よく日本人労働者は賃金が高過ぎると言われますが、必ずしもそうなのかこのところ少し疑問に感じております。というのも欧米やアジアの労働管理の話を聞いていると、やはり日本人労働者は優秀なように思えるからです。
ではどのような点で日本人労働者が他国の労働者が優れているのかというと、私が思いつくのを挙げると下記の通りになります。
・遅刻、欠勤が少ない(無断でのを含む)
・ストライキを滅多に起さない
・異動、転勤の際に不服申し立てをしない
・超過勤務に文句言わないし、耐えられる
・実力をつけてもなかなか転職しない
・日本国内において読み書き計算はなんの問題もない
上記項目についてもうすこし詳しく解説すると、まずはなんと言っても遅刻や欠勤が少ない点が挙げられます。欧米などでは家族が病気になったり、下手すりゃペットが体調不良になるたびに休みを取るとまで言われていますが、日本でもさすがに冠婚葬祭に関することでは何も言いませんが、家族の看護や介護で一回ならともかく何度も休みを取るとなると早く辞めてくれと解雇宣告が飛んで来ます。またそうした正当な理由での休日取得に限らず時間にルーズな国だと、始業時刻にみんな平気で遅刻してきたり、作業中に勝手に休憩を取る労働者も珍しくありません。まぁ日本も最近は大分減ったけど煙草休憩がありますが。
そして二番目の項目のストライキについてですが、これは主にフランスを初めとしたヨーロッパ諸国では非常に盛んです。ヨーロッパの企業では何か企業側が新しい規定や就業規則の改定を行うたびにストライキが行われるのに対し、日本ではかなり無茶苦茶な要求や超過勤務が強制されたとしても今となってはストライキを起こす社員なんてほとんどいません。ましてや三番目の異動や転勤についても、事前通告なしに配置転換されたとしてもほぼ確実に文句も言わず行ってくれます。
残りの項目については言わずもがなで、韓国を除くとこれだけ企業側に従順な労働者なのは日本くらいな気がします。同じアジアでも韓国の労働環境の劣悪さは今も進行中の「東方神起」の契約問題などのように相当ひどいものらしいですが、中国については従業員側も雇われる傍から独立したり転職したりするので日本よりはマシなような気がします。
このように日本人労働者は他国と比べて優位な点が多く、唯一英語が話せない点を除くと優秀な労働群のように私は思えます。確かに日本人の賃金は円高の今だとドル換算で比較すれば他国よりもそれなりに高いですが、それでもそのポテンシャルを考慮するならば今の平均賃金、特に若年労働者層の収入はいくらなんでも低過ぎるような気がします。
それだけに、私は今の日本企業の経営者達がどうして利益を上げられないのか疑問に感じます。そのポテンシャルに対して低い賃金でそれこそ死ぬまで働いてくれる労働者達を行使できるにも関わらず必ずしも儲けられない、厳しい見方をすると経営者達の資質を疑います。
もっとも今日友人にも指摘された通りに、日本企業の大半は国内にしか市場を持たないがゆえにこの利点を生かせないというのも一理あるのですが、少なくとも大企業の幹部が不振の理由を日本人賃金の高さのせいにするのは間違いなように感じるので、こうして一筆したためる事にしました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年4月17日土曜日
2010年4月15日木曜日
ダブルスクールについて
以前商学部出身の友人に、こんな事を聞いてみました。
「あのさ、もし仮に俺が君に会社の設立から登記を今ここで頼んだらすぐできるかい?」
「いや、無理だって」
「でもさ、君の専門って商学部だろ。会社の設立手続きが大変なのは分るしこういったことは本来行政書士の担当範囲だから法学部のものかもしれないが、商学部を卒業した人間が会社の設立法を知らないってなんだかおかしな話じゃないか?」
「じゃあ逆に君だって社会学科の出身だけど、何か社会調査をすぐにやれる?」
「いい加減なものならともかく、SPSSを駆使した立派な調査報告書を作れって言われても無理だね」
友人の名誉のために言っておきますが、この友人は非常に勉強熱心で多方面の知識に富んでいる立派な人間です。それにもかかわらず商学部で学んでいながら会社の設立法が分からないというのは、彼の個人的な資質以前に大学がきちんと教えるべきことを教えないゆえだと私は考えております。
普通に考えるならば、企業の運営法を学ぶ商学からすると会社の設立の仕方は基礎的に学ぶべきものだと思うし、商学部の人間でないなら一体誰がそういったことを勉強するのかと思います。しかし私の友人に限らず、商学部を卒業する大半の人間は会社の設立の仕方なんて全く知らないどころか下手すりゃ基本的な会社法の知識すら危うい人間も数多くいるかと思います。
悲しい事に、これは商学や社会学に限らずどの文系学部学科においても言える内容です。一応それぞれの学科ごとに専門性は分けられているものの、その分野の勉強において必要とされる基礎的な内容は置き去りにされたまま、結構枝葉末節な部分をそれぞれで研究する事になったりします。私もあまり他人のこといえないけど。
どうも大学の講師陣たちから話を聞いていると、学部生にそんなところまで求めたらにっちもさっちも行かないので、まともに教えるのは大学院生からだという風に割り切っている人が多いように思えます。確かに講師陣がそう思いたくなるほど大半の日本の学生が無気力であるのは私もまだ理解できてしまうのですが、これだと可哀想な事になるのは真面目に勉強したいと思っている学生達です。
そんな状況を反映してか、このところすっかり珍しくなくなったのは大学に通いながら予備校に通うという、大学生のダブルスクールという行為です。近年の大学生は資格取得を目指して大学入学とともにそうした資格専門の予備校に通う人間が多く、私の友人らも就職を意識し始める三回生頃から急に公務員資格の予備校に通い出していました。
もちろん大学は資格取得のための場ではないし専門分野だけ学ぶ場所でもありません。しかしあまりにも空辣なことばかりを教え過ぎて、社会に必要とされる人材を送り出す教育がないがしろにされているのも事実だと思います。
これを話すと非常に長くなるのでやめますが、そもそも資格という言葉と権威が大氾濫し過ぎている今の社会も問題があると感じます。とはいえ大学に通いながら別に予備校に通うというのも無駄にしか思えず、もう少し大学もそれぞれの専門分野ごとに実学的な知識を教育してくれればと感じます。
もっとも、こんなこといいながら一回生の頃は調査法ばかり教えられて、もっと理論を教えやがれと講師に楯突いたことがあるのですが。
「あのさ、もし仮に俺が君に会社の設立から登記を今ここで頼んだらすぐできるかい?」
「いや、無理だって」
「でもさ、君の専門って商学部だろ。会社の設立手続きが大変なのは分るしこういったことは本来行政書士の担当範囲だから法学部のものかもしれないが、商学部を卒業した人間が会社の設立法を知らないってなんだかおかしな話じゃないか?」
「じゃあ逆に君だって社会学科の出身だけど、何か社会調査をすぐにやれる?」
