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2014年12月12日金曜日

しっくりこない今年の漢字一字

 今日は上司が日本帰国中ということもあり、普段はローカルスタッフの車に便乗して出勤している所を自転車に乗っていきました。朝早く(午前7時台)だとやっぱ寒かった、でもって昼飯までの間は腹減ってきつかったってところです。ちなみに運転時間は片道30分。
 
 
 そんな私の個人的事情は置いといて本題に移りますが、例年京都の清水寺で行われている今年の漢字一字が今日発表され、揮毫された漢字はなんと「税」でした。この結果について正直な感想を述べると、「あれ、『嘘』じゃないの!?」と違和感を覚えました。
 一応、「嘘」という漢字も三位には入っていますが、それにしたって「税」という漢字が一位に入ってくるのはなんとなく腑に落ちません。票が集まった背景としては消費税が上がった影響ではと言われていますが、そんなん言ったらこれからほぼ毎年「税」って字が来るように思えるし、第一そこまで税金上がったことを一年の象徴と感じてる人間が本当にいるのか、妙な組織票とか裏工作とかあったのではなんていう疑いすら覚えます。そもそも、二位に「熱」という漢字が入ってくるのもいまいちピンとこない、というか全く理解できないし。
 
 と、ここまで書いておきながらですが、今年はそもそも私が日本にいた期間は半年にも満たないのによくもまぁ偉そうに言うもんだと今更ながら気が付きました。まぁこういうことくらいは言ってもいいとは思うけど。
 ついでに書くとネット上の反応を見ても今回のこの漢字一字については疑問視する声が多いように思えます。発表前には「捏造」としたいところだけど「捏」でも「造」でも意味が分からないから「嘘」になるだろうなんて予想する声も多く、それだけに今回のこの結果は予想外というか日のないところに煙を見たような印象です。
 
 もっともそれを言ったらこのイベントはここ数年で何故だか私にとって全く共感できないイベントになりつつあり、去年の「輪」という字もストレスたまってた頃だから「なんでやねん!」って言って机叩いていました。このイベントは漢字検定協会が主催するイベントですが、この協会自体が以前にオーナー親子が不正経理やらかしたり、誤った漢字の使い方を平気で試験に載せてたりするので個人的にもあまりいい印象を覚えていません。ほかのひとはそうでもないかもしれませんが少なくとも私にとっては全く共感が得られないイベントであるため、無理して継続することもないし廃止となるのならそれでもいいようなすてっぱちな考えを持たされます。
 
  おまけ
 なお2006年のこのイベントの際、梅田駅前の陸橋を歩いていたらMBSの取材班に捕まり、今年はどんな感じだと思うかと聞かれて悠仁様も生まれたことだし「誕」の字を挙げましたが、本放送でもしっかり使われたようで、その次の日に学校行ったら、「テレビ出てたよね」と知人に指摘されました。しかも二人も。そのうち一人は自宅で夕食の準備していたらテレビから漏れ聞く自分の声を聴いて、「あ、花園さんだ」と一発でわかりすぐに画面を見たと語っていました。
 現在も全く自覚がないのですがこの時まで、自分の声がやけに特徴的に聞かれていることを知らずにいました。知人によると、自分の声は芸能人への追いかけ取材で聞かれる、「〇〇さん、あの件は一体どうなんでしょうかー!?」っていう声の感じに近いそうです。

