢先、今月の文芸春秋にて書道家の石川九楊氏が「現代政治家 文字に品格を問う」という記事を寄稿しており、その中で書道家として石川氏がその著作にて大きく取り上げた副島種臣について触れているのを見て、なかなかにタイムリーだと思って今日書くことになりました。

 なおその記事にて石川氏が言うには、副島の書にはその時期ごとに変化があり、明治政府設立直後の書は一画一画に力こぶの入った闘争心溢れる書であったところ、外務卿に就任後は自らを鼓舞させるような速度のある書に変わり、副島が征韓論に敗れて明治政府を下野してからは急いでいるような筆の運びに回転が強まった書になっているそうです。今ちょっと触れましたが、副島は西郷隆盛らとともに征韓論を主張して敗れた後は下野し、その後しばらく中国に渡って滞在しております。その中国滞在中に西南戦争が起こり、西郷、大久保、木戸の維新三傑が皆没し、そのような仲間がいなくなってゆ中ゆえの焦りが書に出たのではないかと解説されております。

 そしてそれ以後の副島は板垣退助らの自由民権運動に当初は参加するも途中で離れ、まるで何かに抵抗する意思が現れるかのように文字形の崩れた書になり、字の構築性も失われていったそうです。更にそれから時が流れ1981年以降からはまるで自らの挫折した政治の理想が書にも現れ、これ以降から副島は卓抜した作品を残すようになっていったそうです。まぁその後、また政府に戻って内務大臣とかも歴任しているんだけどね。

  参考文献
・教科書が教えない歴史(産経新聞社)
・文芸春秋 2009年11月号(文芸春秋社)

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