「いい加減なものならともかく、SPSSを駆使した立派な調査報告書を作れって言われても無理だね」
友人の名誉のために言っておきますが、この友人は非常に勉強熱心で多方面の知識に富んでいる立派な人間です。それにもかかわらず商学部で学んでいながら会社の設立法が分からないというのは、彼の個人的な資質以前に大学がきちんと教えるべきことを教えないゆえだと私は考えております。
普通に考えるならば、企業の運営法を学ぶ商学からすると会社の設立の仕方は基礎的に学ぶべきものだと思うし、商学部の人間でないなら一体誰がそういったことを勉強するのかと思います。しかし私の友人に限らず、商学部を卒業する大半の人間は会社の設立の仕方なんて全く知らないどころか下手すりゃ基本的な会社法の知識すら危うい人間も数多くいるかと思います。
悲しい事に、これは商学や社会学に限らずどの文系学部学科においても言える内容です。一応それぞれの学科ごとに専門性は分けられているものの、その分野の勉強において必要とされる基礎的な内容は置き去りにされたまま、結構枝葉末節な部分をそれぞれで研究する事になったりします。私もあまり他人のこといえないけど。
どうも大学の講師陣たちから話を聞いていると、学部生にそんなところまで求めたらにっちもさっちも行かないので、まともに教えるのは大学院生からだという風に割り切っている人が多いように思えます。確かに講師陣がそう思いたくなるほど大半の日本の学生が無気力であるのは私もまだ理解できてしまうのですが、これだと可哀想な事になるのは真面目に勉強したいと思っている学生達です。
そんな状況を反映してか、このところすっかり珍しくなくなったのは大学に通いながら予備校に通うという、大学生のダブルスクールという行為です。近年の大学生は資格取得を目指して大学入学とともにそうした資格専門の予備校に通う人間が多く、私の友人らも就職を意識し始める三回生頃から急に公務員資格の予備校に通い出していました。
もちろん大学は資格取得のための場ではないし専門分野だけ学ぶ場所でもありません。しかしあまりにも空辣なことばかりを教え過ぎて、社会に必要とされる人材を送り出す教育がないがしろにされているのも事実だと思います。
これを話すと非常に長くなるのでやめますが、そもそも資格という言葉と権威が大氾濫し過ぎている今の社会も問題があると感じます。とはいえ大学に通いながら別に予備校に通うというのも無駄にしか思えず、もう少し大学もそれぞれの専門分野ごとに実学的な知識を教育してくれればと感じます。
もっとも、こんなこといいながら一回生の頃は調査法ばかり教えられて、もっと理論を教えやがれと講師に楯突いたことがあるのですが。
2010年4月14日水曜日
標的なき近年の犯罪について
近年の犯罪の中で際立った特徴を挙げるとすれば、私はやはり殺人や傷害といった行為が無関係の人間に対して行われる事件が頻発しているという事に尽きると思います。
・岡山駅突き落とし事件(Wikipedia)
この標的なき殺人の代表格と私が目しているのが、上記の「岡山駅突き落とし事件」です。この事件は父親へ不満を持った19歳少年が帰宅途中の38歳男性を電車が来る直前の駅のホームで突き落として殺害したという事件ですが、この事件の特殊性は言うまでもなく殺害者と被害者が何の縁のゆかりもない人間同士だったということです。殺害者の少年は犯行後、「誰でもいいから殺して刑務所に行きたかった」と動機を話しているのですが、それならば何故殺人を決意させる原因となった父親ではなく無関係の人間が対象となったのかがはっきりと説明できず、私はこの少年の動機はむしろ、「殺人という大問題を起して父親を困らせてやろう」という理由の方が素人目ではありますが適当な気がします。
仮に上記のような事件が一回こっきりのものであれば、言い方は悪いですが犯人の少年がやや特殊な人格であったという事でそれほど心配する必要はないのですが、残念ながらこのような無関係の相手にある日突然暴力を振るうという事件がこのところ頻発しております。
まず同じようなホームの突き落とし事件であれば去年の三月に、動機もまた「死刑になりたいから」という理由で24歳の男が60歳代の女性を突き落とすという事件が起きております。こちらは幸いにして女性は列車に轢かれずに済みましたが、それでも頭蓋骨を骨折するという大怪我を負わされております。
また列車関係に限らず無関係の人間を標的にする事件といえば、なんといっても通り魔事件でしょう。つい最近でも東京都で27歳の女性が35歳の女性にナイフで切りつけるという事件が起きており(産経新聞)、この時逮捕された犯人が語る動機というのが、「男性に振られて誰でもいいから傷つけたかった」という、聞いていて呆れさせられる内容だったのも含めて驚かされた事件です。
そして通り魔事件と来れば、こちらは少し前にも現在も続けられている公判模様の記事をこのブログでも取り上げた、2008年の「秋葉原連続通り魔殺傷事件」も外す事が出来ないでしょう。この事件でも犯人は標的については誰でもよかったと述べ、殺害を決意した理由についてはもてないだの正社員になれないだの社会への不満だと話しておりますが、今のところはまだはっきりしていないと見るべきかと思います。
確かに昔からあったものの表沙汰になってなかっただけなのかもしれませんが、私はこのような標的なき犯罪がこのところ頻発していることをとみに憂慮しております。これら標的なき犯罪事件の特徴はというと、まずはなんといっても殺害対象が犯人とは全く無関係の縁もゆかりもない人間たちということで、しかもその動機の大半が通常からだととても殺人に結びつくとは思えない、はっきり言えばくだらない理由ばかりだということです。
これは心理学でもはっきりと検証が済まされている報告ですが、基本的に人間は遺伝子からの刷り込みからか、殺人という行為を犯す際には大きなストレスを覚えるように出来ております。それゆえに殺害を行おうものなら先天的に精神に異常性のある人物以外だと普通は大きなためらいが生じ、そのためらいを乗り越えて実行に移すためには激しい憎悪や殺されるかもしれないと思うほどの危機意識が必要なのですが、上記の事件の犯人らが語る内容からはそのような切迫した心理が一切感じられません。
更に言えば、仔細に事件の内容を見てみるともう一つ大きな共通点があります。それは何かというと、犯人の行為が不満を持つきっかけとなった対象に直接的に向かっていないという点です。
最初の岡山の電車突き落とし事件では犯人が殺害を決意する原因となった父親にその行為が向けられるのではなく無関係の男性へと向かい、東京都の女性の通り魔事件においては自らを振った元彼ではなくこちらも関係のない通りかかりの女性にその暴力の矛先が向かっています。そして秋葉原の連続通り魔事件では、まだ犯人の動機がはっきりしていないものの仮に犯人が事件実行直前にネットの掲示板で書いた理由がそうであるとしたら、不満を持つ対象は本来ならばそれまで働いていた派遣先の企業や派遣会社であるはずで、秋葉原を訪れていた人が対象になる理由などどこにもありません。