2014年12月10日水曜日

このブログの過激表現について

 
 上記の画像はまた例によってネットで拾ってきたものですがこれまた個人的にツボにはまったのでここにも記念に紹介しておきます。ちょうど時期も近いことだし。
 
 話は本題に入りますが最近知り合いなどからこのブログの表現が過激すぎやしないか、特に批判する時の罵言はキツ過ぎるなんてお言葉をいただいており、プライベートをよく知る友人からしたら、「ブログより普段の物言いの方がキツ過ぎる」とまで言われ、無駄に敵作るからもうちょい控えた方が良いよなんて教えてくれました。私本人からしたら一日一回は「死ね」とか「ぶっ殺す」と必ずつぶやくし、高校時代は逆にほぼ毎日「死ね」って言われていたこともあって自分の表現があまり過激だとは思っておらず、むしろ比較的抑えて書いているつもりだから真面目に最近まで周囲にそこまできつい表現だと思われていることに気が付きませんでした。もっとも一昨日書いたレビュー記事で、「どーでもいいことをぐだぐだぐだぐだ延々と続けているだけで、何のストーリー発展もないし読んでて正直苦痛でした」と書いたのはちょっと自分でもどうかななんて思いましたが。
 
 ではなんでこのブログはそこまで過激表現で満ち溢れているのかですが、一つの理由は上記の通りに私自身が普段の物言いというか性格も含めてかなり過激な方なのでほとんど自覚がなかったということと、もう一つの理由としてはブログで取り上げる内容について、「どうしてみんな気づかない、怒らないんだ」という具合で主張したいがために感情がこもるのと、最後に自分が政治的主張をする際、自分の意見に対する批判者に対して「来るなら来い!」とばかりに強い対決姿勢を示して余計な批判をさせないよう軽く脅すような文言に仕立てているためであります。
 
 普段から見ている人にはお馴染みでしょうがこのブログでは政治、外交問題はおろか部落問題や沖縄問題、日本人の民族性などかなり機微な内容を取り扱うことが多いです。さすがに生半可な知識で触れてはいけない部分だと考えるところについては一切取り上げませんが、現状持てる知識でもってかなりきわどいところまで意見したり批判したりすることも多く、大体そういう時はどういう批判が起こり得るかを想定してその際にどう返すかまである程度考えています。その上でそもそも妙な批判がコメント欄に書かれないよう、あらかじめ釘を刺すかのように記事中でもややきつめに書いています。
 こうした表現は読者の方もある程度認識しているようで、個人的に連絡を取り合った方からは「しょうもないコメントをかいたら物凄い剣幕で言い返されそうで最初は怖かった」なんていう言葉をかなり多くの人から聞いています。念のため書いておきますが、明らかに見当違いでなおかつ論理を無視したような意見であれば強く出ますが、疑問に思った点や逆にこう思うというような意見であればむしろ大歓迎で、コメントの返信でも上海忍者向け以外であればそうした姿勢を出しているつもりです、これでも。
 
 また日本は週刊誌を除くと特に大手新聞などは政治意見などに対して曖昧な言い方をすることが多く、見ていてじゃあお前は何を言いたいんだよと聞き返したくなるような文言が多いです。個人的にこういう曖昧な表現が気に入らないのと、政治意見を言う場合であれば明確に姿勢を強調すべきだとも思え、そのため自分のこのブログでの主張は直接的なものにしようとして、実際そうなっているんだと思います。もっとも、日本人事態が姿勢を明確にするということ自体が少ないこともあって逆に自分の表現が目立ってしまっているような気もしますが。
 
 最後にこれは後輩から言われた言葉ですが、「花園さんの主張の仕方は小泉元首相に近いですね」という言葉が結構ドキッと来ました。その理由はと尋ねると、何か一つの対象を敵に仕立て上げて、その敵を過激に批判することで自分の意見や立場を明確にしようとするような言い方が多いと感じたからだそうです。この手法はまさに「自民党をぶっ壊す」といった小泉元首相のやり方そのまんまで、なおかつ私もこういう手法でもって自己正当化を図ろうとしている自覚が確かにあります。言われてみるまで意識しませんでしたが言われてみるとまさにその通りで、自分の意識していなかった特徴をよく見抜いたなと後輩の慧眼に驚くとともに将来頼りになりそうだなこいつと思った始末でした。

2014年12月9日火曜日

大阪都構想を検証する

 どうでもいいですが今の私のパソコンの壁紙は「ミグ29」です。これ見てると昔大学で後輩と、「日本人ならやっぱミグだよなぁ」、「初音ミグとかでないのかなぁ」なんて濃い会話していたのをあの日のことのように思い出されます。
 
