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<動画>バイクに同乗するネコ、景色を楽しみ、カメラ目線も タイ(人民日報)
ちょっとまた軽い衝撃を受けた動画なので紹介します。海外の猫は行動的(アクティブ)です。
話しは本題に入りますが高校時代は歴史科目においては文字通り並ぶ者がいなかった私ですが、どうしても日本史の昭和時代に出てくる日本陸軍内部の「
皇道派」と「
統制派」の派閥抗争については上手く把握できなかったというかきちんと説明できるほど理解できませんでした。一体何故理解できなかったのかというと教える側がきちんと伝え切れてていなかったということはもとより、どうも余計な要素を無理やり関連付けてみんな説明しようとするから余計わからなくなるのかなという風に最近思えてきました。
むしろこの両派閥の抗争はもっとシンプルに捉えるべきだと思います。というわけで、今日はこの両派閥についていまいちピンとこない全国の老若男女に向けて私なりの解釈で説明しようと思います。
Q1、皇道派と統制派ってそもそもなに?
一言でいえば、1930年代に陸軍内部で主導権を争った軍人同士の二派閥です。このうち皇道派はその後に二二六事件を引き起こしたため粛清され、それ以降は統制派とされる人物が陸軍内部で主導権を握りそのまま二次大戦を迎えます。
Q2、各派の中心人物は?
<皇道派>
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荒木貞夫
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真崎甚三郎
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統制派>
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永田鉄山
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東条英機
よくこの議論で両派の人物をたくさん挙げる人がいますがそれこそが返って理解を妨げているように思えるので、敢えて各派の中心人物二人だけを上げることとします。むしろこの四人以外の人物を挙げることは下手すりゃ蛇足になりかねません。
Q3、主要構成員は?
<皇道派>
陸軍士官学校しか出ていない地方出身の下士官が中心。荒木のファン。
<統制派>
陸軍大学校も出ている都会出身の高級士官が中心。というより永田の取り巻きたち。
ある意味ここが一番ミソですが、世代闘争だとか、仮想敵国がソ連か中国かとかいろいろ特徴を挙げる人もいますが、突き詰めれば上記の特徴に至ります。特に統制派に関しては色々諸説あるものの、そもそも派閥として共通の思想なり目的を共有していたというよりはただ単に、皇道派とは距離を置いていた永田の取り巻きなだけで派閥として成立していたのか少し疑問に感じるところがあります。裏付けは取れていませんが、「統制派」という言葉自体が当時には存在せず戦後になってから定着したという話も聞きますし。
Q4、思想、目的は
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皇道派>
暴力的な革命を起こして政党政治を廃止し、陸軍を中心とした天皇親政の政治体制を作る。
<統制派>
暴力をちらつかせて政党政治を破綻させ、陸軍を中心とした政治体制を作る。
皇道派に関してはまさに上に書いた思想を実現しようとして二二六事件を実際に引き起こしていますが、統制派も皇道派ほど過激な手段に出ようとはしなかったものの陸軍大臣現役武官制を利用するなどして政府に嫌がらせを行い、陸軍メインの政治体制を実現しようとしていた点では両派は共通しています。現実に、陸軍はその後政府の実権を握ることに成功したわけですが。
Q5、対立のきっかけは?
A、方針を巡った荒木と永田のケンカ
1933年の陸軍幕僚会議で、満州地域の方針を巡って対ソ戦(荒木)か対中国戦(永田)のどっちに備えるかで意見が割れ、この争いに元々は永田とマブダチだったソ連脅威論者の
小畑敏四郎が荒木の側について議論がさらに激しくヒートアップし、これ以降はお互いの取り巻きを陸軍要職につけようとするなど本格的な抗争へと発展していきます。
Q6、その後の対立抗争は?