秋葉原の事件直後に文芸春秋で読んだ評論にてある評論家が、この事件の犯人は社会への不満を口にしながらもその怒りを直接社会へ向けず、むしろ自分が親近感を持つ秋葉原の、しかも自分より弱い対象に向けられていると指摘しておりました。前半部の社会への不満についてはまだ検討の余地があるものの、後半の自分より弱い対象へ向けられたというくだりは私も同感です。
この傾向は他の事件も同様で、基本的に犯人は被害者に対して体力的、武装的にも優位な立場で、一切反撃を恐れる必要のない相手に対して行為を起しており、犯人皆が「誰でもよかった」と言っておきながらも敢えて自分より弱い対象を狙っていたのは明らかでしょう。
私が懸念しているのはまさにこの、自らの不満を自分より弱い対象へ向けられるという構図が今後も更に一般化していくということです。この構図は言い換えればイジメの構図にほかならず、このような行為を正当化する風潮が強まってきているのではないかとこのところ懸念しております。ちょっと大袈裟に言うと、「自分はこんなに苦しくて大変な思いをしているのだから、苦しい思いをさせている張本人はちょっと恐いから、その不満を自分より弱い誰かにぶつけたっていい」と思う人が増えてきているようにも見え、なんとなく社会が退廃的になってきているような実感があります。
もちろん殺人という行為は何がどうあっても正当化される行為ではないですが、殺人ではなく正当な抗議活動や拒否行為といった抵抗であればむしろ健全な社会では存在するべきです。そういう意味で怒りや不満の矛先が関係ない人に向けられるという事は、問題の根本的解決に結びつかないばかりか弱者同士での殺し合いにしかならず、このような風潮をもっと日本の社会は認識した上で早く対処策を講じるべきではないかとこのところ思うわけです。
・岡山駅突き落とし事件(Wikipedia)
この標的なき殺人の代表格と私が目しているのが、上記の「岡山駅突き落とし事件」です。この事件は父親へ不満を持った19歳少年が帰宅途中の38歳男性を電車が来る直前の駅のホームで突き落として殺害したという事件ですが、この事件の特殊性は言うまでもなく殺害者と被害者が何の縁のゆかりもない人間同士だったということです。殺害者の少年は犯行後、「誰でもいいから殺して刑務所に行きたかった」と動機を話しているのですが、それならば何故殺人を決意させる原因となった父親ではなく無関係の人間が対象となったのかがはっきりと説明できず、私はこの少年の動機はむしろ、「殺人という大問題を起して父親を困らせてやろう」という理由の方が素人目ではありますが適当な気がします。
仮に上記のような事件が一回こっきりのものであれば、言い方は悪いですが犯人の少年がやや特殊な人格であったという事でそれほど心配する必要はないのですが、残念ながらこのような無関係の相手にある日突然暴力を振るうという事件がこのところ頻発しております。
まず同じようなホームの突き落とし事件であれば去年の三月に、動機もまた「死刑になりたいから」という理由で24歳の男が60歳代の女性を突き落とすという事件が起きております。こちらは幸いにして女性は列車に轢かれずに済みましたが、それでも頭蓋骨を骨折するという大怪我を負わされております。
また列車関係に限らず無関係の人間を標的にする事件といえば、なんといっても通り魔事件でしょう。つい最近でも東京都で27歳の女性が35歳の女性にナイフで切りつけるという事件が起きており(産経新聞)、この時逮捕された犯人が語る動機というのが、「男性に振られて誰でもいいから傷つけたかった」という、聞いていて呆れさせられる内容だったのも含めて驚かされた事件です。
そして通り魔事件と来れば、こちらは少し前にも現在も続けられている公判模様の記事をこのブログでも取り上げた、2008年の「秋葉原連続通り魔殺傷事件」も外す事が出来ないでしょう。この事件でも犯人は標的については誰でもよかったと述べ、殺害を決意した理由についてはもてないだの正社員になれないだの社会への不満だと話しておりますが、今のところはまだはっきりしていないと見るべきかと思います。
確かに昔からあったものの表沙汰になってなかっただけなのかもしれませんが、私はこのような標的なき犯罪がこのところ頻発していることをとみに憂慮しております。これら標的なき犯罪事件の特徴はというと、まずはなんといっても殺害対象が犯人とは全く無関係の縁もゆかりもない人間たちということで、しかもその動機の大半が通常からだととても殺人に結びつくとは思えない、はっきり言えばくだらない理由ばかりだということです。
これは心理学でもはっきりと検証が済まされている報告ですが、基本的に人間は遺伝子からの刷り込みからか、殺人という行為を犯す際には大きなストレスを覚えるように出来ております。それゆえに殺害を行おうものなら先天的に精神に異常性のある人物以外だと普通は大きなためらいが生じ、そのためらいを乗り越えて実行に移すためには激しい憎悪や殺されるかもしれないと思うほどの危機意識が必要なのですが、上記の事件の犯人らが語る内容からはそのような切迫した心理が一切感じられません。
更に言えば、仔細に事件の内容を見てみるともう一つ大きな共通点があります。それは何かというと、犯人の行為が不満を持つきっかけとなった対象に直接的に向かっていないという点です。
最初の岡山の電車突き落とし事件では犯人が殺害を決意する原因となった父親にその行為が向けられるのではなく無関係の男性へと向かい、東京都の女性の通り魔事件においては自らを振った元彼ではなくこちらも関係のない通りかかりの女性にその暴力の矛先が向かっています。そして秋葉原の連続通り魔事件では、まだ犯人の動機がはっきりしていないものの仮に犯人が事件実行直前にネットの掲示板で書いた理由がそうであるとしたら、不満を持つ対象は本来ならばそれまで働いていた派遣先の企業や派遣会社であるはずで、秋葉原を訪れていた人が対象になる理由などどこにもありません。
秋葉原の事件直後に文芸春秋で読んだ評論にてある評論家が、この事件の犯人は社会への不満を口にしながらもその怒りを直接社会へ向けず、むしろ自分が親近感を持つ秋葉原の、しかも自分より弱い対象に向けられていると指摘しておりました。前半部の社会への不満についてはまだ検討の余地があるものの、後半の自分より弱い対象へ向けられたというくだりは私も同感です。
この傾向は他の事件も同様で、基本的に犯人は被害者に対して体力的、武装的にも優位な立場で、一切反撃を恐れる必要のない相手に対して行為を起しており、犯人皆が「誰でもよかった」と言っておきながらも敢えて自分より弱い対象を狙っていたのは明らかでしょう。
私が懸念しているのはまさにこの、自らの不満を自分より弱い対象へ向けられるという構図が今後も更に一般化していくということです。この構図は言い換えればイジメの構図にほかならず、このような行為を正当化する風潮が強まってきているのではないかとこのところ懸念しております。ちょっと大袈裟に言うと、「自分はこんなに苦しくて大変な思いをしているのだから、苦しい思いをさせている張本人はちょっと恐いから、その不満を自分より弱い誰かにぶつけたっていい」と思う人が増えてきているようにも見え、なんとなく社会が退廃的になってきているような実感があります。