 ほんとにくだらないそういう話は置いといて本題に入りますが、このところ九州丸ごと特区化案とか美濃加茂市など地方自治ネタを取り上げることが多いですが、別に狙っているつもりではないものの今日もまたその類の記事というか大阪都構想について自分の見解をまとめてみようと思います。結論から言うと、現時点でこの構想は既に破綻しているように思え議論するだけ時間の無駄なのではと考えています。
 
大阪都構想(Wikipedia)
 
 大阪都構想とは維新の会の橋下市長が府知事時代から提唱している政策案で現在も大阪市議会で主要な議題として議論が続いており、今年三月に至ってはなかなか議会で同意が得られないことから橋下市長が民意を問うとして辞職し、選挙を経てまた市長に就任するなどやや混乱した状況が見られます。その大阪都構想なのですが具体的にどういう中身というか政策案なのかというと、極論すれば「大阪府と大阪市という二つの自治体を合併して二重行政をなくす」という内容です。
 ちなみに二重行政の解消というと私の中で真っ先に挙がってくるのはマーガレット・サッチャーです。
 
 現在、大阪市内の公共サービスは大阪市が管理するもの、大阪府が管理するものが入り乱れており、しかもその範囲も公共バスとか道路補修、水道などと、府と市で同じ場所に構えているとはいえ別々に管理する必要があるのかと疑わしい物が数多くあります。この二重となっている行政サービスを府と市が合併し、一元管理することによって無駄をなくそうというのがこの構想の基本概念になります。
 橋下市長がまだ大阪府知事だった当初はこの二重行政を府と市の担当部門同士で協議、整理して無駄をなくすという方針ではありましたが、両自治体の関係が悪いこともあってなかなか進まなかったことに加え、当時の大阪市長と橋下府知事(当時)もケンカし始める始末であったため、今後の禍根を断つためにもこの際合併しなければならないと構想が発展してきた背景があります。
 このほか橋下市長は大阪都構想というか大阪市と大阪府が合併することによって、東京都みたいに各行政サービスを再編・新設する区が担うようになるため住民に近い目線で対応でき、無駄をなくして効率的になるといった点や、大阪という大きな枠組みで政策が組めることから大規模な経済政策も打てるなどというメリットを強調しております。
 
 しかしこうした大阪都構想、当初でこそ自民や公明といった各市議会会派も賛成する立場を示していたものの、構想内容が具体化するにつれて逆に反対の立場を取る人間も増えてきました。そうした反乱の嚆矢となったのは兵庫県内にある大阪よりの各市からでした。維新の会はそれ以前からも暗に匂わせておりましたが2013年になるとこの大阪都構想の対象範囲を大阪市だけでなく、大阪府内はおろか兵庫県を含む関西経済圏内の市町村をまるごと大阪都に組み入れるという政策を打ち出し、これに対し神戸市を始めとした兵庫県の各市が明確に反対する姿勢を打ち出します。そうしたこともあってか、2013年四月に行われた宝塚市長選挙では維新の会の公認候補は落選しています。
 ちなみにどうでもいいですが以前に、「うちの親父は宝塚出身だ」と人に話したら、「えっ、お父さんなのに歌って踊ってたの?」と聞き返されたことが本当にあります。そっちの宝塚じゃないってのに。
 
 その後も維新の会に反抗する勢力はドミノ倒しのように増えていき、元々維新の会の公認を受けて堺市長に当選した竹山修身氏も反論した上で維新の会そのものからも離脱しています。竹山氏曰く、堺市は堺市なりに独自の文化や歴史を持っているというのに大阪市に飲み込まれるような政策は受けられないとして主張し、2013年の市長選挙では対立候補として擁立された維新の会公認の対抗馬を大差で下しています。
 
