2017年9月13日水曜日

とある陸軍大将と海軍大将

「灘高校1979年卒」の神童は、大人になってどうなったのか?勝谷誠彦、和田秀樹、中田考は新・警視総監と同級生(文春オンライン)

 本題と関係ありませんが面白かったので紹介します。それにしてもすごい濃いメンツが集まってたもんだ。

 話は本題ですが、昔あった「提督の決断」というゲームについてあるふざけた紹介記事では、「海軍を率いて自国の陸軍と必死で戦い、ついでに相手の海軍とも戦うゲーム」と書かれてありましたが、あながち間違ってるわけでもありません。ちなみにこのゲーム、軍艦とか作ろうとしたら会議で悉く陸軍が反対してくるというのはリアルに設定されています。
 太平洋戦争時、日本に限らず米国でも陸軍と海軍の仲は非常に悪く、日米両国で両軍は足を引っ張り合ったというのは有名な話です。この仲の悪さは昭和天皇も苦悩したことを周囲に吐露していたほどで、仲の悪い嫁と姑が一緒に同居している旦那のような立場だったのではないかと推察します。自分で書いといてなんですが、上手い喩えな気がします。

 そんな陸軍と海軍だったもんだから戦後も基本的にお互いが悪口合戦で、「向こうのせいで負けたんだ」というような主張を双方で行い、最終的には「海軍善玉論」に代表されるように海軍側が世論を制しましたが、双方の幹部同士で全く交流がなかったわけでもありません。
 ひとつ例を挙げると、陸軍の今村均と海軍の山本五十六は博打好きという趣味が共通していて普段から仲が良かったそうです。特に山本五十六が戦死する直前、たまたま現地付近に今村も赴任していたため挨拶を交わしており、二人とも今後の戦争の行く末についてやや暗い見通しを語り合ったと言われています。

 この二人とはまた趣が違いますが、陸軍の畑俊六と海軍の米内光正にもあるエピソードがあります。

 畑俊六は陸軍切ってのエリート幹部で、昭和天皇の侍従武官となったことから信任も非常に高かったそうです。そうした信頼関係から、暴走し始める陸軍を抑える目的で米内内閣の組閣時には陸軍大臣に据えるよう、昭和天皇から直接推薦されています。
 しかしそれほどの信頼を集めた畑も、米内内閣が陸軍に抵抗姿勢を見せるや陸軍上層部の意向を受け、自ら単独辞任することで米内内閣を崩壊へと導きました。なおこの米内内閣を崩壊に導いたことが遠因してか、終戦前の内閣組閣時に東条英機は総理大臣に畑を推薦したものの、過去に期待を裏切られた天皇はやや冷淡に拒否し、無事に鈴木貫太郎内閣が誕生したことが伝わっています。

 時代は移って終戦後、極東国際軍事裁判で先の米内内閣を崩壊させた点について畑は追及され、軍事独裁化を招いた張本人の一人として起訴されました。この際に証人に呼ばれたのは内閣を崩壊させられた本人である米内だったわけですが、判事からの質問に対して米内は徹底して知らぬ存ぜぬを貫き通し、畑をかばい続けました。終いには判事からも米内は「なんて愚か者だお前は!」と言われたそうですが、その甲斐あって畑の判決は終身刑に留まりました。
 米内内閣を崩壊に導いたことを考えると死刑であってもおかしくなく、そうしたことから畑は出所後も米内への感謝を度々口にし、1960年に米内の故郷である盛岡に銅像が作られた際にはすでに80歳の高齢に至っていたにもかかわらず、除幕式の傍らで黙々と雑草をむしる姿が目撃されたそうです。

 私個人としては、畑に対しやや同情的な立場を取ります。彼自身の思想よりも陸軍という組織の思想によって行動を強制され、その結果死刑にかけられそうになった点は運命にもてあそばされた結果にしか思えません。ただ運命は彼を見捨てなかったというか、犬猿の仲である海軍の大将である米内によって命脈をつなぎ、また畑もその米内への恩を忘れなかったというのは美談であると言っても過言ではないでしょう。
 何も畑に限らずほんの些細な運命のいたずらで死刑となった戦犯はB、C級を中心にたくさんいます。今日紹介したのはその中でも、運良く助かった例の一つです。

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