もちろん殺人という行為は何がどうあっても正当化される行為ではないですが、殺人ではなく正当な抗議活動や拒否行為といった抵抗であればむしろ健全な社会では存在するべきです。そういう意味で怒りや不満の矛先が関係ない人に向けられるという事は、問題の根本的解決に結びつかないばかりか弱者同士での殺し合いにしかならず、このような風潮をもっと日本の社会は認識した上で早く対処策を講じるべきではないかとこのところ思うわけです。
2010年4月13日火曜日
ジェネラリストとスペシャリスト
よく企業の求人欄などを見てみると、「弊社は多彩な分野に挑戦の出来る、スペシャリストよりもジェネラリスト的な人材を求めております」という記述をよく見ますが、結論を言うと日本企業においてこういっているところはみんな嘘をついていると私は思います。これなんか城繁幸氏などがこっぴどく批判していますが、日本のどの企業も社員を可能な限り、経理なら経理、営業なら営業と専門馬鹿にすることで転職などといった雇用の流動化を抑えようとする所があり、現実に日本の転職市場の幅の狭さと官公庁を初めとした縦割り行政を見ていると私もその通りだと日々感じます。
そういう意味では日本は素晴らしくスペシャリスト的人材に溢れた国であるはずなのですが、どうも一般の世論などを聞いているとむしろスペシャリストが不足しているという言質をよく聞きます。この点についてはスペシャリストが不足しているというよりも痒い所に手が届くような人材というか、必要とされる職種の人材が不足している一方ですでに飽和している市場に人が集まっているがゆえにそのように見えるかと私は考えています。今の雇用問題も不況の影響が強いというのは否めませんが、介護や溶接といった人材が不足している分野に人が集まるように誘導してこずミスマッチを引き起こした政府の無策も原因しているでしょう。
では私が日本で少ないとされるジェネラリストはどのような人材かといえば、私の中の定義を述べると分野を横断した思考が出来る人材だと考えております。
いくつか例を出すと、企業活動においてある部門への投資を行う際、まず投資を行えるだけの余剰資金があるのかと考え、続いてその投資からどれだけ見返りが受けられるかと続き、さらには投資を円滑に運ぶための人材が目下の所いるのかと、すでにこの時点で経理、販売、人事と三つの分野それぞれに立って考える必要が出てきます。さらに実際に行うとなると投資を行う分野とそれ以外の分野との比較も考えねばならず、どこの分野への投資を優先するべきかという風にも考える必要が出てきます。
この様に派閥横断的に、ある程度自身の利害を超えた思考が出来る人材の事をジェネラリストと私は考えているのですが、今の日本は政治から経済、果てには一般社会においてもこの手の人材がありえないくらいに不足しているように思えます。一体何故不足しているのかという理由を挙げれば切りがなく、国が理系を初めとしたスペシャリストばかり育てようとしている政策然り、企業の社内教育然りと主だった理由はあるのですが、そういった事情に加えて本来ジェネラリスト的な役割が期待される文系大学生の教育があまりにもお粗末な点も見逃せません。
私は本来、文系学生たるものなんでもかんでもすべてやれとまで言うつもりはありませんが、自分の専門科目や分野に加えて少なくとも二つか三つは一定度の知識を持つ分野を持って当然だと考えております。なにも専門の学生に引けをとらないほど他分野の知識を詰め込む必要はありませんが、その分野がどのような学問で、ある程度専門の学生の話を聞いて理解できる程度に知識があるとないとでは人間性に大きな違いが出てくるかと思います。
本来、総合大学というのは様々な学部に所属する学生が一同に集まって互いの知識を分け合う場所であるはずなのですが、残念ながら近年は就職事情も厳しいという事もあって入学から自らの専門分野を勝手に決めて資格取得の勉強にばかり走る学生が多く見受けられます。確かにそれぞれの専門分野のレベルを見るととても自分じゃ為し得ないほどの成長速度で近年の学生は学んでいるのですが、その専門分野以外となるとてんで話しにならないほどの知識しか持っておらず、そのあまりのギャップにこのところ閉口することが増えてきております。
理系学生であれば専門の勉強が厳しいということでまだ私も理解できるのですが、本来総合性を期待される上に時間的余力も多い文系学生までもスペシャリストに走ろうとする近年の風潮はあまり好ましいとは思えません。年寄り臭い言い回しですが、私が学生だった頃は一応の専門を社会学と中国語に置き、それ以外はこれと見かけた他分野の学生や講師に教えを請う事で自分の幅を広げるだけ広げる事に努め、現在振り返ってみてある程度その目標に見合った形で自分への教育を達成する事は出来たと考えております。
私は文系学問については麻雀の国士無双の十三面待ちばりに幅広く、経済学、商学、史学、政治学、哲学、社会学と学びましたが、法学だけはどうも他より専門性が高くて手が出せませんでした。というよりも法学を教えてもらおうと期待していた友人が、あまりにも人に物を教えることの出来ない天才タイプの人間であったため、最初の時点で躓いたのが誤算でした。
唯一、その彼から教わったと法学の概念として、刑罰における社会的制裁の概念があります。この社会的制裁という概念をひとつの題材に取った、「犯罪者の家族への社会的制裁について」の記事が本日FC2の方でまた拍手を貰えたのですが、ちゃんと人の話は聞いとくものだとつくづく思います。
そういう意味では日本は素晴らしくスペシャリスト的人材に溢れた国であるはずなのですが、どうも一般の世論などを聞いているとむしろスペシャリストが不足しているという言質をよく聞きます。この点についてはスペシャリストが不足しているというよりも痒い所に手が届くような人材というか、必要とされる職種の人材が不足している一方ですでに飽和している市場に人が集まっているがゆえにそのように見えるかと私は考えています。今の雇用問題も不況の影響が強いというのは否めませんが、介護や溶接といった人材が不足している分野に人が集まるように誘導してこずミスマッチを引き起こした政府の無策も原因しているでしょう。
では私が日本で少ないとされるジェネラリストはどのような人材かといえば、私の中の定義を述べると分野を横断した思考が出来る人材だと考えております。
いくつか例を出すと、企業活動においてある部門への投資を行う際、まず投資を行えるだけの余剰資金があるのかと考え、続いてその投資からどれだけ見返りが受けられるかと続き、さらには投資を円滑に運ぶための人材が目下の所いるのかと、すでにこの時点で経理、販売、人事と三つの分野それぞれに立って考える必要が出てきます。さらに実際に行うとなると投資を行う分野とそれ以外の分野との比較も考えねばならず、どこの分野への投資を優先するべきかという風にも考える必要が出てきます。