 敢えて比較表現をすると、「大阪市以外の市町村も大阪都に組み入れる」という構想を「大・大阪都案」、「大阪市と大阪府のみで合併を行う」という構想を「小・大阪都案」と表現した方がわかりやすいかもしれません。上記の様に「大・大阪都案」は周辺自治体から住民を含めて総スカンを喰らっていることもありこのところは維新の会も鳴りを潜め始め、従来の様に「小・大阪都案」に絞って政策主張をし始めてきたように見えます。
 
 では「小・大阪都案」なら実現できるのか、メリットはあるのかですが、はっきり言ってどっちもNOとしか言いようがありません。まず実現性についてですが大阪、というか関西は東京と違ってそこそこの歴史や文化がある(京都の連中はせせら笑うだろうが)ため、そこに住む住民もその地域に対して強い執着と共に高いプライドを持っています。維新の会の大阪都構想では現在23区ある大阪市内の区割りを5、もしくは7区に合併・再編する方針を示していますが、現時点でも「自分の住んでいる区がなくなるのが嫌だ」という声が上がっており、民意はまず得られないでしょう。
 そしてメリットについても、確かに二重行政が解消されることによってコストカットの効果は得られるでしょうが、その一方で新設する各区の役所にこれまで府や市がになっていた行政サービスの担当部署を新設することによって行政コストは増し、果てには市議会の代わりに区議会を新たに設置するとなると行政コストは今より確実に増えることでしょう。同時に、自治体再編に当たって住所なども全部洗い直す必要もあり、役所はおろか住民、運送業者が受ける社会的負担も無視できません。それだったらいっそ合併なんか始めからせず、府と市で行政サービスの整理、棲み分けを進める方が現実的で効果あるように思えるわけです。
 
 以上が大阪都構想に関する私の見解で、上記のような見方からこの構想は旨味は小さくデメリットの方が明らかに大きいと思えるため反対の立場を取らせてもらいます。最後にもう一つだけ苦言を呈すと、大阪府と大阪市が一体化すればいろんな経済政策を打てるなどと維新の会は主張していますが、お前らごときがまともな経済振興策を練れるだなんと本気で自惚れているのか、なーんて思ったりしちゃいます。もしそういうまともな経済感覚があるなら、どうして「あべのハルカス」の建設を始める前に止めなかったんだと言いたいです。第一、府と市が一体で打てる振興策なんてたかが知れているし、やるんだったらもっとスケールの大きい案を練ったらどうかと個人的に思います。

2014年12月8日月曜日

漫画レビュー「富士山さんは思春期」

 さっき一本記事を書き終えたばかりだけどまたもう一本漫画レビュー。これでスランプだなんてどの口が言うと自分でも思います。
 
富士山さんは思春期(Wikipedia)
 
 私がこの漫画を手に取ったというか買って読もうと思ったのは、なんか最近やたらとあちこちのサイトに貼られている広告バナーでこの漫画が猛プッシュされていたからです。そんなわけで前から気にしていたところKindleのサイトでこの漫画の第一巻が99円というセールをやってたので、玉ねぎ1ネット買うより安いななんて思ったことから買って読んでみることにしました。結論から述べると、何故こんな漫画が猛プッシュされるのか激しく理解に苦しみました。
 
 あらすじを簡単に説明すると、中学男子二年生の主人公(160cm)はふとしたきっかけから女子バレー部エースで幼馴染の高身長ヒロイン(181cm)のことが気になりはじめ付き合わないかと交際を申し込んだところあっさりOKをもらい、本人らもなんで付き合っているのか、付き合うというのはどういう事なのかよくわからないまま恋愛をしていくと言ったどーでもいいような内容です。一巻だけしか読んでいないでここまで言うのもなんですがその後の話もどーでもいいことをぐだぐだぐだぐだ延々と続けているだけで、何のストーリー発展もないし読んでて正直苦痛でした。
 括弧書きで書いているようにこの漫画は主人公とヒロインの身長差を一つのテーマとして置いているような気がしますが、少なくとも一巻に納められているエピソードに限っては第一話を除き「ヒロインの方が20cmも背が高い」という設定は存在しなくても話は成立してしまいます。むしろ何故身長差がこれほどある必要があるのかが疑問に思え、絵的に差をつけるという以外の効果はないようにすら思います。
 
