先日、ある友人から「自由」という言葉は福沢諭吉が初めて「Freedom」という言葉を翻訳して作った言葉だということを教えてもらいました。なお福沢はこの言葉を最初は「下剋上」と翻訳したそうですが、「なんか違うよなぁ」と思って翻訳し直したそうです。この判断は正しかったんじゃないかなぁと私は思います。
ただこの自由という言葉ですが、内包する意味としては大きく分けて二つあるのではないかと私は考えております。もったいぶらずに述べると一つは「どんな選択肢でも好きに選べる状態」で、もう一つは、「束縛が全くない状態」です。どちらも似たような印象を覚え実際に両方とも兼ね備えた状態も決して珍しくはありませんが、必要十分条件の関係ではないと断言できます。
具体例を挙げると、誰かの監視なり保護下に入ることによって行動の選択肢が増えるというのが一番わかりやすく、これだと束縛は増えるものの自分単独では実行することが出来ない行動が選択肢に入ってくるわけで、一種の社会契約論と考えても問題ありません。
逆のパターンもまた然りで、親の庇護下から離れることで束縛は減るものの成人していなかった場合は経済面から行動が縛られてしまいます。まぁ経済面の縛りを束縛ととるならまた解釈も変わってきますが。
では一般的な日本人は普段どちらの自由を重視しているのか。私の意見を述べるならば圧倒的に前者で、選択の幅を広げるのであれば社会や組織の束縛を受けることにほとんど抵抗しない人が多いように思います。こうした日本人の傾向について特段批判するような点はなく、いつも手厳しい日本人論を語る私としても変だとは思いません。そもそもどちらの自由を優先するのかは本当に考え方次第であるため、どっちが正しいとか理想形は何なのかを考えるのは野暮でしょう。もっとも、どっちの自由も放棄するってのは問題である気はしますが。
ここまで書けば薄々勘付かれるでしょうが、私個人としては圧倒的に後者の「束縛からの自由」を重視しています。逆を言えば束縛から離れられるのであれば選択肢が狭まっても構わないというか、実際にそのような行動をこれまで取ってきました。
あくまで私見ですがこっちの「束縛からの自由」を重視するのはやっぱり欧米系国家の人たちに多いような気がします。組織や家族のために個人を殺すといった行動意識は日本人と比べると小さく見え、単純に個人主義が強いだけかもしれませんが社会全体でもそうした意識が垣間見え、慣習やら社会的影響をなるべく排除しようとしているのではないかと思います。
こちらでも具体例を挙げると自由の本場と日本人が言っているフランスで、以前に騒がれた学校にイスラム教徒であってもブーケを被って来てはならないというルールを設ける当たり、宗教的影響を可能な限り教育現場から排除しようとしたのではないかと見えました。
繰り返しになりますが「選択の自由」、「束縛からの自由」のどちらを重視するかは人それぞれであって、どちらの自由が絶対的に正しいと言い切ることはできないでしょう。ただ私からの助言としては、二つの自由をどんな按配で重視するのか、これをおぼろげながらも意識すると物事の見え方が良くなるように思えるのでお勧めです。
たとえば普段は行動の自由を重視しながらも束縛からの自由を完全放棄しない、割合的には8:2ぐらいに自己設定して、一体どこのタイミングで自分は束縛に対して抵抗するのかを考えてみるのも面白いかもしれません。上司から叱責を喰らう、上司からビンタを喰らう、上司からフランケンシュタイナーを喰らう、この三段階のどこまで我慢するのかを考えるだけでも自分の立ち位置なり根本的な考え方が以前より確固と固まるのではないかと思えます。まぁ三つ目はこんな技決められる上司に巡り合えるかどうかをまず考えた方が良いかもしれませんが。
5 件のコメント:
伝統的な哲学の解釈からみれば、自由とは自分自身をコントロールすることが出来る状態、つまり自律のことを指します。花園さんの言うところの束縛からの自由に近い解釈だと思います。上司の例に関して言えば僕だったたらフランケンシュタイナーを華麗にかわしてブロック・レスナー並みのジャーマンスープレックスを決めたいですねぇ。
福沢諭吉に関しては英語のrightを権理と訳したという話が印象深いです。これは本当にうまいこと訳したと思います。今からでも遅くないので今の権利という字と違い、理、道理に基づいた権力という意味合いが強くでてる権理の方に戻したほうが良いんじゃないかなぁなんて思ったりします。
実際、フランケンシュタイナーをかけられる上司がいる職場だったらかなりスタイリッシュで意外と面白いかもしれません。どうでもいいですがゾンビリベンジというゲームだと、ゾンビに対して四の字固めを決められます。
あと「権理」という言葉ですが、自分は「理」という言葉を見ると「フォース」という言葉が頭に浮かびます。今からでも遅くないから、フォースと言い換えてみるのもありかもしれません。
中島らもの本からの引用ですが、自由について以下の記述があります。
"僕は「自由」という言葉を尊んで、そのために勝ったり負けたりしながら生きてきた人間である。言っておくが、「自由」というのは決して美しい言葉ではない。自由を選べば人間は生きていく上では非常に不自由になる。そのために耐え忍ばねばならない孤独や心細さに比べると、我を折って「掟」の持つ不条理に耐えるほうがはるかに苦痛は少ないと言える。ただし、そのどちらを選んでも苦しみと安楽さの収支決算はたいしてちがわないようにも思える。自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。どちらを選ぶかは「コブラがいいですか、タランチュラがいいですか」と問われているようなものだが、少なくともその選択はそれらを引き受ける本人によってなされるべきだ。"
自由について考えるのは、難しいですし、自分の今の環境のバイアスが大きく入ってくると思います。その都度、振り返って選んで行動していくのが大事なのかもしれません。
中島らもには悪いですが、「自由」をほとんど抑圧されたことのない人間があれこれ自由を語るのはどうかなと、他の人も含めてよく思います。かくいう私もそうした立場に置かれたことはありませんが、表現の自由に関しては、明らかに偏見としか言いようのないしょうもない批判とかたまにされ、めちゃくちゃ腹立つのでこの点に関しては絶対に譲らんって立場をとります。
知ったかぶっての、引用は良くないですね・・・
調べがたりませんでした。
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