この様に派閥横断的に、ある程度自身の利害を超えた思考が出来る人材の事をジェネラリストと私は考えているのですが、今の日本は政治から経済、果てには一般社会においてもこの手の人材がありえないくらいに不足しているように思えます。一体何故不足しているのかという理由を挙げれば切りがなく、国が理系を初めとしたスペシャリストばかり育てようとしている政策然り、企業の社内教育然りと主だった理由はあるのですが、そういった事情に加えて本来ジェネラリスト的な役割が期待される文系大学生の教育があまりにもお粗末な点も見逃せません。
私は本来、文系学生たるものなんでもかんでもすべてやれとまで言うつもりはありませんが、自分の専門科目や分野に加えて少なくとも二つか三つは一定度の知識を持つ分野を持って当然だと考えております。なにも専門の学生に引けをとらないほど他分野の知識を詰め込む必要はありませんが、その分野がどのような学問で、ある程度専門の学生の話を聞いて理解できる程度に知識があるとないとでは人間性に大きな違いが出てくるかと思います。
本来、総合大学というのは様々な学部に所属する学生が一同に集まって互いの知識を分け合う場所であるはずなのですが、残念ながら近年は就職事情も厳しいという事もあって入学から自らの専門分野を勝手に決めて資格取得の勉強にばかり走る学生が多く見受けられます。確かにそれぞれの専門分野のレベルを見るととても自分じゃ為し得ないほどの成長速度で近年の学生は学んでいるのですが、その専門分野以外となるとてんで話しにならないほどの知識しか持っておらず、そのあまりのギャップにこのところ閉口することが増えてきております。
理系学生であれば専門の勉強が厳しいということでまだ私も理解できるのですが、本来総合性を期待される上に時間的余力も多い文系学生までもスペシャリストに走ろうとする近年の風潮はあまり好ましいとは思えません。年寄り臭い言い回しですが、私が学生だった頃は一応の専門を社会学と中国語に置き、それ以外はこれと見かけた他分野の学生や講師に教えを請う事で自分の幅を広げるだけ広げる事に努め、現在振り返ってみてある程度その目標に見合った形で自分への教育を達成する事は出来たと考えております。
私は文系学問については麻雀の国士無双の十三面待ちばりに幅広く、経済学、商学、史学、政治学、哲学、社会学と学びましたが、法学だけはどうも他より専門性が高くて手が出せませんでした。というよりも法学を教えてもらおうと期待していた友人が、あまりにも人に物を教えることの出来ない天才タイプの人間であったため、最初の時点で躓いたのが誤算でした。
唯一、その彼から教わったと法学の概念として、刑罰における社会的制裁の概念があります。この社会的制裁という概念をひとつの題材に取った、「犯罪者の家族への社会的制裁について」の記事が本日FC2の方でまた拍手を貰えたのですが、ちゃんと人の話は聞いとくものだとつくづく思います。
2010年4月12日月曜日
荀子の知足論について
このところ同じ切り口から始まることが多いですが、また友人と会ってきた時の話です。
ひょんなことからその日に会った友人に倫理、哲学の講義を突然する事となり、友人が持ってきた高校用の補助教材を一緒にめくりながらそれぞれの哲学家の主張や経歴を片っ端から説明してきたのですが、その中でちょっと気になったのが今回のお題となっている荀子の記述です。
高校レベルの授業に深いのを求めるべきではないとは分っているのですが、その補助教材で荀子は、
「孔子から始まった儒学の流派の中で、人間の性根は善であるという性善説を唱えた孟子に対して人間の性根は欲望が根幹であるとする性悪説を唱えた」
という風にまとめられていて、ちょっとカチンときたというか、もうすこししっかり教えろよと一緒にいた友人相手に無闇に吠えてしまいました。
孔子に続く儒学の二大流派の創始者という事もあってか孟子と荀子はよく比較され、この性善説と性悪説もほぼセットのように取り扱われますが、孟子の性善説に対して荀子の性悪説は見かけからかどうもダーティなイメージが付きまとってしまいます。しかし両者の主張をきちんと比べてみるならばアプローチの仕方が違うだけで実際にはほとんど似通った内容で、荀子もパンクロックみたいに、「世の中、お人好しばかりじゃねぇんだよ」と言っているわけじゃありません。
性善説も性悪説も生涯をかけて義や礼といった儒学の要素を学ぶ事の重要性を謳っているのですが、孟子の性善説は人間の性根は元々善ではあるものの、世間や世の中の様々な影響を受けるうちに悪の要素に染まっていく可能性があり、そのようにならないために儒学をきちんと学んでいくべきだと主張しています。それに対して荀子の性悪説は人間の性根は欲望に代表される打算的なものであると割り切り、みんながみんな好き勝手に生きていたら世の中すごく殺伐としてしまって生き辛いので、きちんと儒学を学んで善なる人間になれるよう努めるべきだと主張しています。
確かに両者で人間は善か悪かでスタート地点こそ異なるものの、何も学ばずに生きると存在として悪になってしまうというのは一致しています。もちろん荀子の方が孟子よりは現実的というか冷徹な意見ではあるものの、儒学をみんなで学んで世の中を良くしようという思いは全く一緒で、性悪説を唱えたからといって荀子が冷たい性格の人間だったと考えるのはやや早計でしょう。
なお性悪説は見方によれば欧州でルソーらが唱えた社会契約説にも通じる価値観で、現行法がルソーの影響を強く受けていると考えると今の世界の主流の価値観に近いのは荀子だと私は思います。
こんな風に荀子のことを書くあたりからわかるでしょうが、私もどちらかといえば荀子の方を贔屓にしております。ただ私が荀子を評価するのはこの性悪説の概念というよりも、彼の唱えた「知足論」という価値観に納得させられる所があり、件の高校の教材においてこの知足論について全く触れられていなかったというのも私が最も怒った原因です。
その知足論というのはどういう内容かというと、まず前提として人間の欲望というものは基本的に飽くなき物で、放っておいたらどんどんと膨張してしまうと荀子は定義しております。
一つ例えを用いると、社会学ではマズローが「自己実現論」の中で欲求段階説と呼んで説明していますが、毎日野菜を食べたいと願っていた人が野菜を食べられるようになると今度は魚を食べたいと思い、魚を食べられるようになると今度は肉を食べたいと思うようになり、肉を食べられるようになったら今度はもっと高級な肉を食べたいと思うように、欲求が一つ一つ達成させられるごとにどんどんと大きくなっていくということです。そしてこの様な欲求は一度大きくなると以前の欲求では満足できなくなり、先ほどの例えだと肉を食べられるようになるともう野菜を食べても満足できなくなるとされています。