 その絵に関しても文句、というか私が感じる最大の問題点なのですが、この漫画の作者のオジロマコト氏の漫画はこれが初めてですが、コマとコマの間の展開が全く読めないほど連続性が感じられません。一つのコマから次のコマへ移ると不自然なくらいに視点や場面が切り替わり、また同じ人物の表情も変な風に切り変わるから感情が読み取れないどころか不自然さを感じずにはいられません。しかもこの漫画、やたらと変な切り方した大コマ(しかもアップ)が頻繁に使われ、先程にも書いたように読んでて単純に読み辛くて仕方ありませんでした。あのコマ割り、本当にどうにかならないのか?
 
 他の人のレビューを見ていると学生時代を思い出すとか甘酸っぱい恋愛模様だとかカルピスは青春の味なんていうようなコメントが並んでいますが、はっきり言って私に言わせるなら「それが何?」ってところです。というのも、そういう甘酸っぱい青春恋愛ものだったら何もこの漫画に限らなくても豊富にあり、先ほどのコマ割りの見辛さを考えるとほかの漫画を手に取った方がよっぽど読みやすくて面白いんじゃないかと思えるからです。更に言えばこれについても既述ですが、結局のところ大半の話が主人公とヒロインの身長差設定がなくても成立してしまうというのはかなり致命的な気がします。一応ところどころヒロインがコンプレックスを感じていたり、主人公と並んで歩いていると周囲に比べられるような描写はありますが、この設定が中心になって回るような話は一巻の中には見られず、厳しいことを言うとコマの連続性がない上に何の個性もない恋愛漫画に成り下がっているのではなんて思えてくるわけです。
 
 毒舌を吐くことには定評のある自分ですがこの記事に関しては割と厳しい言葉で批評しているなという自覚はややあります。ただなんでここまできつく書くのかというとそれは単純にほかの人が同じことを言っていないからで、特にコマ割りの見辛さに関しては明らかに際立っていると感じるほどなのに何故誰も挙げないんだ、だったら俺が挙げようじゃないかなんて妙な使命感持ってしまったのが運の尽きでしょう。まぁこんなクソブログを見に来る人間なんてそうそういないんだし、作者に対して一巻しか読んでいないにもかかわらずここまで批判するのは悪いかなとは思いつつも、自分のスランプ脱出の一手になればと思って何も考えずにだーって書きました。手応えはまぁまぁです。

漫画レビュー「実は私は」の9巻

 知ってる人間には何人か話していますが実はこのところブログ書くのがスランプで、毎日パソコンに向かう度に「書きたくないなぁ」なんて思いがしていました。昨日の記事も引用元のリンク先アドレスを間違えてアップロードしてしまいましたが、自分の後輩が微信という露骨という言葉じゃ表現しきれないほど堂々とLINEをパクッた中国製アプリで知らせてくれたので事なきを得ました。
 そんなわけで今日はリハビリがてらに自分の書きたいもの(いつも好き勝手書いているが)を好きに書こうと思うので、ちょうど昨日に9巻が発売した「実は私は」という漫画があるのでこれについて書いてくことにします。

 「実は私は」については今年一月にもレビュー記事を書いておりますがあれから連載は続いているものの面白さで言えば全くペースは落ちておらず、むしろ各キャラクターが個性をどんどん発揮していて回を増すごとに面白さを増しております。
 知らない人向けにも簡単にこの漫画のあらすじを説明すると、「実は私は」は少年チャンピオンで連載しているラブコメ漫画で、メインヒロインが吸血鬼とのハーフであることを始めとして女性キャラクターがみんな何かしら秘密を持っているという設定で、高校男子の主人公を中心にドタバタ系のコメディ色が強い漫画です。なおメインヒロインに関しては先ほどにも書いたように吸血鬼とのハーフですが、回を増すごとにこの設定があまり生かされず、むしろアホの子としての性格がどんどん強まってきています。まぁこれはこれでキャラ立っているから全く問題ないけど。