両派ともに反目し合って陸軍内の要職の椅子を巡る争いが激しくなってきた頃、暴力革命を平気で口にするわ陸軍の金使って妙な右翼団体とつるむなどする皇道派に対して政治界(政党)からも危険視する人間が増えていき、皇道派の首魁である荒木は陸相にもなったものの、腹心の真崎を後任の陸相にと考え取り計らったもののこれは周囲から反対され頓挫しました。さらに真崎は1935年、思想が危険で問題があるとして教育総監職を更迭されましたが、皇道派からすればこの更迭劇は統制派の永田の差し金だと思われ、かねてから不満を持っていた相沢三郎が同年に単身で永田を斬殺するという
相沢事件が起こることとなります。
リーダーを失った統制派ですがさすがに白昼堂々陸軍省内で惨殺事件が起こったこともあり政界はおろか陸軍内部でも皇道派は危険だと思う層は広がり、皇道派将校は徐々に中央から遠ざけられ勢力を落とす結果となりました。しかしこうした処置に対し皇道派はますます不満を持ち、もはや強引にでもことを起こすべきだと考え始めて決行されたのが翌1936年の二二六事件です。
時系列にすると以下の通りです。
1933年:満州の防衛方針を巡り荒木(+小畑)が永田とケンカし始める
↓↓↓
1935年:真崎が教育総監から更迭される
↓↓↓
1935年:相沢事件で永田が斬殺される
↓↓↓
1936年:二二六事件勃発
Q7、二二六事件以降はどうなった?
二二六事件を経て反乱の実行者はもとより、皇道派に近いとされたり彼らに同情した人物ですらも陸軍内部で徹底的に排除され、逆に皇道派に対し反目していた統制派とされる人物たちが陸軍で主導権を握ることとなりました。
荒木、真崎、小畑は揃って現役から降ろされ、また反乱軍に同情した山下奉文も出世コースからは座されます。一方、実験を握った統制派の中でも株を上げた代表格と言えるが東条英機で、自然と彼の周りの取り巻きも一緒に出世していき後に日米開戦を主導するメンバーが固まってくることとなります。
以上がかなり端折っていますが皇道派と統制派についての説明です。最後に説明したように二二六事件で皇道派は実質的に潰され、その後はリーダーだった永田こそ既に亡くなっていたものの統制派の将校が陸軍内部で実権を握っていったと書きましたが、最初に書いたように統制派は元々派閥というよりは
皇道派と反目する永田の取り巻きなだけであったのではないかという説も強く、私もこれを支持します。仮にそうであれば統制派が内部抗争に勝利したというよりは、初めから陸軍内部には過激思想を持つ皇道派というグループだけが存在し、二二六事件で実行手段に出たところ元々杜撰だった計画が頓挫して陸軍から排除された、というだけかもしれません。派閥抗争というよりは、過激派の摘発及び排除と捉えるべきだと私は思います。
なお皇道派の思想についてもう少し触れると、彼らは当時腐敗にまみれた政党政治に未来はなく天皇親政の政治体制にしない限り日本は駄目になると考え、天皇親政の体制を作るためには自分たちが反乱を起こすしかないと考えていたようです。しかも天皇は周囲の人物(君側の奸)に騙されているようだからこれらも取り除く必要があるとして当時侍従だった鈴木貫太郎なども二二六の時に襲った訳ですが、
これらすべて天皇の意思を直接確認したわけでなく自己陶酔で信じていたそうです。無論、昭和天皇からするとふざけた言い分に過ぎず、親政など望んでいないし信頼する侍従らを暗殺された怒りもあって即刻で彼らを反乱軍に認定して鎮圧に向かったわけですが、当時の世情を考えても皇道派の将校は思考がおかしいと思わざるを得ません。第一、反乱後にどういう政治体制にするかというプランもなにも持っていなかったそうだし、大将と拝んでいた荒木や真崎は、「こんなことしろって言っていない」と速攻で逃げましたし。
もう一つおまけで述べると永田が殺されるきっかけとなった真崎の更迭ですが、永田も全く関与していなかったわけではないものの永田以外の陸軍幹部、政治家、果てには昭和天皇ですら、「真崎を早く下ろせ」と当時言っていたそうで、永田個人の陰謀による更迭劇とは正直とても思えません。昭和天皇にすら「真崎の行動は甚だ非常識」とまで言わせているし、実際彼の経歴見ていると明らかに問題ある奴だなと私も見ていて思います。