この様に最初は野菜で満足できたものが最後には肉でも満足できなくなるという、欲求を追及するごとに人間は幸福を感じる力が徐々に薄れていく事を荀子は指摘し、果てなき快感を求め続けるよりもむしろ、今自分の身の回りにある環境に満足するように努めることこそが人生全体で一番幸福に生きる道だと説いております。そしてこれを漢文調に一言でまとめると「足ることを知る」となり、荀子が残した「知足」という言葉になるというわけです。
こうしてみると荀子というのは、世間一般で思われているよりずっと優しい人間だったのではないかと私は思います。競争したり追い求めたりすることよりも今の自分に満足しなさいという言葉を残すなんて、競争してなんぼの現代社会においてはなんだかほろりとさせられる言葉です。老荘思想的といえばそうですが、自分の境遇に不満を覚える度にこの言葉を思い出しては私は自制する様に努めております。
ひょんなことからその日に会った友人に倫理、哲学の講義を突然する事となり、友人が持ってきた高校用の補助教材を一緒にめくりながらそれぞれの哲学家の主張や経歴を片っ端から説明してきたのですが、その中でちょっと気になったのが今回のお題となっている荀子の記述です。
高校レベルの授業に深いのを求めるべきではないとは分っているのですが、その補助教材で荀子は、
「孔子から始まった儒学の流派の中で、人間の性根は善であるという性善説を唱えた孟子に対して人間の性根は欲望が根幹であるとする性悪説を唱えた」
という風にまとめられていて、ちょっとカチンときたというか、もうすこししっかり教えろよと一緒にいた友人相手に無闇に吠えてしまいました。
孔子に続く儒学の二大流派の創始者という事もあってか孟子と荀子はよく比較され、この性善説と性悪説もほぼセットのように取り扱われますが、孟子の性善説に対して荀子の性悪説は見かけからかどうもダーティなイメージが付きまとってしまいます。しかし両者の主張をきちんと比べてみるならばアプローチの仕方が違うだけで実際にはほとんど似通った内容で、荀子もパンクロックみたいに、「世の中、お人好しばかりじゃねぇんだよ」と言っているわけじゃありません。
性善説も性悪説も生涯をかけて義や礼といった儒学の要素を学ぶ事の重要性を謳っているのですが、孟子の性善説は人間の性根は元々善ではあるものの、世間や世の中の様々な影響を受けるうちに悪の要素に染まっていく可能性があり、そのようにならないために儒学をきちんと学んでいくべきだと主張しています。それに対して荀子の性悪説は人間の性根は欲望に代表される打算的なものであると割り切り、みんながみんな好き勝手に生きていたら世の中すごく殺伐としてしまって生き辛いので、きちんと儒学を学んで善なる人間になれるよう努めるべきだと主張しています。
確かに両者で人間は善か悪かでスタート地点こそ異なるものの、何も学ばずに生きると存在として悪になってしまうというのは一致しています。もちろん荀子の方が孟子よりは現実的というか冷徹な意見ではあるものの、儒学をみんなで学んで世の中を良くしようという思いは全く一緒で、性悪説を唱えたからといって荀子が冷たい性格の人間だったと考えるのはやや早計でしょう。
なお性悪説は見方によれば欧州でルソーらが唱えた社会契約説にも通じる価値観で、現行法がルソーの影響を強く受けていると考えると今の世界の主流の価値観に近いのは荀子だと私は思います。
こんな風に荀子のことを書くあたりからわかるでしょうが、私もどちらかといえば荀子の方を贔屓にしております。ただ私が荀子を評価するのはこの性悪説の概念というよりも、彼の唱えた「知足論」という価値観に納得させられる所があり、件の高校の教材においてこの知足論について全く触れられていなかったというのも私が最も怒った原因です。
その知足論というのはどういう内容かというと、まず前提として人間の欲望というものは基本的に飽くなき物で、放っておいたらどんどんと膨張してしまうと荀子は定義しております。
一つ例えを用いると、社会学ではマズローが「自己実現論」の中で欲求段階説と呼んで説明していますが、毎日野菜を食べたいと願っていた人が野菜を食べられるようになると今度は魚を食べたいと思い、魚を食べられるようになると今度は肉を食べたいと思うようになり、肉を食べられるようになったら今度はもっと高級な肉を食べたいと思うように、欲求が一つ一つ達成させられるごとにどんどんと大きくなっていくということです。そしてこの様な欲求は一度大きくなると以前の欲求では満足できなくなり、先ほどの例えだと肉を食べられるようになるともう野菜を食べても満足できなくなるとされています。
この様に最初は野菜で満足できたものが最後には肉でも満足できなくなるという、欲求を追及するごとに人間は幸福を感じる力が徐々に薄れていく事を荀子は指摘し、果てなき快感を求め続けるよりもむしろ、今自分の身の回りにある環境に満足するように努めることこそが人生全体で一番幸福に生きる道だと説いております。そしてこれを漢文調に一言でまとめると「足ることを知る」となり、荀子が残した「知足」という言葉になるというわけです。
こうしてみると荀子というのは、世間一般で思われているよりずっと優しい人間だったのではないかと私は思います。競争したり追い求めたりすることよりも今の自分に満足しなさいという言葉を残すなんて、競争してなんぼの現代社会においてはなんだかほろりとさせられる言葉です。老荘思想的といえばそうですが、自分の境遇に不満を覚える度にこの言葉を思い出しては私は自制する様に努めております。
2010年4月10日土曜日
私立大学における入学試験の問題性について
このところ友人からよく、「国立大出身の奴らは信用が置ける」という話をよく聞きます。一見するとまるで私大出身の自分を揶揄するような発言(その友人も同門だけど)ですが、聞いてる私としてもこの友人の意見には納得する部分もあり、この前こんな風に応答しました。
「俺が進学の際に関東から関西に来た時、周りの学生の優秀さに目を見張ったよ。ほんのちょっと前まで同じ高校生だった人間でも、関東時代の俺の周りにいたのと比べて関西の学生らは会話をしていても明らかに知識や反応が良く、どうしてこんな差があるのかと考えてみたのだが、やっぱり五教科をしっかりやっているかどうかの違いじゃないかと思うんだ」
「五教科っつっても、うちらの大学は試験が三教科の私大やん」
「でも関西って、大坂、神戸、京都大学などと国立大学が多いだけあってうちの大学に来る学生っていったらみんなこのどれかの落第組で、大学受験時にみんな五教科を学んできているじゃん。俺も君も、その口だろ」
「まぁ、そやろな」
「それが関東だと慶應、早稲田を筆頭として私大が多いせいか、高三になった時点で私大専願とばかりに三教科しか勉強しない奴が多いんだ。やっぱ受験時に五教科か三教科って違いはその人の適応力に大きく影響を及ぼすと思うし、国立の連中は必然的に五教科をやっているから君も国立出身の奴らにそう思うんじゃないかな」
上記の会話で私が語った内容はあくまで私個人の実感ですが、やっぱり文系だと数学、理系だと国語をやっているかやっていないかの違いというのは人間性や能力にも出てくるような気がします。関連するといえば、文系出身者で受験時に数学をやっているかやっていないかでその後の年収に大きく差がつくというデータがあり、これを聞いた時には心底数学を勉強しといてよかったとほっとしました。