 ただ前回の記事にも書いた通りメインヒロイン以上に結構多いサブヒロインらの方が圧倒的にキャラが濃く、癖の強いキャラが多い割には話が破綻せず、ちゃんと各回でそれぞれの個性を発揮しながらストーリーが進んでいくというのはなかなか見事な手腕だといつも唸らされます。ちなみに各キャラの秘密というか正体を列記すると、

・ヒロインキャラ:実は吸血鬼と人間のハーフ
・委員長キャラ:実は手の平サイズの宇宙人
・幼馴染キャラ:実は疫病神が乗り移ったメガネを持っている
・ヒロインの友達キャラ:実はというかあからさまな露出狂の痴女
・主人公の後輩:実は未来人で主人公の孫
・学校の校長:実は悪魔
・生徒会長キャラ:実は天使
・主人公の担任:元ヤンキー

 何度も書いているようにこの漫画はラブコメであるものの全体的にはドタバタコメディ色が強く、青春的な場面も少なくはないですが一話完結ということもあって読んでて笑えることの方が多いです。特にギャグシーンにおいては主人公の行うツッコミが非常に鋭く、これほど毎回的確な突っこみいれるギャグ漫画の主人公って過去にいたのかなどと思えるくらいキレキレにやっています。なおその主人公がボケに加わる際は先ほど挙げたサブヒロインの痴女がツッコミ役をこなし、ほかの人のレビューでも書かれていますがその特徴からは想像し辛いもののこのキャラがこの漫画の中で一番の常識人なのではないかと私にも思えてきます。

 そんなわけで昨日発売して電子書籍で夜中速攻ダウンロードして読みだした9巻についてですが、ストーリーも大分終盤に来ているのか主人公もヒロインもかなり明確に相手を意識していてそろそろ告白エンドなのかな、アニメ化まで頑張ってもらいたいのになと思いながら読み開きましたが、正直言って今までの単行本の中で一番笑える単行本でした。メインのストーリーは修学旅行なのですが主人公に好意を持つ上記の委員長キャラと幼馴染キャラが互いに相手を妨害しつつしのぎを削る回が多かったのと、自分もイチオシの委員長キャラが勇気を持っていざ主人公への告白へと臨もうとするところで終わっています。

 その委員長キャラ(9巻表紙の青い髪の子)ですがプライドが高い上に真面目過ぎてしょっちゅう暴走することが多いキャラで、この巻でもその性格でもってまさに縦横無尽ともいえる活躍を見せており、特に最後に載せられた回では「恋とは戦いだ」という妙な誤解から主人公への告白に臨むに当たって白装束に薙刀持って乗り込もうとしたら「やる気が出過ぎている」と痴女にツッコまれ、それならばと今度は気配を完全になくそうと迷彩服にライフル片手に持って乗り込もうとしたら「かわいげがない」と痴女にツッコまれ、それならばと今度は全身猫の着ぐるみ着て乗り込もうとしたら「夜中にそれじゃ逆に怖すぎる」と痴女にツッコまれ、「もう制服着ていけば無難だよ」と言われて最終的に猫の着ぐるみの上に制服着て部屋を出て行きました。この一連の着替えは2ページごとに切り替わっており、構成の妙というかギャグの何たるかをよくわかっているとここでも唸らされました。

 先日友人ともちょっとこの辺で話をしたのですが、かつてはたくさんあった一話完結のこういうギャグなりラブコメ漫画がこのところのストーリー漫画の氾濫によって減ってきており、そういう意味でも「実は私は」は当初から貴重なタイプの漫画だと考えていました。その期待に違わずよくここまでクオリティを落とさずに続けてきたと思うのと同時に、もうちょい増えないかなぁこの手の漫画などと密かに思う次第です。

