ページ

2015年5月7日木曜日

旧日本陸軍四天王

 本題とは関係ありませんが一昨日、自宅内でパソコン使って作業していたら以前に日本語を教えていた中国人労働者が中国版LINEこと微信で連絡してきてそのままチャットへと発展しました。作業中ですが片手間で返信する位ならどうってことないとそのまま続けていたら、今度は大学の後輩がSkypeでチャットしてきて、二人同時にチャットする位ならまぁなんとかなると思ってたら、今度は大学の先輩がSkypeでアニメの「シュタインズゲート」がどれだけ素晴らしいか力説してきて、さすがに三人同時に文字チャットで対応するのは難儀でした。チャットしながらブログ書くってのはよくあるんだけどね。

 そういうわけで本題に入りますが、よく二次大戦中の旧日本陸軍で誰が指揮官として最も強かったのかが議論となります。正直なところどの指揮官も戦った場所や条件が異なるため厳密には誰が最強だったのかを比べるとなると難しいのですが、少なくともトップ4ならばほぼこの人たちで間違いないと確定しているように思えるので、私の目から見て「旧日本陸軍四天王」とも言うべき指揮官四人を今日紹介しようと思います。

1、宮崎繁三郎
 歴史家などからは彼こそが野戦最強の指揮官だと言われる宮崎重三郎はノモンハン事件、インパール作戦など日本軍が大敗した戦いに従軍し、圧倒的に不利で過酷な条件の中で驚嘆するほどの善戦ぶりを見せています。ノモンハン事件では日本軍部隊の中で唯一の局地戦勝利を遂げており、実質全く補給のなかったインパール作戦では敵軍から食料を奪いながら進軍し続けコヒマという地を占領し、撤退となった際も見事な戦術で友軍の撤退を助けています。特筆すべきはこのインパール作戦でどれだけ苦しい戦いにおいても部下の兵士を見捨てず、自ら背負って撤退したという人格者ぶりは後世にまで語り継がれております。

2、山下奉文
 通称「マレーの虎」。太平洋戦争序盤のマレー作戦では文字通りに連戦連勝を傘ね、驚異的な進軍速度でイギリス軍をマレー半島から追い払っております。その後もフィリピンでの防衛戦で善戦するなど戦上手ぶりを発揮し続けましたが二・二六事件での対応を巡って昭和天皇からは強く嫌われていた節があり、戦時中はその功績に比べやや報われない扱いを受けることとなりました。

3、今村均
 太平洋戦争の激戦地の一つであるラバウルを守備していた今村均は、早くからこの地域が米英軍によって孤立させられると読み、戦地で兵士に畑を耕させるなどして持久戦に備えました。その読み通りにラバウルはあらゆる補給船から断絶させられるものの今村の対策もあって陥落はせず、ついには終戦まで持ちこたえることに成功しました。
 こうした戦略眼の卓越ぶりはもとより占領地域で抜群の治政ぶりをみせたほか、わざわざ東京の監獄から部下たちが収監されていた環境の悪いマヌス島の監獄へと移送するよう志願するなど、万事において人格者たらん行動を実行に移している点も見逃せません。

4、栗林忠道
 二次大戦も終盤に入った硫黄島の戦いにおいて、補給も支援も全くないにもかかわらず米軍を最も苦しめた戦いぶりは桁違いもいい所でしょう。それ以前の戦闘での経験、そして硫黄島の地勢を鑑みて地下要塞を作り、徹底したゲリラ戦を敷いて米軍に日本軍を上回る戦傷者数を出させたという点をみるにつけ戦略、戦術共に頭抜けた実力者の持ち主以外の何物でもありません。
 その激しい戦いぶりに隠れていますが、戦地から家族へ宛てた手紙や辞世の句として有名なあの「散るぞ悲しき」など、もとよりジャーナリスト志望だったという文才も見逃すことはできません。

 あくまで私個人の目線ですが、旧日本陸軍の中で最も優れた指揮官としては上記の四人が確実に上がってくるのではないかと思います。四人のうち、宮崎繁三郎今村均に関してはこのブログを始めた当初に「猛将列伝」の連載記事で取り上げていますが、いま読み返すと非常に拙い文章で「もっと修行しろアホ!」と昔の自分に言いたくなります。
 逆に、山下奉文と栗林忠道の二人について私はまだ評伝を書いていないのですが、栗林に関してはほかの人がたくさん書いているので私から書く必要はないかなと考え、山下に関してはあんまりマレー作戦については知識がなく勉強不足なので書いてないだけで、別に嫌っているというわけではありません。

 むしろこの四人の中で最も凄まじさを感じるのは栗林で、あの絶望的な戦況においてよくぞあれだけ戦い抜いたと尊敬を通り越して畏怖すら覚えます。宮崎繁三郎も同様にその強さには恐れを感じるほどですが、山下に関しては開戦序盤でなおかつ比較的装備や補給の整った状態でマレー作戦を指揮しているため、他の三人と比べると条件面でやや異なっているのではとも考えています。

 あまり他では言われていないことを書くと、この四人のうち山下を除く三人が陸軍幼年学校を卒業しておらず、陸軍士官学校からその軍歴を開始しております。幼年学校を出ずに陸軍幹部となる人物は当時としては非常に少なく、その少ない人物の中からこれだけ多くの名将を輩出していることを考えると、幼少から少年期までとはいえ外の世界を知っているか否かというのは案外大きな要素だったのではないかと思え、歴史家の半藤一利氏や保坂正康氏もその点を指摘しております。
 また四人とも戦地で大きな戦果を挙げていたにもかかわらず何故か中央本部での勤務に付されることはなく、むしろ使い捨てにされるかの如く激しい戦地から戦地へ何度も送られ、逆に失敗を繰り返す将軍ほど中央本部に回されておりました。山下に関しては昭和天皇に嫌われていたことが大きいと思われますが、ほかの三人は幼年学校を出ていなかったためではないかと思える節もあり、昔も今も日本の人事は妙な倫理がまかり通るとつくづく呆れるばかりです。

4 件のコメント:

国大職員 さんのコメント...

今村均大将がインドネシアで行った宣撫活動は本当に抜群のものでしたね。ていうか戦前の日本て占領地での活動はかねがね良好なものであったと思います。逆にアメリカは日本に比べて、宣撫活動へたくそですよね。イラクとかぐだぐだじゃないですか・・・。アメリカは今村均大将を見習いなさい!

花園祐 さんのコメント...

 国大職員様、コメントありがとうございます。
 こんなディープな歴史ネタに付き合っていただき、ありがたいことこの上ありません。今村対象のインドネシアでの統治ぶりは今考えても実に合理的で、日本軍は大戦中に反感を買うことのが多かった中であれだけの統治を成したのは自分も尊敬しています。
 それと、おっしゃる通りにアメリカは宣撫活動が明らかに下手ですね。お金とチョコ配ることしかできないからかなぁ(^_^;)

上海忍者 さんのコメント...

以上のhero四人はまだ生きていますか?

花園祐 さんのコメント...

 さすがにみんな死んでいる。最後の栗林忠道に関しては死体も見つかっていないが、硫黄島だからもしかしたら回収されている可能性もある。