そんな私立大学の試験ですが、近年、私から見ていて看過できない事態が起こり始めています。上記の三教科試験ならまだともかく、近年は自分の得意な科目でだけ受験できる一科目入試などというものも増えており、さらには以前にも取り上げた事がありますがAO入試など選抜方法として如何なものかと思う試験が非常に増えてきました。実際に教育関係の報道を見ていると、上記のような特別な入試形態で入学してきた学生はやはり学力が追いつかず留年や退学する割合が普通受験者より明らかに多いらしく、AO入試については廃止する大学がこのところ増えてきております。
しかし最近だと、というより以前からでもありますが、近年の私立大学は試験云々以前に内部校からの無試験での進学者割合があまりにも多くなってきつつあります。
有名私立大ほどこの傾向は以前から高かったのですが、近年は少子化に伴い、定員割れなど起こさぬように学生数をあらかじめ確保せんと中堅私大もそれまで縁もゆかりもなかった高校と提携を結ぶことが増えてきております。実際に私も近くにある高校がある日突然、「○○大学付属××高等学校」という風に看板が変わったのを目撃しています。
こうした無試験で大学に入学する内部進学者の問題は教育界というより就職業界においてこのところ問題視され始め、同じ大学出身者でも大学受験を経て入学してきた学生と内部進学者とでは明らかに能力に差があり、今後就職希望者の履歴書には入学方法も書かかせるべきだという意見が出始めてきています。
実際に私が通った大学も系列高校の多い学校で、しかも進学先が文学部と来たもんだから周りは内部生ばかりでその割合は四割五分程度にも上りました。
こうした事態について大学時代の恩師に直接話を聞いてみたのですが、大学としては確実に学生を確保するという目的とともに、受験での入試偏差値を下げたくないという目的からこうした行為を行っているという返事を聞きました。内部進学者と入試偏差値がどう関係するのかというと、単純に志望者の少ない学部や学科に内部進学者を振り分ける事でそこの定員を減らし、外部から受験を経て入学してくる学生数を調節することで入試の難易度を上げることが出来、名門校としての地位を守りつつ受験者を集めて受験料をかき集められるという魂胆です。
具体的に私のいた学科で説明すると、その学科の学生数は180人でしたが実質この中の約半分こと90人は内部進学者で、残り90人の枠を外部受験者が入試で争ったというわけです。もちろん外には180人募集と言ってはいるのですが実際にはその半分で、入試には合格したものの別の大学に進学する学生を考慮して試験では大体200人程度に合格通知を出すそうです。
なおその恩師によるとこうした偏差値の水増しは心理学科ほどよく行われており、どの大学でも心理学部や心理学科は偏差値が比較的に高いのですが、それは人気があるからというより内部生の割合が高いせいだそうです。実際にうちの大学ではそうだったし。
こういう風に見てみると、現代の大学入試というものが如何に形骸化しているか色々と思い悩まされます。入試の難易度が志望者の多さとかレベルに関係なく大学側の意図的な操作によって決められ、またその大学の学生の半分近くが無試験で入学してきているなどと、なんでもかんでも試験が重要だというつもりはありませんがこれだと外から試験で入ろうとする人間だけが馬鹿を見ているような気がします。
逆に国立出身者は特別な事情がない限りはきちんと入学試験を経てきているため、最初に友人が述べたようにその人材性に信頼がおけるというのもあながち五教科というだけとじゃないのでしょう。
この前どこかが発表したデータによると、系列校からの内部進学者と指定校推薦での推薦入学者の割合が全大学生の半分以上にも登ってきているといい、私の実感でもそれくらいの割合と見ており、今や時代はどこの大学に進学できるのかは系列校に入る中学、高校入試にかかってきていると言っても過言じゃないでしょう。
多少偏見もありますが小学生や中学生の時点で、その後の学力や能力が分るかといったらやっぱり疑問です。大学までついていると自由に勉強できるだの、勉強以外の活動もできるなどといいますが、勉強する機会くらいはせめて平等に与えてもらいたいと逆に私は私大関係者に問いたいものです。
補足
文系についてはこの記事で書いたように内部進学者による偏差値の改変が行われているのですが、理系だとやっぱり一定度の学力がないと進学してもすぐに落第してしまうので、あまりこういった行為は行われないそうです。逆を言えば落第し辛い、させ辛いような文系学部、それこそ文学部や経済学部ほどこの行為が行われる傾向が高いそうです。
にもかかわらず内部進学者であった知り合いの女の子は卒業単位が危うかった上、卒業論文も私に半分以上も書かせました。まぁ文章書くのは好きだからいいんだけどさ……。
「俺が進学の際に関東から関西に来た時、周りの学生の優秀さに目を見張ったよ。ほんのちょっと前まで同じ高校生だった人間でも、関東時代の俺の周りにいたのと比べて関西の学生らは会話をしていても明らかに知識や反応が良く、どうしてこんな差があるのかと考えてみたのだが、やっぱり五教科をしっかりやっているかどうかの違いじゃないかと思うんだ」
「五教科っつっても、うちらの大学は試験が三教科の私大やん」
「でも関西って、大坂、神戸、京都大学などと国立大学が多いだけあってうちの大学に来る学生っていったらみんなこのどれかの落第組で、大学受験時にみんな五教科を学んできているじゃん。俺も君も、その口だろ」
「まぁ、そやろな」
「それが関東だと慶應、早稲田を筆頭として私大が多いせいか、高三になった時点で私大専願とばかりに三教科しか勉強しない奴が多いんだ。やっぱ受験時に五教科か三教科って違いはその人の適応力に大きく影響を及ぼすと思うし、国立の連中は必然的に五教科をやっているから君も国立出身の奴らにそう思うんじゃないかな」
上記の会話で私が語った内容はあくまで私個人の実感ですが、やっぱり文系だと数学、理系だと国語をやっているかやっていないかの違いというのは人間性や能力にも出てくるような気がします。関連するといえば、文系出身者で受験時に数学をやっているかやっていないかでその後の年収に大きく差がつくというデータがあり、これを聞いた時には心底数学を勉強しといてよかったとほっとしました。
そんな私立大学の試験ですが、近年、私から見ていて看過できない事態が起こり始めています。上記の三教科試験ならまだともかく、近年は自分の得意な科目でだけ受験できる一科目入試などというものも増えており、さらには以前にも取り上げた事がありますがAO入試など選抜方法として如何なものかと思う試験が非常に増えてきました。実際に教育関係の報道を見ていると、上記のような特別な入試形態で入学してきた学生はやはり学力が追いつかず留年や退学する割合が普通受験者より明らかに多いらしく、AO入試については廃止する大学がこのところ増えてきております。