   

2014年12月7日日曜日

秀逸な日本経済分析記事

 先日、経済分野における私の知恵袋的な友人が下記の記事を薦めてきました。


 記事内容は長くないの是非読んでもらいたいのですが、現在の日本経済の状況、そして東京五輪に至るまでの未来について簡潔かつ冷静に、それでいて含蓄深く非常によくまとまっています。普段は自分の表現力を自慢する自分ですが、インタビュー物ですがこの記事ほど中身のある内容をこれほどまで簡潔に表現する自信は全くなく、文字通りおみそれする記事です。
 この記事のポイントを敢えて箇条書きにして示すと、以下のような点が挙げられます。

・アベノミクスの成功、失敗それぞれのパターンで予測を書いている
・最重要の政治課題として日中関係を挙げている
・安倍首相の人気を自民総裁二期六年と前提して2018年と予想
・しかし安倍首相の後継者が現在40代の政治家に目下いないのが大きな不安要素と指摘
・今後の日本は良くも悪くもこのまま現状維持。高度経済成長に転じることはないと断言

 この記事を書いたのはアメリカ人の大学教授、ジェラルド・カーティス氏ですが、外国人でありながらこれほどまで見事な分析をやってのけてしまうなんてただただ頭が下がります。その上で、日本国内にどうしてこのような分析が出来る人間がいないのかと思うのと同時に、経済予測ではアベノミクスが成功する、失敗するという2パターン予測をする人間が皆無に近いというのは考えるだに頭が痛くなります。

 話は変わりますが同じく経済ネタで言うと、例のエアバッグ問題で揺れているタカタですが、かつての騒動時のオリンパスなどと比べると見ていて不気味なくらいに株価が落ちていません。原因もまだ判明できていないし、ぶっちゃけこの後立て直し聞かないのではと思うくらいに今回のリコール問題は根深いのにどうして株価がまだそこそこの価格を保っているのか不思議でしょうがないのですが、昨日その友人と話をした際、「恐らくこの後に政治決着することが内々に決まっていて、それをわかっている奴が買い増しているんじゃないか」という結論に至りました。もちろん勝手な予測ですが、通常では説明できない価格変動をしており、疑わない方がおかしいのではないかと密かに思います。

2014年12月6日土曜日

笑うという根源的な感情

 何度もこのブログで書いてきているように私は漫画家の水木しげる氏の大ファンで、リアルに人生の師みたいな具合に崇拝しています。水木氏の作品で何が好きかとなると主題歌だったら「悪魔くん」でたまに一人で、「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム♪」なんて口ずさんだりしていますが、作品単体となるとうちの名古屋に左遷された親父も好みの「猫楠」が割とお気に入りです。この漫画は南方熊楠の伝記に近い漫画ですが、破天荒な性格や行動など水木氏と熊楠には共通する点も多いようにみられることから本人もノリノリで書いているようにみられるし、たまたま熊楠と自分とでも共通する病気を抱えてただけに妙な親近感を覚えています。
 しかし作品という枠を超えるなら、水木氏の自伝とも言うべき「水木しげる伝」という漫画こそが私の中で彼の最高傑作だと思います。境港市での少年時代からラバウルでの戦地生活、「ゲゲゲの女房」にて描かれた戦後の極貧生活からスター漫画家に至る過程などドラマチックそのもので、また作者特有のユーモアのある視点で描かれているため何度読んでも飽き足りません。

 その「水木しげる伝」の中巻こと戦争編に描かれている話なのですが、戦地で片腕を失いながら無事に復員し、境港に戻った直後の話で非常に印象に残るものがありました。復員後に水木氏が実家で暮らしていた時期、近所に住んでいて水木氏と同じ戦場に息子が派兵されていた母親が水木氏を訪ねてきました。生憎その息子は戦死していたのですがせめてどのような場所で、どのような環境で息子が戦死したのかを知ろうとして水木氏に聞きに来たそうです。
 水木氏はその母親と自分の母親の三人で会い、ラバウルの戦場と息子さんがいたと思われる部隊の最後について話し聞かせたところ、途中で尋ねてきた母親が感極まって泣き出したそうです。泣き出す母親を見た水木氏はどうしたかというと、何故だか「はっはっは」と大笑いし始めたと描いています。

