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2013年6月10日月曜日

韓国の近現代史~その十五、全斗煥の台頭

 そろそろラッシュを決めてかないといけないと思っている韓国史の連載です。まだ随分と期間が空いてしまったなぁ。

 前回では独裁者であった朴正煕の死後、代わりに大統領になった崔圭夏が戒厳令を緩めるなどして民主化の機運が高まった「ソウルの春」を紹介しました。この時期の韓国は朴正煕時代は夜間外出すらも禁じられるほど統制の厳しかった時代の反動もあって自由に対する意識が高く、政権側もそれに応じるような姿勢を見せていたのですが、結果論を述べるとその希望は見事に打ち砕かれます。というのも、この後に政治の実権を握ったのは朴正煕の後輩ともいえる全斗煥による軍事政権だったからです。

 全斗煥は士官学校出身の根っからの軍人で、朴正煕が軍事クーデターを起こした際は士官学校生徒を率いて真っ先に支持に回り、朴正煕からの信頼を勝ち得て昇進していきました。天気が起こったのはいうまでもなく朴正煕の暗殺事件後で、当時は保安司令官だった全斗煥は同じ軍部の重鎮である鄭昇和陸軍参謀総長と主導権を争い対立します。
 両者の争いは派閥抗争へと発展していくのですが、全斗煥と士官学校時代に同期で後にこちらも大統領となる盧泰愚は1979年12月、電撃的に鄭昇和を朴正煕暗殺時の対応に問題があるとして逮捕し、鄭昇和の息のかかった部隊へ攻撃を仕掛けました。

 この時の一連の行動は「粛軍クーデター」と呼ばれ、韓国大統領府はおろか米軍にすら何の連絡や通達がないままソウルは内戦状態に陥ります。全斗煥は大統領府を制圧すると崔圭夏大統領など文民政治家に対して鄭昇和の逮捕を認めるよう迫り、崔圭夏も当初は抵抗しましたが、軍部に味方がおらず孤立した状況の中で最終的には要求を呑むよりほかがありませんでした。
 こうして全斗煥はライバルを追い落とし軍部の実権を完全に握り、政府に対しても半ば脅迫的に意見を言える立場を確立するに至ります。ここに至って全斗煥は自らの大統領就任も視野に入れて行動を開始し、1980年5月に金泳三や金大中といった民主派活動家の行動を大きく制限する非常戒厳令を出します。この措置に対して韓国国内では反対運動が起こったのですが、こうした動きに対して全斗煥は断固たる措置を取り、後の自身の大統領就任へとつなげるわけです。

 そういうわけで次回は、この時の政治弾圧で有名な光州事件を解説します。

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