しかし最近だと、というより以前からでもありますが、近年の私立大学は試験云々以前に内部校からの無試験での進学者割合があまりにも多くなってきつつあります。
有名私立大ほどこの傾向は以前から高かったのですが、近年は少子化に伴い、定員割れなど起こさぬように学生数をあらかじめ確保せんと中堅私大もそれまで縁もゆかりもなかった高校と提携を結ぶことが増えてきております。実際に私も近くにある高校がある日突然、「○○大学付属××高等学校」という風に看板が変わったのを目撃しています。
こうした無試験で大学に入学する内部進学者の問題は教育界というより就職業界においてこのところ問題視され始め、同じ大学出身者でも大学受験を経て入学してきた学生と内部進学者とでは明らかに能力に差があり、今後就職希望者の履歴書には入学方法も書かかせるべきだという意見が出始めてきています。
実際に私が通った大学も系列高校の多い学校で、しかも進学先が文学部と来たもんだから周りは内部生ばかりでその割合は四割五分程度にも上りました。
こうした事態について大学時代の恩師に直接話を聞いてみたのですが、大学としては確実に学生を確保するという目的とともに、受験での入試偏差値を下げたくないという目的からこうした行為を行っているという返事を聞きました。内部進学者と入試偏差値がどう関係するのかというと、単純に志望者の少ない学部や学科に内部進学者を振り分ける事でそこの定員を減らし、外部から受験を経て入学してくる学生数を調節することで入試の難易度を上げることが出来、名門校としての地位を守りつつ受験者を集めて受験料をかき集められるという魂胆です。
具体的に私のいた学科で説明すると、その学科の学生数は180人でしたが実質この中の約半分こと90人は内部進学者で、残り90人の枠を外部受験者が入試で争ったというわけです。もちろん外には180人募集と言ってはいるのですが実際にはその半分で、入試には合格したものの別の大学に進学する学生を考慮して試験では大体200人程度に合格通知を出すそうです。
なおその恩師によるとこうした偏差値の水増しは心理学科ほどよく行われており、どの大学でも心理学部や心理学科は偏差値が比較的に高いのですが、それは人気があるからというより内部生の割合が高いせいだそうです。実際にうちの大学ではそうだったし。
こういう風に見てみると、現代の大学入試というものが如何に形骸化しているか色々と思い悩まされます。入試の難易度が志望者の多さとかレベルに関係なく大学側の意図的な操作によって決められ、またその大学の学生の半分近くが無試験で入学してきているなどと、なんでもかんでも試験が重要だというつもりはありませんがこれだと外から試験で入ろうとする人間だけが馬鹿を見ているような気がします。
逆に国立出身者は特別な事情がない限りはきちんと入学試験を経てきているため、最初に友人が述べたようにその人材性に信頼がおけるというのもあながち五教科というだけとじゃないのでしょう。
この前どこかが発表したデータによると、系列校からの内部進学者と指定校推薦での推薦入学者の割合が全大学生の半分以上にも登ってきているといい、私の実感でもそれくらいの割合と見ており、今や時代はどこの大学に進学できるのかは系列校に入る中学、高校入試にかかってきていると言っても過言じゃないでしょう。
多少偏見もありますが小学生や中学生の時点で、その後の学力や能力が分るかといったらやっぱり疑問です。大学までついていると自由に勉強できるだの、勉強以外の活動もできるなどといいますが、勉強する機会くらいはせめて平等に与えてもらいたいと逆に私は私大関係者に問いたいものです。
補足
文系についてはこの記事で書いたように内部進学者による偏差値の改変が行われているのですが、理系だとやっぱり一定度の学力がないと進学してもすぐに落第してしまうので、あまりこういった行為は行われないそうです。逆を言えば落第し辛い、させ辛いような文系学部、それこそ文学部や経済学部ほどこの行為が行われる傾向が高いそうです。
にもかかわらず内部進学者であった知り合いの女の子は卒業単位が危うかった上、卒業論文も私に半分以上も書かせました。まぁ文章書くのは好きだからいいんだけどさ……。
2010年4月9日金曜日
マンガ表現における女性の立ち位置の変化
昔、暇だから取ったジェンダー論の授業(何気に音信の取れなくなった先輩と感動の再会を果たしたけど)にてこんな事がありました。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。
この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。
こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。
具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。
この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。
ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。
当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。
このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。
おまけ
なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。
おまけ2
戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。
この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。
こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。
具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。
この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。
ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。
当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。
このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。
おまけ
なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。
おまけ2
戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。
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