 亡くなった息子を偲んで泣き出す母親を前にして大笑いするなんて普通に考えたら失礼極まりなく、実際に水木氏の母親は息子を咎めたそうですが、それでも水木氏は笑いを止めることが出来なかったそうです。この水木氏の行動について恐らく反感を覚える方もおられるのではないかと思いますが、私は何故だか、きっと自分も同じ立場なら笑い出したのでは、なんて思うのと同時に表現できないような感情が持ち上げてきました。
 一体何故このように思ったのかというと、一つは水木氏も戦死された息子同様に自分の命が明日をも知れぬような戦場を潜り抜けており、決して戦死者を冒涜するような行為はできないと思うからです。それとともに、漫画中にも書いていますがこの時に、「自分が戦場から生還したことを実感してきた」と思ったらしく、これは戦争に実際参加した人間にしか感じ得ない特別な感慨があったのではないかという気がしてなりません。

 また人の死を「笑う」という行為ですが、私は決して特別な感情ではないと思います。たとえば大きな悲しみに遭遇した際、「何故だか笑しか出てこなかった」という表現は過去の文芸作品にも数多く出ています、私も実際に同じような感情を持ったことがあると共に周囲にも、特に人の死に接した人間がまさに同じ感情を持ったという話をよく聞きます。またあまりの怒りに「もはや笑いがこみ上げてくるほどの怒りだ」という表現もあれば、「恐怖のあまりに笑い出す」という言葉も比較的一般的です。

 こうした点を踏まえるにつけ、喜怒哀楽とは言いますが笑いというのは喜びもあれば怒りもあり、悲しみもあり、恐怖にも表れる特別な感情表現、言うなれば根源的な感情名のではないかと思います。漫画「シグルイ」によれば「本来笑いというのは獣が牙を向く行為に端を発し」とやらで威嚇する行為から発展した感情表現という説もありますが、獣を観察していても威嚇する際だったり餌をねだる際、風呂に無理やり入れられる際(主に猫)などによく鳴きます。そうした点を入れても、笑うというのは楽しい時にだけ見られる感情表現と言い切るのは早計ではないかと思えてくるわけです。

 ただそれにしたって上記の水木氏のエピソードは非常に深く考えさせられます。勝手な推察をすると、人の死に対する悲しみ、自分が生きて帰ってきたという喜び、息子を偲ぶ母親への憐憫など、複数の感情が一挙まとめて含まれた笑いだったのではないかと思え、考えるにつけ自分もなんだか悲しいような、どうしようもないような感情が持ち上がってきます。戦争だからこうというわけではなく、悲しい笑いというのも案外世の中には溢れているのかもしれません。

  おまけ
 来年PSVitaで「艦隊これくしょん」が移植、発売されると聞いて、現在のブラウザ版は一度も遊んだことがありませんが艦娘こと各キャラクターを調べるのが地味にマイブームになっています。そうやって調べている最中でふと目に入ったものの中に駆逐艦「雪風」が目に入り、二次大戦中の主要な海戦ほぼすべてに参加しておきながらほぼ無傷で戦い抜いて戦後まで生き残り、しかも戦後に中国国民党に引き渡され中国共産党との戦争でも使われたにもかかわらずそこでも戦い抜いたという、文字通り「不沈艦」とも言うべき恐るべき戦歴を知り目を見張りました。
 そしてこの船によって、ラバウルにいた水木氏が本土に復員したという話も今更ながら知り、戦中を有り得ないほどの強運で生き残った船が最後まで生き残った兵士たちを無事に本国へ連れ帰ったのだと思い、変に感極まってこれ書きながらも涙が出てきます(ノД`)